バッグ求めて その2

2006-01-31 22:11:52 | Weblog
 日曜日、馬券買った帰り、御徒町の多慶屋行ってショ
ルダーバッグを探した。先にも書いたが肩紐の金属部分
の磨耗が著しく、いつバッグ本体がストーンと落ちても不
思議のない状態。一刻の猶予もならなかったのである。

 したらば、さすがディスカウントストアの雄多慶屋、あり
ましたよありましたよ。数は少ないながらもオヤジ御用達
の縦型ショルダー、見栄えしないが丈夫なことこの上もな
さそうな黒の合成皮革製、ストラップ使って肩から吊るす
と、暴力的なまでにスーツの形を崩すアレである。

 今使ってるやつより若干大きく、物もたくさん入りそうで、
それなのに価格はなんと5,000円、現在のやつより2千円
も安いのである。こういう、身の回りの小物を買うとなんか
こころがウキウキしてきますな。

 時計や筆記用具もそうなんだが、この手の小物を新しく
すると妙に嬉しくなるのはなぜなのだろう。「雰囲気が変わ
る」と言えば簡単なのだが、なんか「万事が決まりきった退
屈極まりない毎日に、新風が吹き込んでくる」感じがするか
らか。もちろんあくまで「感じ」だけあって、実際の生活はな
にも変わりはせんのだが。

 というか、むしろあまりに劇的な変化は、こちらの好むとこ
ろのものではない。「退屈だ」などと言いつつ、この凡庸かつ
変化のない毎日にいちばん頼っているのがむしろわたし自
身である。変化がないからこそ、わたしの無能さもそんなに
明るみに出ないで済むのだ。

 で、家に帰って中身を旧バッグより新バッグにいれかえる。
しかし我ながら旧バッグの中、ゴミの固まりである。なんか妙
な紙くずとか、三年前に買ったはずの文庫本とか、3カ月前に
期限の切れたクーポン券などが、あきれるほど詰まっている。
それにものすごい数のキャバ嬢の名刺。現在中野勤めのキャ
バ嬢の、上野時代の名刺が出てきたりして、感慨深いものが
ある。今はもうなくなった店の名刺もたくさんあり、「ここ数年間、
俺の思い出はキャバクラだけか」とやや嫌んなったのも事実で
ある。

今週からは心機一転、新たなバッグでいろいろと歴史を作って
いくかと。

「そのバッグ、パンパンですけど、なにが入ってるんですか?」
「ん? これか? もちろん夢と希望だ」
というギャグは、これからもキャバクラで引き続き使っていくこと
としたい。

勇気と希望とサムマネー

2006-01-30 21:56:28 | Weblog
 「人生に必要なのは、勇気と希望とサムマネー」 チャプリ
ンが映画ライムライトで言った台詞だそうである。なんか知ら
んがホリエモン批判の言葉としてこの言葉を小泉総理が引
用、この言葉のあとに「ビッグマネーは必要ない」と。でもや
っぱ小泉さんは小泉さんなので「勇気」の部分を「夢」と取り
違えてたらしい。

 しかしなんだ、小泉総理にとってサムマネーとはいくらくら
いの金額なのか。腐っても自民党の政治家、百万単位の金
などにびくつくアレでもあるまい。

 わたしも職場において、千万単位の金額が記載された書
類をアレコレしているわけだが、こんなモン正直言って単な
る数遊びの次元に近いものであって、「マネー」という感覚が
まるでしない。注文違いで会社に数百億円の損害与えた事
件があったが、あの間違いをやったひとも、「会社に損害を
与えた」って意識、ものすごい希薄なんじゃないだろうか。堀
江氏にしたところで、書類の操作でザクザクと産み出される
通帳の数字を、はたして「マネー」として認識していたかどうか。

 サムマネーとビッグマネーのいちばんの違いは、「その金額
によって自分の普段の生き方を見失うか見失わないか」その
一点につきるのではなかろうか。ダンボール箱一杯の万札を
与えられたとしても、その箱を押入れの中にしまいこみ、通常
となにも変わらない生活ができる人間がいたら、その人間にと
ってそのお金は何十億円あろうとサムマネーなのだ。逆に、そ
の金高がたかだか数十万円であっても、気が大きくなっていつ
もはやらない浪費に邁進するとしたなら、そのお金はビッグマ
ネーなのだ。

 器のちっちゃいわたしとしては、100万あったら充分ビッグマ
ネーであり、くだらん遊びに蕩尽しそうであるが、貧乏人特有の
ゴーカイな金銭感覚が、なかなか無駄遣いを許さない。もう、シ
ョートケーキを買ったら巻かれたセロファンについてる生クリーム、
あれを全部なめないと気がすまないくらいの貧乏。カップのアイ
スクリーム、あれ買ったらふたをなめるとこからはいる自らの情
けなさ。

 この手の情けない習慣をもとから絶つには、やはりサムマネー
では足りないのだ。黙ってても叶姉妹が寄ってくるくらいのビッグ
マネー、人生の中で、ほんの一瞬でいいから所有してみたいもの
である。


