明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

永代経開闢(かいびゃく)法要について

2009-04-07 11:34:34 | Weblog
お葬式が終了し、しばらくすると亡き人を偲んで、ご遺族からご縁あるお寺に永代経懇志を納めていただく場合がある。そうすると、お寺は永代経開闢(かいびゃく)法要を勤めさせていただく。この法要を、地方では『お経開き』『おひもとき』とも呼ぶ場合もある。その際、お経の前に、なぜこのお経を読ませていただくかを説明する『表白』を読む。拙寺では、この『表白』に以下のご文を拝読する。
その冒頭は、次の文章からなる。『それおもんみるに 人間は悤々(そうそう)として衆務を営(いとな)み 年命の日夜に去ることを覚えざれども、灯(ともしび)の風中(ふうちゅう)にありて 滅するとき期(ご)し難(がた)きがごとし』この文章は、浄土真宗の七高僧の一人である中国の唐の時代の僧、善導(ぜんどう)大師のお言葉である。
まさしく、日常私達の生活の中味は、東に行き西に行き、仕事・趣味・レジャーの中で、日々を送っており、結果として自分の人生が刻々に去って行っている事を忘れている場合も多い。しかしながら、自分のイノチはさながら風が吹けばロウソクの火が消えてしまうようなものである。なぜなら、ひとたび無常の風が吹いて誘う事になれば、どのような事をしても我がイノチがいつ消えても不思議では状態となる。善導(ぜんどう)大師は、このように言われているのです。
考えれば、この世にイノチいただき生まれた者は、等しく永遠のイノチを願う。しかし、仏教では釈迦様よりこのかた諸行は無常と説く。諸法は無我であると説く。
すべてのものは、姿を変えて移りいくのであり、イノチも終る時が来る。永遠のイノチを願えども我がイノチ尽きる時が必ずくる。だからであろうか、私達は子を生み、孫を育て、無条件で子孫の繁栄を願う。しかしながら、はるか昔より人は生まれ、人は死んでいく。臨終にあたって自分に変わるものはない。誰もがうなずかざるを得ない絶対的真理である。
しかし、一つだけ大きな違いが生じる場合がある。仏法にあうかあわないかの違いである。今、亡き人を通じて、まさに深き因縁によりとしかいいようのない理由にて永代経開闢(かいびゃく)法要のご縁にあうことができました。私達は、お念仏に生きる者である。阿弥陀様の慈悲に懐かれて人生を送りつつ、今生の縁つきるときに、浄土の世界に往生するのである。そのお心(こころ)をしっかりと持っていただくのが永代経開闢(かいびゃく)法要。あらためて、故人の面影を偲びつつ、感謝申し上げ、心(こころ)からお香と花をたむけて法要を勤めさせていただく。善導大師の深いお言葉でありました。(写真は、善導大師の有名なたとえ話である二河白道の図。二河白道のたとえ話は、念仏者が歩むべき道を示す話として有名)

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