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意外な聖徳太子の実像に迫る。

2013年01月17日 | 歴史メモ
 聖徳太子(厩戸皇子)は、622年、数え49才でなくなった。お墓は、大阪府叡幅寺の太子廟にある。(骨や棺は現存しない) 聖徳太子は、四天王寺や法隆寺を創建した人としても知られ、日本最初の公務員規定(十七条憲法)、官位制度(冠位十二階)、歴史書(国記や帝記)、中国(隋)への外交使節の派遣(遣隋使)などをした人としても知られる。これらのことは日本書紀に書かれている。当時の権力者は蘇我馬子で、聖徳太子がどこまでリーダーシップをとって、政治が出来たかは歴史学会でも疑問視されている。

 古事記や日本書紀が作られた頃(712年~720年)、八百万の神を信奉する藤原不比等は、宗教上の敵として、仏教の蘇我氏を歴史上の大悪人としたかった。これは、江戸時代、儒教家達が、儒教と仏教の対立の中で、仏教を広めた聖徳太子を主・崇峻天皇を見殺しにした太子と罵ったのと同じ発想だ。蘇我馬子には、「日本の基礎を作った」という大きな功績がある。不比等は、考えたあげく、厩戸皇子と僧・恵慈の二人の働きをすべて厩戸皇子(聖徳太子)の働きとした。その上で、蘇我馬子の残した実績を、すべて厩戸皇子の実績とした。古事記は太安万侶、日本書紀は舎人親王が主体的に書いたとされるが、実際は、双方とも藤原不比等の指導の下で作成された歴史書である。藤原不比等は準備段階として、厩戸皇子をスーパーマン的人物として描いた。厩戸皇子は、馬小屋で生まれたので、「厩戸皇子」と呼ばれたとされるが、天皇の子が馬小屋で出産するわけがない。これは、キリストの伝説を取り入れたもの。厩戸皇子の誕生日は1月1日、可能性としてはあるが、古代ローマの神々の誕生日はすべて1月1日であることを考えると、古代ローマの神になぞらえて1月1日としたと思われる。厩戸皇子は18歳の時に外出して人間の無常を知ったとされる。これは、ゴーダマシッタルタ(釈迦)が四方の門から外出して人間の無常を知って出家したという話を引用したもの。当時の皇太子は、天皇の後継者であると同時に最高の執政者(総理大臣)だ。皇太子であれば摂政職など必要ない。藤原不比等は、摂政であった厩戸皇子を虚飾するあまり、皇太子かつ摂政とした。官位の面から厩戸皇子を虚飾するのであれば、摂政職を削除し、皇太子としなければならなかった。皇太子かつ摂政というのは、実に奇異な組み合わせであり、不比等は、ここを見落としていた。

 聖徳太子と言う名は、厩戸皇子の死後100年ほどして付けられた漢風諡号だ。漢風諡号は、日本書紀完成後、30年ほど経った750年頃に、淡海三船によって付けられたが、淡海三船は、数々の資料を参考に実体に則した諡号を各天皇や皇子に付けている。厩戸皇子に関しては、日本書紀にある厩戸皇子の実績を見て、最高の諡号である「聖徳」の名を付け、その肩書きをみて「太子」と付けたと思われる。記紀以外の資料には、「厩戸皇子が皇太子であった。」とは書かれていない。日本書紀には、系譜と分注の2カ所に「聖徳」の名が見えるが、これが、日本書紀完成時からあったものか、後世付け加えられたものかは不明だ。日本書紀完成時から着いていたものであれば、淡海三船は、これを参考に「聖徳太子」と銘々した可能性もある。日本書紀の中で書かれる「聖徳」という諡号は、藤原不比等によって付けられたものと推測される。

