美味の根源

2005-02-28 21:54:58 | Weblog
 ここんとこ毎日現業所への出張続き、仕事が惰性
で運べないのはツライことではある。「台帳と現物確
認して事務処理の妥当性を検査する」なんて仕事、
雑把を絵に描いたようなわたしにゃ無理なんである。
疲れるわマッタク。

 まあ現業所への出張で楽しみなのは社員食堂の食べ
比べ。委託業者の違いで同じカレーでも微妙に味が異
なったりする。きょう食べたのは4百円のうな重。な
んでウナギが百円玉四枚で食べられるのか、頭絞って
もなかなか答の出ない難問である。会社からの福利厚
生費が相当出ているのであろうが。

 それでも口の中に放り込んで噛んでみれば、ちゃん
とうなぎの味がする。海原雄山のような美食家にかか
れば、「店主を呼べ!」と怒鳴りつけるようなシロモ
ノなのかもしれないが。

 料理と工業製品の境目というのは、いったいどの辺
にあるのだろうか。レシピがガッチリと固まり、どの
店へ行ってもほとんど味の変わらないチェーン店のハ
ンバーガー、あれを「工業製品」と呼んでも、あまり
間違いとは言えなかろう。ああいうもののレシピの作
成はむしろ「設計」に近いし、店内でハンバーグ焼い
てる人間も、「料理してる」というよりむしろ「作業
してる」だ。

 かつて「料理は愛情!」と喝破した料理人がいた。
それ聞いた当時は、「なに馬鹿なこと言ってやがる」
と思ったものだが、昨今の外食製品の氾濫を見るに、
この言葉が満更嘘でもないと、今になってわかる。

 もっとも、味だけとってみれば、工業製品もそう
貶したものでもない。たまに無性に、マックのハン
バーガーが食べたくなることがある。「あんなもの」
と思うことで、自分の舌がグルメであると信じ込み
たいのだが、あいにく舌は正直だ。マックもおいしい
し、松家の牛めしもうまい。逆に一流料亭の品のよい
薄味など、ビンボ育ちのこの舌が、はたしておいしく
感じるのか、はなはだ疑問ではある。

「『おいしいもの』というものは存在しない。『ある
ものをおいしく感じる自分』がいるだけだ」

 まさに至言だ。

いい半分と悪い半分

2005-02-27 20:28:41 | Weblog
 まあたとえば、重大な事件を引き起こした犯
人は、その生い立ちやら生活ぶりをマスコミ各
誌に丸裸にされるわけである。最近では幼女を
誘拐したのちイタズラして殺し、その写真をそ
の子の両親に携帯メールで送りつけた奈良の新
聞配達員。なんか「犯人の相手をしたデリヘル
嬢」まで週刊誌に登場、「どんな風なセックス
をしたか」まで暴露されているのである。

 逆にマスコミで善玉認定されれば、悪いとこ
はあまり表面に出てこず、いい面ばかりが強調
される。数年前、新大久保駅で線路に落ちた酔
っ払いを助けようとして電車にはねられ死んだ
ふたりの人間がいたが、マスコミ各誌の「神さ
ま」扱いはなんか気持ちの悪いほどであった。

 西武をしくじった堤さんも、今では完全に悪人
認定されてしまったらしく、渡部絵美から20年
前のセクハラ暴露されるは、弟の豊島園社長から
叛旗を翻されるは、経済評論家は「あの人は独
裁者、結局は裸の王様だった」と断ざれるは、ど
うも大変な状況である。「独裁者だなんてことはも
う少し前に言えよ」と一瞬思うが、評論家も商売、
全盛期の堤氏にそんなことを言ったら、ご飯が食
べられなくなる。大人には大人の事情というもの
があるのであろう。

 さて、わたし自身を考えてみるに、わたしが
なんか起こした場合、どのように取り扱われる
だろうか。たとえば線路に落ちた女子高生を助け
ようとして命落とした場合は、「有名私大卒の
上場企業のサラリーマン。職場でも真面目で欠勤
等もなく、その堅実な仕事ぶりには定評があった」
なんかお見合いのみたいですな。

 で、逆になんかの犯人としてアレした場合は、
「仕事ぶりに飛びぬけたものはなく、出世街道か
らは完全に落ちこぼれてましたね」とか「競馬と
キャバクラが趣味で、収入の大半を費やしてたら
しいです」とか、ネガティヴなことばかり強調さ
れるのだろう。たしかに悪人は悪いことばかりして
た方が理解しやすいし、善人はいいことばかりして
たと思うほうがわかりやすい。新聞や雑誌を読む
方の立場としては。

