春菊の離婚

2005-10-31 22:07:52 | Weblog
 内田春菊がまた離婚したそうであるが。

 まあ、会ったこともない他人の私生活について、
グダグダ感想述べるのは趣味のよいことではな
いとは思う。でもですな、このひと、なんで結婚な
んかするのかと。とことん不思議。

 「事実婚に移行」ってのもなんか無茶苦茶だし。
「戸籍制度に反対」って、なんで自分自身がうまく
いかなかったからといって、それを一般的な意見と
して主張しちゃうのかと。

 このひとに「犬のほうが嫉妬深い」というタマラン
小説がある。もうタマラナイ。立ち読みして本気で
吐き気がした小説というのはなかなかあるもので
はない。つーか、そら女性というのはたいていデリ
ケートかつ自分勝手なものであるから、今の今ま
で好意を抱いていた対象のちょっとした行動、言動
で、好意的な評価が180度ひっくり返るということは
充分にありうる。それを頭にいれて読んでもひどすぎ。
それまで漫画などの中で、「妻の仕事に協力的な理
想的なダンナ」と描いていた夫を、一転して「ここまで
言うのかよ」という感じで徹底的にののしる。それも
「理の通った」罵りではない。ひたすら感情的な、生
理的な反応だけで構成されたようなののしり方であ
る。

 思えば、「今週の困ったちゃん」などという漫画にし
ても、自らを「絶対正しい」の側に置き、自分に不快感
を与える存在を、稚拙な理屈でテッテ的に断罪する漫
画であった。(元夫が、この漫画においては有能な常識
人として描かれていたのもアレである)

 あとは、いちばん最新の元夫について、「事実婚」など
というカッコつけた言い方が、どのくらいでエゲツない悪
口に変化するのか、それが少し楽しみだったりする。そ
して、また飽きずにだれかと籍いれるのかというのも。

お笑いの意味

2005-10-30 21:26:02 | Weblog
 電車に乗っていると、たまに「若干精神に難のあるよ
うに見受けられる方」を目撃するが。

 きょうも後楽園で馬券を買い、松屋で牛丼並盛食べ
て帰宅する途中、上記のような方を目撃した。髪型は
スポーツ刈系の短髪で、地味な色のリュックを背負い、
服装はこれまたくすんだような色のジャンパーにジー
ンズ、視線は落ち着くことなくキョロキョロとし、にたにた
笑いを四角い顔に浮かべつつなにかをぶつぶつつぶや
いている。それでいてガタイは頑丈そうで、ガッチリした
体で身長は180を超えている。見た目20代後半から30
というとこであろうか。典型的な方であった。

 こっちも、「ああそういう方なんだ」という認識で、スポ
ーツ新聞を読んでおった。なるたけ視線を合わさないよ
うにする努力。小市民としてのわたしの器の小ささはこ
ういうとこにも出る。

 で、そのうち大きな声でひとりごとをおっしゃり始めた。
それも、「駅の構内アナウンスのマネ」ならば、こっちも
「あたり前のこと」として聞き流すこともできたのであるが、
この方のひとりごとはちょっと違った。

 「ど根性がえる~。ど根性がえる~。山之内製薬ぅぅ~」

 あまりの衝撃に息がとまりそうになった。いや、このオカ
シサを文字で伝えようとすることは誤りだとは思う。つーて
も他に手段がないのがもどかしい。前の席に座っている、
大学生風の若い女性が、笑いをこらえて窒息しそうになっ
てるのを見、さらにオカシサが倍増。そしてとどめに「滋養
強壮~、滋養強壮~」

 もーほんと、あの瞬間あの方は完全に車内を支配してい
たと思う。間違いなく。

 「笑い」に関して、古来よりさまざまな哲学者がその原因、
要因を語っているが、きょうの「ど根性がえる~」があまりに
もオカシカったのはなぜだったのか。「電車の中の知的障害
者のひとりごと=電車のアナウンスのマネ(つぎは~どこそ
こ~、どこそこ~、××線ご利用の方はお乗換えください~、
という例のアレ)」という固定観念が、あまりにも意表をついた
単語(今回の場合はど根性がえる)でつき崩されたためだと
思う。シュールな漫画(中川いさみや中崎タツヤ)の面白さと
いうのが、この「意表をついた単語・概念による固定観念の
突き崩し」だと思うのだ。

