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百年戦争そしてジャンヌ・ダルクを振り返る

2012年07月19日 | 歴史メモ
 フランスはカール大帝のカロリング朝が途絶えたあと、選挙でカペー家がフランスの王位についた。カペー家はパリ周辺の地域にのみ権力の及ぶ名目だけのフランス王であり、フランス国内には公国とか伯領といった事実上の独立国が多かった。この状況はドイツも同じ。弱いカペー朝を大きくする最初の王がフィリップ2世(位1180~1223)である。当時フランスの北岸にノルマンディー公国があり、この支配者は同時にイギリス王でもあった。フランス国内にあるノルマンディー公国は、実はイギリスの領土だった。フィリップ2世の時のイギリス王がジョン王だ。フィリップ2世はジョン王と戦争して、ノルマンディー公国をフランスの支配下に入れた。イギリス王ジョンは評判が悪い。失政が多く、以後イギリス王室はジョンという名前を王子にはつけていない。つまり、ジョンには2世がいない。

 フィリップ2世は「アルビジョワ十字軍」を起こす。当時フランス南部には全くといってよいほど国王の力は及んでいない。諸侯の独立状態だった。その南部フランスで流行していたのがアルビジョワ派というキリスト教の一派。これがローマ=カトリックとは異なる異端ということで、アルビジョワ派弾圧のための軍隊を送る、これがアルビジョワ十字軍。十字軍といいながら、南部の地域にフランス王の権力を浸透させるための戦いをしていた。つまり、ジョンとの戦争で北部へ、アルビジョワ十字軍で南部へと、フランス王の支配権を拡大していた。

 フィリップ4世(位1285~1314)。この王は国内の教会への課税問題をきっかけにローマ教皇とケンカをする。教皇ボニファティウス8世を捕らえて監禁する事件を起こす(アナーニ事件)。すなわち教皇をアヴィニヨンに移して、フランス王の傀儡にした。「教皇のバビロン捕囚」といわれる。フィリップ4世はローマ教皇と事を構えるときに三部会という会議を開催した。国内の貴族、僧侶、平民、平民と言っても都市の裕福な商人であるが、この三つの身分の代表者を集めたので三部会といわれる。フィリップ4世としては、教皇と対立するのに国内の支持がほしい。以前、叙任権闘争でドイツのハインリヒ4世が教皇と対立したときに国内の諸侯にそむかれるという「カノッサの屈辱」事件があった。国内をまとめておかなければ教皇との争いは不利になる。三部会で国民の国王の方針への賛成を求めた上で教皇とケンカをしたのである。この三部会が、後の国会のもとになっていく。フランスの王権を発展させたフィリップ4世だが、死後は三人の息子が順に即位して、そのあと血筋が途絶え、カペー朝の断絶となる。このあとヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位しヴァロワ朝が始まる。フィリップ4世の甥にあたる。

 ヴァロワ家はカペー家の分家だ。このヴァロワ家の即位に反対したのがイギリス王エドワード3世。母親がフィリプ4世の娘であり、イギリス王家に輿入れしていた。つまりエドワード3世はフィリップ4世の孫にあたる。孫の自分にフランス王位継承権があると言ってフランスとフィリップ6世の王位に反対しフランスに進軍し、百年戦争(1339~1453)が始まった。戦争の原因はもうひとつフランドル地方の領有問題だ。フランドル地方は毛織物工業の中心地帯でイギリス王はここを狙った。フランス王国は王の力が強くなったといってもまだ諸侯の力が強く、各所領の領有関係は複雑で、イギリス王にも付け入るチャンスはあった。
 戦場はフランス国内。百年間ずっと両国が戦火を交えていたわけではなくて、大きな戦いのあとは長い休戦期間が続く。両国とも傭兵が兵力の中心で、資金がないと戦争ができない。決戦後は、また次の戦闘のための資金、物資調達のためにしばらく戦争はお休みになる。一般の民衆にとっては戦争がない時期のほうが被害が激しい。傭兵たちは戦争がない時期は一般民衆を略奪して生計を立てる。この戦争は、イギリス側の優勢のうちに進む。フランスは諸侯間の対立が激しく、必ずしも国王のもとに一致協力していない。フランス王の叔父である大諸侯がイギリス側についたりして、フランス北部はほぼイギリスに占領されていった。