 ただ「わかりやすいこと」が真実とは限るまい。
ひとの命をなんとも思わない盗賊が、蜘蛛の命を
助けたりする。で、蜘蛛を助けたからといって、
それだけでは決して善人とはいえない。

 ある特定の行動だけ見て人間を判断するのは、や
っぱ危険があるのでしょうなぁ。

文文文文文その2

2005-02-25 06:04:32 | Weblog
こうしてつまらぬ文章を、だらだらだら
だら書いていると、こんな駄文にも文体の
ようなものがあるのが不思議である。

 語彙やら文のリズムやら、なんかのマネ
だなと薄々は感じていたのだが、こないだ
ある文を読んで、「あ・・・これの影響を受
けてたのか」と自覚した。「読書子に寄す」と
いう、岩波文庫の最後についているアレ
であった。

「真理は万人によって求められることを自ら
欲し、芸術は万人によって愛されることを自
ら望む」で始まる、当時の岩波書店社長の岩
波茂夫が書いたこの文は、リズムといい語彙
といい、そしてその格調高き内容といい、高
校時代の脂ハゲ(当時は髪アリ)を引き付ける
のに充分なアビリチーを持つ文であった。

 「キチガイの真似をして大通りを全裸で
走ったら、それは本物のキチガイだ。悪人の
真似をしてひとを殺したら、それは本物の
悪人だ。よって、聖人の行動を真似る者は、
それだけで聖人に近づいたといえる」吉田
兼好が徒然草で述べていることである。こ
れが真理であるのなら、少しでも名文を真似
ようとしているわたしの人格も、やや高い
方へと目指しているといえるのか。

「頭髪はひとの頭皮において伸びうること
を自ら欲し、禿頭は頭髪のフサフサである
ことを自ら望む」

 なにより気になるハゲ頭。いくら文を真似
たとしても、ひとの器までは変えられないの
であった。

そばの謎

2005-02-23 23:21:52 | Weblog
知り合いがラーメンをテーマにしたブログをやっ
ている。ラーメンてのは値段手頃だし、味も多彩
で店の個性がよく出るし、たしかに語りたくなる
ものではある。冬の寒い日、がたがた震えてると
こへすすりこむ一杯のラーメン。スープの湯気が
ほわわ~っとあがり、ずるずるずるとすすりこむ
麺の音。チャーシューをかむとあぶらが口の中で
じわわ~と広がる。たしかにたまりませんな。

 ただラーメンを語る時困るのは、「好みの問題
が多分にある」ということ。あるひとがAという
ラーメン店を絶賛する。それを聞いたBというひと
がはるばる電車で数十分かけて食べに行くが、おい
しくもなんともない。「なんだ、全然うまくないじ
ゃないか。Aの舌って不感症だな」などと。なに、
単に理想とするラーメンのベクトルが異なるという、
それだけの話なのだが、ラーメン好きというのは
その点の理解があまりできない。「・・おれの好み
じゃないなあ」で済ますべきとこを、「まじー」と
罵倒せずにはいられない。業でありまんな。

 魚嫌いの脂ハゲであるので、当然豚の背脂ギトギト
ラーメンが好きなのであるが、こういうラーメンは
ひとによっての好き嫌いが激しい。町Dにもいわゆる
ギトギト系の家系ラーメン、「大盛り食べたら卒中起
こすに違いない」と思えるほどの、アレなラーメン屋
さんが多数あるが、あれが女性や子供にとって、理想
のラーメンとはとても思えない。あと、醤油の異様に
濃い、真っ黒けスープの某店のラーメンもなかなかに
好きなのだが、あれをうまいというのも勇気がいる。
その店、わたしが大学生の頃から続いているので、好
んで食べてる人間も結構いると思うのだが、ネットで
いろいろ見てもいい評判をあまり見ない。まあたしか
に「下品な」味ではあり、品のいいものを褒めることが
流行である昨今、あれを賞賛するには勇気がいる。
「あんなものがうまいだって?」などという、他人の
問いつめをうけるのも愉快じゃないし。

