のんのんエネルギー実験室

マイクロ、オフグリッドシステムを構築していきます。

雨どいの設置作業

2020-10-10 02:37:45 | 日記
雨どいを取り付けています。古いものを貰ってありました。なるだけあるもので済ます。それが我が家流。

相変わらず、海の家の草取りをやっています、とにかく、外堀から埋めていこうという計画です。燃えるゴミも必ず、1個づつは出そうと、気を使っています。

先日の日曜日でした、テレビを見ていました。水俣病に関する補完的な報道がありました。全盲の弁護士の特集でしたが、その中で官僚から弁護士に転じた人が出てきました。

水俣病の患者さん特に漁師の方々ですが、政府に命がけの訴えをするのですが、官僚は見向きもしない、そのことは後で、知りました。私が指宿に帰郷してから。
患者さんの訴えは私が水俣に赴任する前の話でしょう。当時、水俣の様子や会社のやっていることは何も知っていませんでした。

官僚の方が弁護士を目ざした背景、原因ですが、水俣病の患者さんに対する官僚の対応のひどさを見て官僚をやめたということです。そういう人いたということは知りませんでした。

圧力、つまり忖度のようなものが存在したのは今と同じでしょう。その大元にあったのが池田隼人です、今は水俣病の研究が進んでそういうこともはっきりしています。当時、何とか産業大臣、今とは呼称が違っていますので、であった池田隼人が官僚に圧力をかけていた。

当時のことは文章で残っています、まさに命がけの陳情だった水俣の漁師の方々、死んでいく人も、足が曲がりくねった子供も、そういう中での中央政府への訴え、門前払い状態で追い出された、会社は明治時代からの老舗化学会社、当然、政界とは深いつながりがあった。本社は丸の内にあります。

今、指宿で貧乏暮らしをしています、そのことが誇りです、水俣の海を見た時の衝撃は忘れません。背中に冷たいものが流れるのを感じました。海を見てすべてのことが一瞬でわかりました。自分が勤めている会社がどのようなことやっているか、水俣の町がどのような状態に晒されいるか、海が証明してくれました。

もちろん、町中が硫酸ミストの中にあるのは水俣駅を降りた時から感じていました。工場というのはそういうことが当然だろうとは思いつつ会社に行っていました。

水俣病の資料にも書いてないことも知っています、会社も石炭化学から抜け出せず焦っていた、賃金は抑えられ、水俣の経済界は会社の味方、どころか町の人も会社の持ち物を言うほど会社の影響力は大きかった。

街も海も綺麗なった水俣ですが、それが当然の町の在り方で、水俣の人が自慢する日本一の綺麗な街とは思えません。それが当然なのです。

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