明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

浄土真宗のお寺は、道場から始まった・・・その2

2014-07-15 19:11:54 | Weblog
嘉念(かねん)房は、飛騨地方に親鸞聖人のお念仏を布教したとされる人物。その道場跡が復元されているのです。内部は、下写真の通り。

すこぶる簡単。仏間に掛けられた本尊類。そして、内陣も外陣もないのである。これが道場なのです。図に書けば・・・・・下の写真。

親鸞聖人の時代から、このような道場に人々は集い法談を交わし念仏をしました。この事は本願寺第3代宗主・覚如上人の著作である『改邪抄(かいじゃしょう)』に次のように明確に書かれています。「されば祖師聖人(親鸞聖人の事)御在世のむかし、ねんごろに一流を面授(めんじゅ)口決(くけつ)したてまつる御門弟(ごこんてい)達、堂舎を営作するひとなかりき。ただ道場をばすこし人屋に差別(しゃべつ)あらせて、小棟をあげて造るべきよしまで御諷諫(ごふうかん)ありけり。」(浄土真宗聖典註釈版927)
現代訳「祖師聖人がこの世におわしました昔には、親しく教えを授けられた門弟たちのなかに、堂をつくろとする者はいなかった。親鸞聖人は、「ただ念仏道場を、一般の民家と、幾分差をつけ、小棟を高めにしてつくるべきである」とまで、わざわざ戒められたのである。」となります。
つまり、上記のような道場が一般的であったのです。そして、このような道場の時代が長く続いたのです。それが、江戸期にはいり道場が寺院化されてくると共に、現在のような寺院建築、外陣が広くとられる真宗独自の寺院形式になったと考えられます。この事は、外陣は聞法(もんぽう)の道場であると前提があるのです。この事を忘れてはなりません。つまり、何ゆえに阿弥陀様は「南無阿弥陀仏」を願いとされたのかを聞き分けるのが聞法なのです。その為の本堂でなのです。
ただ惜しむらくは次の事です。道場の時代、ご本尊の阿弥陀如来像は、目の前で拝むことができました。ご本山・本願寺から下付された阿弥陀如来像。それは圧倒的迫力であった筈です。
下写真・・・(自坊蔵)本願寺第9代宗主実如上人下付の阿弥陀如来像(絵像本尊)
(阿弥陀様の身高は、60センチ以上の大型)

蓮如上人の『ご文章』には、「一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、(第五帖第6通・・一念に弥陀の章)」(浄土真宗聖典註釈版1193)等にみられるごとくに、念仏する者を光明(こうみょう)のなかに納めとるという表現が度々登場します。私達は、この表現はいまいちピンとはきません。しかし、道場に集う人々は「阿弥陀如来様」の背後から放たれる48本の光明に、あたかも自分自身が包まれたという高揚感があった筈なのです。
道場から寺院化し、阿弥陀様は内陣の奥に移動された結果、この高揚感が失われて久しいものがあります・・・・・・これが惜しむらくはなのです。




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