明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

2013-02-11 01:00:43 | Weblog
真宗門徒として、上記の「大悲無倦常照我」の言葉を知らない人は殆どいない筈です?日常勤行として拝読されます有名な『正信偈』のなかに有るお言葉。「阿弥陀様の大悲は、(ものうきことなく=さえぎることなく)つねにわたれを照らしてたまう」という意味になります。(浄土真宗聖典註釈版207頁)
昨日の「古典立華の会」を鑑賞して、心に浮かんだのが上記の「大悲無倦常照我」のお言葉でした。
見事な松一式の立華

上記の立華を完成させるのにどれほどの日数を掛けられているのでしょうか?製作者は、この作品を世に出されるのに少なくても1ヶ月程は掛けられている筈。山にて松を探し、そして組み立て。「心血注いで」と言葉がありますが、文字通り「心血注いで」という言葉が一番相応しいと思います。枝ぶりの一本一本にまで気を配る作業。つねに、松と対話しながらと向き合う作業それが「立華」の心得。それが極意なのだと思います。

何も、松には限りません。バラ作りの名人と呼ばれる人は、いつもバラに声をかけ、まなざしを注ぐといいます。
しかし、人間どうしは違います。お互いに眼差しを向け、耳をかたむけるという生活の基本が失いがちな昨今の風潮です。それは親子関係であっても然りです。親が子を殺す。子が親を殺すという殺伐としたニュースが流れない日はありません。でも、如来様はそれでも私達を照らしていてくださるのです。大悲の心とは、「南無阿弥陀仏」の六字の名号(みょうごう)です。如来様は、六字の名号となって常に私達に呼びかけておられるのです。ここに如来の働きの実感が生まれるのです。この如来様のお心を知らずして過ごす人生とは、あたかも松一式の古典立華の製作者が、松の心を無視して生ける立華のようなものです。鑑賞会を拝見し、「大悲無倦常照我」のお言葉を改めて思いおこした事です。

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