murota 雑記ブログ

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イスラエルとパレスチナ、問題の淵源を振り返ってみる。

2023年10月26日 | 通常メモ
 1948年イスラエルは、世界からユダヤ人移民が集まる国としてパレスチナ地方に建国された。パレスチナ地方にはもともとパレスチナ人(アラブ系住民)が住んでいた。1946年時点でパレスチナ人が130万人だったのに対しユダヤ人は70万人しかいなかった。

 「シオニズム」と呼ばれるイスラエルの建国運動はユダヤ人国家の建設を目標としていたので、パレスチナ人が首相や与党になってしまうのは許されなかった。そのため、イスラエル建国直後の中東戦争に勝利したイスラエルは、パレスチナ人を武力で追い立て、一部はレバノンやヨルダンなどの周辺諸国に難民として押しつけ、残りは「ヨルダン川西岸」と「ガザ」の2地域に押し込め、選挙権を与えないで難民状態に置いた。イスラエル国内に残ったパレスチナ人(アラブ系住民)は1~2割となった。

 イスラエルは民主主義国であるが、それはパレスチナ人を追い出した上で行われ、ゆがんだ民主主義だった。イスラエルを正当化する考え方として「アラブ諸国は民主主義ではないが、イスラエルは立派な民主主義国だ」という。イスラエルはむしろ、アパルトヘイト時代の南アフリカに近い存在かもしれない。追い出したパレスチナ人を国内に入れると、イスラエルはユダヤ人の国ではなくなって自滅する。そのためイスラエルはパレスチナ人難民が戻ってこないようにする策略を考えた。

 パレスチナ人はエジプト、ヨルダン、シリア、レバノンの国民と同様アラブ人(アラビア語を話す人々)なので、それらの周辺諸国がパレスチナの難民に各国籍を与えて迎え入れてくれるよう期待した。これを実行したのはヨルダンだけだった。他の国は、パレスチナ人を国民として受け入れれば国内政治が不安定になるので、イスラエルの策略には乗らず、難民の身分を変えさせなかった。逆にパレスチナ人を難民として残し、それをイスラエルに反撃する先兵とした。

 パレスチナ人は多産だ。シリア人は3~4人の子供を持つ家庭が多いが、シリアのパレスチナ人難民は7~8人以上の子供を持つ家庭が珍しくない。この理由をパレスチナ人に尋ねると答えは「イスラエルに勝つため」という。人数でイスラエルのユダヤ人を圧倒していれば、武力では負けても、いずれ民主主義の選挙が中心になれば勝てるという。

 数年前でも、パレスチナ人は、イスラエルから逃れてきた難民とヨルダン川西岸地区及びガザ地区の住民の合計で650万人、更にイスラエル国内のアラブ系住民も加えれば750万人いた。イスラエル国内のユダヤ人は500万人しかいないので、難民全員の帰還が許されてイスラエル国内の民主主義選挙が行われると、PLO(現在のパレスチナ人の自治政府)の代表がイスラエル国の首相になっても不思議ではない。そこでイスラエルは、パレスチナ人をイスラエル国民にしないで、パレスチナ人にはイスラエル国とは別の国家を与えるために1993年オスロ合意を受け入れた。パレスチナ人の国土になる予定のガザ地区は、イスラエルがパレスチナ人をエジプトに押しつけようとして作った地域であるが、エジプトはパレスチナ人に国籍を与えなかった。

 ヨルダン川西岸地区はイスラエル建国後にヨルダン領になり、住民はヨルダン国籍を与えられたが、パレスチナ人ゲリラが西岸地区を拠点にイスラエルを攻撃し続け、それをヨルダン政府は十分に取り締まらなかった。そのため、1967年の中東戦争においてイスラエルは、ここを再び奪って併合した。そして、パレスチナ人に自治をさせ、イスラエルに対する反抗を止めさせようとして、オスロ合意に同意したのであった。

 オスロ合意とは1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で同意された一連の協定だが、正式には暫定自治政府原則の宣言と呼称する。合意内容は、イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し5年にわたって自治政府による自治を認める。そして、5年の間に今後の詳細を協議するというものだった。だが、オスロ合意および後の協定で明文化されたイスラエルとアラブ国家の関係正常化の期待は未だ解決されていない。2006年7月の、イスラエルによるガザ地区・レバノンへの侵攻により、事実上崩壊したとアラブ連盟では見なされている。

