murota 雑記ブログ

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「風と共に去りぬ」から「戦争と平和」、「復活」など。

2022年05月30日 | 通常メモ
 アメリカは20世紀以後、常に戦争と関わってきた。アメリカが超大国として世界に君臨したのは、いつも主導的役割を果たしてきたからだ。21世紀になってもアメリカは戦争をしている。数々の戦争を経験してきたアメリカであるが、正義の立場で大勝利をおさめた第2次世界大戦、世界中から弱いものいじめと非難されたベトナム戦争、そして、イラク戦争と。だが、それらよりもアメリカ人の心に最も深く、傷跡として残っている戦争は1861年の南北戦争ではなかろうか。南北戦争はアメリカが2つの国に分かれて戦った内乱ではあるが、大きな戦争であった。

 ミッチェルの「風と共に去りぬ」は南北戦争を扱った歴史小説だ。この小説は1936年に刊行され、超ベストセラーになり、アメリカだけでなく世界中で読まれた。「風と共に去りぬ」はロマンチックな物語をイメージしがちであるが、読んでみるとロマンはほとんど感じられず、南北戦争中そして直後の悲惨極まりない現実を実感させてくれる。アメリカ人、特に南部の人間たちに刻まれた南北戦争の傷跡は永遠に癒されない。それほどこの戦争は南部の人間たちの運命を翻弄した。虐げられた南部の人間たちの呻きの声が地中深くから現在でも聞こえてきそうだ。ミッチェルの筆は時代に弄ばれた人間の真実を抉り出している。

 「風と共に去りぬ」の主人公は美貌のスカーレット・オハラ。彼女はジョージア州アトランタ近くの農場で生まれ育つ。父親はアイルランド、母親はフランスからの移民であり、父親の経営する農場は広く、主に綿花を栽培。オハラ家はたいへん裕福だった。スカーレットはお嬢さんとして育てられる。1861年に南北戦争が勃発し、状況は一変する。スカーレットの運命は悲惨かつ数奇なものになる。彼女は好きな人と結婚できず、不本意ではあるが3回結婚をした。最初は南軍は攻勢に出るが、北軍に押され、アトランタそしてスカーレットのいるタラの農場まで攻められる。北軍は略奪の限りを尽くす。タラの農場にも北軍が略奪にきた。スカーレットは北軍の1人を拳銃で殺した。

 南部同盟政府は負ける。戦後、勝利した連邦政府は南部人の心をずたずたにするくらい彼らを苛め抜いた。連邦政府を牛耳っていたのが共和党。南部人が支持していたのが民主党。それまで黒人を奴隷として使用していた南部人は解放された黒人に逆に使われることにもなる。戦後何年もの間、共和党の圧制のもと南部人は地獄の苦しみを味わう。スカーレットはたくましく生き抜く。彼女の生きる糧はお金。お金を稼ぐためには人道を無視したこともやる。お金を稼いで、いい服を買い、いいものを食べそしてパーティを開きたかった。スカーレットは南部人としての誇りを失っていく。スカーレットは望み通り富を得た。彼女の心は荒んでいた。スカーレットが本当の幸福を得られないまま、物語は終わる。

「風と共に去りぬ」は司馬遼太郎が愛した小説の1つ。司馬の歴史小説がおもしろいのは歴史のリアリティを追及しているからだ。司馬は、歴史は利害で動くといった。南北戦争は奴隷解放の戦いであったといわれる。黒人奴隷を本当に深く愛したのは南部人だ。黒人は南部人にとって家族の一員だった。ヤンキーといわれた北部人は黒人を忌み嫌った。人種差別を率先して行ったのは北部人だった。「風と共に去りぬ」は、トルストイの「戦争と平和」に匹敵する歴史小説といわれる。英雄はいない。いるのは大地に根を張った民衆だ。

 さて、トルストイの「戦争と平和」だが、その圧倒的な量と深さと広がり、他の小説とは一線を画している。人類の歴史そのものを巨視的な観点から描くという意味で「戦争と平和」は最高の作品だ。歴史上まれに見る天才、英雄といわれるナポレオンは「戦争と平和」においては、ただの人であり、異様な名誉欲・物質欲をもった俗物の権化みたいに描かれている。1812年、ボロジノの戦いで、フランス軍がロシア軍に負けたのはナポレオンが鼻かぜをひいたからだと「戦争と平和」の語り手は揶揄する。ナポレオンは大きな歴史のうねりの中心にいる一人のピエロに見えてくる。「戦争と平和」の主人公はピエールだが、彼はベズウーホフ伯爵の庶子(妾の子)であり、ベズウーホフ伯爵に可愛がられ、伯爵の死後、莫大な財産を譲り受ける。ピエールはロシア一の大富豪になる。その後、ピエールは数奇な運命に出会っていく。