組み合わせの妙

2006-01-29 19:38:25 | Weblog
 昨日の府中のメインレースはG3東京新聞杯、江田照
騎乗の11番人気の伏兵フジサイレンスが大外強襲を決
めたわけだが。

 それにしても2着はオレハマッテルゼ。最近このくらいで
は珍名とは感じられなくなった感覚の麻痺が恐ろしい。先
に某有名ブログにおいて、オレハマッテルゼとオトコノユウ
ジョウの二頭が出ていたレースが取り上げられていた。た
しかになんというか、「いい取り合わせ」ではあると思う。
だが昨日の東京新聞杯ではもっと凄い組み合わせであっ
た。

 1枠2番イヤダイヤダ。調子がいまいちだったのか実力が
ナニだったのか、9着に敗れたが、万一この馬が好走して
いたらと思うとちょっとアレ。というかアレすぎ。

「最後の直線、先頭はオレハマッテルゼ。オレハマッテル
ゼ1馬身リード。さあ、内をついてイヤダイヤダ。イヤダイヤ
ダが伸びてきた。イヤダイヤダ捕らえるか、オレハマッテル
ゼ、イヤダイヤダ、オレハマッテルゼ、イヤダイヤダ、オレハ
マッテルゼ、イヤダイヤダ、わずかにイヤダイヤダか」

 これではストーカーとその被害者である。オトコノユウジョ
ウとの取り合わせは思わず微笑がこぼれたが、これはなぁ。

 そういえば数年前の中山グランドジャンプで、外国馬でボ
カボカという馬が出走していた。一番人気は当時全盛だっ
たゴーカイで、「この二頭で決まればゴーカイにボカボカ。な
んかひとどついてるようでアレだな」と笑い話のネタにしてい
たら、ほんとにこの二頭でワンツー決めたことがある。知りあ
い、この語呂合わせが面白いといって馬券を買って見事に
的中。馬券が当たるときってそんなモンだったりします。

 そしてまた本日、ややストロングな名前の馬が府中の第1
レースに出走していた。

 第1レース サラ三歳未勝利 牝馬限定 5枠9番 ゴックン

 牝馬でゴックンですぜ。なに飲むんだいったい。で、この馬
当該レースで2着に好走しましてですね、テレビ見てたら実況
でこの馬名が呼ばれること呼ばれること。「ゴックン、ブルーポ
ラリス、ゴックン、ブルーポラリス!」

 ツバキとかナマツバなんて馬が出てきたら。いやそれより、
先にも書いたが船橋所属のキンタマーニ、かの馬との豪快な
対決をなにとぞ実現してもらいたいと思う。

ケガレについて

2006-01-28 05:31:03 | Weblog
 数日前のブログで、「牛肉食って狂牛病になるより、
交通事故にあう確率の方がはるかに高い」てなことを
書いたのだが、米国政府のエライさんがおなじ趣旨の
発言をしてたと知り、びっくりした。日本の吉牛ファンが
言うのならわかるが、輸出側が言っちゃいかんだろ。米
国人というのは基本的に「他人の気持ちになれない」
ひとたちなのかもしれない。

 テレビのニュースでもこの話題がとりあげられており、
「日本の公衆衛生の意識は世界でも高く、米国ではそ
うでもない。そのギャップがあのような発言を産んだの
ではないか」てなコメントが識者の方から寄せられてい
たが、「ああなるほど」と。日本人というのは間違いなく
「キタナイもの」には敏感だ。日本特有の神道という宗
教、これ生粋の日本人でもどんな宗教か説明するのは
難しいのだが、要するに「世の中にはケガれたものとそ
うでないものがあり、ケガれたものは祝詞によって祓い
清めることができる」というのがアレである。「ケガれ」の
意識というのは日本人のこころの根本に根付いている
のだ。

 通常の日本人てのは、家庭において箸と茶碗は自分
専用のを持っていると思うが、こういう習慣はたぶん西欧
にはないんじゃなかろうか。他人と食器を共用するのさえ
嫌がるのが日本人。特に箸については、外食においてす
ら割り箸が主流である。「他人の使った箸を使う」というの
は、ちゃんと洗ってさえいればなんの問題もない話なのだ
が、それでもなんとなく違和感が伴う。「赤の他人が一度
使った箸はキタナイものであり、実害があろうとなかろうと、
それを使って飯を食うことはなんとなく嫌だ」というのは、日
本人に共通する感覚ではなかろうか。

 考えてみれば、「抗菌グッズ」なるものがこんなに売れる
国が他にあるのか。抗菌グッズというのも、「実害のある細
菌を取り除く」というよりも、「感覚的にケガレを除去する」役
割の方が高い気がする。いわば「科学的根拠をもった祝詞」
みたいなものかしらん。そういえば子供のいじめで、いじめ
られっ子をばい菌に擬し、「××菌」とあだ名つけてからかう
というのは常套手段であるが、西欧諸国でもああいうたぐい
のいじめはあるのだろうか。

