murota 雑記ブログ

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( 歴史メモ ) 日清戦争から日露戦争までを振り返る。

2016年06月29日 | 歴史メモ
 1871年に日本は中国(当時は清朝)と日清修好条規を結び、朝鮮にも国交を求めた。しかし、朝鮮は、その清朝を宗主国とする伝統的な外交姿勢で西欧諸国に対しても鎖国政策をとっていたため、近代化した日本との通商を拒否した。1875年、朝鮮の首都ソウルに近い江華島の沖で、日本の軍艦雲揚号に朝鮮軍が砲撃を加える事件が起きた(江華島事件)。実は、日本の雲揚号が無断で測量をおこない朝鮮側を意図的に挑発していた。日本は、江華島事件の責任を問う形で朝鮮と交渉を行い、1876年、日朝修好条規が結ばれた。朝鮮は開国し、釜山など三港を開港。この条約は日本の領事裁判権を認める不平等条約だった。ペリーが日本に対したと同じ事を日本は朝鮮に対してやった。この後、朝鮮はイギリス、ドイツなどとも同様の条約を結ぶ。朝鮮政府内では、国王高宗(位1863~1907)の実父大院君と王妃閔妃(ミンビ)がそれぞれ派閥を作り、権力闘争をしていた。開国後の政権運営について、清朝の庇護のもとで伝統を守ろうとする守旧派と、近代化をめざす開化派の路線対立も生じていた。 . . . 本文を読む

( 歴史メモ ) 日中戦争、朝鮮の動乱、中国共産党成立等を振り返る。

2016年06月26日 | 歴史メモ
 日露戦争は、ヨーロッパにアジアが勝利した戦争として、列強に侵略されているアジア諸民族を鼓舞する一面もあった。インドでは「アジア人に対するヨーロッパ人の絶対的優位性の神話は崩れ去った。インド人も民族的自信を持つべきだ」と唱えるティラクの指導でインド国民会議派による反英運動が活発化した。第二次大戦後にインド首相となるネルーも「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に、大きな影響を与えた。私は少年時代どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、大人が同じ感激をした」と、父が子に語る歴史の話として娘のインディラ・ガンジーに伝えている。1906年のイラン立憲革命や1908年のトルコのサロニカ革命も日露戦争の影響があるといわれる。その後の韓国の植民地化と中国侵略は日本がヨーロッパ列強と同様の帝国主義国であることを示していった。 . . . 本文を読む

ヨーロッパ変動の一時期を振り返ってみる。

2016年06月22日 | 歴史メモ
 イギリスのエリザベス1世(1558-1603)と同時期の頃、フランスでは1562年から1598年までの間に内乱が起きた(ユグノー戦争)。また、ネーデルラント独立戦争もあった。フランスのユグノー戦争は宗教戦争であった。フランスはカトリックの国だが、宗教改革の影響で新教、特にカルヴァン派の影響力が強く、宗教対立が激しかった。カルヴァン派のことをフランスではユグノーといった。国王を中心とするカトリック勢力とユグノーの諸侯が対立し内戦が続いた。内戦中の事件でサン=バルテルミの虐殺事件(1572)があった。それは、国王側と、新教側が和解することになり、王の妹マルグリットがユグノーの指導者ブルボン家のアンリと結婚、この結婚を祝うために、全国からユグノーの有力者がパリに集まってきた時に国王側が彼等をだまし討ちで虐殺したという事件だった。 . . . 本文を読む

驚きのヨーロッパの宗教改革史を振り返る。

2016年06月20日 | 歴史メモ
 ヨーロッパのルネサンスと同時期に起きた思想上の大事件が宗教改革、それがヨーロッパ政治の枠組みを大きく変えていった。宗教改革をはじめた人物はドイツ人のルター(1483~1546)、彼はドイツ中東部のヴィッテンベルグ大学で神学の教授をしていた。この時は西ヨーロッパの宗教はローマ=カトリックだけだった。ルターは大学時代に宗教に目覚めて修道士になる。神学の勉強をつづけて大学で教授になったが、ローマ教会の方針に対しては疑問を抱く。問題にしたのが免罪符だった。 . . . 本文を読む

(歴史メモ) イギリスにとっての革命を振り返ってみる。

2016年06月06日 | 歴史メモ
 日本で江戸幕府が成立したのが1603年、この年にイングランドではエリザベス1世が崩御した。後継はスコットランド人のジェームズ1世。チューダー朝からスチュアート朝に移る。ジェームズ1世は、エリザベス女王が処刑したスコットランド女王メアリの息子だった。スコットランド王としてはジェームズ6世、イングランド王としてはジェームズ1世、2つの国は同じ国王が治める連合国となる。王権神授説の信奉者だった王はプロテスタントの清教徒(ピューリタン)を締め上げたことから、その一部はメイフラワー号に乗って新大陸アメリカに渡る。1625年、息子のチャールズ1世が王位を継ぐ。父以上に王権神授説の信奉者は議会と対立してゆく。1628年、貴族たちは「増税には議会の同意が必要」「不当な逮捕、投獄、刑罰の禁止、人身の自由」などを定めた権利の請願を突きつける。400年前のマグナ・カルタを思い出させる。王といえども主と定めた法には従わねばならない。チャールズ1世はいったん同意するが、翌年には破棄する。 . . . 本文を読む