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神話上の天皇といわれる神武天皇の話。

2018年05月06日 | 通常メモ
 神武天皇は実在の人物ではなく、神話上の天皇と考えられている。記紀(古事記、日本書紀)では、神武天皇は神日本磐余彦尊(かんやまと・いわれひこのみこと)といい、紀元前711年に誕生し紀元前660年に即位、紀元前585年127歳で崩御したとされる。また、神武天皇の曾祖父に当たるニニギノミコトが日向の高千穂の峰に降臨し、コノハナサクヤヒメと結婚し3人の子供をなすが、その3番目の子供がヒコホホデモノミコトで神武天皇の祖父になる。ヒコホホデモノミコトはトヨタマヒメと結婚しウガヤフキアエズノミコトをもうけるが、この人が神武天皇の父親ということになる。ウガヤフキアエズノミコトは、タマヨリヒメと結婚し、五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)の4人の子供をもうけるが、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が、王位について和風諡号・始馭天下之天皇(はつくにしらす・すめらみこと)となる。750年頃付けられた漢風諡号が「神武天皇」。若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が、王位に就いてから、神日本磐余彦尊(かんやまと・いわれひこのみこと)とも呼ばれた。櫻井市や橿原市には磐余の地名が多く、地名から取られたとも考えられる。

 神武天皇は他の皇子たちとともに、九州から、大和に向かって東征をおこなう。途中、五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)の3人の皇子は死ぬが、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)一行は大和の長髄彦(ながすねひこ)の強い抵抗にあうが、これを追放し大和の橿原で王位に着くことを宣言する。神武天皇の日向から大和への移動を「東遷」と言うが、ここでは「東征」と言う言葉を使う。「東遷」は平和裏に移ることであるが、「東征」は戦いながら移動することを意味する。若御毛沼命(わかみけぬのみこと)一行の東征の経路は日向、宇佐(大分県)、筑紫、瀬戸内海、河内、紀伊の熊野、吉野、大和。日本書紀ではこれに要した年数は6年としているが、古事記では16年となっている。神武天皇以降の天皇は、二代・綏靖(すいぜい)、三代・安寧(あんねい)、四代・懿徳(いとく)、五代・孝昭(こうしょう)、六代・孝安(こうあん)、七代・孝霊(こうれい)、八代・孝元(こうげん)、九代・開化(かいか)と続き、十代・崇神天皇となっている。しかし、記紀(古事記、日本書紀)は、歴史書としては歴史学会で信頼されていない。

 歴史学会では、この十代・崇神天皇以降を実在の天皇とみている。崇神天皇以前の信憑性は不明だ。二代・綏靖(あんぜい)から九代・開化(かいか)までは、「欠史八代」と言われ、記紀には、その事跡はほとんど記録されていない。「欠史八代」の天皇は、父母名と皇子・皇女の名を記すだけのものがほとんど、一説には神武天皇と「欠史八代」の天皇の事跡をすべて神武天皇の業績として記録したとも言われる。皇室が「万世一系」でないことは常識となっている。特に古事記や日本書紀が作成されていた天武天皇(在位:AD673-686年)、持統天皇(在位:AD690-697年)、元明天皇(在位:AD707-715年)は、神武天皇とは関係のない王統だ。神武王朝の次にくる崇神王朝とも関係ない。記紀では、確実性のない神武王朝までも「万世一系」の中に組み込んで、天皇家の系統を作成している。

 記紀が作成された王朝は天武王朝であるが、自分たちの先祖でもない神武天皇を初代天皇としたのは、第一には、天皇家の王統をできるだけ古くしたかったこと、第二には、崇神天皇以前の遺跡、古墳を説明する意味でも神武天皇の存在が必要であったと思われる。記紀の神武天皇の即位年は、中国の史書を模範に「辛酉(しんゆう)革命説」を取る讖緯(しんい)説にもとづくものとされる。推古天皇の9年(601年)から起算して1250年に一巡するとみて、紀元前660年を神武天皇の即位年としている。崇神天皇が大和地方を支配していた事実を記紀の作者たちは知っており、昔から伝えられていた神日本磐余彦尊(かんやまと・いわれひこのみこと)の話も知っていた。崇神天皇は、西暦300年ごろの人だから、神武王朝はそれ以前ということになる。しかも、日向から熊野まで西日本を船で移動しつつ、奈良盆地に住む大和民族を追い出すほどの大戦争をした。記紀が書かれた700年当時の人からみれば、神武天皇の事跡は、日本開闢以来の出来事と思ったに違いない。