 そういえば日本の特有の差別、民差別も「ケガレ」と切
っても切れない関係にあるものである。黒人奴隷を調理人に
やとってこき使う、米国流の人種差別とは、これはまた根がま
ったく違うものであった。相互理解の道はやはりけわしい。

おやじギャグの実体

2006-01-26 21:50:32 | Weblog
 猫ひろしという芸人さんがいて、といっても最近
ネタをやる番組なんぞまったく見ていないので、
バラエティの片隅にいるのをチラッと見るだけなの
だが、それでもネットの掲示板などを見るにつけ、
割に人気があるのだな、という認識だけがある。
しかし乱れた文でありますな。

 しかし変な名前だなぁ、何を思って猫なんぞとい
う姓を名乗ってるんだろと疑問に思っていたのだが、
こないだ雷にうたれたように答えがわかった。舘ひ
ろしがいるから、猫ひろしなのであった。タチとネコ。
レズ関係における対義語である。

 こういう、頭を何重にもひねらないとダメなギャグも
あるのだが、通常の生活を送っているとこんな複雑
怪奇なギャグにはなかなかふれることはできない。
それこそ「布団がふっとんだ」レベルのダジャレであ
るか、あとはもう陳腐なことこの上もない時事ネタか
である。

 一時、ちょっとセキをしただけで「おい、鳥インフル
エンザじゃないのか」というオヤジが続出した時期が
あった。この手のオヤジは本当に多く、わたしの職
場でもふたりのオッサンがまったく別々におなじギャ
グを言った。その後、出入りのキャバクラでつくねー
さんつくねーさんに、「最近ちょっと風邪気味なだけ
で鳥インフルエンザ云々の冗談を言うオッサンいな
いか」と尋ねたところ、間髪おかず「いるいるいるい
るいる」という回答が返ってきた。安易なギャグとい
うのは簡単なだけに皆が同じことを思いつく。

 ダジャレというのも同じカテゴリーのものであって、
「コーディネートはこーでねえと」なんてのは、ちょっ
と頭をひねればだれもが思いつくものだ。逆に、おな
じダジャレでも、「毒ガス、7月、8月」なんてのはな
かなか思いつかない。

 言葉遊びというのはたいへん面白いものなのだが、
優れたギャグというのはなかなか創れるものではない。
しかもこっちはそろそろ脳細胞の衰えが著しいオッサン
である。安易なダジャレに逃げるのも少しは大目に見
ていただきたいものである。

 もっともオヤジというのは、周りがうけるまで同じギャ
グを延々と言い続けたりする。これが周囲にとって迷惑
以外のナニモノでもないというのは、さすがに想像でき
る。すべった場合は静かに退避。退却もひとつの勇気と
いうのはやはり真理なのだ。

バッグ求めて

2006-01-25 21:27:44 | Weblog
 きょうはひさびさの有給休暇。朝飯食べたあとふ
たたび布団の上に横になり、ウトウトとして目を覚ま
したら午前11時半。なんかね、こういう毎日が送れ
るのならそりゃ無職も多くなるなと。

 で、昼ごはん食べたあと散歩に出る。通勤用のシ
ョルダーバッグが傷んできているので、適当なモノが
あったら買おうというのが主目的。肩紐の、金属部分
が目に見えて削れてきており、このままだとすっぽ抜
けるのも間もなくである。電車に乗り込む瞬間バック
が突然下に落ちたとしたなら。想像するだに恐ろしい。

 パンパンに膨らんだショルダーバッグ、それも合成
皮革の真四角なやつは、ファッション的には罵倒の嵐。
肩紐がずしっとスーツの肩にかかると、当然シルエット
がだらしなく崩れるから、ファッション的にダメ出しされ
るのはむしろあたり前ではある。そのことについて文句
を言うつもりはない。ただね、両手が空くので行動する
のに楽なんである。リュックのように他人に迷惑かける
ことも少ないし。

 で、町田近辺の長崎屋やらドンキホーテやら、はては
足伸ばしてダイクマまで見にいったのだが。

 合成皮革の縦型ショルダーバッグて、いま全然店にな
いのね。あれだけファッション的に評判が悪いと、メジャ
ーな店からは徐々に駆逐されているのか。あるのはナイ
ロン製の横型ショルダーばかり。素材はナイロンでも別に
かまわないのだが、縦でないと電車の中等で他人の邪
魔になる可能性が高い。

 入れるものといえば新聞数部に文庫本数冊、あとポケ
ット地図と折りたたみの傘に携帯電話。手帳とシャーペン、
ボールペンに消しゴム。あとはシャーペンの芯を少々。こ
れだけでも意外とかさばるのである。だから、ある程度モ
ノがたくさんはいるものでないと困る。また、わたしのバッ
グの使い方は少し乱暴であり、長くても4~5年でつぶして
しまうので、それほど高価なものを買うわけにもいかない。
結構条件が多いんですな。