 ところがこれが日本そばになると、立ち食いでさえ
評価のばらつきがあまりない。うまい店はうまく、マズ
い店はマズい。ラーメンの評価基準はそれこそ十人十色
なのだが、そばに関してはコシとダシと具の天ぷらくら
いのものだ。日本そばのマズさとは、ほとんどがダシの
味の失敗と麺のコシのなさに起因する。ダシの味の失敗
にしても、濃すぎるか薄すぎるかのふたつにひとつ。マ
ズいラーメンを食べた時の、「どうしてこんなにマズく
作れるんだ!?」という、芸術的な感動はあまり起きない。

 日本において、もともとあるはずのそばうどんが、ラー
メンに押されてしまったのも、こんなところに原因がある
のかもしれない。

名物への道

2005-02-22 21:06:06 | Weblog
 「名物にうまいものなし」とはよく言われる話である
が、これはある意味当然か。ほんとうにおいしいもので
あるならば、全国的に普及して、「特定の地域の名物」
からは脱してしまう。萩の月とかはいまだ「名物」の地
位に安住しているが、いろんな土地でイミテーションが
できている。それがまたそこそこうまかったりする。
「菓子の類似品」てけっこうお得っす。

 きょうは朝から東村山なんて土地へ行ってきた。駅前
にイトーヨーカ堂くらいしかない、地味な地味な土地で
ある。しかし昭和の御世に子供時代を送ったならば、こ
の街の意味するものはひとつしかない。志村けんである。

 志村けんしか意味を持たない街であるならば、当然名
物も志村けんにちなまずにはいられない。その名も「だ
いじょぶだぁ饅頭」。「志村けんのだいじょぶだぁ」が
終了してからもう結構な月日がたっていると思うのだが、
田舎の菓子屋、そんなことに頓着する神経は最初から持
ってない。つーか、そんな神経があったらこんな名前の
菓子は作れまい。

 ちょっと小耳にはさんだのだが、ある苦情をもらった
会社の担当者、名物の菓子折りを手土産に詫びに行った
という。その菓子折りが「だいじょぶだぁ饅頭」。土産
をひとめ見たお客さん、「うちはちっともだいじょうぶ
じゃねえ。馬鹿にしてんのか」と火に油を注ぐ結果にな
ったという。手土産にもTPOを考えなくてはいけませ
ん。

 わたしの住んでるのは町Dというこれまた地味な町で
あるが、あんまり「名物」と呼べるものがない。公民館
同居の109とか、他の土地の人間に話すとややうける
が、あれを名物と呼ぶのには躊躇がある。町D出身の有
名人というのもすぐには出てこない。昔は遠藤周作など
が住んでたんだが。

 てなわけでグーグルで検索してみた。サッカー選手ば
かりだわ。町Dの「だいじょぶだぁ饅頭」創作への道はまだ
まだ遠い。
 

キャバクラ賛

2005-02-21 21:25:09 | Weblog
ひさしぶりの直出の出張、ラッシュアワーの小田急
線新宿行の電車になど乗ると、慣れない身には頭が
クラクラとしてきますな。あんな中でも、携帯片手
にメール打ってる女性がいる。こっちとしては身動
きできん状態で目をそらすのもおっくうなので、マ
ナー知らずを承知で携帯のディスプレイ見ていると
・・・

「今から長野にスキーです。あと、店長や調理場の
人にわたしがキャバ勤めしてること言わないでくだ
さいね」

 長野に行くなら町田で降りて横浜線使って八王子
行った方がよくねーか、とよけいなことを考えるよ
り、そうか、ここにもキャバ嬢がいたかと。たいへ
んだな本当に。

 ニット帽に眼鏡かけたこの女性、どう見ても可愛
いとか美人とか、そういう言葉とは無縁の女性であ
ったが、女とはやぱし化け物、メイクひとつでさそ
り座の女に化けるのかしれん。純粋にプライベート
のキャバクラ勤めを見る機会はなかなかない。同伴
や店外でキャバ嬢と会ったこともあるが、あれはあ
くまで営業、客に心を許すことはあまりない。

 キャバクラ勤めもかなり日の当たる仕事になって
きたようではあるが、やはり偏見を持つものの方が
マジョリティ。男喜ばすために嘘が必須のこの仕事、
「誠」をなにより尊ぶ頭の固い人間のなんたる多さ
よ。モテナイおっさんたちは「嘘」に対して喜んで
金を払っている。小説も「嘘」、映画も「嘘」。ならば
同じく「嘘」を売り物にするキャバ嬢を、さげすま
ねばならぬ理由などどこにもない。

