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歴史の中に見えた興味深い話

2022年01月11日 | 歴史メモ
 小説家の浅田次郎氏が述べている。明治維新のこと、それまでの日本は先進の軍事力を持たずに鎖国を通そうとする無防備国家だった。無防備ですんだのは産業革命からしばらくは先進国といえども産業レベルでの遠洋航海ができないでいたからだ。それが海軍に遠洋航海の能力ができて、20世紀の初めまでにアフリカのほとんどがヨーロッパ諸国の植民地となると、先進国はその牙を一気にアジアに向けてきた。インドの全部がイギリスの植民地となり、次に最大の目標としたのが当時の清(しん)、現在の中国だった。当時の清から茶や絹、陶磁器を大量に輸入して大幅な輸入超過になったイギリスは、植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出するという三角貿易で国富の流出を防いでいた。アヘンを取り締まろうとした清との間で戦争になるが、近代的な英国軍に清は敗れた。清は一方的に香港島の領有を宣言され、南京条約の締結で香港が英国領となった。その様子を目の当たりにして日本は、いち早く鎖国を解いて統一国家をつくり、欧米列強諸国に追いつこうという意思統一が進んでゆくのが幕末の動乱期だった。最初は外国船を打ち払おうとしたが、当時の薩摩藩や長州藩は、薩英戦争や馬関戦争を経て、とても欧米列強諸国にはかなわないと認識する。明治維新をなしとげた原動力は欧米列強の植民地になってはならないという一点にあった。日本が植民地にされてはならぬ、だから外国人を打ち払えという攘夷運動と、同じ意図による開国運動が交じったところで起こったのが明治維新だったという。

 ところで、長州藩はずっと反幕で戦ってきたからか明治維新政府に入った人材が少ない。長州藩の木戸孝允(桂小五郎)も明治10年には亡くなった。長州藩の松下村塾の優秀な先輩たちも亡くなり、残った後輩の中で最長老が伊藤博文と山縣有朋の世代になった。戦前の日本は国民皆兵だったが、徴兵令が布告されたのは明治6年(1873年)1月のこと。明治維新で日本も統一国家になり、徴兵令が布告されるまでの間は、御親兵の制度と呼ばれ、諸藩から兵隊を出させて政府軍とし、天皇と皇居を守る近衛兵を最初に編成した。全員が元の武士だった。国家の戦力としては役に立たず、国民皆兵となった。国民皆兵は当時19世紀の世界の趨勢だった。フランス革命以前の戦争では騎士のような軍人が戦っていたのだが、国民主権、国民国家の考え方を進めていった結果、国民全員が戦争に参加する義務が生じた。当時の日本で徴兵の仕組みを発案したのは大村益次郎、日本陸軍の生みの親だ。維新後に暗殺されてしまうが、その後継者が山縣有朋になった。明治維新の四民平等政策により、武士階級はなくなり、武士の特権は消滅(明治9年)、そのせいで、士族の反乱が各地で起き、熊本県で神風連の乱、福岡県では秋月の乱、山口県では萩の乱などが起こるが、政府によって鎮圧された。最大規模だったのが、明治10年(1877年)の西南の役であり、旧薩摩藩の士族が中心となり西郷隆盛を担いで起こした反乱だった。

 日本の陸軍が最初に手本としたのはフランス、ところが、プロイセン王国(後のドイツ)とフランスが戦った普仏戦争(1870~1871年)でプロイセンが圧勝した。フランスは2か月足らずで、フランス北東部の戦闘で敗れ、最高司令官のナポレオン3世が捕虜になり、5か月後には首都パリが占領された。プロイセン国王がドイツ皇帝となって帝政ドイツが誕生する。これを見たのが、欧州視察中の山縣有朋だった。山縣有朋は、長州藩で足軽以下の家に生まれ、松下村塾門下生だった高杉晋作の騎兵隊創設時から参加し、バリバリの勤王の志士になった。維新後は政府の中心メンバーになって何度も欧州視察に出かけている。当時のフランス陸軍は志願制度だったが、ドイツには国民皆兵の徴兵制度があった。日本陸軍のお手本はドイツに切り変わり、明治6年の徴兵令へとつながる。明治22年公布の大日本帝国憲法20条には、「日本臣民は法律の定むるところにより、兵役の義務を有す」とある。この法律が徴兵令であり、その後たびたび改正されてゆく。戦争が拡大、長期化すると兵隊が足りなくなり、戦争の末期には、17歳から45歳までが召集令状1枚で軍隊に組み込まれるシステムとなった。太平洋戦争の終結にあたり、政府と軍が主張する本土決戦という基本方針を覆し、昭和天皇が無条件降伏を決断されたのは大英断だった。ポツダム宣言というのは、連合国側が日本に戦後処理の方針を示し、無条件降伏を迫ったもので、米国トルーマン大統領、英国チャーチル首相、ソ連スターリン共産党書記長がドイツのベルリン郊外のポツダムで会談して決めた内容を、無線連絡で当時の中国国民政府の蒋介石主席の同意を得て発表されたものだった。この時は米英中の三か国共同宣言だったが、ソ連も8月9日の対日参戦と同時に加わった。これに対する日本政府の方針はポツダム宣言の黙殺だった。原爆が8月6日に広島に落とされ、十数万人が亡くなる。9日には長崎にも落とされ、ソ連が日ソ中立条約を破り、南樺太、千島列島、満州国、朝鮮半島北部などへと侵攻し、本当に日本崩壊が迫っていた。