 合成皮革の縦型ショルダーバッグのような、ダサいもの
がある程度数揃っておいてあるところってどこだろうか。や
はりオッサンのメッカといえば、上野から浅草のあの道筋
あたりか。今度の日曜、あの辺を散策して安いバッグの
発見を試みることとする。多慶屋の底力に期待。


襲名の意味

2006-01-24 22:25:15 | Weblog
 立行司の木村庄之助が引退だそうで。行司の場合、
引退というより定年退職といった方が適切かもしれん
が。

 立行司というのは相撲の番付に例えれば横綱であ
って、長い修行期間を経てやっとたどりつける地位で
ある。ここで特殊なのは立行司の名前として通用する
のは木村庄之助と式守伊之介のふたつしかない、と
いうことだ。逆に言えば、「立行司になるということ」=
「木村庄之助、または式守伊之介という名前を襲名す
ること」なのだ。この点、歌舞伎俳優や落語家の世界
の襲名より意味は重い。

 歌舞伎俳優は、まだ「大きな名前」というのが厳然と
あるが、「大名跡がふたつしかない」なんてことはない。
落語家の場合は、大名跡というのはあるにしろ、最近
では名人や天才と称される落語家が大名跡を継ぐこと
はあまりない。考えてみればメディアの発達した現代で
は、さまざまな意味で本当に才のある芸人というのは若
いうちから売れてしまい、「名前を変える」ということにつ
いてメリットがあまりないのであろう。志ん朝も大きな名
前ではないし、小朝なんて前座名のままである。談志は
ある程度重い名跡ではあるものの、中堅真打の名前で
ある。逆に、今の文楽はぺヤングのCMに出ていた元の
桂小益であり、あまり名人という評価はされていない。
元こぶ平の正蔵にしろ、「うまくなった」と評価されること
はあっても、「名人だ」などという評価がされたことはない
はずだ。「大きな名前を継いだ人気者」なんて、橘家円蔵
まで遡らないといけないかもしれない。

 関西の落語家だと、デカい名前というのはもう底抜けに
デカい。曽呂利新左衛門といえば秀吉に仕えた伽衆とし
て著名であるが、明治時代、この名前をパクった落語家が
いた。二世曽呂利新左衛門という噺家。二世の部分を「に
せい」でなく「にせ」と読ませ、「フェイクです」という謙りの
気持ちをこめたという。

 昨年、上方では露乃五郎が上方落語の開祖の名前であ
る露の五郎兵衛を襲名した。これまた大きな名前である。と
いうか、これも曽呂利新左衛門と同じく歴史上の人物の名
前であり、二代目を名乗った人間は今日までいない。つまり、
いわゆる落語家の名跡とは意味が異なるのだ。

 噺家の世界だからこういうのが許されるのかもしれない。そ
ういえば羽柴秀吉を名乗ってる立候補者の方がいたが、あれ
も同じようなものかもしれない。


 

吉牛食いたや

2006-01-23 04:40:32 | Weblog
 しかし米国産牛肉、いろいろと大変なようで。

 かつて国内で狂牛病が発生したとき、国産牛肉が猛
烈に忌み嫌われたことがあった。忘年会シーズンだとい
うのに焼肉店はがらがらで、ビール半額サービスなどと
いう赤字覚悟のサービスをしても客が来ない。「国産牛
肉食って狂牛病になる確率なんかより、きょうの帰り道
交通事故にあう確率の方がはるかに高いわい」と声高
にわめきまくり、普通カルビを2皿しか食わないところを
3皿食ってたあの頃が懐かしい。

 あの頃は、「当店は安全な米国産牛肉のみを使用し
ております」と貼り紙をしたスーパー、弁当屋がいくらも
あり、「ちょっと前は国産牛使用というのが売りの店が
いくらもあったのに。時代は変わるものだなぁ」としみじ
み思ったものであるが、ほどなく「米国牛より国産牛」と
いう価値観に戻った。やっぱ、アメリカは食い物につい
ての対応が雑だわ。

 しかし、ただでさえ牛肉輸入の解禁、米国のごり押し
的なイメージが強かったのに、そのうえこの失態。「狂
牛病に注意するより交通事故により注意する方が、命
を守るうえにおいては有益」という、先の主張を引っ込
める気はないが、それでもこんな米国の対応を見てると
アメリカ牛を食うのにやや躊躇する。わたしでさえそうな
のだから通常の、マトモな神経を持った消費者ならば口
にしようとは思わないのではなかろうか。

 なんか、アメリカの牛肉生産業者の組合長みたいなオ
ッサンが、「一箇所の一部の肉の手落ちなのに、輸入を
全面的に禁止するなんて日本政府の措置はきびし過ぎ
る」と主張なさってたようだが、これ以上日本人の神経逆
撫でしてどうすんだよと。「アメリカって国はやっぱり、外
国人の命なんてなんとも思ってないのだなあ」という印象
が強くなるばかりである。

