明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

承元の法難(弾圧)・・・⑫3人の師匠(ししょう)・・その2

2012-04-25 00:37:23 | Weblog
実は、私自身もつい最近まで法然房源空上人の源空は、比叡山における最初の師匠の源光の源と3番目の叡空の空の字をつけて源空と名乗ったと思っていました。2月の名古屋別院での中仏(通信制)の講義でも、そのように説明してきまし、定説はその通りです。
でも、今は誤りではないかと思うのです。それは、素朴な疑問からです。2番目の師匠、皇円の文字はどうして取らなかったのだろうという疑問です。3人の師匠では、皇円が当時一番有名な筈です。
皇円(こうえん)、平安時代後期の天台宗の僧。肥後国に生まれ、肥後阿闍梨(あじゃり)とも功徳院阿闍梨とも称され、法然の師とされています。何しろ、神武天皇から堀河天皇までの記事を、漢字の編年体でまとめた仏教史書『扶桑略記(ふそうりゃくき)』を編纂している高僧なのです。
このような疑問を持って、再度読み返したのが梅原猛先生の著作『法然の哀しみ(上)』(小学館文庫)でした。読み返し、まさに「目から鱗(うろこ)」となりました。この本、以前にも読んだ筈です。でも、問題意識が無いときには、読んでも記憶にも残らない典型です。同じ本を、同じように読んでも、その味わいは年代と共に変化していくのです。だから、本は何度も読む必要があるという事になります。

法然房源空上人の師匠を、梅原先生は最初から叡空上人ただ一人と言われるのです。仏教史の革命児らしく法然上人の伝記は数多くあります。この数17本とされています。先生は、その根拠を『醍醐本(法然上人伝記)』の「別伝記」から引用されます。この本は、数ある法然上人の伝記で最古の本?。その論拠が、法然上人が生涯大切にされた戒である『大乗戒(円頓戒=えんとんかい)』とされます。
「法然は最初から叡空のもとに入門し、そこで戒を受けて正式な僧侶になったと考えねばならない。その戒は、源信(平安時代の大ベストセラー往生要集の著者)⇒良忍(りょうにん)⇒叡空⇒法然へと受けつがれた「大乗戒(円頓戒)」である。法然は後に叡空と仲が悪くなっても、この戒はやはり師叡空から伝えられたもの、つまり最澄(さいちょう)=「比叡山延暦寺の建立者にして日本天台宗の創始者」以来の天台仏教の伝統の戒であるという誇りを失わなかった。そして現在もなお浄土宗各宗派の寺院、金戒光明寺でも、知恩院にも、この戒は脈々と伝えられている」(『法然の哀しみ(上)』(161頁~163頁)とあります。ここに、法然が死に際して、尊敬する円仁(最澄の愛弟子=第3代天台座主)の衣をかけた理由が明確になります。これにより、師匠はやはり叡空上人一人が正しいように思うのです。では、何故に師匠3人説となったのでしょうか?続く・・・・
写真・・裏庭のキリシマの花