Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

天海と云う人物

2015-11-12 22:05:58 | Weblog

 徳川家康のことを調べていると「南光坊天海」と云う僧への信頼の強さが分る。通説では108歳(1536?~1643年)まで生きた天台宗の僧で家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与している。しかし彼の出自や1588年武蔵国の無量寿寺北院(埼玉県川越市にある喜多院)に移り天海と号するまでは良く分っていない。その年は52歳であり江戸時代では既に老人である。翌1589年には徳川家康(46歳)と会い、天台宗の教えを説いている。その後家康の厚い信頼を受け、1599年(63歳)には北院の住職になっている。1600年の関ヶ原の戦では、家康の傍らあって、参謀としての役割を果したと云う。

 徳川幕府の係わりは大きいが、その中でも大坂の役の発端となった慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件での進言、そして元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を大僧正となった天海に託された。家康死後に神号を巡って金地院崇伝、本多正純らと争い、天海は「権現」として祭ることを主張、崇伝らは「明神」を主張するが。2代将軍徳川秀忠の諮問に対し、彼は『豊臣秀吉は「豊国大明神」と云う神号が贈られた後豊臣氏は滅亡した。「明神」の神号は不吉である」と断言した。そこで家康の神号は「東照大権現」と決定した。その後3代将軍・徳川家光に仕え、、寛永元年(1624)には寛永寺を創建している。また家康から託された江戸の都市計画には、陰陽道、風水に基ずく構想を提言し、その初期から完成するめでの50年近く携わった。

 天海は、江戸城の北東「鬼門」と南西「裏鬼門」を重視し、鬼門の方向に寛永寺を築き、寛永寺の寺号「東叡山」としたのも平安京の鬼門の方向にある比叡山の延暦寺に倣って付け、寛永寺の側には、琵琶湖に倣って不忍池を築いた。また寛永寺の隣に上野東照宮を建立し家康を祀り、幕府の祈願所として浅草寺で東照大権現として祀るなどした。そして江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえ、ここを徳川家菩提寺とした。さらに同じ方角に日枝神社(日吉神社から分祀)を移すなどして、江戸城鎮護を図った。

 彼は、徳川家康、秀忠、家光の3代に仕え、江戸の都市計画と江戸幕府が長期繁栄のため尽力した。前半生に関する史料はほとんどないが、長寿で知識豊富であり100歳を超えても知識が衰えなかったと云う。そして最後は日光輪王寺の大僧正として徳川家康の廟を守り、寛永20年(1643年)に没している。その5年後に朝廷から慈眼大師号を追贈されている。天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったことから、いろいろの憶測があり足利将軍落胤説や、姿をかえて生き残った明智光秀であるという説もあるが、これも噂の域を出ない。