MiddleDayTripperの徒然記

気ままな中年オヤジの独り言

正直者がバカを見てるのは生活保護だけじゃない

2012-07-14 07:39:59 | 民主党、総身の知恵はたかが知れ

“自業自得”で支援を打ち切っていいのか アルコール依存症者の日常から探る生活保護の必要性(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース

お笑い芸人の家族が受けていた生活保護の一部が不正受給に当たるとして問題になった。生活保護や失業保険を受給した結果、労働意欲を失う事やそれを遊興費などに浪費する事が問題視されているが、民主党は政府レベルで生活保護と同じ問題を発生させている。

JALだ。10年の会社更生法適用から今期の収益は過去最高のV字回復を見せ、前原(と書いてエハラ。マが抜けている)が引っ張った笹川会長は英雄扱いだ。

だがJALの転落の原因は30年前の2月に羽田沖日航機墜落事故と同じく前原や民主党が着陸寸前に逆噴射させたと思う。累積赤字に苦しんでいたJALは09年に再建計画を打ち出した。アライアンスが同じアメリカン航空か異なるデルタ航空と資本提携を結んで資金を調達し、共同運航による北米線やアジア・ビーチ線からの事実上の撤退やライバルのANAへ欧米線を機材や乗務員ごと売却する事までを考慮していた。ところが政権が民主党に変わると、小泉政権時に推進された外資による企業再建を「外国に日本を企業を売った」などと批判した手前、良しとしなかった。国交大臣に就任した前原は「大臣が上意下達でビシっと決めれば、銀行は言う事を聞くだろう」とばかりに銀行団に債権放棄を命じたが、銀行に「フザけるな!」と一蹴され万事休す。同じくニフェストに書いてあったと上意下達で決めたつもりの八ツ場ダムも地元住民の反対やマスコミのネガティブキャンペーンで頓挫した。思えばこの頃の前原はニフェスト至上主義だったが、今ではニフェストに無い消費増税を推進しているから、「Mrブレまくり」と言える。

JALは自主再建を政府に否定され、政府の再建案は銀行に蹴られて会社更生法の申請となった。前原は自分のパトロンでもある京セラの笹川会長を引っ張り出してJALのトップに据えた。JALの新しい再建計画は従来と真逆の欧米路線や国内幹線を堅持して、地方のフィーダー路線からの撤退となった。地方空港からJALは次々に撤退していったが、中には路線維持のために自治体が支援金を支出しているモノもあり、それを巡って自治体とJALが対立する事もあったが、民主党は「自公政権の放漫な航空行政のツケ」と話をすげ替えた。

銀行団はJALへの6000億以上の債権を放棄し、政府系金融機関からは4000億以上の融資(=税金)。さらに機材更新資金の優遇融資を受けて、トドメは法人税の免除だ。JALはこれらの資金で運賃の安売り合戦に出た。

プロ野球で言えば、「潰れそうな球団だ」と機構が他のチームのクリーンアップ打者やエース、ストッパーを移籍させ、入場料も大幅値引き。オマケに試合は5-0からハンディキャップ・マッチみたいなモノ。

これで勝てないハズがない。

その一方でJALは年金減額と大規模リストラを行ない、民主党は支持基盤を失った。

民主党のマヌケ共は今度は東電をJAL化しようとしている。

 


多種多様な乗用車が現れた原点

2012-07-13 21:32:16 | Weblog

トヨタ「パブリカスポーツ」半世紀ぶりに復元(読売新聞) - goo ニュース

トヨタ自動車のOBらが、50年前のモーターショーに登場した小型スポーツカー「パブリカスポーツ」を復元した。
パブリカスポーツは「トヨタ・スポーツ800」(通称ヨタハチ)の研究実験車で、1962年の全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)に参考出品された。この時、展示車の魅力にひかれてトヨタ入社を決めたという元デザイン部の諸星(もろほし)和夫さん(71)が、退職後に復元を思い立った。
パブリカスポーツは重量530キロ・グラムという徹底した軽量化や、空気抵抗を低減させるため丸みを帯びたデザインが特徴で、戦時中に戦闘機の設計に携わった技術者らが知恵を絞った。2台作られた試作車は現存していないため、諸星さんらは当時の写真や設計図面をもとに、最新のデータ解析技術を駆使して復元した。パブリカの0・7リットルエンジンを搭載し、実際に動かすことができる