 店の中で男を楽しませようとする意思、それに関し
て嘘がないなら、それでいいのだ。

 てなわけで落語の「紺屋高尾」を読んだりする。
一生懸命働いた若い職人が、三年がかりで金をた
め、絵姿に一目ぼれした花魁を抱きに行く話だ。
この花魁を女性アイドルタレントに置き換えて、
いまの若いやつらに語ったなら、無業者ももう少
しは少なくなるかもしれない。

中古論

2005-02-20 20:11:06 | Weblog
てなわけで昨晩はキャバ嬢とどーはん、新宿で
エルメスのバッグ買ったのち中野で焼肉、その後
中野の店でペロベロに酔っ払ったわたくしであり
ます。今年の誕生日で42歳、いいのか俺。

 しかし場所は新宿の質モノショップ、時間は午
後5時40分、41歳脂ハゲと21歳ロリ顔キャ
バ嬢(私服)のとりあわせ、店員はどう思ったか?
普通に「もてないキャバ客とロリ顔キャバ嬢」と
思ってくれればいいのだが。援助交際とでも思わ
れたらとってもいやである。

 実際キャバ嬢へのプレゼントというのは見栄の
賜物、ひそかに質モノを手にいれるのはまだしも、
ふたり堂々と質モノショップにはいる人間は珍しい
らしい。こないだ顔見知りのねーちゃんが、「見て
見て。これもらっちゃった」と腕の時計指差すので
確認したらシャネルのJ12、質モノでも十数万、
ドンキあたりでは20数万するシロモノ。「すげー
なあ・・・太客捕まえたなあ・・どこで買ったの?」
と聞いたら、驚くなかれ新宿高島屋の正規のシャ
ネルショップという。正規モノなら確実に30万
は超える。金回りのいいやつにはかなわないと骨
髄まで痛感する瞬間である。

 最近は「中古ブランド品専門誌」なんてのもかなり
の数出ていて、女性の中古品に対する偏見も少なくな
ってると思う。でもやはり女性にとっては、「自分で
買うなら中古でいいが、他人からもらうなら新品がい
い」のか? あのねーちゃんも新品を少し物欲しげに
見てたしなぁ・・・新品7万5千、中古4万、その差
3万5千。その差はただのリーマンにとってはかなり
深い。甲斐性のなさがうらめしい。

「中古に対する偏見の有無」とは、いったい何に起因
するのか。長男長女のおさがりばかりだった次男次
女は、やはり中古を忌避するのか。ブランド物の中古
が偏見で見られ、車の中古が特に問題ないのは、車の
方が「道具」としての側面が強いからか。

 しかしエルメスのトートバッグ、丈夫そうでした。
ありゃキャバクラあがったのちも長く使えそうであり
ます。

ラーメンと焼きそば

2005-02-18 22:39:07 | Weblog
例えばここにラーメンを食べたがってる子供がいる
とする。もう食べたくて食べたくて、頭の中はラーメ
ン一色。どんぶりの渦巻模様が頭の中でぐるぐる回り、
口の中はツバキでいっぱい、という状態だったとする。

 で、家へ帰って夕飯の時間、ああラーメンが食べた
いなあと心底思ってるとこへ、喜色満面の母親が「ほ
ら、お前の食べたがってたやつ」と言いつつ盆を差し
出す。そこに載っているのは豪華海鮮焼きそば。

 ありゃと思うが母親の顔を見ると、「ほんとはラー
メンが食べたいんだ」とはなかなか言えるものじゃな
い。「あ。これ食べたかったんだ」とこころにもない
嘘をつき、おいしそうに口にする。たいして食べたく
もない海鮮焼きそばを。

 母親の方はすっかり騙され、いかにお前のことを思
っているか、いかに苦労してこの焼きそばを作ったか、
微にいり細にいりとうとうと語る。子供の方は、微笑
浮かべつつじっと耳を傾けるしかない。

 これが一度や二度ならまだしも、五回も六回も続い
たならば、正直本当にキツイ。マジでキツイ。

 また別の、ラーメンを食べたがってる子供がいると
する。同じように「ラーメンが食べたいなぁ」と思い
つつ家へ帰る。母親が差し出したのは具もなにもない
かけうどん。

 しかしここの母親は、「お前がラーメンを食べたい
のはわかっている。だがうちにはうちの事情があって、
きょうラーメンを食べさせることはできない。だから
これで我慢してくれ」と、言葉でもいい態度でもいい、
子供に表現したとする。