 もっとも、「輸出する食品において手抜きする」というの
はアメリカばかりではないのもまた事実。韓国では生ゴ
ミを具とした餃子を他国に輸出し、中国は寄生虫の卵入
りキムチを韓国へ輸出する。松屋の牛丼は、中国産牛肉
を使用とのことだが、あれを食うときは他のチェーン店の
牛丼食うときよりややこころ構えをするのもまたたしか。

 吉野家のあの牛丼、わたしが生きている間ふたたび口
にできるのだろうか。つーか、幕末から明治の初期にかけ
て、牛肉食いというのは無頼漢の度胸試しだったこともあ
るらしい。将来、「アメリカ産の牛肉を食う」というのが、不
良の度胸試しになる時代がふたたび来るのかもしれない。

雪の土曜

2006-01-22 00:13:38 | Weblog
 きのうは雪のため、中山競馬中止。仕方ないので後
楽園まで行って京都と小倉の馬券を買い、その後家で
のたくっておりました。ヒマですな。

 中山最終週ということで、ちりめん亭の中華そば、初
花のソースカツ丼、北斗の味噌ラーメン、トピカプのビー
フカレー、あるいはやはり中山競馬場の食べ物の最高
峰たる下辰のカレー丼、これらのうちのなにを食おうかと
楽しみにしておったのだが、結局無駄に終わってしまっ
た。頭にきたのでこれらの食い物の紹介にきょうのブロ
グを消化する。食い物の恨みはかようにして深い。

 下辰のカレー丼とちりめん亭の中華そばに関しては先
に紹介済みであるので、まずは北斗の味噌ラーメン。寒
いときに食うラーメンというのは、やっぱ「至福」としか表
現しようのないモノではあるが、味噌ラーメンのあつあつ
のスープをすすりあげるというのはまさしく「生き返る」。
こくのある、ダシのきいた味噌スープに漬かったちぢれ麺。
大量に盛られた炒めモヤシとともに口にいれるおいしさ。
ああ、書いてるうちに食べたくなってきた。

 地下のファストフードプラザ内にある初花のソースかつ丼。
あげたてのさくさくとしたトンカツが、どんぶり飯の上に盛ら
れているわけですよ。そこに自らの手でとんかつソースをど
ぼどぼとかける。ほかほかご飯と、上に乗せられている千
切りキャベツ、それに濃厚ソースの味ところものサクサク感、
さらに豚肉の旨味が加わりおいしいのなんの。たしかにここ
よりおいしいトンカツというのはいくらもあるだろう。それは間
違いない。だが競馬場の地下で立ち食いするには、あまり
おいし過ぎてもダメなのだ。おいしいけれども、「ああ、うめ
え」と気軽に言えるレベルのおいしさでないと。思わず襟を
正しちゃうようなレベルのおいしさではアレなわけです。

 冬の競馬場で食う食い物というのは、ある意味ジャンクフー
ドの頂点に近いものなのかもしれない。来週からは府中開催。
さてなにを食うか。いまだに吉野家の牛丼が食べられる数少
ない場所たる府中競馬場。やっぱり吉牛からはじめますかね。

間違い電話

2006-01-21 06:03:22 | Weblog
 職場に非通知で電話がかかる。「はい、××××○○
グループでございますが」「多々良さんですか」「え・・・×
×××ですが」「多々良さんじゃないんですね」「はぁ、×
×××です」「そちら何番ですか」「5×××-4×××で
すが」「そうですか(ガチャ)」

 とりあえず多々良さんがナニモノなのか激しく知りたい気
もするが、こういうのは電話のマナーとしてどうなんだよと。
幾度かけても間違った場所にかかった場合、相手の電話
番号を尋ねるというのはわかる。でも一回目の間違いで相
手の番号聞くか普通。そんなに自分が正しい番号をかけた
という確信があるのか。間違ったところにかかった場合、ま
ず第一に自分のボタンの押し間違いを疑うもんじゃないのか。
「ごめんなさい間違いました」の言葉がなかったことより、こ
っちの方がなんかむかついた夕暮れであった。しかし声と口
調からすると年配の女性。やっぱオバサンというのは思いっ
きりタチが悪いと思った。
 
 しかしこっちだって間違い電話をかける可能性というものは
常にあるわけで。といっても、番号登録機能のついた電話の
普及により、昔みたいな「番号の押し間違い」による間違い
電話は随分減ったのだろうが。

 やりがちなのは携帯の登録画面を開き、名前選択するとき
一個上や下を誤って選択してしまう場合。以前同伴の待ち合
わせのときにそれをやった。「今新宿つきましたよ」「え・・・あ
んたきょう店来られないって言ってたじゃん?」一個下の違う
キャバ嬢にかけちゃったわけである。指名のねーちゃんの源
氏名が似てるんだこれが。そのあとの言い訳はなんか言語
障害のひとのようにグダグダであった。