54年から始まった東京ショーだったが、セダンタイプの乗用車か軽自動車がメインで、スポーツカーは59年に日産がダットサンS211スポーツを出品したが、殆ど対米輸出専用車。61年に出品した新型「ダットサン・フェアレディー」(SP310)が62年から国内販売が開始された。このSP310はアメリカでヒットして「ダットサン」の知名度が上がった。トヨタは61年にクラウンをベースとした「トヨペット・スポーツX」を出品したが、量産は見送られた。「スポーツX」のライバルとも言えた「プリンス・スカイラインスポーツ」は前年のトリノ・ショーでデビュー(国産では初めて海外モータショーで発表された)していたが東京でも出品され、翌年市販化されたが、イタリアの板金工を招へいしてのハンドメイドで非常に高価なクルマとなり、わずか40台の生産に終わった。

62年の東京モーターショーは日本の自動車メーカーが多種多様なクルマを発表した。最大の話題は二輪車レースで世界一となった本田技研が出品した「ホンダ・スポーツ360」と「500」だった。イギリスのミゼットやイタリアのスパイダーベローチェのような2シーターの小型オープンカーだったが、エンジンはどちらも総軽合金製の4気筒DOHC。自動車誌は「GPレーサーのエンジンを積んだスポーツカー」と書きたてた。360の市販化は見送られたが、500は排気量を10%ほど上げて63年に市販化され大ヒットとなった。

トヨタがスポーツコンセプトカーとして出品したのが、このパブリカ・スポーツ。乗用車「パブリカ」をベースにボディを被せているが、軽量化のために薄い鋼板を使用。強度を補うためとビビリ音を低減するために発泡ウレタンを充填させるユニークな手法を使った。最大の特長は乗降はドアではなく、大戦時の戦闘機のコクピットのようなキャノピーだった。スタイルはユニークだったが、ライバルとなったホンダ・スポーツと動力性能を比較すると非力さは否めなかった。その隣りに展示されたのが「パブリカ・オープン」だった。パブリカの2ドアセダンのルーフを切ったモデルで、製作はトヨタ自動車ではなく、販売会社の東京トヨペットだった。「4人が乗れるオープンカー」として注目を集め、こちらが先に市販化された。

62年ショーは本田技研の自動車市場進出だけでなく、メーカーのステップアップも多く見られた。東洋工業(マツダ)は「マツダ1000」、スズキは800ccの「4ドアセダン」を参考出品し、どとらも3年後にボディデザインを変更し「ファミリア」と「スズキ800」として市販化した。ダイハツは「コンパクト・ライトバン」と言う商用車を参考出品し、翌年「コンパーノ」としてバンとワゴンを先に発売し後にセダンの「コンパーノ・ベルリーナ」を追加する変わった手法を取った。
小型乗用車メーカーは輸入車に独占されていた普通乗用車(=3ナンバー)市場へ参入するクルマを出品していたのも62年だった。日産は1900ccの「セドリック」に直列6気筒OHVエンジンを搭載した「セドリック・スペシャル」をショーに合わせて発表。プリンスは1900ccの「グロリア」に国産初の直列6気筒OHCエンジンを搭載した「グロリア2500」を出品。翌年に同エンジンの2リッター版を「グロリア・スーパー6」を発売した。このエンジンは後にスカイラインGTに搭載され、R380やGT-Rのエンジンのベースともなった名機だった。
さらに62年は商用車にも参入が多かった。いすゞは乗用車べレルのライトバンを出品。エンジンを得意のディーゼルにしたのが特長で市販化された。愛知機械工業は軽自動車「コニー」の乗用車とバンを試作として出品し、バンのみ市販化された。富士重工は「スバル360」の後部を拡大し荷室とした「スバル360・カスタム」を出品、市販化。本田技研はS360/500の出品だけでなく軽トラック「ホンダ・T360」も発表した。S360のエンジンをデチューンした空前絶後のDOHC4気筒エンジンを搭載した軽トラックの誕生だった。

50年前の日本のクルマは性能は技術は欧米の足元にも及ばなかったのかも知れないが、そのコンセプトにはユメがいっぱい詰まっていた。今の日本のクルマはどうだろう?環境技術だけは世界最先端だが、そこにユメは入っていない


