石川啄木のフィストファック

2005-10-04 22:14:02 | Weblog
 気の狂ったような、なんかシュールリアリズム芸術のタイ
トルみたいな表題であるが。

 きょう三省堂で、「啄木ローマ字日記」なんてのを立ち読み
してたら、マトモにフィストファックの描写があってびっくりした。
売春宿に通って娼婦を買った啄木が、いくらやっても感じない
娼婦に業を煮やし、「手首まで突っ込んだ」と。

 そのあともかなり病的な描写が続き、読んでるこっちの眉間
にはしわが寄った。この部分だけ作者名隠して、「これはある
連続殺人鬼の若いときの日記である」と言って読ませたなら、
十人中八人は間違いなく信じ込むと思う。その部分の記述に
は、娼婦に対する同情もなければ、思いやりもない。ただただ
社会的地位が自分より下である娼婦をあざけり、自らのイライ
ラをたたきつけているだけだ。啄木というひとは早熟の天才で
あり、にもかかわらず生涯うだつの上がらなかったひとだが、そ
の「出世できない」がためのイライラは相当なものだったと推察
される。

 啄木が借金魔であり、さまざまなひとから金借りては不義理を
重ねたというのは割りに有名な話である。借金魔の文人といえ
ば内田百間も有名だが、啄木の陰惨、かつ悲愴な感じはかけら
もない。百間はもともと裕福な家の出であり、見栄を張るために
自らの器を越えた借金を続けた啄木とは根本が違うのであろう。

 あたり前の話だが、文才と「人格の高潔さ」とはなんの関係も
ない。小学生の作文みたいな文章しか書けない「高潔の士」が
いるのと同じく、文を書けば流麗至極、水の流れのような名文
を記せる人間が、人格下劣なこと蛇蝎の如し、ということもあり
うるわけだ。まあ、国語教育というのは「名文」に親しませるの
がいちばんであり、その作者の人格にまで嘴突っ込むのは行き
過ぎなんであろうが、それでも「友がみな我よりえらく見ゆる日よ
 花を買い来て 妻としたしむ」の作者が、「才を頼むあまり、自ら
の貧しい境遇を納得できず、七転八倒してた」人間であったと知る
ことは、決して無意味ではないと思うのだ。