 8月15日正午からの玉音放送はトップシークレットだったが、前日、その内容を察知した徹底抗戦派は近衛師団長を殺害し、ニセ命令を出して皇居を襲撃し、玉音放送の録音盤を奪取しようとした。放送会館も一時占拠していた。阿南陸軍大臣は8月15日早朝に自決するが、これはクーデターの法的根拠となる「応急局地出兵権」を消滅させるためだったともいわれる。陸軍大臣が空席となれば、戦争継続のためのクーデターは崩壊するからだ。また、満州は悲惨な状況だった。侵攻してきたソ連軍の勢いは8月15日を過ぎても止まらない。満州や樺太にいた日本軍は自衛のために戦うしかなかった。多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、肉親と離別、死別し、中国の養父母に育てられた中国残留孤児もこのときの出来事だ。9月2日、戦艦ミズーリ号の艦上での降伏文書調印を経ても、ソ連軍の攻撃は続いた。完全に停止したのは9月5日になってからだった。

 千島列島は長い。根室海峡からカムチャッカ半島南端の千島海峡まで島々がつながるようにならんでいる。その最北端に位置する国境の島が占守島である。北海道の東端まで千キロ以上あるが、カムチャッカ半島南端のロパトカ岬へはボートを漕いで渡れそうな距離だ。その占守島に8月18日、ソ連軍が武力上陸してきた。武装解除にきたのではなく、武力による占領だった。すでに戦争が終わって3日たっていた。ここには満州から来ていた日本の一大兵力があった。昭和12年(1937年)以来ずっと日中戦争が続いていたので、日本の大軍が中国大陸に出ていた。旧満州、いまの中国東北部には関東軍と呼ばれる日本の強い軍隊が対ソ戦の警戒にあたっていた。関東軍の「関」というのは山海関(さんかいかん)の「関」、華北と東北を分ける万里の長城の最東端、海のところに設けられた関所だ。中国の北方民族と漢民族の戦いは、この山海関の取り合いから始まるという戦略上の要衝だ。この山海関から東に展開していたので関東軍と呼ばれた。第二次世界大戦の開戦時、日本帝国陸軍はこの関東軍のほか、南方軍、朝鮮軍、台湾軍、支那派遣軍という軍を持っていた。占守島にいた日本軍はバリバリの現役兵だった。専門教育を終えた優秀な将校も揃っていた。昭和20年のぼろぼろになってしまった帝国陸軍の中で、開戦当初のような軍隊が1個師団以上、2万人くらいの奇跡の戦力が国境の島に残っていた。そこへソ連軍が攻めてきた。日本軍が圧勝した。日本軍は戦争が終わっているので撃ち返してはならず、無抵抗だった。だが、札幌の軍司令部からは自衛のための戦闘はやむなしという連絡が入っていたので、沿岸砲を撃ち返したところ、敵の砲台は沈黙してしまった。日本軍の兵も装備も勝っていたのだ。戦車聯隊もある完全な師団、2万人以上の最精鋭部隊の日本軍に対して、上陸したソ連軍は8千名だった。なぜソ連軍が攻めてきたのかも不可解だった。8月23日に戦闘停止命令がかかり、24日には武装解除される。日本兵の犠牲者は約千人、ソ連は日本軍の3倍くらいの犠牲者が出ているはずだ。帝国陸軍最後の戦いだったともいえる。占守島の日本軍は勝ちながらも、ソ連に抑留されてしまった。千人を単位とする作業隊に再編され、9月中旬からソ連領内へと移送された。満州や樺太からの抑留者も合わせて60万人亡くなったといわれている。