 オスロ合意は一般に「和解」であると解釈されているが、イスラエルの真意はむしろ、手間をかけずにパレスチナ人を隔離し、シオニズム運動を完成させることにあった。当時は、当時のパレスチナ側の代表であるアラファトは、国家の指導者になれることを喜んで、このオスロ合意に応じたが、他のパレスチナ人勢力の中には、イスラエル側の真意を見抜く人々が多く、妥結直前になって合意に反対した。イスラエル国内では、当時のリクードの党首シャロンが、パレスチナ人に自治など与えず、イスラエルの力で閉じ込め続けた方が良いと考え、オスロ合意体制に反対した。シャロンが首相に当選すると、オスロ合意は過去のものになってしまった。その後シャロンはパレスチナ人の独立へ理解を示す方向へと向かってはいたのだが、病に倒れ、帰らぬ人となってしまった。これまでもイスラエルは、パレスチナ人の人口増加に対抗するため、世界各地に住んでいるユダヤ人たちを自国に移住させようと努力を続けてきた。1950~60年代、アラブ諸国が国内のユダヤ人を冷遇する動きを見せたとき、イスラエルは不安に駆られるアラブ諸国のユダヤ人たちを迎え入れるための大規模な飛行機部隊や船団を仕立てたこともあった。しかし、その努力も報われてはいない。

 歴史をふりかえると、パレスチナの地は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム全てにとっての聖地だ。地中海沿岸のパレスチナは、紀元前1000年頃にヘブライ人が王国を建設した地域の名前、昔はカナーンとも呼ばれていた。バビロン捕囚から解放された後に、彼等はパレスチナの都市エルサレムに神殿を建設した。その後、ローマ帝国の支配下に置かれたユダヤ人は独立運動を起こすが、弾圧、迫害されて、パレスチナの地から追われて離散した。また、キリスト教では、イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘がエルサレムにあった。現在のエルサレムにある聖墳墓教会はゴルゴタの丘があった場所とされる。イスラムにとっても、エルサレムが聖地なのは、「ムハンマドの昇天」といわれる伝承に由来する。ムハンマドはある夜、天使ガブリエルに導かれ、エルサレムの巨岩から天馬に跨って昇天し、アッラーに謁見したといわれる。2代目カリフがエルサレムを支配下に置き、7世紀のウマイヤ朝時代には、ムハンマドの昇天の起点の巨岩の上に「岩のドーム」が作られた。ユダヤ、キリスト、イスラムの三つの聖地が併存するエルサレムであるが、十字軍の遠征終了後は、ほとんどの時代、三つの宗教は平和的に併存してきた。近年になって、紛争が起きたのは1948年のイスラエル建国がきっかけであった。

 パレスチナ問題の発端は第一次世界大戦時、パレスチナはオスマントルコの領土だった。オスマントルコはドイツ、オーストリアの陣営に入って、バルカン戦争で失った領土の奪還を目指す。イギリスは中東でトルコと戦火を交えるが、有利に進めるために三枚舌外交をやる。1、戦後のアラブ人の独立と引き換えに、アラブ人にオスマントルコに対する反乱を起こさせる。トルコの支配に不満を持つアラブ人の意識を利用した。2、フランス、ロシアとの間で、戦後のトルコ領を分割する秘密協定を結ぶ。3、パレスチナへの帰還を望むユダヤ人に民族の郷土の建設を約束する(バルフォア宣言)。そして、オスマントルコが敗戦した結果、パレスチナはイギリスの委任統治領になった。イギリスの委任統治のもとで、ユダヤ人の入植を認めるということだ。1930年代にヒットラーのユダヤ人撲滅運動が起こると、ユダヤ人は続々とパレスチナに入ってきた。これをアラブ人が黙認するわけがない、イギリスに対する激しい抵抗運動となる。

