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渋沢栄一、何が一番すごいのか。

2020年02月03日 | 通常メモ
 明治の著名な実業人のほとんどは財閥の一員か、あるいは自ら財閥を興した人間であるが、日本の実業王と称された渋沢栄一だけは、自ら財閥を作らず、その一員となることもなく、日本に銀行や企業活動を根付かせ、民間による国づくり、国を豊かにすることに心を砕いた。
 1874年、現在の埼玉県深谷市で富農の家に生まれた渋沢は、若い頃から反骨精神が旺盛だった。武士というだけで威張り散らす連中への反感、またアヘン戦争をめぐる英国の清国に対する理不尽さを知り、渋沢は次第に尊皇攘夷思想を抱く。

 24歳の時には、仲間と高崎城乗っ取りや横浜の外国人居留地焼き討ちの計画を立てるが、仲間が幕府に捕らえられることを恐れて直前で計画実行を断念し、倒幕活動の盛り上がっていた京都に移った渋沢は、知人の推挙により徳川御三卿のひとつ一橋家に仕官する。やがて当主の慶喜が第15代将軍になる。慶喜に従って幕臣となれば討幕ができなくなるので渋沢は一橋家を離れる決心をするが、慶喜の弟・徳川昭武を団長とするパリ万国博覧会使節団の一員に加えられてしまう。約1年におよんだヨーロッパにおける異文化の体験は、渋沢の考え方を尊皇攘夷や倒幕をはるかに超えたものにしてゆく。見るもの聞くもの全てが新鮮で驚きだった。ヨーロッパでは、利益を追求することは卑しいこととせず、商人が政治家や官僚と対等に競い合える。商人は、株式会社という組織をつくり営利事業をしている。銀行のもとに強固につくられた金融システムが産業の潤滑油としての役割を果たしていた。日本でも商人がビジネスを武器に武士と対等に渡り合える世の中をつくろうと渋沢は決意する。

 帰国後、ビジネスマンとして実業の世界を切り拓こうとするが、大隈重信に口説かれて民部省租税正(現在の財務省主税局長)のポストに就く。廃藩置県後の租税徴収方法の統一や各藩で発行していた紙幣、藩札の処理などを行う。主流の薩長閥は旧幕臣の渋沢の働きを快く思わなかった。当時、渋沢は、莫大な陸・海軍の歳費額が政府の財政を逼迫していたので、支出と収入のバランスをはかろうという提言を大蔵卿の大久保利通にして怒りを買う。渋沢は辞職の意思を固めるが、引きとめたのは、大蔵大輔(現在の次官にあたる)の井上馨だった。井上は当時大量に出回っていた政府紙幣の処理を渋沢に頼み、渋沢は銀行制度の確立で乗り切ろうと考える。1871(明治4)年、渋沢の原案による国立銀行条例が制定される。国立銀行は政府に認可された銀行ということで、普通の銀行業務と共に、金貨に換えられる自行の銀行紙幣を発行できる。新たに発行される国立銀行紙幣が市中に出回っていた大量の政府紙幣に取って代わることを期待した。国の強制による政府紙幣と異なり、銀行の資産の裏づけのある銀行紙幣が預金通貨を増大させ、産業の潤滑油になると考えた。渋沢はこれを機に官を辞した。

 1873(明治6)年、自らがつくった国立銀行条例に基づいて、日本最初の銀行である第一国立銀行を設立したが、まだ銀行のシステムもよく知られておらず、預金を集めることも容易ではなかった。実務に精通した行員も皆無だった。1874(明治7)年ごろから事態は悪化し、2月に佐賀の乱、4月に台湾出兵と戦乱が続き、維新以降の凶作続きで米価も高騰、物価は一気に跳ね上がった。新政府が政府紙幣を再度乱発し、輸入の増大によって金の海外流失も止まらず、インフレが激化する。翌年、金貨は政府紙幣に対し、1,000円につき17~8円のプレミアムがつく事態となった。紙幣の金への交換が認められているため、金貨を求めて第一国立銀行に連日長い列ができた。このままでは金準備が底をつくだけでなく、紙幣が銀行に溜まり、紙幣を流通させて商工業の育成を計るという本来の目的も達成できなくなるので渋沢は苦しんだ。