 戦争のさなかにペストが大流行、北部では農民の反乱「ジャックリーの乱」が起こり、フランスは大混乱。フランス側が劣勢になり、フランス王は発狂してしまう。フランス諸侯もまとまりがなく、やがてはイギリス王が正式にフランス王位につく。発狂した王の息子シャルルはフランス南西部にわずかに勢力を保って戦い続けるが、フランスはイギリスに併合される寸前までいく。ここに登場するのがジャンヌ=ダルクだ。ドン=レミ村という田舎の村の平凡な農家の娘。ジャンヌの生まれた家が今も残っていて、大きな家でわりと豊かだった。信仰心の厚い娘だった。ジャンヌは13歳頃から時々神の声を聴くといわれた。18歳の時にまた声が聞こえた。「王のもとへ行け。フランスを救え。」と。1429年2月、抗戦を続けるフランス王子シャルルのもとに出向いて、一軍を自分に授けるように願い出る。シャルルは彼女に一軍を任せて出陣させる。ジャンヌは自分の村の近所に駐屯していた部隊の隊長を通じて王のもとに行き、負けそうなフランス軍の士気を高める。
 ジャンヌはオルレアンという町に向かう。この町はフランス側の拠点だが、当時イギリス軍に包囲され陥落寸前だった。フランス軍はジャンヌの活躍によってこの町を解放する。一躍オルレアンの少女ジャンヌ=ダルクの名前は両軍に知れ渡る。以後ジャンヌは各地を転戦、必ずしも常に勝利したわけではない。戦場で負傷したこともあるが、旗を振り回した。兵士はむさ苦しい野蛮な男たち、女性が現れて兵士たちも頑張った。以後、フランス側は劣勢を挽回して逆にイギリス勢力を追いつめる。シャルルは自信を持って正式に即位しシャルル7世となる。

 フランスが優勢を確保すると、シャルルは外交交渉でイギリスを撤退させようとする。ジャンヌは戦いに自信を持ち、外交交渉に奔るシャルルを責め立てる。もっと戦え、私に軍隊をよこせと。シャルルはだんだんジャンヌが邪魔になる。劣勢を挽回するには功績はあったが、しょせん田舎娘で政治の駆け引きなどはわからぬ奴と判断する。戦闘で敗れたジャンヌはイギリス軍の捕虜となる。当時捕虜は殺してはいけないことになっていた。普通は身代金を取って釈放するが、イギリス側は何としても殺したいので、裁判にかけた。彼女がかけられたのが宗教裁判。ローマ教会が教えに背いた異端や魔女を裁いて処刑する権利を持っていた。この裁判に彼女はかけられた。この裁判記録が残されている。ジャンヌは敬虔な信者で自分を魔女とか異端とか思っていない。ただ、神の声が聞こえて、その声に導かれて行動しただけという。教会としては、勝手に神の声が聞こえてもらっては困る。あくまでもローマ教会を通じて信者は神と結びつくべきであり、ジャンヌは裁かれざるをえなかった。
 
 裁判の過程で彼女が異端の信仰を持っているとか、魔女だとかいう証拠は出てこない。最後に彼女は火あぶりで処刑されるが、罪状は男装をしていたということだった。聖書に女性が男装をするのを禁じている。ジャンヌは男装をしていたという罪に問われた。そんな罪状で死刑が決定した。処刑される時には大勢が見物に来ていた。彼女を縛りつけた杭の下で火が焚かれるが、ある程度時間がたって彼女の服が焼け落ちたところで、一旦火が遠ざけられる。集まった見物人に彼女が確かに女であることを確認させた。男だったら罪にならない。シャルル7世は彼女を見殺しにする。戦争が終結して、フランスがイギリス軍を追い出したあと、ジャンヌと一緒に戦った人たちはふと考え出す。いったいあの少女は何ものだったのか。彼女の故郷を訪ねて幼い頃の彼女を知る人から証言を集めたりする。やがて、だんだんと彼女はフランスを救った英雄だと見直されていく。大々的に人々が彼女を讃えるようになるのは19世紀の半ば以降のこと。一年そこそこの彼女の活動は何となく神秘的な所があるので、物語として世界中に知られるようになる。彼女を処刑したローマ教会も今では聖女と認めているが、正式に名誉回復させたのは20世紀に入ってからだ。

 ジュール・ミシュレは1841年に『フランス史』の第5巻目を出し、その中の2章分を、英仏百年戦争で絶対的危機に陥ったフランスに出たジャンヌ・ダルクにたっぷりあてた。その時のチャプター・タイトルが「オルレアンの少女」である。『フランス史』の記念すべき第1巻目の刊行が1833年のことだから、実に7年目の執筆に入っていた時だ。10年後「オルレアンの少女」だけがカットアップされて単行本になり大当たりする。ミシュレが『フランス史』を書いた頃のフランスは1848年の革命が失敗した時期。ミシュレ自身もルイ・ナポレオンの帝政に対する忠誠を拒否したという理由で、コレージュ・ド・フランスの教授を追われ、在野流浪の日々に入った。そんな時に大著から「オルレアンの少女」がカットアップされた。フランスには「この国は一人の女によって滅び、一人の女によって救われる」という諺があるが、この国を滅ぼした女は王妃イザボーで、国を救った女がジャンヌ・ダルクだ。ジャンヌ・ダルクという名は当時の名ではなくジャネットという愛称か、ジャンヌ・ラ・ピュセルと呼ばれていたが、この「ピュセル」は処女とか乙女とか生娘いう意味。ジャンヌ・ダルクとは「生娘ジャンヌ」という呼称だった。