 聖徳太子についての日本書紀の記述も偏っている。聡明勇敢で、進取の精神に富み、超能力をもち、語学などには格段の能力を示したとある。日本書紀は、聖徳太子について誰が見てもすぐに嘘と分かるような書き方をしている。一度に10人の話を聞くことができたことから、「豊聡耳(とよとみみ)皇子」とも書かれ、当人の宮号から「上宮太子(かみつみやたいし)」という呼び方もされる。このように名を2つ以上もつ皇子は、中大兄皇子(別名、葛城皇子)の例もあり、歴史上なぞの多い人物だ。中国には、650年ごろに、「景教」というキリスト教の一派が来ており、日本書紀の編者は、700~720年ごろの人だから、キリスト教の知識もあったと思われる。 
 厩戸皇子(聖徳太子)が、政治家として歴史上に出てくるのは、敏達天皇の后である額田部皇女が天皇(推古天皇)になった時で、この推古天皇は、崇峻天皇が暗殺されたことにより、天皇になった人だ。推古天皇は、兄、敏達、用明とおなじく欽明天皇の子だ。敏達の后になっているが、敏達と推古では、母親が違うため、当時の結婚としては許された。同母、兄妹は結婚できない。恋愛関係になるのも許されなかった。646年頃、中大兄皇子とその妹・間人皇女は恋愛関係にあった。この二人は同母異父の兄・妹だったので非難の的となった。
日本書紀によれば、592年、崇峻天皇は、父の欽明天皇の時に失われた任那日本府の奪還のため、2万の軍勢を九州に集結させた。新羅を攻めるためだ。崇峻天皇自身も総大将として九州に赴いた。任那日本府の奪還は欽明天皇の遺言であり、敏達、用明天皇もそうであったが、崇峻天皇の時に試みられた。しかし崇峻天皇は九州で暗殺される。崇峻天皇は、蘇我馬子の姉・小姉君(父は欽明天皇)の子であり、蘇我馬子の甥にあたる。推古女帝は、蘇我馬子の姉・堅塩媛(父は欽明天皇)の子で、蘇我馬子の姪にあたる。

 長い間、続いた蘇我氏と物部氏の宗教戦争は、最終的には双方の権力闘争だった。蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻)を擁立し、物部氏は穴穂部皇子(崇峻天皇の兄)を擁立して全面戦争になる。厩戸皇子も14才でこの時の戦争に蘇我馬子とともに参戦した。587年、蘇我馬子は勝利し、泊瀬部皇子を天皇にする、崇峻天皇である。その後、蘇我馬子は崇峻天皇の下で徐々に権力を持つ。蘇我馬子の政治方針は、朝鮮勢力(百済、新羅、高句麗)からの離脱である。欽明天皇の遺言である「任那日本府奪還」には消極的で、朝鮮には兵を送りたくなかったが、崇峻天皇は、即位後、父・欽明天皇の遺言を達成すべく、朝鮮半島の派兵に熱心だった。即位5年後の592年、2万の兵を九州に結集し、新羅討伐を実行しようとした。そして崇峻天皇は、九州で何者かによって暗殺される。日本書紀には、蘇我馬子の指示によって東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)が崇峻天皇を殺したと書かれている。この暗殺は朝鮮出兵反対の行動であったが、崇峻天皇を暗殺し得する人は、標的になっている新羅と崇峻天皇の次に天皇になれる皇子達だ。ところが、日本書紀が犯人だと記している東漢直駒は、これには該当しない。しかも、東漢直駒は暗殺事件の直後、蘇我馬子の娘(河上姫;かわかみのいらつめ)との不倫が発覚し、蘇我馬子によって処刑されている。日本書紀には、河上姫は「ある高貴の人の妻」としか記されていない。一説には、河上姫は崇峻天皇の后との説もある。東漢直駒は蘇我馬子の家来だった。蘇我馬子の娘には、刀自古娘(とじこのいらつめ)という人がいたが、厩戸皇子の妃であった。この刀自古娘と河上姫は、同一人物という見方が古くからある。東漢直駒は、厩戸皇子の妃と不倫関係になり、蘇我馬子により殺されたのだ。東漢直駒は、崇峻天皇を殺すような立場の人ではなかった。九州まで赴いて、崇峻天皇を殺したのは、厩戸皇子を含めた蘇我馬子の刺客である。指令を出したのは蘇我馬子だ。名実ともに総大将として新羅に戦闘を開始しようとしている崇峻天皇を暗殺できるのは、当時、蘇我馬子をおいて他にない。

 朝鮮半島への出兵に反対していた蘇我馬子は、崇峻天皇の暗殺しか、他に方法がなかった。次期の天皇を約束して厩戸皇子を味方に付け、崇峻天皇暗殺を計画した。後年、厩戸皇子は、法隆寺を創建してまで、崇峻天皇の菩提を弔っている。厩戸皇子が九州に赴いている間に東漢直駒と刀自古娘の不倫関係は発展した。この不倫関係は、厩戸皇子が帰って、すぐに発覚した。激怒した厩戸皇子は、東漢直駒の処分を蘇我馬子に迫る。ただちに東漢直駒は捕縛され処刑される。東漢直駒の後を追うように刀自古娘が自害する。厩戸皇子は、大きな衝撃を受けた。厩戸皇子は、崇峻天皇殺害と妻の裏切りで精神に異常を来す。日本書紀には、厩戸皇子の病気のことは書いてないが、伊予風土記には厩戸皇子が病気療養のため道後温泉に僧・恵慈とともに来たと書かれている。