 主人公ピエールと密接に関わりあうのが、ロストフ家とボルコンスキー家だ。ロストフ家の当主のロストフ伯爵はトルストイの父方の祖父、ボルコンスキー家の当主のボルコンスキー老公爵はトルストイの母方の祖父がモデルといわれる。ロストフ家は名門であるが、ロストフ伯爵は人が良いばかりで最後は破産する。ボルコンスキー家は名門で大金持ち。ボルコンスキー老公爵は厳格ではあるが、大変なエゴイストでもある。ボルコンスキー老公爵には長男アンドレイ公爵、長女マリアがいた。マリアは最終的にはロストフ家の長男のロストフと結婚する。このロストフ・マリアの夫婦はトルストイの両親がモデルだ。

 ピエールは最終的にはロストフ家の娘ナターシャと結婚する。ナターシャはトルストイの妻のソフィアがモデルであるといわれる。ピエールとアンドレイ公爵はトルストイの分身であるが、アンドレイ公爵は行動的・理知的、ピエールは内向的で思索家で心やさしく精神的に弱いところがあった。ピエールはアンドレイ公爵を尊敬しており、2人は仲がよかった。アンドレイ公爵は軍人で、ロシア軍の最高司令官クトゥーゾフ将軍の側近である。

 「戦争と平和」は1805年のアウステルリッツの戦いから1812年のポロジノの戦い・フランス軍によるモスクワ占領・フランス軍のモスクワからの撤退・敗走するフランス軍をロシア軍が追い詰めるまでを扱った大河小説。ボロジノの戦いでフランス軍は実際には敗れ、フランス軍はモスクワを占拠したとはいえ、結局は破滅の道を歩む。1812年はロシアがナポレオンという獣からヨーロッパを救った年といえる。

 アンドレイ公爵はアウステルリッツの戦いで将軍の副官として戦場に赴く。彼は軍旗をもって戦場を動き廻るが、彼の近くで大砲の弾丸が落ちた。アンドレイ公爵は傷つきその場に倒れる。アンドレイ公爵は数時間後に目を覚ます。ナポレオンが側にいるのを感じた。ナポレオンは意気揚々と戦場の視察をしていた。そのとき、アンドレイ公爵は次のように感じた。「彼(アンドレイ公爵)は全身の血が失われていくのを感じていた。そして自分の上に遠い、高い、永遠の蒼穹(そうきゅう、青い空のこと)を見ていた。彼は、それが自分の憧(あこが)れのナポレオンであることを知っていた。しかしいまは、自分の魂と、はるかに流れる雲を浮べたこの高い無限の蒼穹のあいだに生まれたものに比べて、ナポレオンがあまりにも小さい、無に等しい人間に思われたのだった。」 母なる大地を包み込む自然からみれば、ナポレオンはちっぽけなものだった。

 ピエールはナポレオンを暗殺しようとしてモスクワに残った。モスクワはフランス軍に占拠され、フランス軍の兵士たちによって掠奪される。モスクワは火の海になった。ピエールは放火犯の1人としてフランス軍に逮捕される。彼はフランス軍の捕虜として、その後、フランス軍に連れまわされ、最後はロシア軍に助けられる。モスクワでの捕虜体験を通して、歴史は1人の人間によってではなく、大勢の名もない民衆によって動くことを実感する。このアンドレイ公爵とピエールの実感したことが、大長編の主題の大きな部分を占める。

 トルストイの作品を読み返すと、その物語の世界に没頭する。「戦争と平和」の中に、正直なもの、真摯なものが発見できる。「戦争と平和」の中に、人間の真の姿を見、そして人間の真実の声を聞ける。歴史上でも現代でも、英雄といわれている人たちを1人の人間として見、彼らも民衆の1人だということを実感し、初めて民衆という言葉が生きてくる。ナポレオンもロシアのアレクサンドル皇帝も、ただの人、命に虐げられた兵士・農民たちもみんな民衆であるということを「戦争と平和」は語る。「戦争と平和」において初めて民衆という言葉に血が通ってくる。

