murota 雑記ブログ

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史上初の民主主義政体、古代アテネが面白い。

2018年10月28日 | 通常メモ
 民主主義政治とは、戦い続けて維持されてゆくものなのであろう。民主主義の原型ともいわれた古代ギリシャのアテネの時代、最も長く民主政体を維持したとされる指導者ペリクレスの時代のことを、歴史家のツキデイデスは、多数決で全てが決定する政体を維持しながらも、「形は民主政体だが、実際はただ一人が支配した時代」ともいっている。事実、ペリクレスの30年間は努力と苦労の連続だった。 . . . 本文を読む

孔子と儒教、その由来が興味深い。

2018年10月27日 | 通常メモ
 加地伸行氏がその著「儒教とは何か」の中で書いている。古代には、「原儒」たちがいて、死という不可解な現象を説明しようとした。彼等はシャーマンであり、巫祝だった。広く「儒」といわれたのは、この原儒たちのことだ。原儒は、人間の本性が死によって、精神の主宰する「魂」(こん)と、肉体の主宰する「魄」(はく)とに分離すると考えた。この「魂」と「魄」との分離をもう一度統合することができれば、生死の本来がまっとうすると考え、人間の本性が蘇ると考えた。そこで「尸」(し)をもうけて、ここに魂魄が寄り憑きやすいようにした。「尸」は形代(かたしろ)のことで、たいていは木の板でできていて、そこに死者の姓名や事績などを書く。この木の板は「神主」(しんしゅ)とか「木主」(ぼくしゅ)とよばれ、日本の仏教にも取り入れられ「位牌」(いはい)となった。こうした魂魄の統合のための儀礼を司っていたのが原儒だ。その儀礼を一言でいえば「招魂再生」となる。儒教は「死」に深く結びついている故に宗教といえる。魯迅はそこを批判して、死人などにかかわる儒教の後進性に眉をしかめていた。 . . . 本文を読む

老子から何を学べるのか。

2018年10月26日 | 通常メモ
「将に之を縮めんと欲すれば、必ず之を張る。将に之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす。将に之を廃せんと欲すれば、必ず固く之を興す。将に之を奪わんと欲すれば、必ず固く之を与う。是を微明(びめい)と謂う。柔弱は剛強に勝つ。魚は淵を脱すべからず。国の利器は、以て人に示すべからず。」、これらの言葉をわかりやすくいいいかえると、あることやあるものを縮めさせたり、少なくさせたいと思うのなら、まず張りつめておきなさい。弱めたいと思うなら、まず強めておきなさい。衰えさせようと思うなら、まず勢いをつけなさい。すなわち、奪いとろうというなら、まずは与えておくべきだ。これが「微明」(びめい)というのであると。つまり、柔らかなものが剛いものに、弱いものが強いものに勝つ。魚は深い水の底にいるほうがいい。国家の最も鋭い武器も何人(なんぴと)にも見せぬほうがいい。このように老子が言っている。 . . . 本文を読む

ベルクソンの哲学とは何だったのか。

2018年10月22日 | 通常メモ
 ベルクソンはフランスの哲学者、日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。若き学徒のころから一貫してカント哲学と対峙しつづけた哲学者だった。カント哲学というのは一言でいえば「判断はどうあるべきか」ということを考えた哲学だった。さかのぼればアリストテレスに発していた命題(判断命題という)を、カントが劇的に高めたものでもあった。カントはそのために、判断のよってきたる作動因のようなものを考えた。そして、そこには因果律のようなものが支配的に関与していて、それが科学的法則になったりしていると見ていた。ただカントは、我々はそのような科学的な因果律を自分の判断のどこかに投影しすぎていて純粋な判断がにぶっている。もっと純粋で、理性的な判断がどういうものかをつきとめるべきと考えた。わかりやすくいえば、人間の理性や悟性(意識)は科学が発見するようなものとは別のところにある。だから哲学は人間の本性に属するともいえる「主体の意識の哲学」だけを考えたほうがいいという方針を立てた。そのためカントは、空間や時間は、われわれの意識や判断とは別に、アプリオリ(先天的に、経験に先立って与えられている認識)にあるとみなした。これを、ベルクソンは崩そうとしてきたのだ。時間も空間も我々の意識に関与しており、そもそも人間が存在として宇宙的生命の歴史の中に誕生し、このような意識をもったということは、カントの言うように、純粋な判断とかかわりのない時空がどこか別のところにあるのではなく、意識を生み出す時空というものがあり、これからの哲学はそのことを思索し表現するべきと考えた。このようなカント哲学との対峙が、ベルクソンのエラン・ヴィタールという「生の哲学」になってゆく。そしてベルクソンの哲学は生命の力を強調し哲学史から時空を奪い返したものであったといえる。 . . . 本文を読む

シュペングラーの「西洋の没落」をどう見るか。

2018年10月19日 | 歴史メモ
 シュペングラーは「西洋の没落」を世に問うたが著作の成果を歴史学界が受けいれたことはない。いまなお問題作にとどまっている。シュペングラーの方法と成果は10年を経てトインビーやソローキンやクローバーらに継承されたが、トインビー学派の総集編的な継承でもあったため、シュペングラーの独自性は見えてこない。これはゲバラの愛読書だったともいわれる。そのように松岡正剛氏は述べている。そして、第1巻「形態と現実」は世界史をアポロン的なるものとファウスト的なるもので捉え、その中にインド文化、ギリシア・ローマ文化、アラビア文化、ヨーロッパ文化などを並進させて比較し、第2巻の「世界史的展望」ではそれを、起源・土地・科学・国家・貨幣・機械というふうに発展史的にたどりつつ、ヨーロッパに比するアラビア文化の充実を説いており、ベストセラーでロングセラーでもあった。表題がセンセーショナルでもあり、ヨーロッパ中を疲弊させた第一次世界大戦が終了する1918年の刊行とともに爆発的に売れた。だが、全部が刊行されたのではなく、初期の草稿にあたるものの刊行(第1巻)であり、「西洋の没落」というフレーズはその後のヨーロッパの現代と未来を語るうえでの常套語にもなっている。 . . . 本文を読む