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朱舜水が日本に与えた影響とは。

2019年09月13日 | 歴史メモ
 朱舜水(しゅしゅんすい)は1628年に生まれ、満州族のヌルハチ(のちの太祖)が明と開戦した時には19歳、李自成が乱をおこした時には29歳、後金が国号を清とあらためた時には37歳、江戸幕府が鎖国令を出した時には40歳になっていた。朱舜水は明朝の衰亡とともに人生を送っている。朱舜水を見ることは、17世紀前後の日本を世界史的に見ることになる。
 
 中国の歴史で明が滅亡したのは李自成が北京を占領し、明の崇禎帝が自殺した1644年だった。そして、満州族の世相順治帝が即位して清朝が成立し、中国における漢民族の歴史は終わった。1644年は日本でいえば徳川家光の正保元年にあたる。その前に明室は衰亡していた。明の滅亡は中国本来の漢民族にとっては大事件であった。中国人の歴史観には、中国は漢民族の歴史を終わらせなくてもよかったのではないかという「問い」が常に潜んでいるといわれる。

 この時代は、ヨーロッパは三十年戦争に突入し、東インド会社をつくったイギリスはインドを狙い、オランダはジャワにバタヴィアを建設し、さらに台湾や日本を窺っていた。ポルトガルは広州にマカオを建設し、ロシア人はエニセイスクやヤクーツクに城塞を築いてシベリア戦略をかため、北東アジアに進出しようとしていた。スペインはマニラを占領して、メキシコとマニラを結ぶガレオン貿易を開始した。また、ピューリタンがアメリカに次々に移住を始めていた時代にあたる。

 日本はこの時期には、三代将軍徳川家光が鎖国体制に向かっていた。なぜ日本は鎖国をしたのか、その頃は世界史がアジアを食べ尽くそうとしていた時代でもあり、何度か日本を訪れていた朱舜水の進言もあったのかもしれない。東アジア急変のなかで朱舜水が見たものは信じがたいことばかりで、朝臣たちが腐敗し、それを諌めるべき儒学者たちが迂腐の学に堕していた。中国北方の女真族のヌルハチが満州を統一して後金を建国し、明から独立してゆく。ヌルハチのあとのホンタイジが李朝朝鮮を服属させ、明の北方を蹂躙してゆく。農民は飢饉に苦しんで陝西に蜂起し、これを李自成が指導して数十万の軍としつつ西安を占拠し自ら皇帝を名乗った。明朝はこれを制圧しそこなって北京を失い、ついに崇禎帝は紫禁城を出て自害する。こんな前代未聞の事情を「文武全才第一」「開国来第一」とよばれた朱舜水が許せるはずはない。しかし舜水は、12回にわたる仕官の誘いを固辞した。適当に明朝を利用する姦臣たちが許せなかった。舜水は「海外経営」を試みていた。浙江省の舟山を拠点に日本・安南のあいだを往来していた。そして「日本乞師」(にほんきっし)になる。

朱舜水は、明の滅亡を匡救する志をもちながらも、ついに機会を得ず、中国・安南・日本の三角交易を試みて漢民族の中国の存続を密かに再来させようとしていた。このようなドラマを日本人が見たのは、佐久間象山や渡辺崋山や吉田松陰以前にはなかったことだ。彼等は勤皇佐幕を超えるほど切羽詰っていた。その精神のドラマを体験した起源になるのが朱舜水だった。そこに一緒に登場してくるのが鄭成功(てい せいこう)という人物だ。

 鄭成功(てい せいこう)は、平戸島生まれの母・田川まつと、中国人の父・芝龍(しりゅう)の間に生まれ、清に倒された明朝に最後まで忠誠を尽くし、オランダが支配していた台湾を解放した。中国でも台湾でも英雄とされている人物だ。「国姓爺」とも呼ばれ、2002年には日中国交正常化30周年を記念した日中合作の映画「国姓爺合戦」もできている。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り、鄭氏政権の祖となった人物でもある。様々な功績から、明の隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺と呼ばれた。台湾・中国では民族的英雄とされており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。また、明室光復の大義を抱いて海外経営に乗り出し、父の鄭芝竜が清に降伏した後も海上権を守って大陸に反攻した。その間、日本に数度にわたる援助を期待したが成らず、厦門(アモイ)を奪ってここを拠点に明朝復興を志した。1658年に厦門を出発して北征の途についたときは、その軍士たちは「神兵」「天兵」と称えられたが、南京進撃は挫折。この神兵を操って帝室回復の先頭をきった稀代の英雄・鄭成功その人が、近松門左衛門が人形浄瑠璃に仕立てた傑作『国姓爺合戦』の国姓爺なのだ。鄭成功が日本人の血をひいていることは、朱舜水が日本乞師になったのと合わせ、その後の日本人のアジア的歴史観に大きな影響を与えてゆく。舜水は24歳も年下の鄭成功の北征に同行している。その北征とは南京奪還のための行軍だった。