 1805年、オーストリアに遠征したロシア軍が、ナポレオン軍に負けて帰る。オーストリアでの戦争が終り、ロシアに束の間の平和が訪れた場面から「戦争と平和」は始まる。ナポレオンは、プロイセン、オーストリアを個別に撃破する。ポーランドを占領。スウェーデンやトルコなどの弱国を除くと、ナポレオンに対抗できる勢力はイギリスとロシアだけになる。1812年にナポレオンがモスクワに入城する場面が「戦争と平和」のクライマックスである。トルストイは、フランスは自分が偉業を成し遂げるための道具でしかないと考えるナポレオンと、自分はロシアの歴史が流れていくための道具でしかないと考えるロシア軍の最高司令官の2人を対比させ、「歴史」を描いていく。特定の人物の行動を軸にストーリーを作り上げる小説というより、歴史的な事件が起き、その事件に飲み込まれていく人びとが、何を感じて、どう生きたのかを浮き彫りにしていく構造の小説だ。トルストイの小説を読むと、ストーリーが持つ説得力に圧倒される。「戦争と平和」には、見た目は良いが心が卑しい女性たちも登場する。一方で、見栄えはしないが、心が清らかな女性たちも登場する。トルストイは、「きらきら輝く目」に託して女性の美しさを描く。「戦争と平和」には、エピローグがついていた。ナポレオンのモスクワ侵攻から7年が過ぎている。エピローグには、本編に登場した人物たちのその後が書かれていた。マリアという女性がいる。外見は見劣りするが、物語が進むにつれて、瞳が輝きを増す。神々しいほどの精神的な美しさをまとっていく。エピローグには、幸せな結婚をしたマリアの姿も描かれている。お腹には、赤ちゃんがいた。「わたし、あなたに愛してもらえないような気がして、こんなにみにくいものだから……いつも……いまは……こんな身体……」「おやおや、おかしなことを言う女だね、きみも! 美しいから愛しいんじゃない、愛しいから美しいんだよ」と、人間の美しさ、女性の美しさというものを考えさせてくれる作品でもある。

 ところで、文豪トルストイの晩年の傑作といったら「復活」だ。日本では大正時代、島村抱月が主催する芸術座が「復活」を上演した。カチューシャを演じたのが松井須磨子である。松井の演技は観客を魅了し、かたや松井は「カチューシャの唄」なる歌も歌った。「カチューシャ、かわいや、別れの辛さ…」という戦前生まれの人なら一度は聞いたことのある有名な歌だ。松井は日本で最初の歌う女優だった。

 「復活」は「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」とは趣の違う作品で、特に違うのは体制批判が主題の1つになっている。「復活」が書かれたのは19世紀も末で、ロシア革命の直前である。当時ロシアの国は乱れ、規律はなく国中暴力が蔓延していた。皇帝も暗殺される。自由主義・共産主義を唱えるものが増え、ロシア政府は容赦なく彼らを監獄に打ち込んだ。トルストイは横暴なロシア政府のやり方、そして政府の非人道的な民衆に対する扱いに憤りを感じ、それらを「復活」の中で糾弾している。「復活」には大きく2つの主題がある。1つは、政府に対する糾弾であり、2つ目はトルストイ自身の若いときに犯した罪の告白と懺悔である。

 また、「アンナ・カレーニナ」を書き終わった頃から、トルストイの思想は先鋭化していく。彼は私有財産制を否定し、自分の持っている領地を農民に譲ろうとした。また、宗教的にはよりキリスト教に近づき、聖書を徹底的に研究し、自ら福音書なるものを創った。トルストイはこの世に神の御国(みくに)を創ろうとした。「復活」はかなり政治色に塗られた作品であるが、芸術作品としても質が高い。

 「復活」の主人公は貴族のネフリュードフと娼婦のカチューシャである。ネフリュードフはある面においてトルストイの分身である。ネフリュードフは陪審員としてある裁判に出た。そのとき、彼は被告人の中に見知った女を発見する。彼女は盗み、そして殺人の罪で起訴されていた。彼女の名前はカチューシャだ。実は、ネフリュードフは大学生のとき、伯母の家の小間使いであった少女カチューシャをうまくだまして犯した。ネフリュードフを愛していたカチューシャは自分が騙されていたことに気付く。彼女はネフリュードフの子供まで身ごもった。ネフリュードフに捨てられたカチューシャは娼婦の身に落ち、社会の最下層で虫けらのように生き抜いた。そして客との間で事件に巻き込まれていた。