 もっともこのねーちゃん、数日後いきなり「きょうの待ち合わ
せ8時でだいじょうぶだよね」と電話かけてきたことがあった。
向こうも他の客と間違えたのである。因果というのはこういう
風にして巡る。

 しかし電話のボタンをじっとみるにつけ、「この番号の組み
合わせによっては、飯島愛に電話かかるかもしれんのだよ
な」と思うと、なんかアレな気分になってきますな。「間違い
電話から生まれた恋」なんてのも、絵空事のラブストーリー
的にはアリかもしれない。もっとも、間違ってヤクザの方にか
かる可能性も同時にあるわけで、引きの弱いわたしとしては
前者より後者の確率のほうがはるかに高そうな気もする。

現実から遠く離れて

2006-01-19 21:34:15 | Weblog
 江口寿史に、「わたせの国のねじ式」という傑作がある。
簡単に言うとつげ義春の「ねじ式」のパロディなのだが、本
家がメメクラゲに腕を刺され、止血のために医者を求めさま
ようのと引き換え、江口の作品では主人公が下痢をもよお
し、トイレを求め街をさまようのだ。

しかし迷い込んだのはわたせせいぞうの世界。ご存知とは
思うが、あれほど排泄物とかけ離れた世界もまたあるまい。
商店街には飲み屋ばかり。「ひとが生きていくために最も大
切なモノが欠けている」わたせの世界に、トイレなどはあっ
てはならないのだ。

 しかしそのような漫画が、一時売れていたのもまた事実。
あの、「格好悪いモノ」をすべて黙殺した世界。道路に落ちた
犬の糞やら、公園にテント張って暮らすホームレスやら、あ
るいは「つぼ八で上司の悪口をえんえんと述べる四十男」と
いった、「できればあまり目にしたくないモノ」の存在が、あの
世界では許されない。出てくる人間はみな美男美女か愛嬌
があり、世界は美点にあふれている。「ああいうモノに耽溺す
る人間の気持ちがわからない」というわけではない。むしろわ
かりすぎるくらいわかる。もしわからない点があるとすれば、
あれ読んでる最中、ふっと我に返る瞬間が一回もないのか、
ということなのだ。

 人生が長くなればなるほど、恥や苦悩も多くなる。そしてそ
の大部分は、泥臭いうえにカッコ悪い。わたせせいぞうの漫
画のように、「上澄みすくって生きる」というわけにはいかない
のだ。もちろん、逃避のためにはそういうにおいのしない漫画
に逃げ込む、というのはたしかに理屈が通っている。だが、自
らを省みて、現実との相違にふとしらける瞬間、というのは彼
らにはないのだろうか。

 まあ、そう言っているわたし自身だって現実離れ漫画のもう
一方の雄、克・亜樹の「ふたりエッチ」などを読んで喜んでい
るからひとのことは言えないかもしれない。「美人で性格優し
くて二十数歳まで処女」とヘタレ童貞の結婚て。まあアレだ、
ありえぬことを夢に見るという点において、わたせファンとハー
レクイン・ロマンス好きと42才独身脂ハゲとは、案外近い関係
なのかもしれない。

文と外見

2006-01-18 21:11:46 | Weblog
 たまに梶井基次郎などを読み返す。「檸檬」なんて
のはいつ読んでもいいですな。

 しかしこれはいろんな方がネタにしていることでは
あるが、あのように繊細な文章を書き、優美な発想
のできる作家が、ナニユエあのような体育会ばりば
りの外見なのか。なんか、高校の柔道担当の体育
教師みたいなんだもの。「結核持ちの文学青年」と
は、あまりにもかけ離れていないか。

 当時の文学青年などというモノは、ほとんどすべ
て不良と同義語であったのだが、梶井基次郎もそ
の例に漏れず、かなり無茶をやったらしい。つーか、
本屋の棚に檸檬を置いて「爆弾だ」などという児戯
よりも、本人の方が爆弾に近かったという、なんか
いやなオチであります。

 外見と作品の距離ということに関しては、最近で
は村上春樹が有名でありますな。繊細な文章を書
く人間は、自動的に繊細な容貌をしているはずと即
断するのが人間の業。あんな、売れない関東の漫
才師のツッコミ役みたいな顔のオッサンが、「ノルウ
ェイの森」を書いたと思うのは少しいやである。

 もっとも中原中也の如く、「おお。いかにも夭折した
詩人であるな」と思わせる容貌の写真が残っている
人間もいるが、彼の親友たる大岡昇平によると、あの
オカマ帽をかぶった目の大きな美青年風の写真、あ
れは一生に一度のベストショットだったらしい。「本人
はシワの多いただのオッサン顔」だったというからや
やさびしい。

 考えてみれば、文学者の写真というのは「この一枚」
というのしか出てこない場合が多い。漱石しかり鴎外し
かり。宮沢賢治もそうだし、ずっと時代がくだって太宰治
もそんなに写真の種類があるわけではない。