 しかし「笑いの分析」をしても、それを応用して「面白い文」
がかけるわけではない。あの「精神に難のある方」を超越す
る笑い話を、なんとか創作してみたいものである。

常識について

2005-10-29 06:12:01 | Weblog
 出入りのキャバクラに、たまに場内をいれるねーちゃ
んがいる。

 キャバクラでの益体もない会話の定番として、生ま
れ故郷の話というのがある。「出身どこ?」「××」
「へー。そーなんだ? ××っていえばあたし(あるい
は俺)・・・」てな会話は、北は北海道南は沖縄の、あ
らゆるキャバクラ、スナックでかわされている会話であ
るが。

 その、たまに場内いれる娘さん、出身は高知県とのこ
と。高知についてわたしが知ってることといえば・・・・
「高知っつーても、俺行ったことないしなぁ。知ってること
といえば、坂本竜馬と、あとは西原理恵子くらいだなぁ」
「サイバラ? だれそれ?」

 ビックリした。サイバラの、デビューして20年で築き上
げた、山アリ谷アリの素敵な人生と栄誉を、「だれそれ」
というひらがな四文字でたたきつぶすキャバクラ嬢。高知
県民、しかもオッサンやオバハンならいざ知らず、20代
前半の若い高知出身の女性で、サイバラを知らない人間
がいようとは。書店に行けば本は常に平積み、恨ミシュラ
ンの成功以降はむしろ「お笑いもできる文化人」にシフトし
てきてるサイバラ先生である。いまや高知県民の星では
ないのか。

 ・・・などと、高知に関してまったく知識のない脂ハゲは
かように考えていたのである。こういうのを「無知の勝手
な思い込み」という。

 「類は友を呼ぶ」という。漫画好きの周囲にはやはり漫
画好きが集まる。わたしも漫画は好きな方なので、周囲
にはやはり漫画好きが多い。だから、「サイバラ理恵子の
知名度」というのは、わたしの周囲の友人に限っていえば
ほぼ100%なのだ。で、わたしの頭の中で、「自分の周
囲限定の常識」が、いつのまにやら世の中一般にまで広
がってしまった、ということなのだとろう。

 よく考えてみれば、さくらももこなどと違って、アニメが当
たっていなければ、漫画家の知名度というのはそうそう高
まるものではない。ましてや、出身地と知名度というのは、
そうそうリンクするものでもない。町田の久美堂という書店
には、「町田在住作家コーナー」という一角があるが、わた
しの知ってるひとなどほとんどいない。そんなものなのだ。

 「限定的な常識」を、世間一般にまで広げてしまうこと。
結構弊害も多そうである。注意注意。

休みの意味

2005-10-27 22:32:37 | Weblog
 世にいる平均的な42歳と、わたしとではだいぶ立
位置が異なることはわかってはいたが。

 きょう職場で、休みの過ごし方などが話題になった。
ひとり者のわたしにとって、「休暇」とは完全に自由な
時間であり、朝はだらだらと布団の上で横になり、午
後からは足の向くまま気の向くまま、ふらふらと彷徨
するというのが標準的な休みの過ごし方なのだが、
職場の、30代後半から40前半の標準的なオッサン
とは、根本的に休みの意味が異なるのであった。

 要するに、彼らは「なにかをするために休暇をとる」
のであって、「なにもせずに休む」ために休暇をとるの
ではない、ということである。

 「所帯を持つというのはそういうことなのか」と、いま
だヨメが来ない42歳脂ハゲはかように考えるわけだ
が、しかし、「常に家族という他人のために生きる」の
はツライことであろうなと。いや、「他人のために生き
る」ということに、ある種の快感があるのは理解できる
のだが、それが24時間、365日続くとなればやはり
辛いと思う。

 結婚生活の愚痴というのは、そういうところから生ま
れるのであろう。隣に座っているオッサンに、「じゃアレ
ですね。休暇とって、家族にそれを言わず通勤時と同
じ時刻に普通に家を出て、そのままふらふらと足の向
くまま遊びに出れば、気が休まるかもしれませんね」
と言ったら、前の席に座っているオッサンが間髪いれ
ずに、「わたし、たまにそれやってますよ」と。ひとり者
の無邪気な冗談が、たまに核心つくから油断がならな
い。

