Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

「井伊直政」と云う人物

2015-11-18 22:50:19 | Weblog

 幕末期、攘夷か開国かで揺れた日本にあって、江戸幕府の大老「井伊直弼」は日米修好通商条約に調印し日本の開国を断行した。強権を持って国内の反対勢力を粛清したが、反動を受け桜田門外で暗殺されたのは35万石彦根藩の第13代藩主であった。彼は開国しても江戸幕府を守ろうと思ったに違いない、しかしその意とは異なり幕府は体制奉還し、新しい天皇を中心とした明治時代に入っていく。明治維新を推進したのは薩長土肥の連合であったと云うが、井伊直弼の開国がその基にあったと考える。そこで井伊家のルーツを訪ねた。すると遠州国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)にたどり着いた。

 その初代藩主「井伊直政」は、永禄4年(1561)、今川氏家臣の井伊直親の長男として井伊谷で生れる。幼名は虎松と云ったが、2歳のとき、父親は謀反の疑いで今川氏真に誅殺される。その後甲斐の武田が今川を攻め井伊谷は武田の領地になる。その過程で命を狙われるが、出家して難を逃れるなど幼少期は苦労の連続であった。その後徳川家康に見いだされ井伊氏に復することが許され、旧領である伊那谷の領有が認められ、家康の小姓に取りたてられた。

 徳川四天王の中で、遠州出身の井伊直政以外の3人は徳川家康と同じ三河出身である。どちらかと云えば外様のような直政が、家康に可愛がられ四天王の一人になったのは不思議である。それは彼が徳川家康へ並々ならぬ忠誠を誓い実行したことにある。幼少から少年期彼が今川氏、武田氏の領地で身を隠して流浪の生活を余儀なくされた苦難の連続であった。その中で、この戦国時代を治めるのは徳川家康しかいないことを確信したのではないか。そして徳川家康のため死に物狂いで尽くした。家康の近くに侍り信頼を得ていった。武田氏が滅亡すると、武田氏の重臣・山県昌景の遺臣たちを多く召し抱え、その戦略戦術を学んだ。小牧・長久手の戦いでは、豊臣軍を翻弄させるような戦果を得ている。それでありながら、岡崎城に人質として迎えた秀吉の母・大政所を親身に警護し大変気に入られ、大阪城まで送り届ける役も見事にこなし秀吉からも好評を得る。しかし第一に家康のため滅私奉公する姿は変えなかった。

 この直政も関ヶ原の戦いでは、東軍が勝利を確信するまで戦い抜いたが、西軍しんがりの島津軍を追い脚にけがをしてしまう。これが致命傷となりその年に42歳で亡くなっている。彼の行動は自分に厳しく、他人にも厳しいところがあったが、常に先頭に立って行動するのが常であった。それがあだになって、命を落とす結果となるが、井伊軍の乱れない軍律と強さは、破れた西軍の抑えとして、かって石田三成が治めた藩内に彦根城を築き、井伊家の居城とした。そして250年続いた江戸幕府にあって、ここを治め続けた礎を築いた人物である。