 文章と外見を安易にリンクさせて考えるのも愚かだが、
たった数枚の写真のみで外見を決め付けるというのも
また愚かなのだろう。疑う者はキャバ嬢を見よ。キャバ
嬢が名刺や看板、雑誌に載せるために使われるベスト
ショットと、実際に会った印象との格差。村上春樹も、実
際に会って話をしたら小説そのままのダンディなおっさん
かもしれない。

ドラマ化ごっこ

2006-01-17 22:41:32 | Weblog
 浅田次郎の短編集「鉄道員」(集英社文庫)に、「角
筈にて」という泣ける小説があるのだが。

 ストーリーは例によってマンネリ極まりない浅田節、
仕事上の失敗から南米に左遷されるエリート商社マン
が、出発の直前父親の亡霊と出会うことで、こころの傷
を癒され再生する、というのが大筋である。しかしマン
ネリの極みとはいえ、ラストシーンの父と子の会話はや
はり反則。

 先日、コピーライターのT田氏と、西船橋の牛角におい
て差し向かいで雑談全開の2時間を過ごしたわけだが、
その中で、「角筈にてを画像化したらキャストはどうする
か」という話題になった。「あの作品はラストシーンが並
みの演者では演技不可能。でももし映像化されるのなら、
主役は小林薫、カミサンは樋口加南子、父親はモト冬樹
か斉木しげる。他のキャストを使うなら俺にも考えがある」
などと、中生5杯の勢いを借りて暴言を吐いていた。他人
の目から見たらこれ以上ないほどの純粋な酔っ払いであ
る。

 で、帰宅後もぼんやりとこの発言を記憶しておったので、
グーグル使ってサーチをかけたところ、なんと1999年に
テレビ東京でドラマ化されていた。主演は西田敏行、カミ
サンは竹下景子、父親役は柄本明。東大卒のエリート商
社マンが西田敏行てのもなんだかなであるが、竹下景子
というのもちょっとねぇと。竹下景子のイメージというのは
ごく平凡な良妻であり、「夫から中絶を強要され、二度と
子供を生めない体になりながら、それでも夫をこころから
愛する妻」なんて役とはややかけ離れている気もする。し
かし父親役の柄本明というのはかなりイメージ通り。DVD
も出ているらしいので、見掛けたら買おうと思う。

 こういう、「ドラマ化したらキャストはだれ」というのは、馬
鹿馬鹿しいだけあってツボにはまると話題が広がる広がる。
ドラマ化されたら確実に数字とれるであろう伊藤理佐の漫
画、「おい、ピータン」やら「チューネン娘」やら、あの配役も
だいぶ前から考えていたりする。「人望があり女性にほの
かにモテモテのデブ」大森利夫役は、キャイーン天野かそれ
ともドランクドラゴン塚地か。恋人役はやっぱ篠原涼子、元カ
ノはやはり財前直見あたりであろうか。しかしなんで今まで
伊藤理佐の漫画は映像化されないのであろうか。「大衆性」
という点じゃ内田春菊などよりはるかに上だと思えるのだが。

 きらたかしの「赤灯えれじい」あたりも、そろそろ映像化が
近いのではないか。へタレとヤンキーの恋物語というのは、
案外双方にとって理想なのかもしれん。つーても、映像化さ
れたらヘタレも二枚目が演ずることになるのだろうが。

 

ひさびさにマズイらーめん その2

2006-01-16 05:04:53 | Weblog
 中野駅近辺をうろうろとし、ラーメン屋を探す。北口周
辺のコチャコチャとした通りを、右に曲がったり左に折れ
たり。マジでこのあたりのラーメン屋密度は高い高い。
ブロードウェイの店内だけで、ラーメン食べさせる飲食店
が何軒あるかわからないほどだ。

 そのうちに一軒、九州ラーメン系の店を見つける。ドア
越しに店内を覗くと、カウンターだけの比較的小さな店で、
客もそんなにはいっていない。たまにはトンコツ系のラー
メン食うのもいいかもしれないと、ドアを開けて中にはい
ると・・・

 「イラッシャイマセッ」と景気のいい声がかかる。張りの
あるいい声だなと、その店員を見ると、色は浅黒く顔の彫
りは深く、どう見ても日本人ではない。パキスタンとかイン
ドネシアとかマレーシアとか。宗教的には70%の確率で
イスラムのひとだと思える。つーか、ムスリムがとんこつラ
ーメン店に勤めることに関する、アラーの神の見解はどん
なもんなのか。

 たしかに、安い飲食店に外国人が勤めていることは、最
近では珍しくもない話だが、ラーメン屋に中国人というのな
らともかく、九州ラーメンに東南アジアまたはパキスタンの
ひとというのはいかがなものか。人種差別する気は毛頭な
いが、やっぱ雰囲気がちょっとなあ、と思わざるをえない。