 ひと昔前なら、家族が会社に電話いれたりしたら一発
でバレ、大変なことになるんであろうが、携帯電話が普
及した現代、そういう事態が起こる可能性は極めて少な
い。「あれ、会社にしては騒がしくない?」「ああ、今外回
りの途中なんだ」ですべてが納得されてしまう。携帯電話
というのは所帯持ちのオッサンの、秘密の休暇にも役立
っているのである。

 しかし、一生を所帯持たずに終える可能性の極めて高い
わたしにとって、「秘密の休暇」などというのは無縁のもの
である。まあ、布団の上の至福を当分味わえるというのは、
少なくともわたしにとって幸福なことであるのは間違いない。

捨てられない性格

2005-10-26 22:28:20 | Weblog
 しかしモノが捨てられない、この性格はなんとかな
らんかと思う。それも有形のモノだけでなく、無形の
モノなかなかも捨てられない。例えばメールとかも。

 携帯の受信メールに関して「もうすぐいっぱいです
よ」サインが出た。仕方なく古いメール(二年も前)を
削除しはじめたのだが、それでもいちいち読みなが
ら消去している。結構とっておくメールがあったりす
るのがアレである。それよりもっとアレなのは、この
二年、わたしにメールを送ってくれた人間のほとんど
がキャバクラのねーちゃんだ、ということである。

 以前使用していたフリーメールが閉鎖されたとき、
受信メールを全部フロッピーに落としたことがある。フ
ロッピーに保存したからといって、わざわざそのメール
を見る、ということなどしたことはない。失ったからとい
って大きな影響のあるメールではないのだ。それでも
保存せずにはいられない。「捨てようと思えばいつで
もできる」 こう考えることこそが捨てられない性格の
あらわれ。捨てる人間は、こんな理屈を頭の中に作り
上げる前にモノの始末をしているのだと思う。

 物心ついてからこのかた、本を捨てた記憶がない。し
かも古本屋にたたき売った経験もないのである。捨てる
のは雑誌のみ。これでは、四畳半ひとつが本の山でつ
ぶれるのも当然であろう。

 買った記憶はたしかにあるが、部屋のどこにあるかよ
くわからない、という書籍が相当数ある。読みたいとき
すぐに手にはいらなければ、そんな本は「持ってない」
のと同じである。・・・・わかっちゃいるが整理ができない。
わたしの「整理能力の欠如」というのはほとんど生来の
ものなのである。ちょっと弁解口調ではありますが。

 とりあえず、最近書籍はあまり買っていない。読むに
値する面白い本はないか。やっぱりゲッツ板谷の本が
いいなぁ。このツキヌケぶりは、そうそうマネができるも
のではない。ゲッツ板谷、わたしの1歳下。わたしが町
田市の高校でグータラしていたとき、板谷氏の地元、立
川ではこういう諍いが絶えなかったというのが衝撃的。
町田というのは存外ぬるい街だったのかしれない。

陰謀論について

2005-10-25 22:28:03 | Weblog
 しかし昨日は有給休暇、地味であるが土日月と3連休、
ゆっくり休んだ後の出勤が今日であった。仕事がややたま
っているのは想定の内であったが、工場の人間が積算を
誤り、そのケツぬぐいでやはり残業であった。疲れたよ疲
れたよ。

 歯車がうまく噛み合わないときというのは、次から次へ
と物事がギクシャクしてくる。なにをやってもババを引き、う
まくいかないこと夥しい。人間こういうときは弱気になり、う
まくいかない原因を己でなく他者に求めてしまう。弱気だか
らこそ、自己を見つめ原因を求めるなどという、極めて真っ
当なことをすると、自信喪失で死にたくなるからだ。

 かつて、陰謀論の本が書店に満ち満ちていたことがあっ
た。ユダヤの秘密組織やらフリーメイソンやらが世界を支配
し、そのためにさまざまな陰謀をはりめぐらせていると主張
する本。ああいう眉唾な本を喜んで買う人間とはどんな種類
の馬鹿なのかとかねがね思っていたが、今日はなんとなく
理解ができる。原因を自分以外のモノに求めたほうが楽だか
らだ。

 最近、ユダヤ陰謀論もフリーメイソン陰謀論も、書店におい
てはあまり見ない。理由は多分、陰謀論の対象が中国とコリ
アに移ったからであろう。さていつまでこの「東アジア陰謀論」
が続くのか。ネット上に幼稚な右翼まがいが跳梁跋扈してい
る昨今、しばらくはこの流れが続くのかもしれない。