 第二次世界大戦後は、疲弊したイギリスにパレスチナを統治する力は残っていない。1947年に国連でパレスチナ分割案が決議された。ユダヤ人国家とアラブ人国家に分け、エルサレムは国際管理地区にするというものだ。アラブ人は拒否するが、ユダヤ人は受け入れた。1948年イスラエルの建国となり、同時にイスラエルとアラブ諸国の間で第一次中東戦争が始まり、イスラエルが勝利。4回に及ぶ戦争や交渉を経て、地中海に面したガザ地区と内陸部のユルダン川西岸地区にパレスチナ自治区ができた。現在、ガザ地区を実効支配するスンニ派原理主義過激派のハマス、その思想はイスラム国やタリバンと同様だ。世界はアッラーの神によって支配される一つの帝国でなければいけないという。そのためにイスラム革命が必要だという。最初にイスラエルをパレスチナから抹消しなければならないともいう。目下のハマスの戦略は、ヨルダン国王を打倒すること。ヨルダンにはアラブ人のパレスチナ難民が大勢いるので、彼等を動員して、ヨルダンで紛争を起こそうとしている。ヨルダン王室はイスラエルと良好な関係を持つ。ヨルダンの王政が転覆すれば、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)などの王政も動揺する。そこに、ハマスはイスラム国と提携して、中東に世界イスラム革命を輸出する拠点国家を建設しようとしているともいわれる。

 (以下は復習メモ)

 キリスト教の教祖イエスは、自分のことをユダヤ教徒と認識していたが、律法を守る人間だけが救済されるというユダヤ教の教えに異を唱え、罪人も神に救済されると言い出し、ユダヤ教からは明らかに異端となり、謀反の罪でユダヤ教の幹部にとらえられ、その地を支配していたローマの総督によって十字架刑に処された。イエスが名前で、キリストが名字と思われるが、イエスというのは太郎とか一郎というように、当時のパレスチナにいた普通の男の名前であり、キリストは「油を注がれた者」という意味だった。ユダヤでは王が戴冠する時に油を注ぐ習慣があった。王は救世主というのがユダヤ教の伝統的な考え方だった。ヘブライ人は、唯一神ヤハヴェへの信仰を固く守っており、そこから選民思想や救世主の出現を待望するユダヤ教が確立していった。ヘブライ人の王国が紀元前千年頃に建国され、ダビデ王、ソロモン王のもとで栄えた後、イスラエル王国とユダ王国に分裂し、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国も新バビロニアに征服され住民はバビロンに連れ去られた(バビロン捕囚事件)。バビロンは現在のイラク中央部。バビロンに連れ去られたヘブライ人たちは、西アジアを統一したペルシア(アケメネス朝)によって解放され、パレスチナへ戻る。そこでヤハヴェの神殿を再建した。これがローマ共和政の始まる時と同じ頃で、ユダヤ教が確立した時とされている。やがて、ユダヤ教は厳格に律法を守る派(パリサイ派)が権力を握り、ローマ支配のもとで、重税を課してユダヤの民衆を苦しめ、そこに民衆の間から救世主待望の気運が高まり、そこにイエスが出現した。イエス・キリストとは、イエスという男がキリストつまり「油を注がれた者」すなわち救い主であると信ずる信仰告白でもあった。

 イエスの処刑後にイエスが復活したという信仰が広がり、キリスト教が成立していく。初期のキリスト教の伝播にとって、決定的な役割を果たしたのはパウロだ。改名前はサウロと名乗っていたが、ローマの市民権を持ち、ユダヤ教のパリサイ派に属していた。もともとサウロは、キリスト教徒を迫害する立場にいて、イエスの教えを神への冒涜と思っていた。ところが、キリスト教徒を捕縛し、エルサレムへ連行するため、ダマスコ(現在のシリアのダマスカス)に近くなった時、天からの光が彼の周りを照らし、サウロは地に倒れ、「私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、あなたのなすべきことが知らされる」と天からの声を聞く。生きている時のイエスには会ったことがない。イエスの直弟子ではない。そこでサウロは、イエスの教えのあり方を変えていった。ユダヤ人共同体の内部では限界を感じて、外部にキリスト教を広めようと決心した。パウロと名を改めて、小アジア(現在のトルコ、アナトリア一帯)、ギリシア、ローマへと伝道の旅を続け、各地に教会をつくった。ローマ帝政下でキリスト教は拡大を続け、313年のミラノ勅令によって公認された頃には300万人にまで増えた。すなわち、キリスト教という宗教をつくったのはパウロであり、イエスは教祖ではあるが、開祖はパウロということになる。

