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古代、日本と朝鮮半島、言語も文化も同じ時代

2024年05月29日 | 歴史メモ
 古代には、日本人も朝鮮人も区別はなく、言語も文化も全く同じ時代があった。大化改新(乙巳の変)を起こした中大兄皇子は、朝鮮からの使節とは直接会話しているが、中国からの使節とは通訳を介して会話している。当時の日本の上層部は朝鮮語を話していた。(現在でも日本語と朝鮮語は文法が似ている。) 朝鮮の歴史では、3世紀から7世紀までは、高句麗・百済・新羅の三国時代というが、当時は、朝鮮半島と西日本とは同一文化圏であり、倭国を加えて四カ国時代だった。

 676年に朝鮮を統一した「統一新羅」は、9世紀に自国の歴史書である「三国史記」を作成した。これは、題名が示すように高句麗・百済・新羅の三国の鼎立時代を書いたものだ。新羅と対立した倭国については、倭が高句麗・百済と連合関係にあったにも拘わらず、ほとんど記述されていない。朝鮮半島には、統一新羅後、高麗王朝(918年~1392年)、李氏朝鮮王朝(1393年~1899年)が成立するが、「元」による高麗王朝支配、「清」による李氏朝鮮王朝への介入、日本の明治政府による併合(1910年)などの歴史を経ていく中で朝鮮の文化遺産はどんどん失われていった。

 一方で、日本の奈良や京都の寺社には、中国や朝鮮の文化遺産を引き継ぐものが多く、韓国の人達は、これら文化遺産は自分たちの先祖が築いたものと考え、現在も観光に訪れている。それは欧米人が奈良や京都を訪問するのと意味が違う。日本では607年の最初の遣隋使から839年の最後の遣唐使の帰国の間、約230年間は、15回の遣隋使・遣唐使が送られたが、日本は中国から文化的に大きな影響を受けた。日本が朝鮮から完全に撤退したのが、676年に統一新羅ができた後で、その後は日本の天武王朝と統一新羅の間には毎年のように使節の交流が続く。この交流は、新羅にとって屈辱的な外交だった。それは、唐の朝鮮半島支配の手先となった日本に対する朝貢的な使節であったからだ。676年以前は、百済・高句麗との連合関係にあったので、特に百済の要請により倭は多大な援助をしていた。それより以前は、失った任那の回復を計るため朝鮮半島への出兵を何度か計画していた。

 聖武天皇の時代から(750年ごろ)は、皇族、神族、蕃族(ばんぞく)という氏族差別の考えが流行したが、これは法律で決められたものではなく、当時の為政者の中で自然発生的に興ってきた氏族差別意識であった。蕃族(ばんぞく)というのは、野蛮な民族という意味であるが、室町時代、ポルトガル人やオランダ人を南蛮人と称したのと同じ発想であった。皇族というのは天皇の家族あるいは親戚であり、神族というのは古事記や日本書紀に出てくる天孫降臨に随行してきた一族の子孫だ。すなわち、物部氏、紀氏、大伴氏、蘇我氏、中臣氏などの一族である。問題なのは蕃族で、これは、中国や朝鮮からの渡来人を指していた。つまり、高句麗、百済からの亡命者と中国・新羅からの渡来人を意味していた。皇族、神族といえども過去をさかのぼれば朝鮮からの渡来人が多くを占めるが、この時期には朝鮮からの渡来人であることを隠してまでも皇族か神族であることを主張した。このころから日本の政治は、皇族か神族で行われるべきであり、蕃族に日本の政治を任せるべきでないという政治的差別思想が生まれていた。

 これには、日本・唐・新羅との外交関係が大きく影響している。新羅が朝鮮を統一する中で、日本と唐は、手を結んで朝鮮を挟み撃ちにするため連合関係になった。新羅は、唐に対して臣下の礼をとり冊封体制の枠組みに入り、日本に対しては、旧地「任那」からの朝貢物を毎年届けることで、日本を上に置いた外交関係を作った(732年以降は3年に一回)。
 唐における日本と新羅との関係は日本が上で、新羅が下であった。統一新羅の建国から935年の新羅滅亡まで260年間、新羅から日本への使者は15回、そのうち、3回は、何らかの理由で日本は新羅使を追い返している。また、日本から新羅への使者は6回。新羅は、いやいや日本に使節を送っていたことになる。新羅からの使節は日本にとっては利益があったが、新羅には何の利益もなかった。これは漢が匈奴に対して貢ぎ物を届けていたのと同じ関係といえる。新羅は貢ぎ物をもって日本に使節を出したが、日本を文化程度の低い、侵略的な、野蛮国と思っていた。だからこそ日本が新羅使を3度追い返しても、新羅は態度を変えようとはしなかった。
 