 普通の子供であるならば、舌打ちくらいはするかもし
れんが、この事実をちゃんと受け止めるだろう。たしか
にラーメンは食べたいが、それは別の日に食べればよい。
なによりも、かけうどんはかけうどんでそこそこおいし
い。

 だがなにも知らない他人の目から見れば、豪華海鮮や
きそばとかけうどん、前者のほうが優遇されてるように
見える。かわいがられているように見える。真実はぜんぜ
ん違うのに。

 いやいや海鮮焼きそばを食べ続けているうち、「ラー
メン食べたい」というほんとの気持ちさえ忘れてしまう
かもしれない。だが意識の表面からそれが消えても、こ
ころの奥底では覚えている。だから、うまそうにラーメ
ンを食べてる人間見ると、なぜかムカついてしようがな
い。

 最近の少年犯罪の事象を見るたびに、こんなたとえ話
が頭に浮かんでくるのだが。まんざらはずれてもないよ
な気がする。



マネマネマネ

2005-02-17 22:50:34 | Weblog
とりあえず、マナーモードの携帯電話のモノマネ
が形になってきて、少々ご機嫌のわたくしでありま
す。会社でパソコンたたきつつうなっていたら、
「今携帯ならなかった?」とだまされた人間がいて
とっても満足。

 モノマネをすることが楽しく感じられるのは何故
なのか。自分以外のモノを演ずるのが楽しいからか。
他人が笑ってくれるのが快感だからか。あれは不思
議な感情である。

 「学ぶ」のそもそもの語源は「マネぶ」だと言う。
幼い子供は身近なオトナの姿、行動を見、これを真
似ていくことからオトナとなる。学校では先生の行
動をお手本に、これを真似ることが学習の基本だ。
わたしもそういう過程を経て、こうして脂オヤジと
して存在しているわけだ。

 むかしプロレスの真似をして、プロレスごっこな
どをよくやったが、あれで怪我した人間はあまりい
ない。「子供なんだから、手加減なんぞ知らないだ
ろう」というのは、むしろ無知なオトナの思いこみ。
喧嘩ではないのがプロレスごっこ。相手にワザと技
をかけさせたり、技をかける方も微妙に手加減。む
しろ子供の目のほうが、プロレスの本質を見抜いて
いるのだ。

 ゲームに関してもそれはたぶん同じ。推理小説に
耽溺した子供が、現実の死に鈍感になることなどあ
りえない。画面のむこうの動くひとの絵は、現実の
ひととはまったく別と、子供はたぶんわかっている。

 もしひとの死に鈍感な子供がいるのなら、それは
周囲のオトナの「真似」。いくら口で「命は大切ね」
などと唱えても、行動自体が伴わないと、子供はき
っと真実を見抜く。考えてみれば怖い話だ。

 周囲に子供のいないわたしの環境を、ああ幸せだ
と思わずにはいられない、生まれながらの無責任さ。
そこまで立派じゃねぇからなぁ。

 

占いについて

2005-02-16 20:27:29 | Weblog
 100%はずれる占い師というのがもしいたら、それ
はとても貴重な存在だ。特に二者択一の場面であれば、
逆張りすればすべてうまくいく。だが残念なことにそん
な占い師はこの世にいない。この世にいるのは、「大部
分ははずれるが、たまには当たる」占い師ばかりである。
わたしの競馬予想と同じように。

 だからどんな占い師でも、的中の実績は持っている。
はずれた事例を覆い隠し、当たった実績のみを強調すれ
ば、なにかとてつもなく神秘的な占い師ができあがる。
本当は、「下駄の表裏による天気予報」ほどの的中率し
かないのかもしれないが、信じる者は目をそらす。そり
ゃまあ、強い「信仰」に支えられた決断ならば、いい結
果を生むことも多かろう。強い「信仰」はたいていの場
合、これまた悪い結果からは目をそらすから。信仰の結
果、それで磔になったとしても、「これで神の身元へ行
ける」と喜び勇むのが「信仰」だから。「悪い結果」に
なるはずがない。

 星座、姓名、血液型。占いの材料は事欠かない。かつ
てエレクトーン占いというゴーカイな先生がいたが、あ
れを信じた人間がいるのだろうか。

 ちなみにわたしは生年、星座、そして血液型が、俳優
の唐沢寿明とおなじであるが、この運命の相違はどうで
あろうか。どう考えても、上記の3つのファクターが、ひ
との運命に影響するとは思えない。ひとの運命とはひとそ
のものによるはず。あるファクターをとりあげ、運の吉凶を
そのせいにするのは愚かなことだと思う。