 第二次世界大戦で戦死者が最も多かったのはソ連(2660万人)。日本は軍人・民間人合わせて約三百万人の犠牲を出した。ドイツでは八百万人が死んだといわれる。さて、千島列島がいつ日本のものになったのか。千島列島は日露戦争の戦利品ではない。箱館(函館)の五稜郭で明治2年まで戦っていた幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)、新政府に楯突いた賊軍の指揮官ではあるが、優秀な人材だったので、助命され明治政府にも登用された。幕府留学生として4年半オランダに留学し、国際法、軍事、造船などを学んだ人物。幕府が発注した軍艦「開陽丸」とともに帰国したのは薩摩、長州を中心とする討幕運動の真っ最中、薩長中心の新政府に抵抗し、軍艦もろとも北海道に逃げて箱館政権を樹立したが、新政府に敗れても才能を買われて明治政府の高官を歴任する。彼が明治8年、千島樺太交換条約を果たすことになる。当時、樺太は日本、ロシアどちらにも帰属していない。気候も厳しく、日本やロシアの漁民が来て、混住していたという土地だった。また、千島列島は、サケ、カニ、タラといった水産資源が豊富、それ以上に軍事上の意味も大きかった。均等な間隔で島が並んでいて、太平洋とオホ-ツク海を分かつ壁を持つことになり、軍事的に価値が高い要衝だった。特命全権大使として帝政ロシアの首都・サンクトペレルブルグに渡った榎本武揚は、「樺太はどちらのものでもないけれど、全部をロシアの領土として認めましょう。その代り、千島列島は全部日本の領土です。」という条約を取りまとめた。すごい外交手腕であった。ロシアのものだった千島列島を日本のものとしたのだ。ところで、戦後ずっと問題になっている北方領土、つまり、エトロフ、クナシリ、シコタン、ハボマイ群島は、日露通好条約以前から北海道の延長とみなされていて、これが外国の領土だったという歴史はない。第二次世界大戦後、領土問題が出てきた時、最初に北方四島という言い方をしてしまった点からして間違いだったといえる。占領国の米国が沖縄を返還した時に、その続きで、北方四島の交渉もなされるべきだったともいえる。

(参照メモ) 中国と異民族の関わり

 中国では、千年の間に六つの王朝が交代している、宋、元、遼、金、明、清の各王朝だ。このうち、漢民族つまり本来の中国人の王朝は宋と明の二つしかない。この二つ以外は異民族による征服王朝だ。征服王朝の特徴として基本的に騎馬民族だ。機動力と戦闘力があった。農耕国家で、戦闘能力で劣る漢民族の王朝を倒すというパターンが何度も繰り返された。元はモンゴル人の国、金は女真族の国、遼は契丹族、それらは全部、万里の長城の北側にある異民族だ。言語的にも民族的にも中国人(漢民族)とは関係がない。これらの北方民族は言語学的にいえば、むしろ日本人に近い。大変な歴史を近世の中国はたどってきた。帝政の最後になった清の王朝も日本の明治時代まで存在した。この清も漢民族ではない。金と同じ女真族、つまり、満州族の建てた国だ。映画「ラストエンペラー」、このタイトルは、帝政中国の最後の皇帝という意味でもある。すなわち溥儀(ふぎ)が中国歴代の最後の皇帝になる。溥儀は中国語ではプーイーといい、名字は愛新覚羅(あいしんかくら)だ。どう考えても中国人の名前ではない。中国人の名前は二文字か三文字の漢字、名字はだいたい一字である。愛新覚羅という名字が四文字というのは、アイシンギョロプーイーという満州語の発音に漢字をあてたものだ。

 征服民族の建てた王朝だったが、清は約三百年の長きにわたって続いた。中国に対するイメージの一つである辮髪(べんぱつ)、額を剃り上げて後ろで長くおさげに編んで垂らす髪型は本来の中国人の習俗ではない、満州族の習俗だ。彼等が万里の長城を超えて、中国を征服した時に、あの髪型を中国の国民に強要したものだった。漢民族には髪を剃る習慣はない。清の王朝になる前の明の王朝では、総髪を結っていた。清の王朝が成立したのは1616年、滅びたのは1912年、約300年であり、日本の江戸時代と明治時代を合わせた期間になる。中国の歴代王朝の中で最も長い。