分類する楽しみ される不快さ

2005-10-24 21:44:35 | Weblog
 自分以外のモノ、人間を、一定の基準に従って分類し
ていく行為というのは結構楽しい。

 こういう書き方をするとピンと来ないかもしれないが、よ
くある事例としては血液型性格診断。ひとを「血液型」と
いう特定の基準によって分類し、「○○さんはA型だから
云々、××さんはAB型だから云々」てな具合に性格を
判断していく。まともな科学者がこの方法に賛意を表して
いるのは見たことがないが、21世紀の今日までこの方
法はすたれていない。つーか、まだまだ全盛。「わたしっ
て×型だから○型のあのひととは性格合わないの」など
と、真面目に語るアホウはむしろ多数派。

 このような安易な性格診断がすたれないのは、冒頭の
「分類する楽しさ」を、たやすく実現させてくれるからであ
ろう。森羅万象を、ある規則に従って分類・整理していく
のは学問の根源である。「血液型」という、だれにでも理
解できる基準でひとを分類し、「A型だから几帳面で真面
目」などという結論に導く。なんとなく科学的な感じがする
から不思議である。

 本来の科学であれば、「A型だから云々」の部分を、ある
程度の数の標本を集めてそこから共通性を導く、というくだ
くだしい方法をとらねばならないが、そこが疑似科学の擬
似たる所以、緻密な方法をとらずに結論に邁進する。だか
ら結論が安易極まりないものになるわけだが、信奉者は
分類する喜びにとらわれて、そこまで頭がいくことはあまり
ないのだ。

 しかし、こういう安易な方法で分類される側としたら、あま
り愉快な話ではない。ひとにはさまざまな属性があり、血
液型というものはそのうちのひとつに過ぎない。そこにだけ
注目されて、「あなたはA型だから云々」といわれることは、
他の、より大切にしている属性を無視されることにもなるか
らだ。

 もちろん上記の部分の「血液型」を、「出身地」や「国籍」
に読み替えても話は通ずる。「個々の属性をいくら集めて
も、全体とはならない」ということなのかもしれない。

口内炎日和~秋の競馬場編

2005-10-23 21:51:24 | Weblog
 昨日は口内炎にもかかわらず競馬場。競馬場でのわたしと
いえば、ゴール前で騎手の名前を絶叫していることが多いわ
けだが(「淳一ぃぃぃっっ、差せぇぇぇっっっっっ!!!」のたぐ
い)、口内炎で口を開くこともままならぬ状態、今日くらいは静
かにレースを見るかと思ったものの、なにせ長年の習慣、ここ
ろの底からこみあげる衝動を押さえるのは誠に難しく、結局は
いつも通り騎手の名前を叫んでしまった。といっても口内の激
痛を耐えるのもまた困難で、口から出た言葉は「かうはうぅ、あ
えぇぇぇぇっっっ!!」。ちなみに翻訳すると「勝春ぅっっっっ、差
せぇぇっっっっ!!」であり、周囲の人間が見たなら、「言語障
害のひとがその障害にもかかわらず競馬観戦の夢を実現した」
と思えたシーンだと思う。TBSあたりがドラマ化してくれるかも
であります。

 しかし競馬場って所は、普段ならなかなか見られない人間の
「業」がかいま見られる空間であります。

 素人が小説やシナリオ書くと、「あまりにも説明的な台詞」とい
うのが頻出して鼻白むことがあります。いや、素人ばかりとは限
らず、プロでも橋田寿賀子とかこの手の台詞を思い切り活用しま
すな。自らの置かれた状況、あるいは人物紹介、感じたことなど
を事細かに台詞としてしゃべる。「えー、あなたがあの年商百億、
業界でも5本の指に入る××産業の社長の息子さんだったんで
すか!?」なんていうのが具体例。現実に、こんな事細かな説明つ
けくわえる人間がいるわけはない。そんな訳で、こういう台詞は
シナリオにおいて評価が低くなる理由となるわけですが。

 競馬場においては、この手の説明的な台詞がとびかっていて、
しかも猛烈なリアリティをもっている。「いやー、3連複1万円買っ
てたけど、人気二頭のからみだから、たいしてつかないな」 こう
いう台詞を、ひとりごととして言っているジジイが、それこそ佃煮
にできるほどいるのが競馬場なのだ。