 1万年以上前から、日本には、縄文人が住んでいた。ところが、西日本を中心に紀元前3世紀に大きな変化がおきる。弥生人の出現だ。これまでの研究では、弥生人と縄文人とは人種的に違っていて、後の倭人は、この縄文人と弥生人の混血と考えられている。倭人(日本)の歴史は、その長さと人口比から見て縄文人の歴史であってもいいが、実際は、奴国、邪馬台国などのように弥生人の歴史が語られている。つまり、倭国開闢以来の出来事とは、弥生人の到来以降の話だ。安本美典氏などが、よく使う方法の在位年数から年代推定を行うと、神武天皇は、崇神天皇から9代前の人であるから、一代15-20年の在位とすると、神武天皇は、崇神天皇から、165年―180年前の人と言うことになる。つまり、紀元後120年―135年頃の人と計算される。単純に、在位年数からいうと、神武天皇は、倭国大乱時代の人か、邪馬台国成立直前の人ということになる。神武王朝が本当に9代であったのか、神武王朝の9人が実在したのかも判らない状況では、神武天皇が紀元後120年―135年頃の人であると言い切るのも難しい。

 中国では、周の滅亡と共に、春秋戦国時代に入るが、その頃、日本は小さな東海の孤立した国であったと林房雄氏は見ている。神武天皇は、周末期(紀元前5、4世紀)の人で、戦乱の中から倭国を統一した人と林氏は考えている。大分市の「上記(うえつふみ)」(鎌倉初期の書物)、吉田市の「富士古文書」、茨城県小田町の「竹内古文書」、津軽の東日流外三郡誌(江戸時代の書物)などは、記紀とは違った古代史を記述している古文書だが、今の歴史学会は、これを偽書と見ている。林房雄氏がいうように紀元前5、4世紀ごろを神武天皇の時代とすると考古学的な裏付けが全くない。上記、富士古文書、竹内古文書、東日流外三郡誌などの記述をそのまま信用することは、これまでの歴史学や考古学の成果から考えると危険だ。先の古文書によると、奈良盆地には、神武天皇が来る前、ウガヤ王朝が存在し73代も続いたとしている。記紀では、神武天皇の曾祖父のニニギノミコトから日本の統治の話が始まるが、これら古文書類は共通して大和でのウガヤ王朝の存在を記述している。

 これまでの神武天皇に関する説として第一に挙げられるのが「徐福・神武天皇説」、これには、小松左京の「日本文化の死角」(昭和52年5月、講談社)の「稲作渡来と大陸文化の政変」の章を参考にすると、この説は、戦前から台湾や中国の一部で唱えられていた。戦前には、徐福は伝説上の人とされていたが、最近の研究では、紀元前3世紀に山東省に実在した人物と考えられている。弥生人の移住時期と中国での秦の全国統一との時期は一致している。秦の始皇帝が斉国(山東省)の道教の方士・徐福に東海の三神山を探させたというのは、最近の中国側の発掘調査から事実と考えられるようになった。徐福は、道教の方士となっているが、仏教や儒教も学んだ当時の知識人と考えられている。徐福が三神山を探しに行った先が日本で、上陸の場所が、日向、熊野、鹿島などである。徐福の上陸地点は日本全国に20カ所以上あり、どこが本当の上陸地点であるかは判っていない。徐福伝説のあるところからは、多くの場合、弥生時代の遺跡または水田跡が発見されている。このことから、弥生人の渡来とは徐福一行のことで、弥生式文化を運んだのは徐福という説がある。この説に立つと、神武天皇は、神格化された徐福と言うことになる。しかし、徐福一行の脳裏には秦の始皇帝の存在がいつもあったわけだから、始皇帝が神武天皇として日本書紀や古事記に語られたとも考えられる。