 さて、シャルル7世は百年戦争に勝利し、カレーという町を除いてイギリス勢力を完全にフランスから追い出した。この戦争の過程でフランス国内の諸侯の勢力も弱まって、結果的にフランスの王権は強固になった。シャルル7世はその後大商人の力を借りながら中央集権化を進める。百年戦争の前からイギリスでは比較的王権が強かった。もともとノルマン征服でできた王家だからだ。ノルマン朝が途絶えたあとはプランタジネット朝が成立。この王家もフランス出身で、フランスに領土を持っていたので、イギリス王の領地がフランス国内で広大になった時期である。この王家のジョン王がフランスと戦争して領土を失ったのだが、このジョン王に関しては、マグナ=カルタ大憲章(1215)が有名だ。ジョンはフランスとの戦争のために国内の領主や都市からどんどん税金を取ろうとしたが、諸侯、都市が王に対して、勝手に課税しないように、従来の自分たちの権利を尊重するように約束させた文書がそれである。これがイギリス議会政治発展の第一歩といわれる。このあとも王は諸侯や都市を無視した行動が多かったのでシモン=ド=モンフォールという貴族を中心に身分制議会が召集された(1265)。各身分の代表者が集まるので身分制議会といわれた。フランスの三部会と似たようなものだ。その後も議会を招集して王と貴族たちとが意見調整することがイギリスでは続いていく。14世紀中頃には「模範議会」と呼ばれるようになる。身分制議会が貴族院、庶民院という形を取るようになった。

 百年戦争に敗北するとイギリス国内では王家の責任問題になった。長年多額の戦費や人材を投入した戦争に敗れたのだから、責任追及が起きるのは当然だ。これが王位をめぐる争いに発展し「ばら戦争」(1455~1485)が始まる。ランカスター家とヨーク家が王位をめぐって戦う。ランカスター家の紋章が赤ばら、ヨーク家の紋章が白ばらである。ばら同士の戦争だから「ばら戦争」といわれた。名前とは裏腹にこの戦争はイギリス中の貴族が二派に分かれた熾烈な内戦だった。泥沼の戦争はランカスター家、ヨーク家の両方の血を引くチューダー家出身のヘンリ7世が即位し、ようやく終結する。これがチューダー朝である。ばら戦争で有力貴族は衰退し、国王は中央集権化を強く進めていく。イギリス、フランスとも百年戦争、ばら戦争を通じて王権が強化された。

 イギリス、フランスとは反対にドイツでは諸侯の権力が強まった。ドイツは神聖ローマ帝国であり、皇帝は選挙で選ばれるので強大ではない。ローマ皇帝という名前に引きずられてイタリア方面の支配に勢力を注ぎ、ドイツが留守になることが多い。ドイツの諸侯は、のびのびとやっていた。1256~1273年には皇帝がいない状態になり、歴史上、大空位時代といわれている。
 神聖ローマ皇帝を決めるにはローマ教皇の権威が必要だったが、14世紀にはローマ教皇がフランス王のロボットになってしまう。教皇のバビロン捕囚である。これに対して新しい神聖ローマ皇帝の選び方を決める必要ができた。それを定めたのが「金印勅書」(1356)。ドイツ国内の有力7諸侯が皇帝を選挙する仕組みを決めたものだ。これ以後、神聖ローマ皇帝は名誉職になる。諸侯の領土はそれぞれ独立国のような形であり、ドイツ国内の諸侯の国は領邦といわれた。15世紀後半からはハプスブルグ家が神聖ローマ帝国皇帝に連続して選出され、事実上帝位を世襲し、やがてはヨーロッパの名門中の名門となる。フランス革命で有名なマリー=アントワネットはこの家出身の姫だ。ハプスブルグ家の子孫は今でも健在でヨーロッパ連合の議員などをやっている。

1 コメント

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「オルレアンの少女」ジャンヌ・ダルク (E.M)
2012-07-19 08:29:51
「オルレアンの少女」ジャンヌ・ダルクが何故に有名になったのか分かりました。こんなことがフランスでは起こり得たんですね。
百年戦争も、ずっと連続して戦ったのでなく、休み休みやっていたというのも時代の中の実情なんでしょうね。
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