本名でサーチ

2005-10-11 22:02:41 | Weblog
 ひまつぶしに、知人の名前(含自分)をグーグルでサーチして
みるというのは、たいていの人間がやってみることだと思うが。

 わたしの名前をサーチした場合、姓も名前も犬のクソ級にあ
りふれたモノであるので、モノスゲー数の同姓同名があらわれ
る。工学博士の論文は出るは、首都大学リーグの内野手は出
るは、どこぞの地方の商店会長は出るは、分野がランダムな
ことこの上もない。この、たぶん年齢も経歴もバラバラであろう
人々が、同じ姓名で呼ばれ、人生送ってると考えるととても不
思議な気がする。

 肝心のわたし自身はというと、ネットに載せられるような業績
はなにもないせいか、グーグルにはまったく引っかかってこない。
なんか、自分がニセモノのように思えてくるこの不思議な違和
感。かわりに某掲示板で使ってるハンドルネームなどをいれて
サーチかけてみると、これが何百とひっかかり、それが全部間
違いなくわたし自身のことだったりする。ネット上に関しては、ハ
ンドルが本名のわたしを凌駕しているという、これもまた妙な違
和感である。

 あたり前の話であるがこの42才のハゲオヤジは、リアルな生
活においてはこの平凡極まりない名前を使って生活しており、
それなりの生活の痕跡、行動の蓄積が42年分あるはずなのだ
が、ネット上においてその痕跡はまったくなく、逆に使い始めて
たかだか数年のハンドルが、ゲップが出るほどの数の駄文を生
み出し、ネットに爪あとを残している。自分の中において、どっち
の比重が高いのか、ネット上の駄文書きなどは単なるヒマツブ
シであり、現実の世界に生の実感を求めるのが正しい姿勢なの
か、たまに判断がつかなくなる。

 ネットに溺れる人間の、共通する悩みというのは、むしろこうい
うところにあるのかもしれない。現実の生活がすべての基本であ
り、ネット上の駄文書きなどはそれに付随するものに過ぎないと
いう真実。ただ、現実から目をそむけたい人間にとって、ネット上
に生活の基盤、生活の意義を移し変えてしまうというのは、つい
犯しがちな、それでいて決して小さくはない誤りである。

 少なくともネット上では嘘をつかず、見栄をはらず。これを守らな
いと多分地獄へ一直線であろう。