学校vs親vs子供:トリプルスレッド不信の末路

2012-07-13 15:15:24 | Weblog

「誠意ない」「伝わらない」=不信、不満相次ぐ―中2自殺で保護者説明会・大津(時事通信) - goo ニュース

いじめを受けていた大津市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が自殺した事件を受け、この生徒やいじめたとされる同級生3人が通っていた中学校は12日夜、緊急の保護者説明会を開き、自殺後の経過などを説明した。保護者からは学校側への不信や不満の声が相次いだ。
出席者によると、説明会は午後7時から約3時間続き、約700人が参加。沢村憲次教育長は、全校生徒に実施したいじめに関するアンケート結果を希望する保護者に開示する方針を示したが、途中退席した男性によると、謝罪と受け取れる発言はなかった。
説明会では全員で黙とうし、自殺した生徒の父親は「こんな騒ぎになって申し訳ないが、何とぞよろしくお願いします」と述べた。中には涙ぐむ保護者もいたという。
途中退席した男性は「当たり前の言い訳ばかり。もう少し誠意がないと」と不満げに話した。保護者の女性は「真実は結局分からない。説明は不十分で納得できません」と言葉少な。別の女性も「気持ちが全然伝わらなかった」と語った。
沢村教育長は説明会後、記者団に対し「保護者の言葉の重みを強く感じた」と語った。

九州では連日の豪雨で甚大な被害が出ているが、子供の頃は大雨の日や遠足・運動会が雨天の時などには「緊急連絡網」と言うのがあり、同級生同士で伝言していった。今はそれが「プライバシー保護」が理由で無いのだそうだ。子供の担任教師がメール配信したり1件ずつ電話していくのだそうが、時間が無い場合に担任以外の学校職員が親に連絡をすると「なぜ個人情報を他の学校関係者に知らせたのだ!」と後で抗議が来る場合もあるらしいし、中には「ウチは子供に任せてあるから子供に直接連絡しろ」と言う親もいると聞く。

今住んでいる学区では廃品回収は行なっているが、子供や親が参加するものでは無い。10年ほど前まではやっていたそうだが、「仕事の都合がある」とか「子供の塾がある」などの理由で不参加が多く、住民が指定された場所に廃品を持ち込むセルフ方式となったそうで、「いったい誰のための何のための廃品回収なんだろうか?」とバカバカしく思える。

子供の頃に学校で先生に叱られても家では口が裂けても言えなかったが、今ではちょっとでも注意しようものなら親がすっ飛んでくる。補導員のボランティアをしている女性は夜中に大型ショッピングセンターのゲームコーナーなどで子供たちに注意をすると、後日抗議をしてくる親が増えたと言っていた。小売店を経営する知人は万引きをした子供の親を呼ぶと、「代金を払えば問題ないだろう」と逆ギレされる事もあると嘆いていた。

親が子供に媚を売っているだけで、それを「信頼」にすげ替える。子供はそれを利用する。子供は純粋な分だけ狡猾にもなる。親は自分が媚びを売った分、子供に出来なかった事を学校に要求し、過大な期待を持つ。

親子と学校には信頼関係がない。そんな状態で何か問題が起これば互いに非を認めるハズは無い。

ニュースショーやワイドショーで「イジメを無くすには?」と教育評論家らが声高に叫んでいるが、そんな事で無くなるハズは無い。子供は大人の社会を冷静に見ている。

10年ほど前だったか?幼稚園の先生をしていた友人の奥さんの話があった。机にイタズラ書きをしていた園児を見つけ、注意をしようとしたら、園児が気づいて彼女に作り笑いを浮かべながら消しゴムで消していたそうだ。彼女は背筋が寒くなったそうだ。

その頃の園児は今、中学生や高校生だろう。

 

 

 

 

 

 


アッチの3人はいいから、コッチの3人を天誅してくれ。オッチャン

2012-07-13 07:57:18 | 爆笑!第3弾!!野田メだコリャ~政権

知事に脅迫はがき、男逮捕=大津の中2自殺で―滋賀県警(時事通信) - goo ニュース

大津市で昨年10月、いじめを受けていた市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が自殺した問題に絡み、滋賀県警大津署は12日、脅迫容疑で、愛知県武豊町平井、無職沢村佳幸容疑者(69)を逮捕した。
県警によると、沢村容疑者は「誰かが天誅を下さないとだめだと思いはがきを送った」と述べ、容疑を認めているという。はがきの消印などから同容疑者を特定した。

6-70代の男性は折りたたみ式ケータイを胸のポケットに入れるか、首からぶら下げている事が多い。到る所でこれ見よがしに通話をし、「オレは時代に付いて行けてる」をアピールしているが、実際には同世代の女性がメールやカメラ機能を使いこなせているのに対して、通話以外は殆ど使えない。ハガキで脅迫して逮捕されたオッチャンもその悲哀を存分に味わっていたのだろう。ついでに言えば封書ではなくハガキと言うのもノスタルジックだ。

この事件では大津市教委と中学校は極悪非道の悪の権化の様に扱われていて、オッチャンはスッカリ感化されてしまったんだろう。ひょっとするとJR脱線事故の際にも武豊線を運行するJR東海の職員に罵詈雑言を浴びせていたのかも知れない。

天誅は人間を超越した神などが悪行を行なった人間に罰を下す「天罰」を人が代行しする事だそうだ。実際は思想などが対立する人物を殺害、粛清する場合の大義名分として使われ、幕末の混乱期のイメージが強い。

イジメたとされる中学生に天誅を下したところで子供社会からイジメが無くなるとは思えない。手を変え品を変え、巧妙かつ陰湿なイジメが横行していくだけ。大人の社会の犯罪を見れば分かる。

将来のある中学生に天誅など下す必要は無い。オッチャンがどうしても「天誅したい!」と言うなら、コッチの3人はどうだろう?

