murota 雑記ブログ

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フリードリヒ2世とマリア・テレジア、その前後の時代も興味深い。

2019年03月13日 | 歴史メモ
 イギリスやフランスが絶対主義国家として中央集権化を図っていた時にドイツでは内乱が起きていた。それが三十年戦争(1618~48)だった。ことの発端は宗教対立、1555年、神聖ローマ皇帝カール5世はアウグスブルグの宗教和議を行い、ドイツの宗教内乱は収まったかに見えた。当初、アウグスブルグの宗教和議は、新教徒にも信仰の自由を認めるものに見えたが、根深い問題が潜んでいたのだ。一つは、個人に信仰の自由が与えられなかったこと。諸侯が選んだ教会をその土地に住む住民は信仰しなければならない、つまり、信仰の自由は、諸侯にとっての自由にしか過ぎなかった。もう一つは、カルヴァン派の信仰は認められていなかったことだ。従って、アウグスブルグの宗教和議は中途半端な妥協の産物でしかなかった。

 オーストリアの領地にベーメンという土地があった。現在のチェコに当たる地域。ドイツのオーストリア・ハプスブルク家によって支配されていたが、民族はチェク人、ドイツ人とは違う。宗教改革以前からローマ教会に楯突くところがあった。そしてベーメンの人々は新教を信じていた。従来ベーメン人たちは信仰を認められていたが、1617年、支配者が代わって、新教徒に対して弾圧をはじめた。これに対してベーメンの新教徒貴族が反乱を起こす。はじめはハプスブルク家領内の内乱にすぎなかったが、他の新教の諸侯がこの内乱に参加し、戦争の規模が大きくなる。ドイツ以外の国もそれぞれ、新教、旧教を援助して介入してきたので、収拾のつかないまま30年間続く。新教側で戦ったのはドイツの新教諸侯。デンマーク王クリスチャン4世。スウェーデン王グスタフ・アドルフ。フランスもリシュリューが新教側を応援して戦争に介入。フランスは旧教の国なので、新教側の味方をするのは変だが、領土拡大が本当のねらいだった。宗教を理由に各国や諸侯は参戦するが、領土拡大をねらっていた。デンマーク王やスウェーデン王が参加した理由もそこにあった。旧教側は、神聖ローマ帝国皇帝がその中心であり、オーストリアのハプスブルク家。同じハプスブルク家のスペインも旧教側で参加。旧教側で大活躍したのが皇帝軍総司令官ヴァレンシュタイン。この人は傭兵隊長。皇帝の支払う巨額の資金で2万以上の傭兵部隊を率いて大活躍。三十年戦争で兵士となったのは大部分が傭兵だ。傭兵がドイツの農民など一般民衆にものすごい被害を与えた。傭兵はお金で雇われる兵隊で、国を守るために志願して兵士になるような近現代の兵隊とは全然違う。給料さえ払ってくれれば誰にでも雇われる。ヨーロッパのどこかで戦争が起こると、傭兵のグループはそこへ行って、自分たちの部隊を売り込む。そして、高く雇ってくれる陣営に参加する。

 三十年戦争のような長期の戦争になれば、ひっきりなしに戦闘がつづいているわけではなく、大きな合戦が一つあったら、しばらくは中休みがある。諸侯や皇帝は常に莫大な給与を傭兵たちに払い続けられないから。一つ合戦をやったら資金が底をつくので傭兵を首にする。資金がたまったらまた傭兵を雇って合戦をする、そういうサイクルで動いている。傭兵の立場からすると、雇われて給料をもらえている期間より、失業状態の時の方が長い。失業中でも食っていかなければならない。どうするか、傭兵部隊はドイツの農村を略奪して廻る。農民にとっては、戦争があれば、重税を課せられ、領主はその金で傭兵を雇う。村が戦場になれば、畑が踏み荒らされる。戦争がないときは失業中の傭兵部隊がいつ襲ってくるかわからない。傭兵部隊に襲われたら、略奪、暴行、虐殺、やりたい放題にやられる。三十年戦争でドイツの人口は1800万から700万に減った。この多くが傭兵による被害だ。傭兵にとっては、戦争が長引けば長引くほど仕事がつづくから、合戦の時も八百長試合もする。勝利の直前に戦闘を中断して、雇い主に賃上げを要求したりする。とにかく、兵士としては質が悪い。

