murota 雑記ブログ

私的なメモ記録のため、一般には非公開のブログ。
通常メモと歴史メモ以外にはパスワードが必要。

「源氏物語」から何が見えてくるのか。

2024年02月23日 | 歴史メモ
 「源氏物語」は歴史上の奇跡ともいうべき文学作品、世界文化史では異例ともいえる早い11世紀初めに誕生した大長編小説だ。世界初の長編小説として世界文学の記念碑的作品でもある。ダンテよりもシェークスピアよりも、セルバンテスよりも早い。紫式部の時代における東アジア世界の常識から見ても驚きの事実。当時の東アジアは中国の文化圏、「小説」という言葉はもともとは中国にあった。しかも小説とは馬鹿にして言った言葉であり、中国、儒教的世界では小説を書くことは犯罪だった。平安時代の日本は一応の律令国家、律令は中国から受け入れた法律体系、公式文書は全て漢文だ。それがカナの発明による国文学の発達途上で書かれた。

 なぜ紫式部は、主人公を「源氏」にしたのか。紫式部は藤原道長の娘の彰子(しょうし)付きの女官だ。藤原氏と源氏は不倶戴天のライバルであるはずなのに、この作品は、源氏が栄えて皇位まで乗っ取るという話だ。帝の寵愛を受けた桐壺(きりつぼ)の更衣(こうい:天皇の妻の位の一つで中宮や女御より下の位)が玉のような男の子を産む。他の妃や女官達から嫉妬され、若くして死ぬ。この遺児が光り輝く美男子つまり光源氏である。天皇の子であるから親王(しんのう)だが、母の身分が低いのと、別に兄もいることから、父帝は将来を考え、源氏の姓を与えて臣籍降下させる。光源氏は亡くなった母に似た女性にあこがれる。これは光源氏の華麗なる女性遍歴の物語だ。

 光源氏は、父帝の新たな更衣(こうい)となった藤壺と密通し子供を生ませてしまう。父帝は知らずに、生まれた子(後の冷泉帝)を自分の子と信じて可愛がる。光源氏への愛情も変わらない。源氏は罪の意識に悩む。源氏はいろんな女性と逢瀬を重ねてゆく。母・桐壺(きりつぼ)の更衣のライバルだった弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の妹とも通じてしまう。父帝が亡くなり、弘徽殿女御の子である朱雀帝が継ぐと、源氏は須磨、明石に流される。朱雀帝は眼病に悩まされ、弘徽殿女御も病気となり、帝は源氏を都に召還する。翌年、朱雀帝は32歳の若さで、弟(源氏と藤壺の不倫の子)の冷泉帝に位を譲る。以後、源氏は正妻の紫上(藤壺の姪)と順調な人生を歩み、冷泉帝から太政大臣に任ぜられ、ついには准太上天皇つまり上皇に準じる待遇を与えられる。

 第二部では、この光が輝きを失ってゆく。准太上天皇となった源氏に新たに妻として内親王(女三宮)が降嫁、これが源氏と正妻の紫上の間に亀裂を生じさせる。その間に若い女三宮が青年貴族の柏木と密通して子を産む。これが第三部の主人公の薫となる。源氏はかつての父帝のように罪の子を抱くことになる。源氏は最愛の紫上にも先立たれ、出家を決意し、第二部が終わる。この後、第三部の「宇治十帖」(うじじゅうじょう)の前に「雲隠れの巻」という、巻名だけあって中味が白紙の巻がある。この間に源氏は死んでいるのだが、はっきりと書かれていない。第一部、第二部というのも近代における学問的な分類であって、昔は「源氏物語」五十四帖であり、その最後の十話は薫が主人公となって宇治を中心に展開する物語だ。

 ところで、平安中期以降の政治の流れを一言でいうと、藤原一族が摂政・関白となって政治の実権を天皇家から奪う過程であった。平安京初代の桓武天皇の時代にも藤原氏は重臣だったが実権は天皇家にあった。それが時代が下るにつれ、藤原氏の鼻息をうかがうようになる。人臣で初の摂政となる藤原良房、彼は政治の天才で、奈良時代の藤原不比等に匹敵する。良房の若い頃は、嵯峨天皇の時代である。嵯峨天皇は桓武天皇の子であり、その兄の平城天皇から位を受け継いでいた。この平城が上皇となった後に藤原薬子にそそのかされ反乱の兵を挙げた。位を受け継いだ嵯峨天皇は身内の反乱に懲りて、天皇自身の血筋の子を多く作ろうと多数の妻をとり、50人も子供を作る。そして、母親の身分が低い者達を臣籍降下させて、姓を与える。「源」(みなもと)という姓である。これが源氏という氏族の始まりとなる。臣籍降下というのは皇族の身分から人臣への身分に落とすこと。天皇家には姓がないので、皇族である限りは「○○親王」や「○○王」と呼ぶ。ところが一般人では、「名」だけというわけにいかない。そこで姓を与える必要があった。その姓が、この場合は「源」(みなもと)だった。こういう氏族を賜姓皇族といい、姓を賜った段階で皇族ではなくなる。源姓となったものを賜姓源氏という。どの天皇の時に源氏となったかで、嵯峨源氏や清和源氏がある。鎌倉幕府を開いた源頼朝ら「武士の源氏」は清和源氏(清和天皇の時に臣籍降下した一族)の子孫である。「源氏物語」の源氏は物語の中の話ではあるが、この賜姓源氏なのだ。皇子として生まれた光源氏が臣籍降下し、朝廷の官僚として内大臣を経て太政大臣にまで出世するという話である。