1人目は3年前に首相に就任した時、「政権公約が守れなかった時は国民との契約不履行になるので潔く退陣する」「総理経験者は政界から引退すべき」とオオミエを切ったものの全部ウソ。辺野古に移転予定だった普天間基地を海外移転を言い出したものの、やっぱりウソでアメリカに不信感を抱かせ、国の安全保障のガタガタにした鳩山(と書いてサギヤマ→ガンヤマ→現チキンヤマ)

2人目は就任早々に領海侵犯の中国漁船船長を勝手に釈放・帰国させ、党内の権力抗争に明け暮れた挙句、東日本大震災が発生すると真っ先にやったのが外国人献金の返還。さらに震災対応では東電だけにシャシャリ出て現場を余計に混乱させ、原発事故の避難民はホッタラかしどころか詳細な放射能汚染データを開示せず、国民を生命の危機に陥れた。挙句の果ては民主党内からも指導力の無さを指摘されて退陣要求が強まると、首相のイスにしがみつきたいだけで日本中の原発を停止させて電力危機に陥れた菅(スッカラ菅)

3人目は財務大臣時代にはスィーネ枝野やレンホーがドヤ顔でやった事業仕分けで凍結されたハズの財務省管轄の事業を勝手に再開させて「事業仕分けは民主党のママゴト遊びでした」と証明し、首相になったら「復興のための増税」から知らないうちに「社会保障のための消費増税」を言い出して、挙句の果ては「ニフェスト(=民主党の政権公約だからマが抜けている)は選挙のための野党時代に作ったモノ。与党になれば守れなくて当然」と開き直り、野党時代には自らが罵った「シロアリ」の忠実な僕となった野ダメ。

この3人のうち誰かに『天誅』を下すのなら英雄と認めてあげる

 


今日の国会ではどんな『音』が聞こえましたか?野ダメ首相!!

2012-07-10 18:34:04 | 民主党、総身の知恵はたかが知れ

拡散予測の伝達遅れを陳謝=野田首相(時事通信) - goo ニュース

野田佳彦首相は10日午前の参院予算委員会で、東京電力福島第1原発事故で被害を受けた福島県浪江町に対し、事故直後に政府から放射性物質の拡散予測データが伝達されなかったことについて「関係機関の連携、情報共有が不十分で、住民の命を守るために適切に情報公開する姿勢が希薄だったことは大きな教訓だ。浪江の皆さまにご迷惑をお掛けしたことをおわびしたい」と陳謝した。自民党の佐藤正久氏の質問に答えた。
浪江町の住民は事故直後、同町津島地区に一時避難したが、実際には同地区の放射線量は高かったことが後に判明した。これに関し、予算委に参考人として出席した浪江町議会の吉田数博議長は「町民が無用の被ばくをした。人災そのものだ」と政府の対応を厳しく批判。「速やかに公表されていれば多くの町民を守れた。無念さと同時に憤りを感じている」と語った。

毎週末、首相官邸の周辺で反原発のデモが行なわれている。このデモ隊を野ダメは「大きな音だ」と警護官に語ったそうだ。

数万人の声が音にしか聞こえない人間が日本の首相なのだ。

今日の『爆笑!レッドカーペットin永田町』(=国会)では『深イイ話』もあった。参考人として発言した吉田浪江町議会議長と井戸川双葉町町長の言葉だ。

午前中の吉田議長の発言は仕事で見れなかったが、午後の井戸川町長の発言は見る事が出来た。浪江町、双葉町と言えば地震と津波、原発事故で当時の政府から見捨てられた町だ。政府は住民に「屋内退避」を命じ、その後同心円状の地域からの退避勧告に切り替えた。ところが危機的な状況の住民らを救おうと動いたのは政府でも民主党でもなく、野党や周辺自治体の首長らの横の連携だった。双葉町の病院では悲惨な状態になっていた。医師や看護士が少なく、患者が孤立していた。一部のマスコミではこれを「患者を放り出して逃げ出した」と報じていたが、実際は患者の移送に同行した医師や看護士が病院に戻ろうとしたが、道路は全て封鎖されて戻れなかったのだ。ようやく避難できた入院患者だったが、途中の公民館などで病院関係者の懸命の努力の甲斐なく亡くなられた患者もいた。事情を知らないマスコミの中には病院を非難したり罵る者までいた。

その頃の政府・民主党は何をしていたか?