 「ブライテンフェルトの戦い」を描いた絵がある。1631年、旧教側の軍をグスタフ=アドルフ王率いるスウェーデン軍が破った戦いだが当時の軍隊の隊形がよくわかっておもしろい絵だが、この絵で四角形に見える固まりがたくさんある。これが、当時の部隊。長い槍を立てて四角い陣形をつくっているので、遠目にはサイコロみたいに見える。一見すると、古代ギリシアの重装歩兵の密集隊形のように見えるが、中身は全然違う。ギリシアの重装歩兵は、密集して敵に向かって全速力でかけていくが、このドイツの部隊はゾロゾロとゆっくり進軍する。なぜか。だいたい百人で一部隊になっていて、四隅に将校、真ん中に隊長がいる。かれらは諸侯直属の貴族。それ以外の兵士は傭兵か、もしくは無理矢理あつめられた農民兵。やる気も忠誠心もない。つまり、自分の命が本当に危ないと思ったら逃げてしまう。四隅の将校は部隊の隊形が崩れないように見張っている。目の前に敵が出現しても、「突撃」命令して傭兵を走らせたら、どこに走って逃げてしまうかわからない。だから、走らせない。隊形を崩さずにゆっくり進む。部隊の真ん中にいる指揮官が四隅の将校に対してどちらに向かって進むのか、そのつど指示をあたえる。実際に敵軍と接触して戦闘が始まるまで、四角の隊形は崩さない。戦闘が始まると、敵も味方も傭兵で、命よりも金が欲しいから、真剣に戦わない。雇い主の諸侯たちが見て、サボっていると見られない程度にやるだけ。だから、なかなか戦争の決着もつかなかった。三十年つづいた戦争も、ようやく集結する。戦争に関わったドイツ国内の封建諸侯、その他フランスやスペインなどの参加国が集まって、国際会議が開かれ条約が結ばれる。1648年のウェストファリア条約だ。

 ウェストファリア条約の内容は、
 1.ドイツ国内の諸侯の独立状態を認める。ドイツは、神聖ローマ帝国皇帝が統治する帝国という建前だが、現実には統一国家ではなく、皇帝は名目的なもの。この実体を認めようという。これ以後、諸侯の統治する地域は領邦国家とよばれ、事実上の国になる。諸侯は「領邦主権」をもって、その国を統治する。これまでと同じく神聖ローマ帝国皇帝はあるが、単なる名誉ある称号にすぎなくなる。この称号を持つのはハプスブルク家だが、ハプスブルク家の領邦はオーストリアなので、神聖ローマ帝国皇帝が実際に支配するのはオーストリアとそれに付随する地域だけになる。
 2.ルター派と共にカルヴァン派にも信仰が認められた。(ドイツ国内でのこと)
 3.スイス・オランダの独立を正式に承認。(スイスもオランダも以前から事実上独立していたが、この国際会議の席上で正式に認められた。 もともと、スイスもオランダもハプスブルク家の領地だった。)
 4.フランスがアルザス地方を獲得。(アルザス地方はもともとドイツの一部だった。)
 5.スウェーデンもドイツに領土を拡大。
 三十年戦争の結果、ドイツはどう変わったか。
 1.ドイツの農村や産業が徹底的に荒廃した。
 2.イギリス、フランスが中央集権化を進めているのに対して、ドイツは逆に分裂を固定化させた。