 記紀に書かれている神武天皇の記述は、アレキサンダー王伝説の盗用という説もある。秦の始皇帝とアレキサンダー王の関係を次のように捉える人もある。アレキサンダー王は、ペルシャのダリウス三世を打ち破るが、ダリウス王は東に逃げ、アラル海のアムダリア流域で再興を計る。しかし、王は暗殺されて、野望は消されるが、部下たちは、さらに中国方面に逃れ、陜西省の秦に入り込み、中国人と一体になり、ついには中国を統一したと言う。秦が中国を統一できた理由の一つに優れた鉄器を用いたことがあげられる。この技術を持ち込んだのがペルシャ人と言うわけだ。また、アレキサンダー王の伝説(カリステネスの原本)は、奈良時代の初期に日本に入ってきた形跡があり、アレキサンダー王の伝説が、神武天皇の伝説として日本書紀や古事記に取り入れられた。神武天皇の実家のある日向の話として、山幸彦・海幸彦の話があるが、これはアレキサンダー王の海底探検と同じ話であり、神武天皇の東征で熊野を迂回した話は、アレキサンダー王がエジプトを迂回した話と同じだ。また、日本書紀には崇神天皇の時代に「角額有人(つぬがありひと)」が来たと記されているが、アレキサンダー王は、牛の角をつけ兜をいつも身につけていた。今の「敦賀市」は、この「角額有人(つぬがありひと)」が上陸した地とも言われる。日本書紀は、このように世界的な偉人の行為を日本書紀の登場人物に適用する例が多い。たとえば、聖徳太子に対しては、釈迦、キリスト、ローマの神などの逸話が、聖徳太子の虚飾に使われている。同じ手法で、アレキサンダー王の話は、神武天皇に適用されたものとも思われる。

 記紀の神武天皇の東征は、建国時の数々の話(戦)を象徴的に記述したものといわれる。森浩一氏の「日本神話の考古学」(1999年 朝日新聞社)の中の「神武東征」の章を参考にすると、弥生人の渡来の次に大きな出来事は、日本での弥生人による建国だ。紀元前1世紀に「倭国小国に分立し争う」とあるが、このころが倭国建国時代。つまり、弥生人が日本に上陸してから200年後には建国の機運が起きた。この時期、朝鮮半島が漢によって支配されたことと無縁ではない。朝鮮半島に勢力を持っていた部族が漢から逃れるため九州や西日本各地に移り住んだことが倭国内での小国分立となった。この中から、奴国が誕生し、西暦57年に漢に使節を送った。

 西暦147年頃、倭国は、かってないほどの大乱を経験する。このことは、「後漢書」にかかれている。朝鮮半島で大きなできごとが起きた。189年に公孫度が、騒乱によって力のなくなった漢から、朝鮮半島を奪い取った。これが倭国の小国に連帯の機運を高めさせ、同年の189年、卑弥呼が連立国「邪馬台国」の女王となる。邪馬台国は、266年までその存在が知られるが、それ以降は、歴史から姿を消す。神武天皇の話は、このような小国分立の時代から建国までの経緯が、倭人の記憶に残り、日本書紀や古事記に形を変えて記述されたものとも考えられる。日本書紀や古事記には奴国や邪馬台国の話は出てこない。しかし、日本書紀の作者は間違いなく邪馬台国の存在を知っていた。なぜなら、日本書紀の神功皇后の章では、魏志倭人伝の一節が引用されている。神功皇后自体が卑弥呼の焼き直しとも考えられる。日向や大和が神武天皇の活躍の舞台として使われているが、日向や奈良盆地には弥生時代の遺跡がある。日向には、西都原古墳群があり、奈良盆地には纏向遺跡がある。双方とも西暦200年から300年の遺跡であり、崇神天皇以前の遺跡だ。

 森浩一氏の指摘によれば、弥生時代の遺跡は、農耕遺跡が多いが、その多くは低地にある。ところが、九州、瀬戸内海から近畿一体には高地性遺跡(砦跡)が多く、九州地域は弥生中期、近畿地域は弥生後期というように近畿に近くなるほど新しい。これは、弥生中期は九州地域に戦乱が多く、弥生後期には近畿一体に戦乱が多かったことを示す。これらの存在を説明する意味でも神武天皇の記述は必要であったものと思われる。弥生人の最大の出来事は、第一に「日本への渡来」(崇神天皇より500年前)、第二に、「倭国の建設」(崇神天皇より300年前)と思われる。これらの出来事を記紀の作者はどのように説明したらいいのか苦慮したものと思われる。その結果、崇神王朝の前に神武王朝を設定したとも考えられる。そのとき、奈良盆地の橿原には、神日本磐余彦尊(かんやまと・いわれひこのみこと)の伝説があり、それを神武王朝に仕立て上げたのか。こうすることで、紀元前3世紀から、紀元後3世紀までの出来事を説明しようとした。神日本磐余彦尊が本当に日向から船に乗って熊野経由で大和に進出したかどうかは判らないが、九州、朝鮮、中国あたりから一つの勢力が大和に入ろうとすれば、地理的にすべて、「東征軍」ということになり、人物は特定できないが神日本磐余彦尊のような話が現実に存在した可能性もある。