 高額配当の出たレースのあとなど、「惜しかった」オヤジが大
発生する。「最後の最後で迷ってこの馬切っちゃった」とか、「5
は買ってたんだよ5番は。でも2がくるとはなぁ」とか。どこが「惜
しい」のかよくわからず、話だけ聞いてると真っ向からはずしてる
んじゃねぇか、とも思えるのだが、本人にとっては「惜しかった。
もうちょっとでとれてた」というのが実感なのであろう。

 その日の最終レース、3連単で公営ギャンブル史上最高配当
という、1800万馬券が出た。帰りの電車の中、ジジイどもの話を
聞いてると、「惜しかった」「あともうちょっとでとれてた」の大合唱
であった。なんとなく、「年金で夢見るのもたいがいにしろよ」と思
ったわたしであった。

チャン クンサン

2005-10-22 06:06:07 | Weblog
 といっても表題のような中国人がいるわけではなく。

 ひとの名を呼ぶとき、下になにをつける、というオハ
ナシ。わたしは他人との上下関係をうんにゃらかんに
ゃらするのが苦手なタチなので、よほど親しい人間以
外は「さん」で統一。「ちゃん」付けというのは相手のキ
ャラ次第であり、なんつーか、いわゆる「ナベちゃんヨ
ォ」的な使い方しかしていない。特に、女性に対しての
「下の名前+ちゃん」という、オッサンにありがちな使い
方は努めてしないようにしている。「くん」付けを無闇や
たらとするやつはクズだ、という確固たる偏見があるの
で、「くん」付けは一切していない。だから、「ガリガリく
ん」はちょっと不快だったりするのだ。

 まあ「他人の名前を呼ぶ」という行為は不思議なもの
で、避けて通れば結構しないで済むものだったりする。
二週に一度は酒を飲んでるT田さんという方がいらっし
ゃり、わたしはその姓の下半分を省略してTさんと呼び
かけているわけだが、逆にTさんがわたしのことをなん
と呼んでいるかというと、これがほとんど名前を呼ばれ
た記憶がない。姓を呼ばれたことも名前にちゃん付けさ
れて呼びかけられたこともない。知り合ったきっかけが
某競馬系のチャットで、当初はたしかにハンドルで呼ば
れていたのだが、わたしがそのハンドルを使わなくなっ
てからもうすでに3~4年、使わないハンドルで呼ぶの
もナニだし今さら本名で呼ぶのもアレだし、てな訳で名
前で呼びかけなくなったのではないだろうか。名前での
呼びかけがなくなりすでに数年、それでも人間関係に支
障はない。ダンナが奥さんを「お前」「おい」だけで済ませ
てしまい、そのまま数十年過ごすというのも、たしかにあ
りえる話だと思う。

 わたしの「さん」付けというのはキャバ嬢に対しても同じ
であり、呼び捨ておよびちゃん付けはしたことがない。どう
せなら小倉優子並みに「りん」付けで呼んでみたいものだ
が、「頭大丈夫かオマエ」と言われることは確実であろう。

 逆にキャバ嬢がわたしのことををなんと呼んでいるかと
いうと、「姓+さん」が多い。「姓の上半分+ちゃん」という
ひともおり、「本メアドの上半分+ちゃん」などというひとも
いる。田中をたーさんと呼ぶような、その手の方式には未
だ出会っていない。

 こないだ某嬢がチラっと漏らしたところによると、ねーさん
方のよもやま話のネタにわたしが登場する場合、「あのハ
ゲ」と呼ばれているらしい。ありがちすぎる話であった。

今日もまた口内炎日和

2005-10-21 22:34:46 | Weblog
 本日もまた口内炎の激痛とともに暮らす。焼けつくような痛さ
というやつですな。きょう口にした食べ物、朝ヨーグルト一本、
昼は菓子パンと牛乳、晩ご飯は豆腐のおみおつけと飯を茶碗
一杯。ツナ缶ひとつ。試合ひかえたのボクサーとか、ミスコン前
の若い女性とか、なんかそんな類いのモノを思わせます。

 4年前に医者で処方してもらったケナログ軟膏見つけ出し、舌
に塗ったくったことはきのう書いた。まあ、賞味期限切れの薬剤
であるが、なんとか痛み止めの効用は残ってたようである。油
断して舌を動かし、歯にガジガジとこすらない限り、痛みも小康
を保っている。経験からいってもあと二日か三日、この痛みに耐
えねばならない。痛みに耐える三日というのは結構長い。