スッカラ管は震災発生直後に問題化しつつあった自分の外国人献金を返還し、東電本社でわめき散らし、夕方に東電が発表する予定だった計画停電を東電から取り上げて夜中に発表し、翌朝の首都圏に大量の出勤難民を出した。北澤防衛大臣は自衛隊員の大量投入を発令したが、初動で現場は大混乱し、福島原発事故はアメリカに「無人偵察機を上空に送る」と言われ、慌ててヘリによる水投下を命令した。それでも改善しなかったため海江田通産大臣は東京消防庁に出動を要請。詳細情報を求める消防庁に対して「処分する」と恫喝した。

ついでに言えばマイン・フューラーは被曝が怖くて逃げ回り(by元婦人)、民主党の対策本部副本部長は地元の葉山でプレジャーボートを修理していた。

政府の設定した同心円状の周辺住民が避難している頃、文科省のSPEEDI情報は活用されなかった。また外務省を通じてアメリカのエネルギー省が測定した放射能分布情報が3/18に保安院に、3/20には文部科学省に提供されていたが発覚している。政府の発表では官僚で止まったとしているが、副大臣や政務次官まで情報が行っており、首相官邸にも伝達されていたのではないか?との疑惑もある。

井戸川町長は淡々と話していた。政治家として自治体首長として一番大事な仕事である「町民の命を守る」ために。だが政府が握り潰した放射能の詳細情報が無かったために避難する町民を被曝させてしまった事は悔やんでも悔やみきれなかったのだろう。町長はこみ上げる怒りや悲しみで時折言葉を詰まらせていた。

その発言の最中に野ダメら閣僚の態度はどうだったか?

野ダメは伏し目がちに動かず聞いていた。路チュー1号(=細野)は目を閉じて時折顔を上げながら聞いていた。コイツらの態度はまだマシで、今の官房長官である藤村は手元にある書類に目を通していた。当時の官房長官である枝野にいたっては藤村と同じく書類に目を通したり、官僚か政務次官とおぼしき人物と打ち合わせまでしていた。コイツには情報の握り潰しに加担した容疑も浮上している。

野ダメら閣僚の態度を見て「福島の復興なくして日本の再生はない」などと耳障りの良い言葉を発しているが、そんな事はカケラも考えておらず、増税の口実でしかない事がはっきり分かった。

今日の国会で議長や町長の語った言葉は、野ダメにはどんな『音』に聞こえたんだろうか?

 

 


予想通りの展開

2012-07-10 18:26:15 | Weblog

爆破予告で臨時休校=いじめ自殺の中学校―大津(時事通信) - goo ニュース

いじめを受けて自殺したとされる中学2年の男子生徒=当時(13)=が通っていた大津市立中学校などに、爆破を予告するはがきなどが相次いで届いていることが10日、滋賀県警などへの取材で分かった。同校はこれを受け、10日に臨時休校することを決めた。
県警大津署などによると、昨年10月に飛び降り自殺した男子生徒が通っていた市立中学校に9日、「いじめに関わった生徒と教師はカメラの前で謝罪しろ。さもないと中学校と大津市教育委員会、警察を爆破する」との封書が届いた。また、滋賀県庁にも同日、「大津市役所とくだんの中学校に、ガス装置と発火装置を仕掛けた。終業式に作動させる」などと書かれたはがきが送られてきたという。

世の中の起こる様々な出来事がニュースになっていく。その状況や反響によってマスコミはその出来事を追求していく。本来ならば客観的、中立的な立場で追求しなければならないが、ワイドショーやニュースショーでは視聴率、スポーツ紙や週刊誌は発行部数という『数字』がついて回る。そのためにニュースにショッキングな見出しを付けたりするが、世間で注目を集める事件事故の場合はさらにエスカレートする。スポーツ紙は朝や昼のワイドショーで取り上げられる事があり、社会ネタにもショッキングなタイトルを付ける。取り上げる側もそのネタが万一『ガセ』だったとしても「ウチは記事を紹介しただけです」と逃げられる。ワイドショーやニュースショーではそのネタを元にレポーターが現場レポートをする。マスコミ同士の互助会はどんどんエスカレートしていくが、彼らの記事やレポートには『判官贔屓&勧善懲悪』のシナリオが付けられる。被害者は力の無い悲劇の主人公であり、加害者は大きな組織であり、極悪非道の悪の権化。レポーターや司会者、(自称:知識人)コメンテータらは「我々一般市民」や「国民」の言葉を付けて視聴者の怒りを煽る。もっとも彼らの多くは電車の乗り方などを知らなかったりする。

