自分以外のモノ、人間を、一定の基準に従って分類し
ていく行為というのは結構楽しい。
こういう書き方をするとピンと来ないかもしれないが、よ
くある事例としては血液型性格診断。ひとを「血液型」と
いう特定の基準によって分類し、「○○さんはA型だから
云々、××さんはAB型だから云々」てな具合に性格を
判断していく。まともな科学者がこの方法に賛意を表して
いるのは見たことがないが、21世紀の今日までこの方
法はすたれていない。つーか、まだまだ全盛。「わたしっ
て×型だから○型のあのひととは性格合わないの」など
と、真面目に語るアホウはむしろ多数派。
このような安易な性格診断がすたれないのは、冒頭の
「分類する楽しさ」を、たやすく実現させてくれるからであ
ろう。森羅万象を、ある規則に従って分類・整理していく
のは学問の根源である。「血液型」という、だれにでも理
解できる基準でひとを分類し、「A型だから几帳面で真面
目」などという結論に導く。なんとなく科学的な感じがする
から不思議である。
本来の科学であれば、「A型だから云々」の部分を、ある
程度の数の標本を集めてそこから共通性を導く、というくだ
くだしい方法をとらねばならないが、そこが疑似科学の擬
似たる所以、緻密な方法をとらずに結論に邁進する。だか
ら結論が安易極まりないものになるわけだが、信奉者は
分類する喜びにとらわれて、そこまで頭がいくことはあまり
ないのだ。
しかし、こういう安易な方法で分類される側としたら、あま
り愉快な話ではない。ひとにはさまざまな属性があり、血
液型というものはそのうちのひとつに過ぎない。そこにだけ
注目されて、「あなたはA型だから云々」といわれることは、
他の、より大切にしている属性を無視されることにもなるか
らだ。
もちろん上記の部分の「血液型」を、「出身地」や「国籍」
に読み替えても話は通ずる。「個々の属性をいくら集めて
も、全体とはならない」ということなのかもしれない。
ていく行為というのは結構楽しい。
こういう書き方をするとピンと来ないかもしれないが、よ
くある事例としては血液型性格診断。ひとを「血液型」と
いう特定の基準によって分類し、「○○さんはA型だから
云々、××さんはAB型だから云々」てな具合に性格を
判断していく。まともな科学者がこの方法に賛意を表して
いるのは見たことがないが、21世紀の今日までこの方
法はすたれていない。つーか、まだまだ全盛。「わたしっ
て×型だから○型のあのひととは性格合わないの」など
と、真面目に語るアホウはむしろ多数派。
このような安易な性格診断がすたれないのは、冒頭の
「分類する楽しさ」を、たやすく実現させてくれるからであ
ろう。森羅万象を、ある規則に従って分類・整理していく
のは学問の根源である。「血液型」という、だれにでも理
解できる基準でひとを分類し、「A型だから几帳面で真面
目」などという結論に導く。なんとなく科学的な感じがする
から不思議である。
本来の科学であれば、「A型だから云々」の部分を、ある
程度の数の標本を集めてそこから共通性を導く、というくだ
くだしい方法をとらねばならないが、そこが疑似科学の擬
似たる所以、緻密な方法をとらずに結論に邁進する。だか
ら結論が安易極まりないものになるわけだが、信奉者は
分類する喜びにとらわれて、そこまで頭がいくことはあまり
ないのだ。
しかし、こういう安易な方法で分類される側としたら、あま
り愉快な話ではない。ひとにはさまざまな属性があり、血
液型というものはそのうちのひとつに過ぎない。そこにだけ
注目されて、「あなたはA型だから云々」といわれることは、
他の、より大切にしている属性を無視されることにもなるか
らだ。
もちろん上記の部分の「血液型」を、「出身地」や「国籍」
に読み替えても話は通ずる。「個々の属性をいくら集めて
も、全体とはならない」ということなのかもしれない。