 ・・・などと普段は賢しげに語ってはみるものの、コ
ンビニで雑誌の立ち読み時、占いコーナーをけっこうマ
ジメに読んでいる自分がいたりする。ありゃやっぱり、
ひとの弱さの現れか。「恋愛運上昇中」とか書いてあれ
ば、対象の女性がまったくいない現況でも、思わずひと
り微笑んだりする。考えてみれば気持ちの悪い絵ではあ
る。

 やはりすべてを自分で判断し、自分で指針を決めると
いうのは難しい。やっぱなにかのせいにしたいのだよな。
異性にもてない原因を、わたしそのものと考えるより、
「ハゲてるからだ」と考えた方が、精神的な健康にはは
るかによろしい。「毛が生えさえすりゃ俺だって・・」
という、ありえない理論に逃避ができるから。

 ・・というわけで、いまの自分は「恋愛運がよくない
時期」のたまものであるに違いない。来年の今頃はきっ
とモテモテのはず。

 

変わるモノと変わらぬモノ

2005-02-15 20:09:34 | Weblog
 およそ40年前小学館の学習図鑑シリーズという
モノが出版されており、小学校時代これを愛読して
いた。誇張でもなんでもなく、わたしの現在の基礎
教養のほとんどはこれの上に築かれている。だから
ものを見た場合頭に思い浮かぶ事柄がやや偏ってい
るのは否めない。ウツボといえば「ウナギの仲間。
食用。食べるとまずい」(「魚貝の図鑑」)であり、
足利尊氏といえば天皇を裏切った悪い人間であり
(「日本歴史の図鑑」)、カラスアゲハといえば見
とれるほど美しい蝶(「昆虫の図鑑」)なのである。
小学生に対する思想教育がのちのちまで影響する、
という顕著な事例であるかもしれない。

 これの中に「交通の図鑑」というのがあり、「未
来の交通の想像図」なんてのが載っているのだが、
これがなんちゅーかすごいのね。例えば、世界一周
しても燃料補給のいらない原子力飛行機とか。「墜
落したらどーなんだよオイ」などという、ネガティ
ヴなことはこれっぱかりも考えない、昭和30年代
の楽天主義に萌え萌えである。

 他にもエアカーとかヘリコプターバスとか、40
年たっても実現性がかけらもないものばかり。いく
ら子供向けの図鑑でも、ある程度の学識者が監修し
ている本であろうに、なぜこれほど未来図というの
ははずれるのか。

 幼少時を思い出してみるに、未来の道具といえば
なによりもまずテレビ電話であった。ウルトラセブ
ンにも小道具として登場しているし、ドラえもんで
もあたり前の道具。筒井康隆もこれをテーマに短編
ひとつ書いている。これも21世紀も4年経過した
現在、あまり普及はしていない。見る利便性に頭は
いっても、見られる不快さは忘れている。頭のいい
ひとたちにもチョンボはあるのだ。

 逆にネットの掲示板やらメールやら、文字媒介の
コミュニケーションは隆盛一途の勢いだが、これを
未来図として予測した人間は少なかろう。歌の優劣
によって女性の気をひいた平安時代の感覚が、いま
の出会い系の書き込みに復活しようとは。ひとの感
情のある部分は、数千年たっても不変であろうが、
雅なる平安貴族と、ピアス茶髪の若い衆の根が一緒
とは、なかなか気付きにくい事象ではある。

 変わる部分と変わらぬ部分。これを見極めるのは
難しい。これは個人の感情、そして自らの感情にも
いえることだ。

 できうれば今日と変わらぬ明日が来ることを、凡
人たるわたしは願うわけだ。変化についてくのは大
変だから。言い換えるならこれを「怠惰」と呼ぶ。
明日は会社行かずに家で寝ててぇなぁ・・・・



ぼっけぇ、ギョエテぇ

2005-02-14 20:30:55 | Weblog
「ギョエテとは 俺のことかと ゲーテ言い」という
川柳は、割に有名なものだと思う。外国語を日本語に
表記するのは難しい。先日「シャネルのプリミエール
をキャバクラのねーちゃんに買ったことがある」とあ
る掲示板に書き込んだところ、「ありゃプルミエール
っつーんだよ。バカじゃねぇ?」と絵に描いたような
煽りを食らった。むかついたわたしは、フランス語の
発音記号をひっぱり出し、こういう硬直したバカヤロウ
の考えを粉砕しようと試みたが、仏語に対する知識不足
の悲しさ、反論材料を集められず、そのうちその話題は
流れていった。掲示板耽溺者として、そのくやしさは比
類がなかった。