 券売機で食券を購入。正油とんこつ600円。九州ラーメン
系はひと玉の分量が少ないので、替え玉の券も同時に購
入。それが100円で計700円なり。中野駅前のラーメンとし
ては平均より少し安い値付けである。食券をカウンターに
乗せると、「茹で方なんかは普通でいいですか」と聞いて
くる。数年前なら「茹で方は普通で。味はコッテリ」と注文
いれたモノであるが、年をとったせいか最近では味も「普
通」で充分になってしまった。年はとりたくないものである。

 待つこと約5~6分、差し出されたドンブリにはコッテリとし
た濁りトンコツスープにやや細い麺が漬かっている。「普通」
の濃さのはずなのにスープのコッテリ具合は標準をはるか
に凌駕しており、なんか液体というより半ば軟膏状。わたし
の額にすりこめばかなりツヤが増しそうである。

 コショウをさっと振り、割り箸をパキッと割って麺をすすりこ
み、レンゲ使ってスープを飲む。

 麺がゆですぎてグダグダなのはまあいいとしよう。なんつ
ーか、歯に負担のかからないゆで具合であり、こういう麺が
好みという人間も相当数いるのかもしれない。しかしこのス
ープはキツイ。とんこつ正油味のはずなのに口の中に広が
るのは魚の味ばかり。いや、魚系のダシというのはうまく使
えばラーメンのスープとしてとても合うものである。例えば同
じ中野にある南湖など、ほのかに香る魚の味が醤油スープ
に絶妙な深みを与えている。しかし魚系の味というのは、本
来透明な醤油スープの隠し味となるべきもので、最前列に
立って強烈に味を主張すべきものではないだろう。ましてや
トンコツスープにおいておや。

 替え玉もいれて合計2玉をなんとか食べつくす。コッテリと
いうよりむしろシツコイという形容の方が近い濃厚スープ。2
玉目の最後の方では、誇張でもなんでもなくマジで気持ち
悪くなってくるほどだ。やっとのことで全部食べ終え、ふと目
の前を見ると・・・

 「6玉完食なさった方には、店名いりのオリジナルシャツを
差し上げます」てな張り紙が堂々と・・・・しかも、完食者たち
が書いた色紙がこれでもかとばかり貼ってあり、「おいしかっ
た」だの「5玉目までは本当にうまかった」だのと・・・。

 このシツコサを乗り越え、6玉も食う人間がいるとはなかな
か信じられない。しかも「おいしかった」だと・・・貴様らの舌と
胃袋はどうなってるんだよボケ。そんなにコッテリが好きなら、
オッサンの頭部の輝き具合をオカズに飯でも食ってみるかコ
ノヤロウと、理不尽な憤りを感じた。つーか、他人と食べ物の
話をするのは本当に難しい。こういう好みの人間とわたしが、
料理に関して語ったとしても、得られるモノはなにひとつある
まい。お互いに。

 「他人の価値観を知ること」というのは、視野がひろがるこ
ともあれば、このように「所詮他人とはわかりあえない」とネ
ガティヴな気持ちがどかーんと大きくなることもある。これが
今回の教訓。

ひさびさにマズイらーめん

2006-01-15 05:04:18 | Weblog
 ひさびさにマズイ食べ物屋ネタである。

 一昨日の金曜、仕事終えた後中野のキャバクラへ行っ
た。いそいそと午後6時半に仕事終え、「わー。一週間や
っと終わった~。××ちゃんに会える~」とウキウキしつ
つ帰り支度をしている最中、携帯にメールが届いてるのに
気づく。「ごめん。店入るの8時半になった」 

 6時半に有楽町にいる男の、次のスケジュールが中野
で8時半。移動に30分かかるとしても、7時には中野に
着く。つぶすべきヒマな時間が1時間半。仕方ない。夕飯
をどこで食うか、ジックリ迷ってヒマをつぶそうと決意する。

 中野駅前というのは、ご存知の方もいるであろうが大小
の飲み屋、飲食店が集まりとてもゴチャゴチャとしており、
悪く言えば雑多極まりなくよく言えばなんとなくあたたかい、
そんな街並みであります。その細い小路をうろうろしつつ、
なにを食うか思案投げ首の脂ハゲ。吹き行く風がまた冷た
く、人生の盛りをとうに過ぎた今年で43才のオッサンの肉
体をジンワリと痛めつけていく。「ハラヘッター」というこころ
の声と、体に感ずるとてつもない寒さがミックスされ、いまに
も雪女の幻覚でも見るんじゃねえかという勢い。

 小路を彷徨しつつ、「やっぱ寒いときにはラーメンだよなー」
という、凡人にありがちな結論に達する。中野駅前といえば
都内でも有数のラーメン激戦区。全国的にも名の知れた青
葉を筆頭に、山頭火あり味七あり菜華あり、白河らーめんを
標榜するわたしの大好きな南湖があり、と店探すだけでここ
ろがはずむくらいだ。

 だが時間があることもあり、いつもはいってる「無難な店」は
避け、たまにゃ違う店はいってみるか、という気になる。それ
がまあ、貴重な体験のはじまりだったわけだ。

 長くなりそうなので次回に続く。