murota 雑記ブログ

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百人一首から見えてきたこと

2018年05月07日 | 通常メモ
 藤原定家が撰したとされる小倉百人一首、百人の歌人から、それぞれ一首ずつを撰したとされている。1番目から100番目までの一首ずつの中で、先ず1番目の、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ我が衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)、分かりやすく訳すと、「秋の田に間に合わせに作った小屋は苫(とま)が荒いので、私の袖(そで)は夜露に濡れ続けています」。天智天皇は決して一流の歌人ではない。この歌も天智の自作とは考えられていない。それが百人一首の巻頭に据えられている理由は、天智が平安朝の天皇の皇祖だからだ。奈良時代、壬申の乱以降、天皇の系譜は天武天皇系に独占されていたが、奈良朝末期になって天智天皇系の光仁天皇が即位した。その皇子こそが平安京遷都を実行した桓武天皇だった。百人一首は普通の秀歌撰ではなく、和歌で綴る平安朝の小史である。平安朝の歴史を語る上で、天智天皇は始祖的な人物であり、意図的に1番目に配置されているらしい。そのように国文学者の吉海直人氏は述べている。 . . . 本文を読む

神話上の天皇といわれる神武天皇の話。

2018年05月06日 | 通常メモ
 神武天皇は実在の人物ではなく、神話上の天皇と考えられている。記紀(古事記、日本書紀)では、神武天皇は神日本磐余彦尊(かんやまと・いわれひこのみこと)といい、紀元前711年に誕生し紀元前660年に即位、紀元前585年127歳で崩御したとされる。また、神武天皇の曾祖父に当たるニニギノミコトが日向の高千穂の峰に降臨し、コノハナサクヤヒメと結婚し3人の子供をなすが、その3番目の子供がヒコホホデモノミコトで神武天皇の祖父になる。ヒコホホデモノミコトはトヨタマヒメと結婚しウガヤフキアエズノミコトをもうけるが、この人が神武天皇の父親ということになる。ウガヤフキアエズノミコトは、タマヨリヒメと結婚し、五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)の4人の子供をもうけるが、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が、王位について和風諡号・始馭天下之天皇(はつくにしらす・すめらみこと)となる。750年頃付けられた漢風諡号が「神武天皇」。若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が、王位に就いてから、神日本磐余彦尊(かんやまと・いわれひこのみこと)とも呼ばれた。櫻井市や橿原市には磐余の地名が多く、地名から取られたとも考えられる。 . . . 本文を読む

資本主義の矛盾と人類の知恵どうなる。

2018年05月06日 | 通常メモ
 今の資本主義は、中心と周辺で構成され、周辺つまりフロンティアを広げることで中心が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していく。最近は、地理的な市場拡大が限界に近づき、また金融・資本市場を見ても、各国の証券取引所は株式の高速取引化を進め、百万分の一秒、一億分の一秒で取引できるようなシステム投資をして競争している。コンピュータ金融取引というか、一億分の一秒単位で投資しないと利潤を上げられない。また、日本をはじめ、米国やユーロ圏でも政策金利はゼロ金利といわれ、10年国債利回りも超低金利となり、資本の自己増殖が不可能になりつつある。まるで資本主義の終焉を予感させるかのようだ。富裕層と貧困層の格差が広がり、中間層が恵まれていない。最近では資本主義への疑念も出てきている。そのように水野和夫氏はその著「資本主義の終焉と歴史の危機」に書いている。氏の主張を振り返り、考えてみたい。 . . . 本文を読む

マルクス、その唯物史観をどう見るか。

2018年05月03日 | 歴史メモ
 マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般(意識)を決めていくという。つまり、人間の意識がその時代における社会的存在を決めていくのではなく、その時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった同時代の意識そのものを決めていくというものだ。そして、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとした。このようなマルクスの歴史観が唯物史観といわれているものだ。 . . . 本文を読む

古代天皇家と意外な歴史。

2018年05月02日 | 通常メモ
 初代の神武天皇から第9代までは神話上の話であり、事実上、天皇は第10代の崇神天皇(神武天皇のモデル)から始まる。以後は、崇神王朝(第10代の崇神、垂仁、景行、成務、仲哀)、応神王朝(第15代の応神、仁徳、・・、雄略、・・・、武烈)、継体王朝(第26代)へと続く。崇神王朝の最後にあたる仲哀天皇は西暦404年の高句麗との戦いで大敗し、410年には朝鮮半島にいた反仲哀派と戦闘状態に入り、反仲哀派が勝利し、応神王朝へと移行する。日本の崇神王朝は、中国三国時代の「呉」の影響を強く受けたが、次に続く応神王朝は、朝鮮の百済・新羅に大きな影響を与えることになる。日本書紀では応神王朝の初めに当たるところで神功皇后が登場するが、神功皇后は架空の人物であり、邪馬台国の卑弥呼や台与の代役として登場している。日本書紀は、大和朝廷の正当性を記録するために、都合の悪い邪馬台国や卑弥呼の名前を隠したとも思われる。 . . . 本文を読む