 競馬系の板でも、外国の馬名の表記がしばしば論争の
タネとなる。いちばん口の端にあがるのは、名種牡馬た
るDanzig。こんなん、大学で独語とった人間であれば、
「ダンツィヒ」以外発音のしようがないのだが、この馬
が米国で調教された米国馬だ、というのが肝である。米
国人、字面のとおり忠実に、「ダンジグ」と発音してお
り、国際派をもってならす某名騎手もそれにならって
「ダンジグ」と発音。なもので、「ダンジグと発音しな
いのはおかしい」というバカタレの群が、そりゃもう大
騒ぎさ、なのである。どっちだっていいじゃん、という
いい加減な輩(含ワシ)は肩身がとても狭かったりする。
とかくこの世は住み難い。

 カリフォルニアのリーガン州知事が、いつの間にか「レ
ーガン」大統領になっていたなんてこともあった。たぶん
報道機関が話し合い、表記の統一というか訂正をはかった
のだろうが、こっちはまだたしか高校生、「なんか理由が
あって改名したのか」と困惑した。プロレスラーにもすご
いのがいて、レーン・ゴルトというレスラー、改名もして
ないのに次の来日ではレネ・グレイになっていた。原語の
発音はどうなのか、深く考えさせられる。

 歴史の授業を思い出しても、「イスラム教の教祖はだれ?」
という問題に、「モハメッド」と書いて×を食らった生徒が
いた。その教師、「ボクサーと勘違いしちゃダメだ」と言っ
て笑っていたが、今から思えばこの教師の方が誤り。「マ
ホメット」と「モハメッド」、原語の方に違いはないのだ。

 そんなに原語の発音を珍重したけりゃ、「ローマの休日」
のあの女優さんを、オードリー・ヘボンと呼べと、どこぞ
の中心で叫びたい気分ではあるが、生まれついての穏便気質、
「波風立たせず」が座右の銘、やっぱりちゃんとヘプバーン
と呼んでいる。どっちだっていいじゃん、と本気で思う。
故・オードリーさんが柳眉を逆立て、「pは発音しないのッ!」
と断固として主張する姿は、やはり想像しにくい。

 「原語に近い」というのは理想であっても、発音体系が
異なる以上、完璧に近づけるのは不可能だ。胡錦濤主席を
「コキントウ」と漢字でそのまま読んじゃうほうが、むし
ろ健康的な気がするのだが。隣国の元首の長男のひとは、
やっぱ「マサオ」と呼ぶべきだと思う。いかにも「マサオ」
風の顔だし。

 


外見と中身

2005-02-13 20:21:51 | Weblog
 かつて指名していたキャバ嬢の方に、もう見
るからに妖艶無比、瓜実顔につぶらな瞳、彫り
の深い濃い顔立ちは、ハーフといっても通用し
そう、なんか、峰不二子ってなこんな感じだろ
うな、と連想させる方がいた。下手に手を出す
となんか少々のやけどじゃすまねえぞ、てな感
じの方であった。

 で、席について口を開くと、「○美、そうい
うことできないひとなんですよぉ~」と、語彙
および口調がさとう珠緒なのであった。ほとん
どの客はここでずっこけたという。

 「ひとを見かけで判断するな」とはよく言わ
れる教訓であるが、上記のキャバ嬢などはその
典型。そのゴージャスな外見にもかかわらず、
中古の時計あげたら喜んでくれたし、営業上
の反応かと思ったら予告なしに店行ってもちゃ
んとその時計つけていた。「あんまり指名とれ
ないんですよぉ~」というあの台詞も、このひ
との場合本当だったのかもしれない。

 ヘルプで数回ついたねーちゃんに、上記の
ようなパターンの方がいた。このひとの場合、
だまって座っていると清純美少女系、あだち充
の漫画の野球部のマネージャーみたいな感じで
あったが、口を開くと北関東なまりがどうも抜
けず、しかも笑い声が「がはははは」。土建屋
のおやじみたいな声なのであった。ただ頭の回
転はよろしく、ついてもらうと大変にオモロイ。
「だまってりゃ高校生のオナペットになれるの
になぁ」と、しはしばわたしは言ったものだ。