 しかし痛みというのは思考を支配しますな。仕事してても、痛
みに気をとられて落ち着いてモノを考えられない。パソのディス
プレイ見てても気になるのは舌の痛み、仕事なんぞどうでもよく
なってくるから不思議である。ましてはブログ書くにおいておや、
である。

 わたしの如き高度な判断をあまり要さない仕事をしている人
間でもこうである。もしこれが、デイトレーダーとか外科医とか、
ちょっとした判断の誤りが数億円の損害になったりひとの命に
かかわることになったりする仕事のひとが、口内炎になったと
したらこれはもうエライことではないだろうか。

 いや、それより大国の大統領とか総書記が、高度な政治的
判断を要するときに口内炎。これはキツイ。口内炎ひとつで戦
争が起きる、ということも充分考えられるわけだ。

 ひとを支配しているのは哲学は思想ではなく、単なる物理的
な痛みやかゆみだったりする。とりあえず政治的要職について
る方々は、ビタミンBをちゃんとりましょう。
 

口内炎日和

2005-10-20 21:50:51 | Weblog
 日曜、夕飯のオカズのメンチカツをソースにどっぷりとつけ
て、つけあわせのキャベツの千切りと一緒に口に放り込み、
ムシャムシャやっておりますと、ものの見事に口の中を切
りました。で、なんの処置もせず4日間経過。木曜の今、舌
にアフタ系の口内炎、それも直径5mmくらいの白い円形の
やつが鎮座し、エライことになっております。まともにしゃべ
れないし、飯も食えない。

 もともと話すのは嫌いではないが、「喋れないと死んでしま
う」というほど好きでもない。あまり面白い話もできないし。だ
から、喋れなければ喋れないで別によいのだが、仕事上の
連絡に不都合が生じる。遠く離れた工場の人間と電話で連
絡しあうのに、自然と舌をかばってしまい、「できそこないの
ジャイアント馬場のモノマネ」みたいな口調でしか喋れない
のだ。わたしの相手する工場のひと、この喋り方の原因をど
こに求めているのか、想像するだけでなんかいやだ。

 喋れないことより切実なのは、モノが食べられないこと。実
際、きょうは朝飯抜き、昼はコンビニで購入した菓子パン一
個と牛乳、夕飯はシューマイ数個に味噌汁、ご飯は茶碗半
分しか食えなかった。こりゃダイエットのいい機会だなどと、
ポジティヴに考えることはとてもできない。飯が食えなけりゃ
体力も落ち、体の抵抗力も落ちる。体の抵抗力が落ちれば、
ますます口内炎の治りは遅くなる。とんでもない悪循環にハ
マったといえよう。

 実際、口の中を切ったとしても、こっちの体調が万全ならば
白いアフタが大きく広がることもない。あきらかに、最近の残
業続きで体力気力ともに衰えがあるとこで口の中を切ったた
め、あっという間にアフタが大きくなったのに相違ない。やっ
ぱわたしという人間と「多忙」とか「一所懸命」てな言葉は拒
絶反応引き起こすのだろう。

 さて、箪笥引っ掻き回して4年前の副腎資質ホルモン軟膏
をなんとか見つけ出し、いまさっき舌に塗布した。はたして、
この4年前の軟膏、無事に患部の痛みを緩和させてくれるの
か。それとも「4年前パワー」が爆発し、舌の痛みを今より数
倍、数十倍にして返してくれるのか。結果がでるのはたぶん
明日だ。舌が千切れないことを祈るばかりである。

プロレスとキャバクラ

2005-10-18 23:02:45 | Weblog
 プロレスというとどうも鼻で笑う人間が多いのがムカツキの種
である。「真剣勝負以外は認めない」という、自らの偏ったもの
の見方を、唯一無二の正道と信じて疑わない輩のことだ。わた
しとしては他人の信仰に首をつっこむつもりは毛頭ないが、そう
いう輩に限ってこっちのフィールドに用もないのに侵入してくる。
いわく、「あんな八百長のどこが面白いの」と。縁なき衆生は度
し難し、こっちとしてはサンショウウオにシェークスピアの面白さ
教えるような、無駄な仕事はしたくない。なものでヘラヘラ笑い
をもって答えに代えると、向こうはこっちを言い負かしたと思って
勝ち誇ったような笑みを浮かべる。そうそう。こっちは負けに慣
れている。負け認めるから二度と俺の領域に踏み込んでくるな。