受け手がモノサシを持っていれば良いが、感化される人もいる。マスコミの『判官贔屓&勧善懲悪』に煽られて勝手な正義を振りかざす。

JRの脱線事故ではJR各社など鉄道職員への暴行が頻発した。

今回の爆破予告の脅迫は「イジメが原因と思われる中学生の自殺」では教職員とイジメた側の生徒、警察に対して正義の鉄槌を下したつもりなのだろうか?

「何で警察?」と思ったら、警察が被害届けを受理しなかったとあった

大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒(当時13)が飛び降り自殺した問題で、同級生の暴行があったという話を別の同級生の母親から聞いた生徒の父親が、被害届を出すため大津署に3回にわたり相談したものの、被害届が受理されていなかったことが関係者への取材でわかった。
父親は生徒が暴行を受けていたという話を聞き、自殺1週間後の昨年10月18日、大津署を訪問。生活安全課の署員に被害届を出す相談をした。しかし、生徒が死亡しており、捜査は難しいと署員に言われ、同月中にもう一度訪れた際も同様の対応だったという。
市教委は翌11月2日、学校が全校生徒に行ったアンケートをもとに、「複数の生徒のいじめがあった」と発表。父親は12月1日にも大津署を訪れ、アンケート結果などの資料を示し、加害者とされる3人の同級生について「被害届は出せないか」と相談したが、署の担当者は「被害者本人が亡くなっており、非常に難しい」として受理しなかったという。

この大津警察署の対応を批判するワイドショーやニュースショーもあるが、自分は正しいと思う。この記事でも冒頭は「~とされる~」とある。ワイドショーやニュースショーでも同じ様な言い回しで自殺とイジメに因果関係があったと断定はしていない。マスコミはこの爆破予告をした犯人などを想定して、ちゃんと予防線を張っている。

言い方は悪いが「自分から死んだら負け」なのだ。ワイドショーやニュースショーの出演者は学校や教育委員会の対応を批判しているが、「自殺はいけない事だ」と誰も言っていない。マスコミが「メシの種が減る事を警戒しているのか?」とも勘ぐってしまう。

ところでこの脅迫犯が逮捕されたら、マスコミはどう報じるのだろう?「学校、教育委員会、警察に対する我々一般市民の怒りをぶつけてくれた」と言うマスコミは誰もいないだろう。

 

 


他所がこの弁明をすると怒り狂うマスコミ

2012-07-08 07:44:01 | TVの中のオバカさん

担任「やりすぎんなよ」 大津自殺、暴力見た生徒が証言(朝日新聞) - goo ニュース

大津市立中学2年の男子生徒(当時13)が昨年10月に自殺した問題で、同じ学年だった複数の生徒が、教師がいじめたとされる生徒の暴力行為を見ても、「あんまりやんなよ」と言いながら、ほとんど止めようとしなかった、という趣旨の証言を生徒の家族にしていたことがわかった。
生徒らは昨年12月、家族に直接証言した。それによると、担任教師の名前を挙げ、いじめたとされる生徒2人が亡くなった生徒に暴力をふるっているのに、「隣にいたが止めなかった。笑ってた。『やりすぎんなよ』って」と話した。ほかの生徒も同様の証言をし、「周りにほかの教師もいた」と話す生徒もいた。
生徒の両親が市と3人の同級生らを相手取った訴訟では、こうした教師らの一連の行為について、原告・被告双方が異なる主張をしている。原告側は訴状で担任教師が「プロレス技を仕掛けられ、半泣きになっている生徒を見かけ、『あまりやりすぎるなよ』と声をかけた」と指摘し、「いじめを何度も目撃しながら、漫然と見逃してきた」と主張。市は答弁書で、教師が「あまりやりすぎるなよ」と声をかけた部分を認め、行為をやめさせる趣旨だと主張している。

まず自ら命を絶った男子生徒のご冥福をお祈りします。

このニュースは多くのワイドショーでトップ扱いだった。学校や教育委員会の対応に対して、司会者や自称:知識人のコメンテータらは怒りに任せて罵詈雑言を浴びせていた。

言動に対する認識の違いは捉え方の問題だ。被告側が話をすり替えている可能性も高いが、同じ様な手はニュースショーやワイドショーでヤラセや捏造問題が発覚すると何度も繰り返されている。