 こないだそのキャバクラへ行ったところ、隣
の席の客に彼女がついた。どうも感じが違う。
「がはは」とも笑わず大声もあげない。外見の
イメージそのままの、しっとりした口調で話し
ているのであった。ネットのお水系の板など見
るに、最近人気上昇中、キャバクラ雑誌の紹介
などにも、最近ちらちら出ているという。

 「女の演技力」て、ほんと怖いと思うっす。

ダジャレの理論

2005-02-12 05:39:41 | Weblog
オッサンである以上、駄洒落好きである。このブロ
グのタイトルも、だれが見たって駄洒落である。これ
を思いついた時は、「ふふん。なかなかいいジャン。
俺ってセンスあるジャン。ふふん」と、脂っぽい鼻を
高々とさせていたのだが、グーグルでサーチかけると
既出が多数。今更変えるのもアレなので、そのまま続
けてはいるものの、自分の才の無さを宣伝する結果と
あいなった。まあ、バカであることの客観的な物的証
拠が、もうひとつくらい増えたところで、たいしたこ
とではないのであるが。

 他の候補としては、「とくとご覧あれ」のもじりで、
「禿頭ご覧あれ」というのも考えたのだが、これでは
どう見ても「ハゲアタマご覧あれ」としか読めない。
なによりわたしは、そんなもの見て欲しいとは思って
ないのだ。

 駄洒落というのはつくり方に理があり、才がなくて
も誰でもできる。「hage」であればまず同音異義語を
探し、次ぎに「ha」に注目して子音を変える(age、
kage、sage、tage・・)、次に母音を変える(hige、
huge、hege・・)、次ぎに「ge」に関して同じことを
やり、次に促音(hagge)、さらには長音(haage)、
拗音(hange)、こうして言葉を探っていき、もっとも
ゴロがよくて馬鹿馬鹿しいものを採用する。未だに、
「陰唇の上にも三年」というのは、わたしのオリジナ
ル駄洒落のベストである。もっともこんなことの自慢
をするというのが、ある意味かなり痛いのかもしれな
い。

 しかし「布団がふっとんだ」というのは、もともと
誰が言い出したのか。「もっと面白い洒落をいいなし
ゃれ」←これはわたしが小3の時、同級生が言ってた
駄洒落であるが、2005年の今現在、彼がどんなオ
ッサンに成長したのか、見たい気もするし見たくない
気もする。
 

偏食の苦しみ

2005-02-10 20:32:34 | Weblog
食生活において、無茶苦茶食えないモノが多い。
なんといっても海産物一般。寿司もダメなら刺身
もダメ。カニしゃぶ海老フライ全部ダメ。ただ食
えるのはツナとうなぎの蒲焼きのみ。他人と会食
する際に、これ以上不便なこともない。

 モテないオッサンであるので、キャパ嬢としば
しば同伴などするが、好き嫌いが多いとやはり不便。
ドラマなどでは恰幅のいいおっさんが、「××、寿
司でもつまみにいかへんか?」と、関西弁でやらし
くホステス誘うシーンがしばしばあるが、偏食オヤ
ジには夢のまた夢。わたしがキャパ嬢誘う場合、
「××さん、はんばーぐでも食べにいかない?」・・
・・ある意味かわいいとは思うが、絵的には結構キシ
ョかろう。 

 原因はどこにあるかと考えてみても、思い当たる
ことはあまりない。刺身はたぶん生臭さ、焼き魚も
特有のそのにほひ。嗅覚の面で受け付けない。海老
カニについてはその形がダメ。ムカデ嫌いなのは前
にも書いたが、海老やカニの足の多さはそれと相似
である。あんなモノ口に入れられる神経が不思議だ
と思う。

 魚貝一般が苦手であるので、その分肉ばかり食べ
ている。ステーキ焼き肉トンカツしゃぶしゃぶ。頭皮
から滲む脂の量が、やや多くなるのも当然である。

 髪をとるのか肉料理とるのか。二者の選択をせま
られたなら、やっぱり迷わず肉をとる。うまい肉を
食べた時の、口中に肉汁の広がるあの快感。じわじわ
じわっと広がる脂。肉本体はとろけるように、うまみ
に変化し消えていく。あの快感を思うならば、髪の
数本など惜しくはない。

 明日の同伴は、やっぱ焼き肉にするかねぇ。