 すでに60歳になっていた朱舜水にとって、この行軍はあまりにも難行であり、鄭成功との合意のもとに、援兵を求めて日本に渡った。七度目の日本であったが、朱舜水はそのまま日本に投化してゆき、日本に望みをかけて生涯にわたり明室の回復を念願としていた。国姓爺の鄭成功は39歳の若さで台湾で急死する。朱舜水が最後に長崎に来たのは1659年の冬、江戸は明暦の大火が終わって、将軍家綱の時代。日本側の仲介者であった安東守約は、すぐさま舜水に自分の俸禄の半分を割いている。守約は舜水に惚れぬいていた。それほどの人物だった。明室を救おうとした大義の人・朱舜水の名はすぐ江戸にも届く。

 ここで動くのが水戸光圀、つまり将軍徳川家綱の叔父である水戸黄門だ。儒臣の小宅生順を長崎につかわし、東遊を勧める。65歳になっていた舜水は何度かこれを固辞するが、ついに江戸に向かう。江戸に入った舜水を光圀は最上の敬礼をもって迎える。光圀は40歳。舜水の深い学識とその静寂で苛烈な人物におおいに惹かれる。明室の一書生と言いつつも、光圀の熱意にほだされ、しばしば水戸と江戸を往復する。光圀は水戸に学校をつくり、舜水を賓師としての指導者に迎えたかった。舜水は『学宮図説』を描いてこれに応え、光圀もこれに応じて寛文12年に彰考館を創建する。ここに初めて日本に本場の朱子学と陽明学が入ることになる。

 日本に経世済民の学が入ったのはこの時だった。水戸学の確立もこの時から始まった。武士道の精神にもかかわってゆく。光圀が企画した『大日本史』のすべてが朱舜水の示唆から始まっており、その全てが朱舜水の影響であった。前田綱紀が狩野探幽に描かせた楠木正成父子の桜井の別れの図に朱舜水が寄せた賛ひとつでさえ、今は湊川の楠公碑にも読める。この一事にその後の日本の歴史観を大きく左右する思想がひそんでいた。それまで日本人は、楠木正成の忠臣忠義の言動を存分に理解していなかった。これは明室を失った朱舜水によってこそ教えられた思想だった。

1 コメント

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こんな事実があったのか。 (M・K)
2019-09-13 09:30:12
60歳になっていた朱舜水にとって、あまりにも難行だったが、鄭成功との合意のもとに、援兵を求めて日本に渡ってきた。七度目の日本であったが、朱舜水は日本に望みをかけて生涯にわたり明室の回復を念願としていた。国姓爺の鄭成功は39歳の若さで台湾で急死し、朱舜水が最後に長崎に来たのは1659年の冬、江戸は明暦の大火が終わって、将軍家綱の時代、日本側の仲介者であった安東守約は舜水に惚れぬいた。明室を救おうとした大義の人・朱舜水の名はすぐ江戸にも届く。ここで動くのが水戸光圀、将軍徳川家綱の叔父である水戸黄門。儒臣の小宅生順を長崎につかわし、東遊を勧める。65歳になっていた舜水は何度かこれを固辞するが、ついに江戸に向かう。江戸に入った舜水を光圀は最上の敬礼をもって迎える。光圀は40歳。舜水の深い学識とその静寂で苛烈な人物におおいに惹かれる。しばしば水戸と江戸を往復する。光圀は水戸に学校をつくり、舜水を賓師としての指導者に迎えたかった。舜水は『学宮図説』を描いてこれに応え、光圀もこれに応じて寛文12年に彰考館を創建。ここに初めて日本に本場の朱子学と陽明学が入ることになる。そんな歴史があったのか。
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