 三十年戦争の結果、バラバラになってしまったドイツの中にプロイセンという国があった。1618年、ブランデンブルグ選帝侯領とドイツ騎士団領という諸侯の領土が合体してできた国だ。支配者はホーエンツォレルン家。宗教は新教。プロイセンは飛び地になっていて、大きく東と西に分かれている。東側の領土はポーランドの中にあり、西の領土は神聖ローマ帝国の中にあるという国。領土が飛び地になっているというのは、当時は珍しくはない。プロイセンが出来たときの正式国名はプロイセン公国といった。公国というのは王国よりもワンランク下になる。プロイセンは国力をつけてきて、スペイン継承戦争の時にはオーストリアを支援、その見返りとして、1701年、王国に昇格する。プロイセン「王国」になる。オーストリアは神聖ローマ帝国皇帝としてランク付けできる。これ以後、プロイセン王国はさらに発展する。最初に発展の基礎をつくったのがフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~40)、あだ名が「兵隊王」。軍隊を強化して軍国主義的国家建設を進める。プロイセン軍を強大にすることに熱中。宮殿の庭園をつぶして練兵場にする。彼は常備軍をつくるが、傭兵は金がかかる上、質も悪いので、徴兵制で農民を集めて軍隊を作り上げた。それでも兵士が足りないので誘拐もやった。徴兵係がずうっと農村を廻って、体格の立派な若い農夫がいたら無理矢理さらってくる。さらわれて気がついたら兵隊にさせられ、8万人の常備軍を作り上げている。当時のプロイセンの人口が200万人程度だから人口の4%が常備軍だった。今の日本なら同じ割合で400万人以上の計算になる。

 無理矢理集められた兵士だが、彼らを命令に従わせるために、プロイセン軍は厳罰主義をとる。命令拒否は銃殺だ。死にたくないから上官の言うことに従う。誘拐されてきた兵士たちは脱走してふるさとに帰りたいと思うが脱走の罰は厳しい。「列間鞭打ち」という。脱走した兵士は、裸にされて走らされる。どこを走るか、自分の部隊の兵士たちが二列に並んでいる真ん中を駆け抜ける。部隊の兵士たちは、おのおの鞭を持っていて、裸で走ってくる脱走兵を打つ。仲間に打たれる方もつらいけど、仲間を鞭打つのもつらい。走り終えたら、身体はずたずたで虫の息になる。こういうスパルタ式軍国主義をプロイセンはおこなった。この時期、イギリスやフランスでは兵士に対する鞭打ちは禁止されていた。そういう意味では遅れた国だった。また、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、とくに背の高い兵士を集めて「巨人軍」というのを作り、閲兵して楽しんだ。とにかく、国力的にはかなり無理をしながらも軍隊を大きくし、プロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げようとした。フリードリヒ=ヴィルヘルム1世のあとを継いだのが息子のフリードリヒ2世(位1740~86)。プロイセンを絶対主義国家として完成させた。フリードリヒ大王と呼ばれることもある。生存中からすでに伝説となったような大王だ。

 フリードリヒは小さい頃から父親の兵隊王とうまくいかなかった。とにかく父親は、軍隊を強くすることに異常な情熱を燃やす。一言で言ったら乱暴で粗野。お妃でも皇太子でも気にくわなかったらぶん殴ったり、鞭で打ったりするのは当たり前だった。息子のフリードリヒ2世はそんな父親が嫌いで、正反対の趣味を持つようになっていった。フランスから詩集や小説を取り寄せて読んだり、音楽が好きでフルートを自分で演奏したりする。父親は将来の王がこんな軟弱なことでどうするといって殴ったり、文学書を取り上げたりする。少年フリードリヒはますます自分の世界に逃げ込む。父と息子はお互いに理解できない。18歳のある日、フリードリヒ2世は家出を決意。フランスに逃げようとする。このときにカッテという友人も家出に誘う。カッテ君はフリードリヒに同情して一緒に逃げてくれた。息子が逃げたことを知ると、父の兵隊王は怒った。家出は軍隊でいえば、脱走と同じ。絶対に許すことは出来ない、追っ手を差し向け、逃亡中の二人を捕まえた。ベルリンに連れ戻された二人は牢獄に入れられ、カッテは見せしめとしてフリードリヒ2世の目の前で処刑される。さすがに皇太子のフリードリヒ2世は処刑はされなかったが、この事件をきっかけに、引きこもりがちな陰鬱な人間になる。いくら逃げようとしても、結局、自分が父親のあとを継いでプロイセンの王にならなければいけない。自分はどんな王になるか。父親とは違う政治をすべきかフリードリヒ2世は考えた。父親が亡くなり、プロイセン王となった時には、それまでのヨーロッパにないタイプの王になる。