「過剰な演出や行き過ぎた表現があり、視聴者に誤解を与えた事は反省するが、内容は事実(真実)」決まり文句の言い訳だ。

学校と大津市教委、東電など他所の組織を「隠蔽体質」と糾弾しているが、隠蔽体質が一番問題なのはマスコミだ。

この事件を受けて橋下や大津市長が涙ぐむシーンが何度も放送されて、ワイドショーやニュースショーでは自殺した生徒への同情のコメントばかりだが、「自殺はいけない事」は聞こえてこない。その上辺だけの『優しさ』が次の悲劇を生んでいく気がしてならない。

自治体の教育委員会が教職員で構成されているのが問題だ。その教職員で組織される某労働組合がバックに付いている某与党の幹事長がいる。先日の消費増税を巡る造反問題でウヤムヤで大甘処分しか出来なかった事を見れば明らかだ。

 

 

 


大人の社会がコレだもん。子供はイジメをヤメないわな

2012-07-07 08:59:32 | Weblog

鉄道係員への暴力、昨年度は911件 - 大手私鉄、JR、東京都交通局など発表(マイナビニュース) - goo ニュース

鉄道職員への暴力。以前は酔っ払ったオッサンかチンピラ兄ちゃん位しか無かったが、最近ではシラフの背広姿のオッサンやイイ歳こいたジジィまでがやっている。鉄道職員だけではない。原発や料金値上問題を抱える電力会社社員への暴言や暴力も増加していると聞く。

全てに共通しているのは相手は抵抗出来ない点。鉄道職員への暴行はJR西日本の脱線事故から増加傾向にある。あの事故の報道は事故原因究明から逸脱した方向に過熱していった。電力会社もそうだ。ワイドショーなどに値上問題を抱える電力会社の経営陣を呼び付けて、司会者やコメンテータ(自称:アタマの良い知識人)らが、「我々国民は」だの「一般市民は」だのと本心では思っていない言葉を付けて、無理難題や罵詈雑言を浴びせる。 

まるで子供のイジメと同じではないか?

 


日産を象徴したスカイライン

2012-07-05 22:19:27 | Weblog

登録した経緯は覚えていないが、日産からメルマガが送られてくる。普段は読まずに削除しているが、今回はスカイラインの壁紙と言う事で読んでみた。

かつてのスカイラインは日産やプリンスのモータースポーツの象徴だった。メルマガのリンク先にはR31系の壁紙があった。

スカイラインは敗戦で解体された立川飛行機(通称:「赤とんぼ」の95式練習機で有名)の技術者が立ち上げた「東京電気自動車」(小型電気自動車「たま」シリーズが有名)からスタートし、中島航空機系列だった「富士精密機器」と合併した「プリンス自動車」が57年に発売した小型乗用車が元祖になる。前輪はダブルウィッシュボーン、後輪はド・デオンアクスルと乗り心地重視の足回りでエンジンは当初は1500ccのみだったが、58年の東京モーターショーに1900ccのエンジンを搭載したモデルを出品。グロリアとして発売され、今上天皇のマイカーとなった。同じエンジンを搭載したモデルは61年の法改正(3ナンバー排気量が1600cc以上から2000cc以上に引き上げ)を待って発売された。またミケロッティがデザインし60年のイタリア・トリノショーに出品した2ドア・オープンの「スポーツ」を62年に追加。当時の国産乗用車の代表だった日産ブルーバードやトヨペット・コロナが60万円前後だったのに対してスカイラインはセダンが120万、スポーツは185万円と高級乗用車だった。

63年に2代目モデルとなるが、上級のグロリアと差別化するためにボディは一回り小さくなり1500専用モデルとなった。64年に全日本グランプリに出場するべく、グロリア用の直6:1988ccエンジンと搭載するためボンネットを20cm延長したホモロゲーションモデル「GT」を100台限定で生産。これが大好評だったため65年2月にレース仕様と同じく吸気にウェーバーを3連装した2000GTを発売。9月にはホモロゲモデルと同じくシングルキャブのGTモデルを追加した。このモデルはGT-Aとなり青エンブレム、ウェーバーモデルはGT-Bとなり赤エンブレムとなった。後のGT-Rの赤エンブレムの誕生である。しかしこの頃のプリンス自動車は増大する開発コストと車種の少なさから経営不振に陥っており、68年に日産自動車との合併となった