 ミック・フォーリーというレスラーがいる。マンカインド、カクタス
ジャックというリングネームで活躍、WWE認定の世界タイトル
も幾度か獲ったというスーパースターである。数年前、彼は自
伝を書き、全米でベストセラーとなった。(残念なことに日本語訳
はいまだ出ていない。あるプロレスムックの中で、一部が紹介さ
れているだけだ) その中に、こんな一説がある。

 鉄条網デスマッチを行っていた最中、誤って耳を鉄条網でこす
って落としてしまう。そのことについて彼はこう書く。

「そこで試合中止になるのがいわゆる『真剣勝負のスポーツ』だ。
でもプロレスは『インチキのショー』だから、その後も続いた」

 泣ける。

「インチキ」だからこそ、「真面目」や「真剣」を超越する瞬間という
のはたしかにある。真剣勝負は馬鹿でもできるが、「ショー」はあ
る程度クレバーな頭を持っていなければできないからだ。プロレス
ラーとは、対戦相手を倒すのが仕事なのではない。いかに痛みを
観客に伝えるか、というのが仕事なのだ。

 なんか、これも以前書いた記憶があるが、プロレスとキャバクラと
いうのは少なくない類似点があると思う。どちらもいわゆる「真剣勝
負」ではないが、それでもひとのこころを動かすものがある。キャバ
嬢のいわゆる「営業」を、「ガチンコの恋慕ではないから」と理由で
排撃するのは、決して賢明な行動ではない。むしろ、その嘘から、
「客をこころから楽しませようとする、彼女の真剣味」を見出し、それ
に対して批評なり賞賛なりするのが、マトモな大人の行動であろう。

先入観が映画を殺す

2005-10-17 22:31:08 | Weblog
 パート2が正編を超えることは滅多にない、というのは、
映画にしろドラマにしろ定説であるが。

 まあそれはごくごく当然の話で、正編というのは先入
観なしで作品を楽しめるが、続編というのはどうしたって
正編と比較してしまう。特にストーリーが代わり映えしな
いとつまらなさが倍加する。ゴーストバスターズ2の無残
さというのは多分ここに由来するのだ。

 パート2で少なくとも正編とタメはった、というのは、正編
と微妙なところで変化をもたせている。エイリアン2は「騎
士道的一騎打ち」から「近代的集団戦」に戦いをシフトさせ
たし、金八先生は「性的非行」から「暴力」へとテーマを変
えた。テーマ変えずに「描写をさらに過激化」させて成功し
たのはダイハード2くらいであろうか。リーサルウェポンなど、
最初はこころに病気もった刑事が主人公だったはずなのに、
いつのまにか単なる能天気キャラになっていた。2以降のリ
ーサルウェポンて1とは別の映画ではなかろうか。あと、マ
ッドマックス。2になるといきなり未来社会の話だし。このふ
たつ、いずれもメル・ギブソン主演てのは偶然だろうか。

 「失敗した続編」に限らず、先入観というのは映画・ドラマ
にとって毒になることが多い。「全米が泣いた」「絶賛上映
中」なんてコピーをまともに信じる人間も少なかろうが、「こ
れすげーいい映画らしいよ」などという評判は逆に作品を殺
す。期待が大きければ大きいほど、いくら押さえるべきツボ
はすべて押さえた水準作でも、「なんか小さくまとまってる」
などと、ネガティヴな評価をうけることになる。

 逆にまるで期待しないで見た無名の映画が、どこといって
悪いところのない作品であったなら、「お。割に面白いジャン」
ということになる。10年以上前、ひまつぶしにふらっと入った
池袋の映画館でやっていたのが「ダークマン」というB級映画。
安っぽいことこのうえもないが、チープはチープなりに押さえる
べきところは押さえており、大変面白く感じたことを覚えている。
もしあれが前評判のものすごいハリウッド大作というふれこみ
であったなら、こっちの要求水準も高くなり、無茶苦茶凡作に
感じられたに違いない。

 先入観がひとの感じ方を左右する。これは映画に限らず、人
間の評判についても同じかもしれない。
 

来週は菊花賞

2005-10-16 22:08:05 | Weblog
 さて、来週の日曜は京都競馬場で菊花賞。ディープイ
ンパクトが無敗で三冠をとれるかどうか。京都競馬場、
今から二週間前(すなわちレースの三週間前)より、すで
に行列ができはじめているという。なんというか、オタの
情熱の凄まじさを的確に形容することはとても難しい。

