明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

無量の光を再度・・・⑦

2010-10-04 21:52:56 | Weblog

され、条件の③は逆縁のケース。いうなれば、幸せ一杯の人はとかく自分というものを見ようとしません。私も、あなたも、正月を越したら年齢を重ねる事になります。この長寿の社会です。病気に関係なくという訳にはいきません。そして、年を重ねれば老いは進みます。頭の中では、『生・老・病・死』は誰しも判っています。そして、いつかは死が来ます。すべて、知っているのだけれど、まともに目を向けようとはしません。「いや」なのです。自分の自己否定につながることは。
しかし、肉親の死・親しき友の死は、否応なしに人生の実相に直面します。人生の実相とは『生・老・病・死』。無意識に、見ようとしなかった人生の実相を見ざるを得ない状況となります。だから、中陰中の七日仏事の法話は極めて大切なもの。
『西に向かう』旅人となるかどうかは、上記の3つの条件(縁)に遭遇することができるかどうかにかかっています。
では、縁なき衆生はどうなるのか。いくら仏様でも「縁なき衆生は度し難し(救いようがない)」という事になります。縁なき衆生とはなにか。それは、人生の実相を考える事なく暮(く)らす私達の事。真理・真実は、そこにあるのに世間の酒にどっぷり酔いしれている姿。ですから、仏縁が薄くなった現代社会とは、世間の酒がますます深刻な程に深酒の状態になってしまった姿であると思うのです。無明(むみょう)の酒というのが本当なのでしょうが、無明の酒ではこれまた意味不明となり、世間の酒としました。
しかし、『維摩経(ゆいまきょう)』には、「衆生(しゅじょう)病(や)むが故に如来また病む」とも説かれ、『観無量寿経』には、「仏心とは大慈悲(だいじひ)これなり」と説かれています。
親鸞聖人は、『教行信証』の信巻にて、「難化(なんけ)の三機、難治(なんじ)の三病は、大悲の弘誓(ぐぜい)をたのみ、利他(りた)の信海に帰(き)すれば、これを矜哀(こうあい)して治(ち)す」(浄土真宗聖典註釈版298頁)と記されている。現代訳すれば、「仏教に無縁な救われがたい三種の者(現代社会に満ちあふれています)、いやしがたい三種の病人は(世間の酒を深酒し、治療しがたい重病人)でも、阿弥陀仏の大悲の願いをたのみ、他者を利益してくださる信心の海に入れば、弥陀はひろくあわれんで治療してくだされるのです」となります。
なんと力強いお言葉でしょう。私達は、この事をいただき、いまこそ仏縁薄き現代社会に、極めて困難ですが『西にむかう旅人』となるように、あきらめる事なく情報を発信する事が大切と考えます。勿論、このブログもそうです。