 カチューシャの状況を理解したネフリュードフは深い罪の意識に陥り、カチューシャを救おうと決意し、カチューシャと結婚しようとする。ネフリュードフの告白を聞いたカチューシャは彼を許そうなどとは思わない。結局、カチューシャは有罪となりシベリア送りとなる。ネフリュードフはありとあらゆる手を打って、カチューシャを無罪にするよう動く。ネフリュードフもカチューシャの後を追ってシベリアへと向かう。
 最終的には、ネフリュードフに心を閉ざしていたカチューシャも昔のように彼を愛するようになる。しかし、彼女はネフリュードフの結婚の申し出を断る。カチューシャは同じくシベリア送りになった政治犯と結婚することにする。カチューシャはネフリュードフに迷惑が及ぶのを避けた。カチューシャはネフュリュードフから去っていくが、ネフリュードフの勤めは終わらなかった。彼はカチューシャの幸福だけでなく、ロシアそして人類の幸福を考えていた。彼はそのためにキリスト教に近づくことを選択する。19世紀末のロシアの閉ざされた状況の中で、トルストイが必死になって人類の救済を叫んでいる姿が感じられる。

以下は、参照メモ「アンナ・カレーニナ」より

 トルストイは、生涯にわたり自らの夫人のヒステリーに悩まされていたらしい。それは女性の性(さが)ともいえるものかもしれない。そして、「アンナ・カレーニナ」の主人公アンナは女性の性(さが)を充分に感じさせてくれる。 「アンナ・カレーニナ」の中で成長するのは、メインのキャラクター達だけではない。サブ・キャラクター達にも、さまざまな変化が訪れる。アンナの9歳になる息子は、家を出て恋人のもとへ走った母親に会えず、父親と一緒に暮らしている。そんな少年は彼なりに家庭を取り巻く環境を理解している。父親を悲しませないために、父親が頭の中に描いているよく本に出てくるような空想上の子どもと同じ態度をとろうと努める。少年の父親でありアンナの夫でもある男は、アンナのスキャンダルのために役所で昇進も止められ、世間の嘲笑を一身に浴びる。アンナから「長官の仕事をする機械」とまで言われた夫は一連の不幸を経験する中で、生まれてはじめて相手の立場でものごとを考えるようになる。

 アンナの夫は正式に離婚して、情夫といっしょに暮らしているアンナのもとに息子を送り出しても、結局は、息子はろくな教育を与えられず、また、アンナも、1、2年もすれば捨てられるだろうし、別の男を作るだろうと判断する。アンナと息子を最悪の事態から守るために、男は改めて離婚はしないと決める。男なりに犠牲を払った上でのスジを通した決断である。「アンナ・カレーニナ」の冒頭の一文に、「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているもの」と。アンナは人妻であって、北方の大都ペテルブルクの社交界の美貌のスター。夫のカレーニンは政府高官、社会の形骸を体じゅう身につけて面子を気にする男。そういう身にありながらアンナはヴロンスキーという貴公子のような青年将校に恋をする。女は青年将校に惚れる。キチイも青年将校に惚れるが、アンナとヴロンスキーの仲を見てあきらめる。キチイの娘心よりもアンナの女心が見えてくる。

 読みはじめてもアンナ・カレーニンは、なかなか登場してこない。オブロンスキー家の出来事やキチイの愛くるしい姿ばかりが出てくる。アンナが登場すると物語はガラリと変化してゆく。青年士官ヴロンスキーの焼きつくような気概と恋情とともに漆黒のビロードの、真紅のドレスの身を反らすように立つ人妻、知も愛も知り尽くし、夫カレーニンには厭きている女である。かつて、ドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』について「文学作品として完璧なもの、現代ヨーロッパ文学のなかには比肩するものがない」と言った。トーマス・マンも「全体の構図も細部の仕上げも、一点の非の打ちどころがない」という。文学作品が「完璧」であるとか「一点の非の打ちどころもない」などと評価されたためしはあまりない。トルストイは書き出しだけで17回、全般にわたってはなんと12回の改稿をくりかえしている。完成まで5年、その何十本もの細工刀で彫琢された芸術的完成度はトルストイにおいて最高傑作となったばかりか、ドストエフスキーやトーマス・マンが言うように、近現代文学がめざしたあらゆる作品の至高点を示すといわれている。チェーホフは、「『アンナ・カレーニナ』にはすべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです」と書いている。トルストイはひたすら言葉と文章だけによって全身没頭感覚を「眼」に見えるようにしてくれている。

