moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

オリンピックを見ながら

2004-08-30 | エッセー(雑文)
オリンピック競技が葬礼祭典競技に由来するという説があるらしい。
その葬礼祭典の起源は死者の復讐を満足させる贖罪のための決闘裁判ということらしいが、
今回のオリンピックは祝祭的呪術性が強く反映していたような印象をうけた。
それぞれの競技団体の姿勢に呪術なシステムが定着したところが、
メダル奪取のための、個人の能力をうまく引き出したように思える。
プロを即席で集めその監督不在という野球
団体分裂のあやうさの中で健闘したテコンドー
参加しただけ?の新体操(ロシアのカバエワの金メダルへの熱意に比べ)
「和」の執念を感じさせるシンクロ、
国技お家芸という自負の柔道、レスリングなど
の差とはなんだったのかと少々考えてしまった。
国際競争における勝敗を象徴したような近年のオリンピックは最新の技術論によって
選手の運動能力を最大に引き出してるかのように見えて、じつは精神性を操作するうえで、
呪術性システムで意識のコントロールを謀ってるように思える。
だからこそ、巧妙なドーピングが選手の中に浸透してることが止められないのだ。
神懸りな力にたいする競技における親和性について再考する必要があるのかもしれない。
それは競技団体と個人の関係をよく見直すということ、個人を呪術性で拘束した中世とはことなり、
近代は個人の能力を効率良く引き出すための技術であり、同時に抑制の技術でもある祝祭的呪術性。
祝祭的呪術性としてのオリンピック
そのシステムは多くの敗者の怨念を鎮めるために、これからも機能しつづけるのだろうか