親鸞聖人関係の書物といえば『歎異抄』。『歎異抄』は、聖人の教説の核心が語られた書物。あたかも聖人が、私達に語りかけておられるような錯覚すらする不思議な魅力をもった書物。そして、作者は弟子の唯円というのが定説です。自坊でも、平成26年度定例法座は「親鸞聖人の声を聞くと題して・・歎異抄の世界」をテーマに掲げて勉強中。
ところがです。『歎異抄』は、蓮如さんが書かれたものが基本となっているのです。それ以前の『歎異抄』は見つかっていません。蓮如さんが、勉学の最中に本願寺の蔵(?)から『歎異抄』を発見し書き写された。だから蓮如本『歎異抄』なのです。この蓮如本『歎異抄』が公開展示されていました。
写真・・蓮如本『歎異抄』の末尾の流罪記録の箇所。最後尾に、蓮如さんの名前と花押が書かれています。『親鸞となむの大地』冊子を複写。

この蓮如本『歎異抄』を目の前にして考えこんだ事があるのです。蓮如さんは、『歎異抄』という書物の持つ素晴らしさに気づき書写された。そして、『歎異抄』という本は極めて誤解の生まれやすい書物である事も気づかれた。諸刃の剣のような書物であると気づかれたのです。だから、真宗の教学を修めた者でないと読むことを禁じられたのです。
蓮如さんは、『歎異抄』の末尾に次のように書かれました。「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善(むしゅくぜん)の機=(人間)においては、左右(さう)なく、これを許すべからざるものなり」と書かれているのです。
なぜ、こんな事を書かれたのたのだろうか?答えは、蓮如さんは「何度も何度も読まれたのだ」という事です。その結論が、仏の教えを聞く機縁が熟していない者(無宿善の機)が読んだら必ず誤解をしてしまう恐れが充分にある危険な書物なのだという事でありましょう。
この事は、蓮如本『歎異抄』以外は残っていない事と深く関係すると思うのです。おそらく蓮如さんが『歎異抄』を本願寺の蔵(?)から発見されるまで、特別に秘蔵された本ではなかった筈なのです。読もうと思えば誰でもよむ事ができた本であったと思うのです。しかし、周囲の人たちは沢山ある本の一つにすぎないという認識でしかなかった筈なのです。
続く・・・・・
ところがです。『歎異抄』は、蓮如さんが書かれたものが基本となっているのです。それ以前の『歎異抄』は見つかっていません。蓮如さんが、勉学の最中に本願寺の蔵(?)から『歎異抄』を発見し書き写された。だから蓮如本『歎異抄』なのです。この蓮如本『歎異抄』が公開展示されていました。
写真・・蓮如本『歎異抄』の末尾の流罪記録の箇所。最後尾に、蓮如さんの名前と花押が書かれています。『親鸞となむの大地』冊子を複写。

この蓮如本『歎異抄』を目の前にして考えこんだ事があるのです。蓮如さんは、『歎異抄』という書物の持つ素晴らしさに気づき書写された。そして、『歎異抄』という本は極めて誤解の生まれやすい書物である事も気づかれた。諸刃の剣のような書物であると気づかれたのです。だから、真宗の教学を修めた者でないと読むことを禁じられたのです。
蓮如さんは、『歎異抄』の末尾に次のように書かれました。「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善(むしゅくぜん)の機=(人間)においては、左右(さう)なく、これを許すべからざるものなり」と書かれているのです。
なぜ、こんな事を書かれたのたのだろうか?答えは、蓮如さんは「何度も何度も読まれたのだ」という事です。その結論が、仏の教えを聞く機縁が熟していない者(無宿善の機)が読んだら必ず誤解をしてしまう恐れが充分にある危険な書物なのだという事でありましょう。
この事は、蓮如本『歎異抄』以外は残っていない事と深く関係すると思うのです。おそらく蓮如さんが『歎異抄』を本願寺の蔵(?)から発見されるまで、特別に秘蔵された本ではなかった筈なのです。読もうと思えば誰でもよむ事ができた本であったと思うのです。しかし、周囲の人たちは沢山ある本の一つにすぎないという認識でしかなかった筈なのです。
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