 日本書紀は、東漢直駒を崇峻天皇の暗殺者としながら、その後の顛末については、「河上姫を横取りした罪で、蘇我馬子によって処刑された」と記録している。蘇我馬子としても、大きな誤算があった。崇峻天皇暗殺後は、厩戸皇子を天皇にする予定であった。ところが、厩戸皇子は、病気(ノイローゼか)政務がとれなくなった。崇峻の殺害、妻の自殺と続けて地獄を見た厩戸皇子は廃人同様となる。次の天皇候補としては、竹田皇子がいたが、病弱でほとんど政務は執れない。そこで、敏達天皇の后で竹田皇子の母である額田部皇女が即位する。額田部皇女は、厩戸皇子の叔母で、厩戸皇子を小さいときから面倒みていた。厩戸皇子も額田部皇女を深く信頼していた。これが推古天皇(女帝)である。蘇我馬子は、一貫して朝鮮出兵に反対している。当時の日本は、各地に朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の植民地があり、朝鮮の戦争の度に武器、食料の調達が行われていた。朝鮮の三国の果てしない戦いに蘇我馬子は嫌気がさしていた。蘇我馬子は、欽明天皇の遺言であっても任那日本府を取り返す気はなかった。後に、摂政となった厩戸皇子が、再度朝鮮出兵を実行するが、蘇我馬子は阻止する。結局、蘇我馬子、蝦夷、入鹿3代の蘇我時代には、日本から朝鮮への出兵は行われなかった。

 日本書紀では、崇峻天皇が暗殺された翌年、593年に推古女帝が即位し、厩戸皇子は摂政になったことにしているが、厩戸皇子は摂政になれる状態ではなかった。厩戸皇子は、四国の道後温泉で闘病生活を送っていた。この時期、誰が帝位についても、実際の執政者は蘇我馬子であり、摂政職は必要なかった。摂政職が置かれたとしてもその仕事は、天皇と蘇我馬子との連絡係程度の仕事だった。595年、高句麗から僧・恵慈が来日、目的は、日本から高句麗の対隋、対新羅対策の支援をとりつけること。恵慈が日本に来る6年前、589年、中国に巨大な国家が誕生、隋の中国統一である。隋は勢力を朝鮮半島、特に高句麗に向けようとしていた。そのうえ、僧・恵慈が来日する1年前には、新羅が隋に使節を送っている。高句麗は、隋と新羅の挟み撃ちに合うことになるため、高句麗は日本を見方につける必要があった。蘇我馬子は、僧・恵慈を側に置くことはしない。朝鮮半島の戦闘に巻き込まれたくはなかった。蘇我馬子は、新羅と同様に隋に使節を送りたかった。日本を中国の冊封体制の中に組み入れ、日本を朝鮮から独立させたかった。馬子は、恵慈を医者として、厩戸皇子の仏教の師として見込み、道後温泉に送る。厩戸皇子は恵慈に付いて仏教を勉強したと思われる。この僧は、普通の僧ではなく、政治・外交に威け、北方民族系の習慣を持つ。恵慈は厩戸皇子とともに、政治の表舞台に出ることになる。600年、蘇我馬子は、隋に使節を送るが、全く相手にされない。

