murota 雑記ブログ

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グレートブリテン王国誕生までの歴史を振り返ってみた。

2016年08月27日 | 歴史メモ
 ケルト人は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族、古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていた。「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」といえる。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存する。ケルト人は青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文明(紀元前1200年~紀元前500年)を発展させた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明はラ・テーヌ鉄器文明(紀元前500年~紀元前200年)に発展した。 . . . 本文を読む

竹島、台湾、そして尖閣諸島の真実。

2016年08月22日 | 歴史メモ
 竹島問題は、韓国では最も国民感情が刺激される問題だ。それは、歴史問題にこだわった故・盧武鉉大統領の時代、韓国国民が政治的宣伝活動で、竹島を領土問題ではなく歴史問題として認識するようになったことが背景にある。日本が竹島を島根県に編入したのは1905年であり、それは日本が韓国から外交の権限を奪い、保護領とした年と一致する。したがって、韓国では竹島は日本の韓国侵略の第1歩であり、日本の竹島領有権の主張は、日本の新たな領土的野心の表れだとの認識が広まっている。 . . . 本文を読む

(歴史メモ) 日本が領土侵犯した国際事件、満州事変。

2016年08月10日 | 歴史メモ
 1931年9月18日、中華民国の奉天郊外にある柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で南満洲鉄道の線路が何者かに爆破されるという事件が発生、すぐさま日本の関東軍が中国の張学良軍の暴挙だと決めつけ、奉天城(旧市街)をはじめ満洲各地の主要地点に戦闘部隊を送った。後に「満洲事変」と呼ばれる日本軍の満洲制圧作戦の始まりだった。この鉄道爆破事件も、関東軍が行った「自作自演」であり、現地で取材していた日本の新聞記者もそれを知っていた。しかし、関東軍の将校から「お国のために必要なことだ」と説明された記者たちは、事実を国民に伝えず、「支那人の仕業」であると書き立て、それを信じた日本国民は中国人に敵意を抱くようになる。 . . . 本文を読む

古代ローマ帝国に関係する興味深い人たち。

2016年08月07日 | 歴史メモ
 ローマ帝国という言葉は誤解のもとになっている言葉でもある。紀元前27年のアウグストゥスによる帝政開始がローマ帝国の始まりで、それ以前はローマ共和国と思っている人が少なからずいる。皇帝がいなければ帝国ではないと思うのは普通の感覚であろう。しかし、ローマ帝国というのはラテン語の "Imperium Romanum" の訳で、 Imperium という言葉は命令、権力、支配、職権、命令権などを表す言葉だから、本来は「ローマの支配」とでも訳すのが適切だ。BC227年にシチリアを属州として以来、ローマはイタリアの外に着実に支配地域を広げていった。このローマの支配権のおよぶ範囲を "Imperium Romanum" と呼ぶのであり、皇帝に支配されているのか元老院や民会に支配されているのかは関係無い。アウグストゥス以前の共和政の時代も「ローマ帝国」であり、帝政開始がローマ帝国の始まりではない。 英語ではローマ帝国は the Roman Empire だ。英語にはまだ元の意味が残っているようで、皇帝がいなくても empire である。つまり、ローマ帝国の「帝国」は決して「帝(みかど)の国」ではなく、単に支配の及ぶ領域を指している。 Imperium あるいは empire を「帝国」と訳したために誤解を招いた。皇帝の統治するローマという意味では「ローマ帝国」のかわりに「帝政ローマ」というのが良い。「帝政ローマ」なら間違いなく皇帝が統治するローマを意味する。 ただ、「帝国」が単なる支配領域を意味するのなら、ローマが小さな集落であったころから「ローマ帝国」と言って良いことになりそうだが、王政初期の小さなローマをローマ帝国と呼ぶには抵抗を感じる。imperialism(帝国主義)などの単語のことを考えると、自国外に支配領域が出来てからがローマ帝国と考えるのが良いようだ。シチリアを属州にしたあたりから「ローマ帝国」と呼んでもおかしくはない。 . . . 本文を読む

(歴史メモ) 古代の大和政権、聖徳太子まで

2016年08月07日 | 歴史メモ
 5世紀から6世紀の初め頃にかけて、日本では大王(おおきみ・天皇)の跡継ぎ問題や、有力な豪族(大伴氏・物部氏・蘇我氏など)の権力争いなどで国内の政治が乱れていた。当時、大和政権が支配していた朝鮮半島の任那地方(加羅)の支配力も弱まり、新羅・高句麗からの侵略が心配されるようになった。そこで大和政権は朝鮮半島の任那地方へ救援軍約6万を派遣するが、この救援軍が当時九州の北半分を統治していた筑紫の国造(くにのみやつこ・大和政権の地方官)磐井氏に進路を妨害され足止めをくらう。これが「磐井の乱」( 527年)だ。磐井氏の行動の裏には自分の統治している領地を大和政権から独立させたいとの思いがあった。しかし大和政権側がこれを放置するはずがない。当時の大和政権の支配は日本全土に及んでおらず、その支配力も絶対的なものではなかった。早急に日本全土に及ぶ支配を固める必要があった。しかも磐井氏のバックには新羅がついており、このままでは朝鮮半島の国に任那地方どころか日本の国土も奪われてしまうかも知れなかった。 . . . 本文を読む