休みの意味

2005-10-27 22:32:37 | Weblog
 世にいる平均的な42歳と、わたしとではだいぶ立
位置が異なることはわかってはいたが。

 きょう職場で、休みの過ごし方などが話題になった。
ひとり者のわたしにとって、「休暇」とは完全に自由な
時間であり、朝はだらだらと布団の上で横になり、午
後からは足の向くまま気の向くまま、ふらふらと彷徨
するというのが標準的な休みの過ごし方なのだが、
職場の、30代後半から40前半の標準的なオッサン
とは、根本的に休みの意味が異なるのであった。

 要するに、彼らは「なにかをするために休暇をとる」
のであって、「なにもせずに休む」ために休暇をとるの
ではない、ということである。

 「所帯を持つというのはそういうことなのか」と、いま
だヨメが来ない42歳脂ハゲはかように考えるわけだ
が、しかし、「常に家族という他人のために生きる」の
はツライことであろうなと。いや、「他人のために生き
る」ということに、ある種の快感があるのは理解できる
のだが、それが24時間、365日続くとなればやはり
辛いと思う。

 結婚生活の愚痴というのは、そういうところから生ま
れるのであろう。隣に座っているオッサンに、「じゃアレ
ですね。休暇とって、家族にそれを言わず通勤時と同
じ時刻に普通に家を出て、そのままふらふらと足の向
くまま遊びに出れば、気が休まるかもしれませんね」
と言ったら、前の席に座っているオッサンが間髪いれ
ずに、「わたし、たまにそれやってますよ」と。ひとり者
の無邪気な冗談が、たまに核心つくから油断がならな
い。

 ひと昔前なら、家族が会社に電話いれたりしたら一発
でバレ、大変なことになるんであろうが、携帯電話が普
及した現代、そういう事態が起こる可能性は極めて少な
い。「あれ、会社にしては騒がしくない?」「ああ、今外回
りの途中なんだ」ですべてが納得されてしまう。携帯電話
というのは所帯持ちのオッサンの、秘密の休暇にも役立
っているのである。

 しかし、一生を所帯持たずに終える可能性の極めて高い
わたしにとって、「秘密の休暇」などというのは無縁のもの
である。まあ、布団の上の至福を当分味わえるというのは、
少なくともわたしにとって幸福なことであるのは間違いない。