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武装した兵士、警官(2014年4月撮影・エッフェル塔)
この乱射事件は宗教戦争では無い。表現の自由を脅かすものでも無い。聖戦?ふざけるな
犯人たち、彼らは社会の底辺にいる人間たち。職が無く貧しい。そういった階層の中で、将来に希望が持てない人間たちの不満の暴発が、今回の乱射事件だ。近代文化への逆恨み。自分たちが職に就けないのは、また自分たちが貧しいのは西洋文明が悪い。だから西洋文明を否定する。宗教を風刺する新聞社が格好の標的となって襲撃された。要は、世界の注目を浴びたい、英雄になりたいのだ。本当は自己満足のための殺人、快楽殺人と言ったところだ。宗教の崇高さは一辺足りとも無い。キチガイの仕業だ。
事が大きく報道されているのはフランスの首都パリで起こったからだ。
この出来事で埋もれてしまったニュースがある。
10日、ナイジェリアの市場で10歳前後の女児に装着された爆発物が爆発し19人が死亡。また、11日、同じく人々で賑わう市場で15歳の少女と女が自爆し、4人が死亡。彼女たちは「自爆ベスト」と呼ばれる爆発物を着せられていた。女児たちは体に何を装着されているか知らない、そして右も左も分からないままに連れてこられて市場で解放される、それを見届けた犯人は遠隔操作で爆発させる。
人のする事では無い。酷いとしか言いようがない。何のために何の罪もない子供たち、住民たちが犠牲になったのか?ナイジェリアの土人たちは、テロによって国民に恐怖を植え付け、力を誇示したいのだ。テロを繰り返すのは、テログループの主導権争いの一環として国際的な注目を集めたいがため。互いに派手なテロを起こすことで存在感を示そうとしている。何ともお粗末な目的だ。余計に亡くなった方々が無念
私は、人は善でできていると信じている。しかし、人は弱く貧困や憎悪で心が折れる。個人が善の意思を持っていても、集団となると、より先鋭化(狭く)された形で意思決定がされる。フランスの貧しい男も、ナイジェリアの土人も宗教を笠に着た集団となると、より過激な思想に流される。それが人間なのだ。
宗教の経典では、神を愚弄する人間には天罰がくだされると書いてある。しかし、神は人間同士の争いには見て見ぬ振り、経典には人間同士で試練を乗り越えよと書いてある。神様は都合が良すぎやしないか、そして残酷だよ
犬のように殺された人たち、その家族、関係者に何と言葉を掛けたらいいのだろう
私は暴力には屈しない。心ある人なら暴力には屈しないで欲しい。亡くなった人たちへの、せめてもの手向けです
※イスラムに付いて分かる範囲で書いた記事があります。聖戦についても。長文で面倒ですがよかったらどうぞ