3代目は合併直後に発売。1500はデラックス、2000はGTに区別され、GTのエンジンは日産のL20に変わった。プリンス自動車はモータースポーツに力を入れており、プロトタイプレーシングカー「R380」を開発していた。このR380用に開発された2000ccDOHCエンジンがGR8で、これを日産と共同で改良したのがS20。これを搭載した「スカイライン・レーシングタイプ」が68年10月の東京モーターショーに出品され話題となり、69年にGT-Rとして発売され、プリンスが開発していた1800ccのG18のモデルが追加となった。70年には2ドアハードトップモデルが追加され、CMで「愛のスカイライン」のキャッチコピーが使われた。またGT-RはこのHTのみとなり、国内のツーリングカーレースで無敵を誇っていた。

72年に4代目が登場。直6:2000ccモデルのGTはそのままだが、G15に代わりG16の1600と1800のモデルはGLとなった。ボディはセダン、HT、ワゴン・バンの3タイプ(GTにワゴンは無い)テールランプがセダン系GTと全HTモデルが丸目4灯となった。CMキャッチコピーは「ケンとメリーのスカイライン」で通称:ケンメリだった。73年1月にHTモデルにGT-Rが登場したが、当時は排気ガスによる公害が社会問題化しており、メーカーは排ガス対策に追われたがGT-Rに搭載されるS20は対策不可能な事が判明。またレースでもマツダ・サバンナの台頭や人気低下もあり撤退を決定していたため、ケンメリ・GT-Rは在庫のS20を消化するためだけに生産され4ヶ月で生産中止となった。

77年に登場した5代目は先代を踏襲したモデル構成だったが、4気筒モデルの名称はGLからTIに変更された。テールはGTは先代を踏襲した丸目4灯、TIは分割ブロック式だった。79年のマイナーチェンジで当時流行していたスラントノーズに変更されGTは角目2灯となった。80年4月にセド/グロ、ブルーバードに続いてGTにターボモデルが登場し、日産初のAT&ターボが設定された。6月には直6:2800ccディーゼルエンジンLD28を搭載する280DGTとTIにZ20(直4:2000cc)を搭載するモデルが追加された。

81年8月に6代目が登場。ボディ・モデル構成は先代を踏襲したが、ワゴンに代わり5ドアセダンが追加された。ポール・ニューマンを起用したためCMキャッチコピーは「ニューマン・スカイライン」。10月にはS20以来となるモータースポーツ用エンジンFJ20を搭載したモデルが追加され、GT-R復活と言われたが6気筒でなかったためRSとなった。83年2月にはFJ20のターボモデルが追加され、スカイラインはワークスとしてモータースポーツに復帰。8月にマイナーチェンジされRSはフロントグリルが廃止され「鉄仮面」と呼ばれ、84年にRSターボにインタークーラーが追加された。

この頃になるとスカイラインのライバルはスポーティーイメージからトヨタ・セリカとされるようになった。80年のターボ登場に対して、セリカはDOHCを強調し、CMでは「名ばかりのGTは道を開ける」とやった。

そして85年に「7thスカイライン」のキャッチコピーで登場したのが、壁紙の7代目R31。大きな変更点は3代目から続いたL20が、姉妹車ローレルで先行投入されたRB20のDOHC版とDOHCターボ版に変わったのと、後輪操舵システムHICASを世界で初めて採用した事だった。またボディ構成も2ドアHTが4ドアに変わった。当時の日産はライバル・トヨタのマークⅡ三兄弟、ソアラ、XXのハイソカー&ツインカム攻勢に晒されていたための苦肉の策だった。しかしこの路線変更はローレルとのポジショニングが曖昧になっただけとなり、販売台数が大きく落ち込んだ。急遽86年5月に2ドアモデルクーペをGTSクーペとして追加したが、販売台数の劇的回復には至らなかった。87年8月にはGTSクーペをチューンナップしたホモロゲモデル「GTS-R」を800台販売しツーリングカーレースに復帰した。

R31は『史上最悪のスカイライン』と揶揄されるが、市場イメージを無視した販売戦略は失敗を招く事を痛感した日産は次期モデルでスカイラインを原点回帰させる事にした。背景にはハイソカー市場はTeaserキャンペーンが成功しヒット作となったセフィーロがある。ボディを一回り小さくしボディ剛性を向上させ、RB20をベースに2.6l化しツインターボを装着したRB26DETTを搭載し、HiCASを発展させた4WDシステムを採用したスポーツモデルGT-Rが復活する。セフィーロ同様にTeaserキャンペーンを行ない大ヒットとなったシーマやマーチベースの限定生産車Be-1などと日産はバブル景気を謳歌し、90年代に入ると「ビッグカーの時代が来る」とCMで豪語したものの、既にバブルは崩壊し始めており、その時代は来なかった。