 さて、藤原良房はどうして嵯峨天皇の作った血縁の壁を突破し、摂関政治を始めたか。嵯峨天皇の皇后橘嘉智子の不満に取り入ったのである。皇后は当時の変則的な皇位継承への不満を藤原良房(当時、中納言)にゆだねていた。嵯峨上皇が死ぬと、結果として、皇后の孫であり、良房にとっては甥になる道康親王が皇太子となった。これで嵯峨天皇の作った血縁の壁は崩れる。道康親王は文徳天皇となる。その後、文徳天皇が32歳の若さで急死することにより、藤原摂関政治へと進んでゆく。

 摂政とは「政治を摂行(代理)する」ということで、天皇が幼少の時に限られる。しかし、関白は原則として天皇が成年に達した後の政治を「関り白す」ことなので、天皇が幼少でも成年に達しても藤原氏は常に国政の実権を握るという体制ができてしまった。自分の娘を天皇に嫁がせ、子を産ませ、次代の天皇とし、摂政、関白として実権を握る、これを完全な形で実現したのが、かの「望月の歌」で有名な藤原道長だ。道長の実現した体制は「一家立三后」、一つの家から一代で皇后(中宮)を三人出すということで、太皇太后、皇太后、皇后が全て道長の娘で占められ、その皇太后たちの配偶者である天皇も道長の孫たちであるから、これは近親結婚の繰り返しということになる。道長の娘彰子が生んだ後一条天皇の皇后に、道長は三女の威子を入内させた。11歳の天皇に対して威子は20歳だ。9歳違いの、甥・叔母の夫婦だ。

 藤原摂関政治は9世紀後半から11世紀後半までの200年余りで終わる。天皇家が藤原氏から同じ方法で実権を取り返してゆくのである。天皇の実父が太政官(政府機構)と別の政府を作り、この血縁カリスマの権威で太政官を有名無実化し実権を握る、これが「院政」となってゆく。藤原氏のライバルは天皇家ではない。天皇家に対して藤原氏と同じ立場に立つ可能性の有る者がライバルなのである。そんな立場の寸前まで行ったのが、右大臣菅原道真と左大臣源高明(みなもとのたかあきら)だ。菅原道真は藤原氏の讒言により、九州大宰府へ島流しにされたが、その罪状は、「現帝(醍醐天皇)を廃し、道真の女婿で現帝の弟である斎世親王を擁立せんとした」ことだった。源高明の場合は「当時の村上天皇の皇太子憲平親王を廃止し、その弟で高明の女婿でもある為平親王を皇太子にせんとした」という容疑で九州大宰府へ左遷、流罪された。これは安和の変と呼ばれ、藤原氏が源高明を失脚させる陰謀事件だった。これ以後、藤原氏のライバルはいなくなり、摂関は完全に藤原氏の独占となる。藤原氏の中でも特別な家柄でないと、摂関にはなれない。これが五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)といわれるもので本姓は藤原だ。

 道長の娘の彰子(一条天皇の中宮)付きの女官である紫式部が書いたのが源氏物語。源氏は、藤原氏の強敵であり、ライバルだった一族だ。なぜ紫式部はライバル一族の源氏が、摂関を越えた地位「准太上天皇」になるような物語を書いたのか。当時、紫式部が書いたことを皆が知っており、道長も知っている、それどころか道長は、式部とは男女の関係にあったという学者もいる。「紫式部日記」によれば、道長は式部に紙や硯を与えていたようだ。紙は当時、大変な貴重品で高価だ。道長のパトロン的な存在だったともいわれている。

 日本の古代からの宗教概念の中に、ライバルに対する賛辞が認められる。オオクニヌシ(大国主命)はアマテラス(天照大神)に日本国を献上し、自らは永遠に隠れた。アマテラスはオオクニヌシに対して、感謝し、その怨念に対する鎮魂の意を込めて、日本最大の神殿、出雲大社を作り、オオクニヌシを「幽事(かくりごと)」の神として崇め奉った。つまり、オオクニヌシはアマテラスに完全に敗北し、二度と日の当たる場所に出られなくなったので、オオクニヌシの「幽界」での王権を認めてあげることで、その怨霊を鎮魂するという意味があるらしい。日本には神話の昔から、幽界と現世の並立を認めるならわしがある。そこから、源氏物語の主人公が、なぜ藤原氏の最大のライバルだった源氏でなければならないかも見えてくる。九州大宰府へ島流しにされた菅原道真も、その後、北野天神として神にされ、今では学問の神様として受験生に人気のある神様にまでなっている。

 また、竹取物語も藤原氏批判の書という人もいる。竹取物語と源氏物語の間には伊勢物語も出た。この主人公もまた藤原氏の権勢に敵対した人物だ。体制的な藤原氏ではない在原業平の一代記の物語である。古来から日本には怨霊鎮魂思想があるため、傲岸不遜な藤原道長も紫式部の源氏物語の執筆を支援したのかもしれない。

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
そんな見方も可能なのか。 (S.K)
2016-12-11 14:27:59
道長の娘の彰子(一条天皇の中宮)付きの女官である紫式部が書いたのが源氏物語。源氏は、藤原氏の強敵であり、ライバルだった一族。なぜ紫式部はライバル一族の源氏が、摂関を越えた地位「准太上天皇」になるような物語を書いたのか。当時、紫式部が書いたことを皆が知っており、道長も知っている、それどころか道長は、式部とは男女の関係にあったという学者もいる。「紫式部日記」によれば、道長は式部に紙や硯を与えていたともいう。紙は当時、大変な貴重品で高価。道長のパトロン的な存在だったともいわれている。そうなのか。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。