 「啓蒙専制君主」。フリードリヒ2世は、若い頃からフランスの本をたくさん読んでいた。プロイセンがフランスと比べて、制度や文化の面でずいぶん遅れていることを知っていた。フランスの先進思想を積極的に取り入れた。当時、フランスでは絶対主義の絶頂期だが、絶対主義に批判的な思想も生まれていた。迷信や偏見を打ち破り、合理的、理性的に社会を改革しようという啓蒙思想。本来、啓蒙思想は絶対主義を批判するもので、両立しない思想なのだが、フリードリヒ2世は二つとも一緒に取り入れてしまった。だから、「啓蒙専制君主」という。専制的に絶対主義的な政治をするのだが、その中で不合理なものをどんどん排除していく。プロイセンがフランスなどの先進国に追いつくにはそういう方法が一番有効だと考えた。当時ヨーロッパの思想界で一番もてはやされていたフランスの啓蒙思想家にヴォルテールがいる。フリードリヒ2世は、彼と文通するが、それだけでは我慢できなくなって、最後はヴォルテールをベルリンに呼び寄せて宮殿に一緒に住まわせる。結局は喧嘩してヴォルテールは出ていく。フリードリヒ2世の言葉として有名なのが「朕は国家第一の僕(しもべ)である」。ルイ14世の「朕は国家である」と比べると、へりくだった表現をしている。啓蒙思想の影響している部分だ。啓蒙思想に理解はあるが、実際にやっていることは専制君主だ。フリードリヒ2世は二度の戦争でプロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げる。その一つがオーストリア継承戦争(1740~48)。この年、オーストリア王にマリア=テレジアが即位。前のオーストリア王カール6世は、男の子がいなかったので、前々から娘のマリア=テレジアに位を譲るつもりだった。オーストリアのハプスブルク家で、これまで女性の王はいなかった。しかもオーストリア王は同時に神聖ローマ帝国皇帝の称号を兼ねる。実体のない称号といえども、伝統ある称号を女性が名乗ることに対して、ドイツ各領邦国家から反対があることは当然予想できた。そこで、カール6世は前もって各領邦国家の君主に根回しをし、マリア=テレジアが即位しても、反対しないという約束を取り付けていた。

 しかし、マリア=テレジアが即位すると、すかさずフリードリヒ2世は反対する。事前には「女でもかまいませんよ」と約束していたのだが、オーストリアに戦争をふっかける名目さえあればよかった。親父が作り上げた強大な軍隊を利用して領土を拡大するチャンスと見て、オーストリア継承戦争を起こす。マリア=テレジアは有能な人物で、即位したばかりなのに多民族国家のオーストリアをよくまとめて戦った。最終的に「アーヘンの和約」が結ばれて戦争は終結する。マリア=テレジアはオーストリアの相続を認められる。しかし、代償としてシュレジエン地方をプロイセンに割譲する。シュレジエン地方は当時、工業の発達した地域で、人口も100万人いた。それまでのプロイセンの人口が200万をこえる程度だから、プロイセンの国力は一気に1.5倍になる。悔しいのはマリア=テレジア。もともと、自分の即位は了解済みだったはずなのに、あとからイチャモンをつけてきたプロイセンに大事な領土を奪われ、許しがたい。そこで、シュレジエン地方を取り返すための復讐戦を仕掛ける。これが七年戦争(1756~63)となる。

