murota 雑記ブログ

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政治権力の根拠は何なのか、歴史から探ってみる。

2012年02月22日 | 歴史メモ
 フランスとイギリスは「兄弟の国」だった。1066年フランスのノルマンディー公ウイリアムがドーバー海峡を渡ってイングランドを征服し、イギリス王(ウイリアム一世・征服王)となった。この時代、イギリス王は形式的にはフランス王の臣下だった。臣下といってもイギリス王の力は強大で、イギリス全土とフランスの一部(ノルマンディー地方)をイギリスの領土としていた。この歴史に節目となる時期が訪れる。ジョン王(在位1199~1216)は「欠地王」といわれ、英国史上、実に評判の悪い王だ。(昔の教科書に「失地王」と書かれているのは誤り) ジョン王は暴政と失政で多くの領土を失う。「欠地」というのは、大陸(フランス)の領土を父王から与えられなかったという意味。ジョン王は十字軍遠征で有名なリチャード獅子心王の末弟で、本来は王位を継げる身ではなかったが、父を裏切り、兄を裏切って王位に就いた。それがフランス王の干渉を招き、フランスと戦って敗れ、大陸領土の部分をほとんど失う。貴族達はジョン王に一斉に反抗し、王権を制限する63か条の要求を出して、認めさせたのが有名な大憲章(マグナ・カルタ)で、1215年のことだった。その後、ジョン王は嫌われ者となり、歴代のイギリス王には、ヘンリー、ウイリアム、エドワード、リチャードの「二世、三世」を名乗る王はいるが、ジョン二世はいない。マグナ・カルタは立憲政治の基盤となったといわれているが、王権を絶対とする国王に対して、初めて臣下の権利を認めさせたという歴史上の意義は大きい。イギリス人は革命を起こしても、国王を処刑することはせずに近代国家への道を進んだが、フランスの場合は、国王を処刑し、共和制に進んだ。 . . . 本文を読む

現代に教えるもの、後醍醐天皇の失敗。

2012年02月04日 | 歴史メモ
 鎌倉幕府を倒したのは、個人名をいえば、後醍醐天皇。後鳥羽上皇も倒幕を目指し、承久の乱を起こしたが失敗、隠岐に島流しにされた。なぜ、後鳥羽は失敗し、後醍醐が成功したか、その時の状況は違っていた。  NHKがテレビ番組「堂々日本史」の中で「建武新政敗れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルをつけたことで、正成を祀った湊川神社から抗議されるという事があった。悪党とつけられた正成が悪人と誤解されるのは心外だという神社側の抗議だ。NHKは、当時の悪党は悪い連中の意味ではなく歴史上の新興勢力を表す言葉と説明した。確かにその通りなのだ。 . . . 本文を読む