 日本の使者は国書もなく、使者の身分も明確でなかった。使者は、帰国して、中国で受けた屈辱を語る。これに対し、蘇我馬子政権内には、的確な答えを出すものはいない。タイミング良く適切なアドバイスをしたのが、健康を回復して飛鳥に戻っていた厩戸皇子である。皇子は、恵慈の教えにより、国体(天皇制)の確立、身分制度の確立を提案、その後、遣隋使の派遣を提案する。国体の確立とは、天皇中心とした国家運営のありかたで、具体的には公務員規定ともいうべき「十七条の憲法」の制定であった。身分制度の確立とは、日本の豪族を中心とした「冠位十二階」の制度である。後世、聖徳太子の業績と言われる数々の事績は恵慈によって発案された。これらの提案は、蘇我馬子に受け入れられたが、厩戸皇子の処遇について馬子は悩む。厩戸皇子は、四国に湯治に行く前は、馬子の言うことをよく聞き入れた。厩戸皇子は四国にいる4年の間に、すっかり変わっていた。一つは、仏教徒となっていたこと、もう一つは高句麗の僧・恵慈の影響で、反新羅思想に染まっていた。馬子としては、仏教徒としての厩戸皇子は許せるとしても、欽明天皇の遺言を、金科玉条のごとく掲げて、再度新羅に攻め込もうと主張する厩戸皇子に対しては危機感を抱く。馬子は、厩戸皇子の病気が回復したら、天皇にするつもりであった。厩戸皇子の病気中は、一時的に叔母である推古女帝を置いた。馬子は、厩戸皇子に危険を感じ、厩戸皇子を天皇にすることを断念する。その代わり、遣隋使の推進者として厩戸皇子に「摂政」のポストを与え、恵慈をその相談役とした。馬子は、厩戸皇子を皇太子にもしない。皇太子にしていれば、摂政にする必要はない。しかし、厩戸皇子は摂政就任早々602年新羅討伐軍を編成し九州に兵を集結させた。総大将は、厩戸皇子の実の弟・来目皇子(くめおうじ)、事態に驚いた馬子は、厩戸皇子に出兵の中止を申し込んだが聞き入れられない。馬子は、意見を同じくする豪族と計らい、崇峻天皇の時と同じく来目皇子を殺す。厩戸皇子は、来目皇子が死んだと見るや、今度はその下の弟・当麻皇子を総大将にして新羅征伐計画を進める。馬子にとって都合のよい事態が起きる。当麻皇子が九州に赴任中に当麻皇子の后が亡くなる。馬子は、事態を急遽九州の当麻皇子に知らせ、新羅討伐を中止させる。厩戸皇子は、新羅討伐を断念し、かねてから思案中の国体改革に専念する。

 厩戸皇子と恵慈は、602年に「冠位十二階」の制度を施行する。翌603年、「十七条の憲法」を公布。この時、国体にとって、最も重要な国名の制定もしたと考えられる。その名前が「日本(ひのもと)国」であった。607年、小野妹子を長官とする遣隋使を派遣。この時の国書が「日出ずるところの天子、日没するところの天子に申す。恙なきや」で始まる。隋の煬帝は、「天子」と言う言葉に激怒する。日本の国書は、「隋と敵対している日本から隋の皇帝に国書を送る」という形式、この国書には恵慈の意志が込められている。すなわち、日本が高圧的な態度で中国の対等外交を要求することで、「東海に大国あり」との認識を隋に与え、高句麗と隋との関係を少しでも有利に持っていこうとするものだった。隋と日本が敵対関係になり、日本が高句麗の味方をしてくれれば、恵慈の目的が果たせる。しかし、事態は、そうならなかった。

 一時は、激怒した隋の煬帝だが、朝鮮半島への進出を考えると当面は日本を味方に付けておいた方が得策と考えた。この2回目の遣隋使、厩戸皇子と恵慈で作り上げた隋への使節団は、厩戸皇子の期待通り、隋の使者・裴世清を伴って帰国する。国書紛失の問題、裴世清の身分の問題などはあったが、日本と隋との関係が開かれた。新羅に一方的に隋の国力を背景に攻め込まれることはなくなる。厩戸皇子と恵慈は、翌年、裴世清が帰国する時も小野妹子を付けて帰国させている。再度朝貢することにより日本と隋との関係を一段と強化する。日本書紀には、600年の第一回目の遣隋使のことは書かれていないが、隋書には書かれている。607年の第2回目の遣隋使が、日本から見た第1回目の遣隋使と言うことになる。612年、隋が高句麗を攻める。高句麗は鴨緑江のほとりで、これをくい止める。大規模な攻撃は3回(612年~614年)高句麗の領土を脅かした。高句麗軍は、これを防ぎ、第2回目の攻撃の時は、隋側の総大将に負傷を追わせるほどの善戦だった。これらの戦局は、百済、新羅、日本に逐一報告された。618年、隋は滅ぶ。直接の原因は内紛だが、3回に亘って高句麗を攻めて失敗したことが煬帝の大きな失点となる。同年、中国には超大国「唐」が誕生する。蘇我馬子は、おおいに慌てる。