 遣唐使長官の大伴古麻呂が、唐の長安で新羅使節と宮廷で同席することがあった。新羅使節が日本使節より上席となった時、日本が唐に抗議したところ、唐は日本と新羅との関係を調べた上で、日本の方が上席であるとして訂正した。日本では、汎中華体制の中では、新羅は、日本より下と思っていた。本来、蕃国とは、外国を意味する言葉で、唐や新羅の人を蕃族と称していた。奈良時代中期以降は、蕃族といえば新羅人つまり朝鮮半島の住人を意味していた。今の京都の「太秦(うずまさ)」付近に本拠地のあった「秦氏(はたし)」は、中国の秦の始皇帝の後胤と称していた。実際には、朝鮮に約500年ほど居住してから、5世紀の後半に、日本に渡来した一族だ。当時は、朝鮮に500年も居住していながら自分たちは中国人と称していた。秦氏一族は、日本全国に22部族が数えられるが、その最大規模の秦氏が京都太秦に本拠地のあった秦氏なのだ。秦一族出身で有名な歴史上の人物は、聖徳太子の側近として活躍した「秦河勝(はたのかわかつ)」だ。河勝は、聖徳太子から、有名な「弥勒菩薩像」をもらい受け、広隆寺を作って奉った人でもある。平安京の建設を担当した当時の藤原氏の妃は秦氏出身であったため、桓武天皇が平安京(京都)を建設したとき、広隆寺は、寺の土地を内裏の一部として無償で提供している。当時の内裏は、河勝の子孫が自分の屋敷を提供したものと言われる。

 秦氏は、その後も藤原一族に娘を嫁がせ、いつの日か藤原氏に同化したため、その存在が薄くなって行く。秦氏は、平安京を誘致することで、桓武天皇の時には一族を下級官僚として多く送り込んだ。中央の政治に参画できない中国や朝鮮出身の豪族は、平安時代以降、消えてゆく。例外もある。坂上田村麻呂は、出身は百済で、その前身は、中国王朝の子孫と称しながら、桓武天皇のもとで高い地位まで昇った。このような例は、まれで、奈良時代中期以降、日本の政治は、皇族、神族によって継承されて行く。この皇族、神族、蕃族の別は、その後の日本の政治と朝鮮との関係を決定づける。通常、人種差別は、国民的感情から形成されることが多いが、この場合は、政治的思惑から形成されている。蕃族を中央政治から排除したことは、蕃族である新羅人すなわち朝鮮半島住民の差別へと発展する。奈良時代、平安時代は、唐は憧れと脅威の国だったが、新羅は敵視する国であった。そして、鎌倉時代になると外国とは没交渉的な政治体制になるので、その後は、朝鮮に対する敵視意識も薄らいで行く。

 戦国時代に織田信長や豊臣秀吉は、衰えつつあった「明」を征服する夢をもつ。通路となる朝鮮半島とは同盟関係や事前の政治的交渉をする必要があるが、日本は朝鮮の存在を無視するように朝鮮半島への進軍を開始する。通常の外交感覚では考えられない。日本人の潜在的朝鮮差別の意識が、朝鮮は弱体国であり、日本軍の道案内をすればよい程度に考えていたのだ。だから、秀吉は朝鮮の意見に耳を貸すこともなく、朝鮮・明への出兵を行った。歴史上、日本が朝鮮に兵を送ったのは、白村江の戦い(663年)、秀吉の文禄の役(1592年)、慶長の役(1597年)、日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)と続くが、これらの時期は、日本と中国との間で問題が起きたときでもある。明治になってからも、この態度はほとんど変わっていない。明治10年から起きた「征韓論」は下火になったが、その精神はその後も生き続ける。「清」と対立した日清戦争やロシアと対立した「日露戦争」は、いずれも朝鮮半島をめぐる戦いだ。両戦争では、朝鮮の政府要人の多くは、「清」に従う意志や「ロシア」に従う意志を持っていたが、日本は、清やロシアに勝ったため、朝鮮王朝要人の意志を封じ込め、「朝鮮併合」(1910年)へと進んだ。朝鮮併合とは、朝鮮を植民地にしたのではなく、日本の一部としたのだ。潜在的な「朝鮮と日本は一体」という意識が働いたためとも考えられる。日本人の朝鮮民族に対する差別意識は、新羅の朝鮮半島統一(676年から)から始まったと考えられる。この意識は、中国(唐)の朝鮮半島支配政策と関係している。すなわち、唐やその後の中国王朝は、朝鮮半島を支配するのに中国と日本との関係を良好にし、朝鮮をいつも中国の脅威の下に置き、朝鮮の活動を押さえていたのだ。日本は、中国の朝鮮半島支配に手を貸していた。