 「そんなに前から並ぶとは、お前ら、仕事はなにしてん
だ」と問い詰めたい気持ちでいっぱいである。三交代で
場所に並ぶにしろ、三週間である。まともな「常識」の持
ち主であれば耐えられる期間ではない。

 あの手の行列は、わたしも東京競馬場で見たことがあ
るし、知り合いが行列徹夜で並んだこともあるのだが、そ
れでも前日とか前々日である。三週間も時間をかけて、
いったいなにを見ようというのか。そんなに三冠達成の瞬
間というのはありがたいものなのか。

 それだけディープインパクトという馬に、ひとをひきつける
魅力があるのだろうが、それにしてもモノスゲー話である。
あの手の行列の情熱が、なにを根源として生まれるのかと
いうと、「いい場所とって写真を撮る」というのが動機の大半
だ。わたしが競馬場にたむろってるのは、大きなレースのな
い土曜が主なのだが、それでも写真オタの傍若無人ぶりは
若干キツく感じることが多い。パドックなんぞ、デカデカと「他
の客に迷惑だからシートなんかで場所とりするんじゃねぇ」と
いう趣旨の注意書きが、これよりやや丁寧な言葉を使って掲
示されているのだが、写真オタの大半は見て見ぬふり、「あ
たしの馬への愛情はだれにも負けないわ!!」と主張したが
るブサイク女の集団が、パドック最前列にいろんな機材置い
て場所とりをし、恥じる気配もない。

 「こんなとこで文句書くくらいなら、その場で注意すりゃいい
じゃん」と思われる方もおられるだろうが、人間関係の摩擦は
なるべく少なくしたい、根性なしがこの脂ハゲ、その場で注意
するなどという、度胸のいる行為はなかなかできないのだ。

 てなわけで、来週の京都競馬場、短気なかたは行くのを避
けた方が無難であろう。行くならば土曜の、やや空いている競
馬場がいちばん。ディープインパクトはたしかに馬鹿強いが、
強いだけが馬の魅力ではないからだ。

身につけるものの値段

2005-10-15 06:02:13 | Weblog
 某有名ブログ見てたら、ダウンタウンDXの「スターの私服」
がネタになっていたので、こちらも負けじとネタにする。パクリ
ではありません、インスパイアされただけです。念のため。

 あの番組の面白さというのは、ビンボと大キン持ちの対比
であり、また、センスないなと思ってた芸人さんが意外に高
級品を身につけてたり、逆に、ゴージャスなイメージのある
女優さんが案外質素だったり、という驚きがキモなわけだが。

 ただ、「あれ、購入価格で正直に申告しているのか」と、も
うひとつは「もらい物はだれが鑑定しているのか」ということ
がモンダイになる。

 わたしゃ時計好きなので、腕時計に関しては興味津々で
見ているのだが、かつて波田陽区が「意外に時計は高いの
してるんですよ。20万」といって、タグホイヤーの時計を誇ら
しく見せていたことがある。でもそれ、単なるタグホイヤーの
2000クラシックというやつであり、定価でもたぶん15万前後、
カメラ系量販店なら7~8万、中古で買えば4万しない、とい
うものであった。仮にもらい物であったとしたら、贈り主の申
告を正直に信じるのが礼儀であろうから、波田氏を責めるの
は酷かもしれないが。

 わたしも、清水の舞台からダイビング・ボティアタックかます
覚悟で購入した、ヴァシュロンのオーバーシーズというたっか
い時計を持っている。渋谷の某時計店で、中古品40万円。だ
がこれ、銀座の和光にいけば、新品に92万の値札がついて
るシロモノなのだ。

 仮にわたしがこの手の番組に出て、時計の価格を申告する
ことになったら、やっぱ「時計ですか? そんなに高くはないで
すよ。百万円」とやっちゃうと思う。入手価格は40だが定価じ
ゃ92だし、端数切り上げて百といっても、そんなに間違いじゃ
ないよな、という思考過程。ある意味筋は通ってると思う。

 あと「モライモノ」については、番組独自で鑑定した結果とか
テロップが出てたが、あれも100%信用していいものか。叶
姉妹の五億円とか。宝石系のアクセサリーなんて、値段はあ
ってないようなもの、番組盛り上げるために相当ゲタを履かせ
てると思うのだが。

 とりあえず、パシャのGMT、出川哲郎がしていたが、あれを
「出川モデル」と名付けたなら、たぶん価格は暴落するだろうな。