 中国の皇帝とは、地上を統べる者として天帝から認められた人間だ。そのための条件が「徳」だった。国が乱れるのは徳が失われたからだと天帝が判断すると、別の人間に天命を下す、それが革命であり、中国の王朝交代の理屈であった。清の皇帝は、以前の明の王朝の祭祀をそのまま継承し、制度も文化も継承したが、彼等固有のしきたりは捨てなかった。中国人のイメージの辮髪に加え、あのチャイナドレスもそうだ。立ち襟で、ぴったりと肌に付いていてスリットが入っている衣装、これも満州族の衣装なのだ。元来、漢民族の服装というのは、日本の着物とよく似た合わせ襟、袖は角袖、頭は総髪、これが伝統的なスタイルである。満州族は農耕民族ではなく、狩りをしながら部族で移動する狩猟民族、衣服は馬に乗りやすく、寒さが凌げるデザインになる。襟は立ち襟になり、体にぴったり付く細身の服となり、角袖はもってのほかで、筒袖になり、馬に乗るために横に必ずスリットが入る。中国からすれば異民族の服なのだ。

 中国人の生活の中に、靴を脱いで家の中に上がるという習慣はない。西洋人と似て、椅子と机とベッドの生活だ。日本人のように、畳の上に座ることには抵抗がある。あぐらもかけない。あぐらを漢字で書くと、胡坐となるが、「胡」とは北方民族という意味だ。北方民族の座り方があぐらなのだ。中国人はあぐらがかけない、正座などはもってのほかだ。満州族や蒙古族はあぐらがかける。狩猟民族や遊牧民族は定住地を持たず、移動式の家に入る時は靴を脱ぐ習慣がある。地面にあぐらをかいて座るのは当たり前のこと。ちなみに江戸時代の日本人は月代(さかやき)を剃ってちょんまげを結っていた。これは北方騎馬民族の習慣とも共通している。日本人は中国人とは関係ないが、旧満州、朝鮮半島とはつながっているように思える。日本には、襖や障子のような引き戸がある。中国には引き戸はなく、欧米のようなドアだ。外国人が日本に来て、引き戸に感動する。場所を取らなくていいという。また、自動ドアが世界一多いのは日本、自動ドアは横に開く、前後に開いたら危ないし、場所に恵まれないと作れない。襖の仕組みを自動化したことで、日本に自動ドアが増えていった。

 清は、もともとは万里の長城の向こう側で1616年に建国された。清朝の古都は現在の瀋陽で、昔の奉天だ。清が当初支配していた頃の瀋陽故宮という宮城が今も残っている。瀋陽がその後、奉天と名を変え、日本が実質的に支配した時代もあった。清朝時代の皇帝はやはり愛新覚羅という名字で、名前はヌルハチ。ヌルハチの孫の代に順治帝という皇帝が出た。7歳の時に軍団と一緒に万里の長城を越えて北京に入った。それが1644年で、日本では江戸時代の初めの頃にあたる。清朝が強制したのはほとんど辮髪に尽きるが、征服した相手である明王朝の官吏に対しては処刑したりせず、そのまま官吏として採用し、宦官制度まで引き継いでいる。北方民族には自らは文化的に漢民族に対して劣っているという感覚があり、尊敬する中国の制度をできるだけ踏襲しようとしたようにも思える、そうして清朝は三百年続いた。同時期に日本では徳川幕府の政権が続いている。日本海を挟んで二つの安定した政権が続いていたことになる。

1 コメント

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意外な話ですね。 (S.T)
2022-01-11 09:18:33
中国人の生活の中に、靴を脱いで家の中に上がるという習慣はない。西洋人と似て、椅子と机とベッドの生活。日本人のように、畳の上に座ることには抵抗がある。あぐらもかけない。あぐらを漢字で書くと、胡坐となるが、「胡」とは北方民族という意味。北方民族の座り方があぐら。中国人はあぐらがかけない、正座などはもってのほか。日本には、襖や障子のような引き戸がある。中国には引き戸はなく、欧米のようなドアだ。外国人が日本に来て、引き戸に感動する。場所を取らなくていいという。また、自動ドアが世界一多いのは日本、自動ドアは横に開く、前後に開いたら危ないし、場所に恵まれないと作れない。襖の仕組みを自動化したことで、日本に自動ドアが増えていった。興味深い話ですね。
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