 マリア=テレジアはオーストリア継承戦争の経験から、単独でプロイセンに勝つのは無理と考え、軍事同盟を結ぶが、その相手国がフランスとロシアだ。フランスは伝統的にオーストリア・ハプスブルク家とライバル関係で、常に敵対していた。三十年戦争でも、同じ旧教国でありながら、フランスは新教側で参加していた。それを、外交交渉を通じてオーストリアはフランスを味方につける。プロイセンのフリードリヒ2世は、オーストリアの軍事力については高をくくっていて負けるはずがないと考えていた。フランスが敵にまわったらかなり危険だが、伝統的にフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が組むはずがないと考えていたから、両国の同盟を知ってショックを受ける。このフランスがオーストリアと手を組んだ事件は「外交革命」といわれる。七年戦争がはじまると、オーストリア、フランス、ロシアの連合軍に押されて、さすがのプロイセンも苦戦する。ロシア軍がベルリン近くまで攻め込んでくる。フリードリヒ2世も、もはやこれまでかと覚悟する。側近の家来が、「陛下、もうダメです」と声をかけたら、「わかっている、覚悟は出来ている」と言って、胸に下げているロケットを開いて見せた。中には毒薬が入っていたといわれる。死を覚悟するまで追いつめられたが、ここでプロイセンにとって奇跡が起きる。ロシア皇帝エリザヴェータが突然死ぬ。あとを継いで即位したのがピョートル3世だった。

 この新ロシア皇帝はフリードリヒ2世の崇拝者だった。「啓蒙専制君主」としての彼の政治姿勢には人気があった。ピョートル3世は自分の崇拝するフリードリヒ2世と戦争する気は全くない。講和を結んでロシア軍を撤退させてしまった。土壇場で助かったプロイセンはその後、盛り返し、最後は逆転勝ちする。シュレジエン地方はプロイセンの領土として確定し、オーストリアのマリア=テレジアは何も得るものがなかった。勝ったフリードリヒ2世は、後々まで伝説の大王として語り継がれている。第二次世界大戦末期、ナチス・ドイツの指導者ヒトラーは、自分の執務室にフリードリヒ2世の肖像画をかかげて、七年戦争の奇跡をもう一度と願っていたといわれる。実際にアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトが死ぬ。ヒトラーは、奇跡だと喜んだが、ドイツは負けてヒトラーは自殺。二度の戦争を通じて、プロイセンはドイツの領邦国家の中ではオーストリアに次ぐ大国の地位を確立した。また、かれの「啓蒙専制君主」という政治スタイルは東ヨーロッパに流行した。ロシアのピョートル3世のように、彼の崇拝者もたくさんいた。プロイセンの経済だが、基本的には農業国。穀物を安く生産して、先進地域である西ヨーロッパ、オランダ、イギリスなどに輸出する。そういう輸出穀物生産が経済を支えていた。安い穀物を生産するために、封建的な地主制度がつづいていった。封建制度が崩れていくイギリスとは正反対の方向に向かう。国の指導者層も、地主貴族が中心で、プロイセンの地主貴族は「ユンカー」と言われている。

 ところで、ドイツの中で最大の領邦国家、オーストリアを支配しているのはハプスブルク家だ。神聖ローマ帝国皇帝の称号を事実上世襲するヨーロッパの名門中の名門だ。ハプスブルク家は、巧みな婚姻戦略で領土を広げてきたので、その領土はあちこちに散らばっている。飛び地が多い。だから、イギリスやフランスのような中央集権化が物理的にしにくい。さらに、広い領土の中には、ドイツ民族以外が住んでいる地域もある。代表的なのが、ハンガリーとチェコ(ベーメン)。ハンガリーはマジャール人、チェコはチェク人。オーストリアは多民族国家だ。現在、これらはオーストリアとは全然別の国になっているわけで、こういう地域を一つの国家としてまとめ上げるのは大変だったと思われる。外交面では、16世紀以来オーストリアの脅威になっていたのはオスマン帝国だ。オスマン帝国はたびたびオーストリアに攻撃を仕掛けている。首都ウィーンは二度オスマン軍に包囲された。しかし、1683年の第二次ウィーン包囲のあとは、力関係が逆転し、オーストリアが逆にオスマン帝国を攻めるようになる。1699年にはオスマン帝国との間にカルロヴィッツ条約を結び、オスマン帝国支配下にあったハンガリーの中央部と東部を獲得。オーストリアは中央ヨーロッパの大国に発展したが、フランス・イギリスのような中央集権化は進んでいない。