( 参照メモ ) 日本武尊(ヤマトタケル)伝説

 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子として誕生。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われる。武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじられた。ある日,景行天皇の宮(日代宮:ひしろのみや-奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召しつれてくるように言われる。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は,二人があまりに美しい娘たちだったので自分の下に置くことと決め,父の前には別の娘を差し出してごまかすことにした。しかし,このことが父に知られることとなり,大碓命は父の前に顔を出しづらくなってしまう。そのため朝夕の食事にも同席せず,大事な儀式に出ないことで父を怒らせてしまった。そこで,父は弟の小碓命(ヤマトタケル)に食事の席に出るように諭してくるように命じた。小碓命は早々に兄に会い,教え諭した。しかし,それでも大碓命が顔を出さないので,父が小碓命にどのように諭したのかをたずねたところ,「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき,手足をもぎ取り,体を薦(こも:=「菰」 わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と答えたという。

 小碓命が16才のとき,父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じた。熊襲建(たける)兄弟は武勇に秀でていたが,大王の命に従わおうとしないので,征伐することになった。九州の熊襲建は大きな家を新築したばかりで,そこでは祝いの宴が催されていた。小碓命は少女のように髪を結い,叔母(倭比売)からもらった小袖を着て宴に紛れ込んだ。酒を飲んで上機嫌になっている兄弟を見ると,その前に進み出て目にとまるような仕草をした。色白で美しい小碓命に熊襲建の兄が声をかけてそばに座らせた。そして,兄が小碓命を自分の膝の上に抱きかかえようとしたとき,小碓命はここぞどかりに持っていた短刀で兄を一気に斬り殺した。それを見て外に走って出ようとした熊襲建の弟を追い,背中から刀をさしたところ,弟は自分たち兄弟より強い者は西方にはいないが倭にはいたんだと知り,自分たちの「建」の名をもらってほしいと願う。そして,小碓命を倭建命(やまとたけるのみこと)と称えることにすると言って息をひきとった。小碓命はこれより倭建命(ヤマトタケル)と名乗ることにした。(「建」は勇敢な者という意味) 大和にある宮に戻る途中も,山の神,川の神,河口の神などの大王に従わない者たちを征伐。出雲の国の出雲建(いずもたける)を征伐するときも頭を使って勝利し,国を平定した。

 宮に戻ったヤマトタケルは羽曳野で一人の娘と出会った。名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。やがて二人は結ばれた。ヤマトタケルは休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばならなかった。父は,東国の12か国(伊勢:いせ,尾張:おわり,三河:みかわ,遠江:とおとうみ,駿河:するが,甲斐:かい,伊豆:いず,相模:さがみ,武蔵:むさし,総:ふさ,常陸:ひたち,陸奥:みちのく)が従わないので平定するようヤマトタケルに命じた。出発前,ヤマトタケルは伊勢にいる叔母の倭比売(やまとひめ:景行天皇の同母妹)から,須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとされ,天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上した天叢雲(あめのむらくも)の剣を受け取った。尾張に入ると豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ:宮簀媛)と出会い,東国の平定後に結婚すると約束。ヤマトタケルは東征の途中,尾張の萱津(かやつ)神社に立ち寄る。村人たちが塩漬けの野菜の漬け物を献上すると「藪二神物(やぶにこうのもの)」と言われ,漬け物のことを「香の物」ともよぶようにもなった。萱津神社は,「草ノ社(かやのやしろ)」,「種の社(くさのやしろ)」,「阿波手の社(あわでのやしろ)」ともよばれていた。御祭神は鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)で漬け物の祖神だ。相模の国に入る前で弟橘比売(おとたちばなひめ)が合流した。