 一方で、イスラムの開祖ムハンマドがアラビア半島西部のメッカで生まれたのは、570年頃。当時、東ローマのビザンツ帝国とササン朝ペルシアが戦争を繰り返していたため、メソポタミア付近の東西交通路は往来が困難だった。紅海に近いメッカは、商品経由地として繁栄していた。ムハンマドはここの商人の一族だった。40歳の頃、山の洞窟で瞑想していたが、光り輝く天使ガブリエルが現れ啓示を受ける。唯一神アッラーへの信仰、偶像崇拝の禁止、神の前の万人の平等を説き、大商人による富の独占を批判する。当時のメッカは格差社会だった。メッカの支配層であった大商人たちはムハンマドを迫害し、彼は信徒たちと共に、北のメディナに移住する。これを聖遷(ヒジュラ)といい、移住した622年をイスラム暦元年としている。630年にはメッカを無血で占領し、それまで多神教だった神殿をイスラムの聖殿に改めた。それ以後、ムハンマドは周囲のアラブ諸部族を次々と支配下に治め、632年にはアラビア半島を制圧することになる。

 イスラムは、一神教のユダヤ教、キリスト教の影響を強く受けている。アッラーとは、唯一神そのものを指す言葉で、英語でいえば「ゴッド」と同じ。神の前の平等を説く点もキリスト教と同じだが、イスラムでは更に徹底していて、専門の神官階級は存在しない。ムハンマドは最初で最後の預言者。ムハンマドがアラビア語で信者に語った言葉を集めたのが聖典コーラン。原名の「クルアーン」は「読誦すべきもの」という意味。コーランを声に出して読むことで神と直に接することができるという。キリスト教の聖書と異なる点として、コーランは教義の他に、日常生活の全てを規定する法典としての性格を持っていた。五行といわれるものがある。信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼の5つ。他にも、酒を飲まない、豚肉を食べない、金を貸しても利子をとらないなどの規定もある。イスラムとは絶対帰依という意味でもあった。

 一般には、キリストを裏切ったのがユダヤ人であり、処刑したのもユダヤ人であることから、欧州のキリスト教圏で嫌われ、迫害されてきたとされているが、それだけでなく、ユダヤの聖典「タルムード」に書かれた強烈な選民思想がその原因といえる。タルムードには「ゴイム」という単語が多用され、これの意味するところは「家畜」及び「異教徒」であり、ユダヤ教では「家畜」と「異教徒」が同じ扱いだ。

 旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。ヘブライ人と呼ばれる彼らは、この付近で遊牧生活を続けた。紀元前17世紀頃ヘブライ人はカナンの地から古代エジプトに集団移住した。古代エジプトの地で奴隷とされた。その後、エジプト第19王朝の時代に、再び大きな気候変動が起こり、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出(出エジプト)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃からイスラエル人を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したといわれる。

 ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来するパレスチナという地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した(ユダヤ人離散)。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在のパレスチナ人になったと考えられる。

 余談だが、アメリカ合衆国はイスラエルに次ぐ(統計によっては最大の)ユダヤ人居住国家であり、約512万8千人を数える。アメリカ全人口の約1.7%を占める(統計によっては644万4000人というデータも存在し、この場合の人口比は2.2%になる)。2008年当時の大統領選挙では78%のユダヤ系が民主党候補のバラク・オバマを、21%が共和党候補のジョン・マケインを支持した。この時共和党はオバマのバックグラウンドにイスラム教やパレスチナがあることを武器にユダヤ票の獲得を目論んだといわれている。

1 コメント

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2千年来の未解決問題か。 (H.D)
2017-12-11 08:14:45
トランプがエルサレムをイスラエルの首都にすると宣言しただけで、世界中で反動が起きる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム全てにとっての聖地エルサレム。地中海沿岸のパレスチナは、紀元前1000年頃にヘブライ人が王国を建設した地域の名前。ローマ帝国の支配下に置かれたユダヤ人は独立運動を起こすが、弾圧、迫害されて、パレスチナの地から追われて離散。また、キリスト教では、イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘がエルサレムにあった。現在のエルサレムにある聖墳墓教会はゴルゴタの丘があった場所とされる。イスラムにとっても、エルサレムが聖地なのは、「ムハンマドの昇天」といわれる伝承に由来する。何と皮肉なことか。ずっと続く未解決問題だね。
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