 統一新羅以降の朝鮮の国が中国の冊封国であったのに対し、日本は聖徳太子以降中国の冊封国にはなっていない。聖徳太子以前では、邪馬台国は魏に、倭の五王は宋(5世紀の宋のことで、10世紀の宋ではない)に使者をおくり、倭国王の称号をもらっており、倭国は中国の冊封国であった。遣隋使や遣唐使が称号を中国の王朝からもらったという事実はない。冊封国になると中国は冊封使を送ることになるが、608年に来た裴世清や632年に来た高表仁は、冊封史使としてではなく、宣撫使(中国のことを教える使者)として来ている。中国からみると周辺国をいくつかの段階に分類していた。国単位では、中国、冊封国、朝貢国の分類であり、人単位では、皇帝、内臣(中国人)、外臣(冊封国の支配者)という分類だ。そして、皇帝は、内臣と冊封国の支配者および朝貢国の支配者を家臣と考えた。中国から見ると冊封国が朝貢国より関係が深く、扱いも上になる。
 汎中華体制の中では、冊封国同士の戦争は、厳しく禁止されていた。日本が明確に中国の冊封体制に入っていたとすれば、同じ冊封国である朝鮮とは戦争できない。唐は、意図的に新羅を冊封国、日本を朝貢国として、日本と朝鮮がいつでも戦争ができる状態にしておいたのかもしれない。このことは中国の朝鮮支配にとっても都合がよかった。この状態は、清王朝が滅びるまで1200年間も続く。日本と朝鮮が心から信じられない原因はこの辺にある。
 恐らく歴代の朝鮮王朝は、日本は中国と手を結んで朝鮮を牽制していると考えたのであろう。ともかく、汎中華体制の中では、朝鮮と日本は敵対関係に置かれていた。700年頃の日本の政権は、旧百済・旧高句麗への支持者が多く、朝鮮を統一した新羅に敵対意識を持っていた。

 朝鮮半島の国々は、3世紀から7世紀までは中国と対立する関係であり、8世紀から19世紀までは中国に従った時代であった。20世紀の前半は、清・ロシア・日本の奪い合いの舞台でもあった。そして、20世紀の後半はアメリカの極東での軍事的・経済的な活動の最前線基地となった。これから予想される南北朝鮮統一後の朝鮮半島の状況は、おそらく、今と同じアメリカの極東における軍事的・経済的な活動の最前線基地であることに変りはない。今後の日本と朝鮮との関係は、アメリカ=文化の発信国、日本=文化の伝道国、朝鮮=文化の享受国になると考えられる。

 古代から朝鮮は、汎中華体制の中で日本の風下にいながら、なぜ、尊大な態度でいられたのか。それは、新羅使、高麗使、朝鮮使などは、日本に対して「文化の伝道師」としての役割を担っていたからだ。日本にとって朝鮮のありがたさは、ここにある。古来、日本は、遣隋使や遣唐使を派遣し、中国から都合の良い部分だけを取り入れた。中国は、このような日本の態度を認めていた。朝鮮半島の国々も中国文化の伝道師ではあったが、強制的にイデオロギーを日本に押しつけることはしなかった。これは、世界史上まれなことである。もし朝鮮半島が早い時期から中国の一部であったら、中国は、朝鮮半島にしたことを日本に対してもしていたであろう。それは冊封体制への組み込み、科挙制度の導入、儒教の実践、仏教の弾圧、社会主義の実践など、時代の折々に日本に要求していたかもしれない。日本にとって、朝鮮は「文化の伝道師」以上の存在であった。

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