 土地の役人がヤマトタケルを迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと沼に案内、それは罠だった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれた。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。このとき風向きも味方した。ヤマトタケルは罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。この地が静岡県の静岡市(旧清水市か焼津市)ではないかと言われる。天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れたヤマトタケルはこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。「草薙の剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として草薙神社に祀られているとある。草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。ヤマトタケルは小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けたという。走水(はしりみず)の海は三浦半島沖と房総半島にはさまれたあたりの海をさすが,船出をしたヤマトタケルたちを嵐(あらし)が襲(おそ)った。黒い雲が巻き起こり波が船を襲った。雷鳴がとどろき,激しい雨と風に船なすすべもなかった。弟橘比売は「海神の祟(たた)り」だと言った。その怒りを静めようと海に身を投げた。やがて海は静まり,ヤマトタケルたちは上総(かずさ:千葉県)に渡ることができた。海岸でヤマトタケルはクシを見つけた。それが弟橘比売のものとわかる。東国の神々を平定し,ヤマトタケルたちは帰途につく。甲斐,信濃長野,美濃大井,釜戸,池田から尾張の国境,内津(うつつ)峠に入った。

 尾張ではまだしなければならないことがあった。それは伊吹山の神を征伐することだった 。ヤマトタケルは素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かける。伊吹山を登り始めてしばらくすると,白く大きなイノシシが現れた。山の神の使いが変身しているに違いないから大したことはないと先に進んでいった。ところがこのイノシシが山の神自身が変身していた。山の神はヤマトタケルに大氷雨を降らせため,大きな痛手を被ってしまい,やがて病にかかり伊吹山を下りた。ヤマトタケルが攻撃されたのは伊吹山3合目付近であったらしい。西側登山道を登った3合目付近にヤマトタケル遭難碑があるが,山頂にはヤマトタケル像が建っている。伊吹山を下り,毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いたヤマトタケルは玉倉部の清水を飲んで体を休めた。ここの清水の効果は大きく,高熱がさめたという話が伝わる。伊吹山での戦いの後,疲れ果ててしまったヤマトタケルは岐阜県養老町あたりにたどり着いて休憩した。足はふくれあがり「私の足は歩くことも出来ず,たぎたぎしくなった」と言った。後にこの地を当芸野(たぎの)とよぶようになる。しばらく休んだ後,再び大和へ向かって歩き始めた。

 鈴鹿の山を見ながら現在の三重県四日市市から鈴鹿市に入ったが大変疲れていた。目の前の急坂を上るために,杖をつきながら歩いた。そこでこの坂を杖衝坂(杖突坂:つえつきざか)といい,旧東海道に残っている。約200mほど坂を上ったところで足を見るとたくさんの血が出ていたのでここで洗った。大和を目指して歩き続けるヤマトタケルであったが,体力は衰え,「わが足三重の匂(まか)りなして,いと疲れたり」と語った。このことからこの地を三重と呼んだ。「やまとは 国のまほろば  たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし」  ヤマトタケルは終焉の地となる能褒野(能煩野:のぼの)に着き、ここで力尽きた。その知らせは宮にいる妃たちにも届く。能褒野に陵を造った。みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,大和の方へ飛んでいった。ヤマトタケルの陵とされる古墳の場所は諸説(「白鳥塚」鈴鹿市加佐登,「武備塚」鈴鹿市長沢「双児塚」鈴鹿市長沢,「王塚」鈴鹿市国府,「丁子塚」亀山市田村町)あって定かではないが,明治12年に内務省が亀山市の能褒野神社西にある丁字(ちょうじ)塚と呼ばれる前方後円墳をヤマトタケルの陵と指定。鈴鹿市加佐登町の加佐登神社はヤマトタケル,天照大御神を祭神とする。この地は景行天皇が行在所を置いた所であり,高宮の里ともよばれている。加佐登神社由来記によると,ここはもとは御笠殿(みかさどの)社といい,ヤマトタケルが最期まで持っていた笠と杖をご神体として祀ったとある。近くに奉冠塚,奉装塚があり,着物がおさめられたと言われている。神社の北には白鳥陵があり,ここにヤマトタケルが葬られたが白鳥となって飛んでいったという。古墳は東西78m,南北59m,高さ13mの三重県下最大の円墳であり,墳丘には葺き石が一部残っている。能褒野より大和へ向かって一羽の白鳥が飛び立った。この白鳥が最初に舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原(奈良県御所市)で,この地に白鳥陵がある。再び白鳥は空へと舞い上がる。白鳥は旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立った。白鳥は再び空天高く飛び去っていったという。

1 コメント

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興味深い話です。 (T.M)
2018-05-06 08:14:50
弥生人が日本に上陸してから200年後には建国の機運が起きた。この時期、朝鮮半島が漢によって支配されたことと無縁ではない。朝鮮半島に勢力を持っていた部族が漢から逃れるため九州や西日本各地に移り住んだことが倭国内での小国分立となった。そうなのか。面白い。
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