 新羅対策で、つきあい始めた隋が高句麗の遠征に失敗して滅び、高句麗の意気は上がり、国内では、馬子に失政の責任を問う雰囲気になる。馬子は対隋政策の失態を厩戸皇子と恵慈に負わせる。厩戸皇子と恵慈は、政治から遠ざけられ、対中国外交、国内の改革など、厩戸皇子と恵慈のすべてが見直される。厩戸皇子は法隆寺に引きこもる日々となる。厩戸皇子が創建した法隆寺は今の法隆寺ではない。今の法隆寺の中門の前の畑の中に、若草伽藍が発掘されているが、これが厩戸皇子が創建した法隆寺だ。法隆寺は、607年厩戸皇子が摂政になって、斑鳩の地に創建された。場所は崇峻天皇が眠る「藤ノ木古墳」の東350メートルのところ。厩戸皇子は、以前から、自分と戦い戦死した穴穂部皇子と自らが殺した崇峻天皇の慰霊を弔いたかった。暗殺された崇峻天皇の遺骸は九州から飛鳥に運ばれ、現在、藤ノ木古墳と呼ばれる地に埋葬された。このことは日本書紀には記録されていない。法隆寺には古くから「藤ノ木古墳」は、崇峻天皇の陵という伝承がある。また、被葬者は、青年男子2人が埋葬されているが、一人は崇峻天皇、他の一人は物部守屋とともに蘇我馬子と戦った穴穂部皇子(崇峻天皇の兄)の遺骸と推定される。厩戸皇子は、自分のかっての敵であった穴穂部皇子と崇峻天皇の御霊を鎮めるために藤ノ木古墳のある斑鳩に法隆寺を作った。厩戸皇子と恵慈の失脚後は、馬子によって朝鮮半島諸国に対して等距離外交を開始、朝鮮半島の内紛には関知せず、任那日本府の奪還は考えないことになる。馬子は、厩戸皇子の新しい仕事として、天皇系譜と国情を明確にするため、帝記、国記を編纂することを命じた。これ以降は、馬子は、国内問題に専念すると同時に朝鮮への進出(回帰)ばかり考えてきた欽明王朝に代わり、自身が日本国内をまとめてゆく決心をする。このあたりから(620年頃)、実質的な蘇我王朝の始まりとなる。

 蘇我氏の出身は百済と言われる。それに対して、欽明王朝は南朝鮮の金官国(王の出身が任那)と言われる。金官国は、532年に新羅に滅ぼされるが、欽明王朝はその亡命政権であり、わずかに残った金官国の一部が任那日本府とされる。562年、その任那日本府も新羅に奪われると欽明王朝は任那奪還に全勢力を注ぎ込む。兵役に苦しむ日本各地の豪族から非難の声が挙がるが、欽明天皇、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、厩戸皇子などの欽明王朝の天皇や皇子は、全く耳を貸さなかった。これが欽明王朝を衰退させた。

 621年、新羅が、初めて朝貢した。562年に任那が滅んでから、実に60年ぶりの朝貢である。これ以降、新羅と日本は、馬子の等距離外交の中に入り、馬子の外交方針が正しかったことを国内に印象づける。これに対し、厩戸皇子は反対した。欽明王朝最後の任那奪還派であった厩戸皇子は、日本と新羅が仲良くすることは絶対に許せなかった。新羅とも良好な関係を保ってゆこうとする蘇我馬子は、最後の暗殺者を厩戸皇子に向ける。暗殺者は、厩戸皇子と第三夫人である膳部夫人(かしわでふじん)に毒を飲ませる。膳部夫人は翌日に死亡し、厩戸皇子は、翌々日に死亡。厩戸皇子49才のことであった。日本書紀は、厩戸皇子の最期について、「厩戸皇子は、膳部夫人と共に床に着いたが、二人ともそのまま起きてこなかった。」と記している。つまり、厩戸皇子は、自殺又は殺されたと推定される。厩戸皇子の生涯を通しての願いは、仏教国家の建設でもなく、日本の独立でもない、それは欽明天皇同様、任那日本府と旧地・南朝鮮の回復であった。この願いは欽明王朝50年来の宿願であった。厩戸皇子の朝鮮出兵準備(602年)は、欽明王朝最後の任那日本府奪還のチャンスだったが、任那日本府の奪還を諦めることになり、厩戸皇子の願いは達成されないまま毒殺された。

 厩戸皇子の遺骸は、馬子の計らいで、前年に亡くなった母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとこうじょ)と同じ墓に膳部夫人とともに葬られた。厩戸皇子の葬儀は、恵慈によって執り行われた。葬儀の方法も高句麗形式だった。高句麗出身の恵慈のやり方で葬儀が行われたため、北方系の葬儀形式になった。厩戸皇子は、生前、チーズ(醍醐)、乳製品を好んで食べたと言われるが、恵慈の食事のために厩戸皇子の領内から調達した。厩戸皇子自身も同じものを食べたと推測される。恵慈と厩戸皇子は混同して伝えられ、それが後世、厩戸皇子が北方系の人であったかのような印象を与えた。


1 コメント

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こんな意外な人物だったとはね。 (E.T)
2013-01-17 11:10:35
聖徳太子って、こんな人物だったとは驚きですね。歴史を知るって、これまでのイメージとは一変するほどの衝撃です。
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