 そういう流れの中で、マリア=テレジア(位1740~80)が即位し、彼女の即位にプロイセンが反対して、オーストリア継承戦争が起き、七年戦争にも負けた。オーストリアのおかれた条件が複雑すぎて、プロイセンのようにすっきり近代的な国づくりができなかった。マリア=テレジアはその中で、大きな国をよくまとめて統治した。しかも、彼女は結婚して子供も16人産んでいる。妊娠可能期間中はずっと妊娠している。この人の偉いのは、産まれた子供を全員自分の手で育てていることだ。当時の上流貴族たちは子供ができたら、どこかの誰かに預けてしまい、自分では面倒を見ないというのが普通。上流階級というのは親子肉親の情が薄いと言われる。実際に、生みっぱなしでたまに会うだけだから、あまり親愛の情はわかない。マリア=テレジアは子供たちを手元に置いて成長を見守った。子育てを自分でやりながら、王として国家経営をこなす。彼女の娘の一人が後にフランス王ルイ16世に嫁ぐ。外交革命で、フランスと友好関係を結んだ証としての政略結婚だが、その娘がマリー=アントワネット、有名な王妃だが、フランス革命で処刑されてしまう。そして、マリア=テレジアの長男がヨーゼフ2世。将来はオーストリア王・神聖ローマ皇帝になる。彼女は息子を大事に育て、息子も母親を愛し尊敬していた。マリア=テレジアは1765年、共同統治者として、彼を神聖ローマ皇帝に即位させ、自分と二人で国政をみた。

 この親子は仲がよいが、マリア=テレジアとしては一つだけ我慢できない、息子ヨーゼフはプロイセン国王フリードリヒ2世のファンで崇拝している。短期間でプロイセンを一流国に押し上げたフリードリヒ2世の政治手法を学びたい、少しでも近づきたいと考えていた。マリア=テレジアからすれば、オーストリアから領土を奪った憎い敵だ。それを息子が崇拝している。ヨーゼフ2世は、マリア=テレジアの死後、啓蒙主義的な内政改革を次々に実施する。ヨーゼフ2世も「啓蒙専制君主」といわれる。改革の内容は、農奴解放令・農民保護のための土地税制改革・貴族の特権排除・商工業の育成など。フランスなどの先進国に追いつくために、改革をやった。しかし、これらの改革はほとんど失敗に終わる。ヨーゼフ2世の改革は、理想を追ってばかりで、オーストリアという複雑な国の実状に合っていなかった。まわりの貴族たちの理解も得られなかったようだ。

1 コメント

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痛快な時代でしたね。 (T.K)
2019-03-13 09:06:27
啓蒙思想は絶対主義を批判するもので、両立しない思想だが、フリードリヒ2世は二つとも一緒に取り入れた。だから、「啓蒙専制君主」という。プロイセンがフランスなどの先進国に追いつくにはそういう方法が一番有効だと考えた。当時ヨーロッパの思想界で一番もてはやされていたフランスの啓蒙思想家ヴォルテール、フリードリヒ2世は、彼と文通するが、それだけでは我慢できなくなって、最後はヴォルテールをベルリンに呼び寄せて宮殿に一緒に住まわせるが、結局はヴォルテールは出ていく。フリードリヒ2世の言葉として有名な「朕は国家第一の僕(しもべ)である」。ルイ14世の「朕は国家である」と比べると、へりくだった表現をしている。面白い話です。
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