 1876(明治9)年、ついに金と銀行紙幣と兌換する制度をあきらめ、銀行条例の改正に向けて動き始める。根本的な解決には、紙幣がもっと市中に流通する仕組みを作らなければならない。そう考えた渋沢は、思い切った策を取る。それが今や職を失い年金暮らしをしていた旧武士、大名のカネとヒトを活用することだった。当時政府は、旧武士や、大名、貴族に秩禄の名のもとに高額の終身年金を支払っており、これが新政府に大きな負担となっていた。そこで一括で財政的裏付けのない公債を交付し、前払いするかわりにこの制度を廃止しようとした。渋沢は、この政策が実行されれば、生活に困窮した華士族はまとまった収入を得るため、公債を売却し始めると考えた。しかし総額1億7,400万円あまりの巨額の公債が一挙に市中に出回れば、価格は暴落する。そうなれば、華士族が全国で反乱を起こすかもしれない。渋沢は、この公債を抵当にして国立銀行を設立することを認め、公債の運転活用の道を開くことで、その価格を維持し、華士族の混乱を予防できると考えた。このようにして銀行が次々と組織されていけば、銀行融資により資金がない人々でも事業を起こせるようになり、その金が市中に流通して預金者も増える。この循環こそが商工業の発達を促し、ひいては失業した大名や武士たちにも新たに仕事に就くと考えた。

 渋沢が新しい時代の産業の担い手として武士をあげた。武士道に内在する強い道徳意識を実業の世界に身を置く人間も持つ必要があると痛感していた。 "武士道即実業道"と、渋沢は述べている。国立銀行条例の改正が実現し、国立銀行の数は急速に増加、濫立の様さえ呈してきた。しかし行員は、士族を含め銀行業に関しては全くの素人であり、受付では来客に向かって役人のように威張り散らすのも稀ではなかった。また、金融の知識も全く普及しておらず、銀行印の入った手形や小切手が通用しないこともあった。次にやるべきことは、銀行員を育成することだった。渋沢は、1877(明治10)年、東京と横浜に本店あるいは支店を置いていた国立、私立の全11行を集めて、営業上の諸問題を話し合う機関「択善会」を設立する。月1回行われる会合で、渋沢は、銀行業の役割を"流通の基軸となり、社会の富の基本となる"点と強調し、また海外の雑誌や研究論文を紹介しながら、最新の銀行実務についての研修も行う。1880(明治13)年、加盟行数も増えた択善会は、銀行集会所として生まれ変わるが、渋沢は、1916(大正5)年に実業界を引退するまで、委員長、会長として任務を全うする。渋沢が描いたとおり、国立銀行条例の改正以降、日本国中に銀行が設立され、預金者と融資先を獲得、その資金は日本の商工業発達の原動力となっていった。

 渋沢は一方でさまざまな企業の設立にも尽力する。東京海上火災、日本郵船、王子製紙、清水建設、東京電力、東京ガス、石川島播磨重工業、帝国ホテルなど、日本の代表企業が名を連ねる。これだけ多くの企業に関わりながら、渋沢は決して財閥を作らなかった。ある時三菱財閥の始祖岩崎弥太郎から、協力して財閥を作れば日本経済を支配できるから手を組みたいと誘われるが、これを受け入れなかった。渋沢にとって事業とは国を豊かにすることであり、それによって得た富は分配すべきものだ。「商業は決して個々別々に立つものではない。その職分はまったく公共的なものである」と述べている。政界への誘いも決して受け入れない。1901(明治)年に井上馨が首相に推挙された時、井上は渋沢が大蔵大臣に就くことを条件としたが、渋沢が全く応じなかったため、井上内閣が日の目を見ることはなかった。生涯を通して公益を追求し、私的利益を追求することはなかった、これが一番すごい。。

1 コメント

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こんな人物ほしいね。 (T.K)
2021-03-22 09:11:35
渋沢は決して財閥を作らなかった。三菱財閥の始祖岩崎弥太郎から、協力して財閥を作れば日本経済を支配できるから手を組みたいと誘われても受け入れなかった。渋沢にとって事業とは国を豊かにすることであり、それによって得た富は分配すべきもの、こんな人物、現代にもほしいね。
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