 「アンナ・カレーニナ」の魅力は、登場人物たちが成長していく姿にある。主人公である青年には、家を離れていた兄がいた。青年は、身を崩している兄と会うようになる。兄は青年に「変化」が訪れるきっかけを与える役割を持つ。青年は兄との議論を通して「共産主義」にふれる。無神論者だった青年は兄の病気を通して「死」や「信仰」を考える。青年が兄に会う場面は長い物語の中に何回も訪れる。余剰賃金の分配について議論したり、献身的な看病をする青年の妻がベッドをはなれた瞬間に気分がよくなったふりをやめて弟に本音を漏らす兄の姿など何ページもかけて描写される。そんな場面の後には青年に訪れた「変化」が、わずか数行で添えられる。それは、兄が言っていた「共産主義」とか言うものが頭から離れなくなった青年の姿であり、人が死にかかっているときに何をすればいいのかを全く知らない自分に気が付いた青年の姿だったりする。「共産主義に興味を持つようになった」、「信仰を考えるようになった」と書けば一行で済むのに、警察から追われている兄の友人の身の上話から、「兄が死にかけているという手紙」が原因で起こったささいな青年夫婦の喧嘩のてん末まで、ぜいたくな描写がされている。

 「アンナ・カレーニナ」のテーマは「変化」ともいえる。「変化」というのは「成長」と置き換えても良い。「アンナ・カレーニナ」には「不幸」という言葉が何回も出てくる。それを連発するのはアンナ自身だ。「あたしのように不幸な女が、この世にいたことがございましょうか」 アンナがまだ恋人のもとに走る前のこと。夫から今ならまだ許してやるからひとまず帰って来いと言われた時、アンナは、「神さまがあたしをこんな女につくってくださったからといって、あたしが悪いわけじゃないし」と思ううちに一人で盛り上がってしまう。「あたしが何をしなければいけないか、それがいえるのはあの人だけですもの」と恋人に会いに行ってしまう。「あたしが何をしたというの」「あたしだって苦しんでいるのだし」と。アンナは、何かあるとすぐに逆上する。周囲の人間の言うことには一切耳を貸さない。感情に身をまかせる。アンナは、考えうる限りの中で最悪だろうと思われる選択肢だけを取り続ける。アンナは「不幸だ、不幸だ」と言いながらも、いまだ手に入れていない「本当の不幸」を手にするために確実に「不幸」になる選択肢だけを本能的に積み重ねる。結果として、アンナの息子の9歳の少年が、誕生日にお忍びで会いに来てくれたアンナの顔を見て、ああ、ママは不幸なんだと瞬時に悟ってしまうくらいに不幸だった。そんなアンナにも、「変化」が訪れる。作品において他の登場人物たちに訪れる「変化」は「成長」だが、アンナに訪れる「変化」は異常な「変化」である。

 アンナは唯一「成長しない人物」かもしれない。アンナ・カレーニナが「究極の女」と言われる所以はそこにある。「アンナ・カレーニナ」の中では、アンナの美しさがことあるごとに強調される。その美しさはアンナを憎む者さえも、いつのまにか虜にしてしまう。アンナは、「不幸」を重ねるごとに美しさを増す。夫と息子を捨てて、アンナが恋人のもとへ走ったあと、アンナは、恋人が自分に苛立ちを覚えているのを感ずる。「あの人があたしのことをきらいになったらどうしようか」、アンナは捨てられるんじゃないかという恐怖を本能的に抱く。恋人はアンナの内部で何か変わったことが起きつつあるのを見て取る。

 トルストイは、それまでやっていたアンナの心理描写をしなくなる。醒めた目で何か厳粛な魔性のオーラのようなものをまとったアンナの姿を客観的に淡々と描いていく。アンナは「きらきら輝くひとみ」で、恋人を「おびやかす」ようになる。アンナは、ドレスを着て、そのきわだった美貌を、さらに効果的にする。アンナは、劇場に行くと言いだす。恋人は驚愕してしまう。同時に、恋人は、不思議と、そんな「アンナを美しいと思う気持ちがますます強くなってくるのを感じ」る。劇場へアンナと同行することから、前途悠々たる青年は一生を棒に振る。不幸を積み重ねた女がその美しさに最後の磨きをかけるのは、瞳の奥に宿した「炎」だった。

 アンナはサブ・ストーリーのヒロインで、メイン・ストーリーには主人公の青年のほかに、アンナとは別のヒロインがちゃんと登場する。アンナの物語が終わった後に、メインの物語が終結を迎えて、「アンナ・カレーニナ」は終わる。アンナの物語とは別に、メインの物語も併走して完結する。「アンナ・カレーニナ」には、実に考えさせられてしまう。名作といわれる所以かもしれない。



1 コメント

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世界の名作も良いね。 (K.T)
2012-06-01 11:30:46
目まぐるしく変化する世相に縛られると、大切なものを失いそうになる。そんな時、世界の名作を読み返すのもいいね。
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