トヨタ「パブリカスポーツ」半世紀ぶりに復元(読売新聞) - goo ニュース
トヨタ自動車のOBらが、50年前のモーターショーに登場した小型スポーツカー「パブリカスポーツ」を復元した。
パブリカスポーツは「トヨタ・スポーツ800」(通称ヨタハチ)の研究実験車で、1962年の全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)に参考出品された。この時、展示車の魅力にひかれてトヨタ入社を決めたという元デザイン部の諸星(もろほし)和夫さん(71)が、退職後に復元を思い立った。
パブリカスポーツは重量530キロ・グラムという徹底した軽量化や、空気抵抗を低減させるため丸みを帯びたデザインが特徴で、戦時中に戦闘機の設計に携わった技術者らが知恵を絞った。2台作られた試作車は現存していないため、諸星さんらは当時の写真や設計図面をもとに、最新のデータ解析技術を駆使して復元した。パブリカの0・7リットルエンジンを搭載し、実際に動かすことができる
54年から始まった東京ショーだったが、セダンタイプの乗用車か軽自動車がメインで、スポーツカーは59年に日産がダットサンS211スポーツを出品したが、殆ど対米輸出専用車。61年に出品した新型「ダットサン・フェアレディー」(SP310)が62年から国内販売が開始された。このSP310はアメリカでヒットして「ダットサン」の知名度が上がった。トヨタは61年にクラウンをベースとした「トヨペット・スポーツX」を出品したが、量産は見送られた。「スポーツX」のライバルとも言えた「プリンス・スカイラインスポーツ」は前年のトリノ・ショーでデビュー(国産では初めて海外モータショーで発表された)していたが東京でも出品され、翌年市販化されたが、イタリアの板金工を招へいしてのハンドメイドで非常に高価なクルマとなり、わずか40台の生産に終わった。
62年の東京モーターショーは日本の自動車メーカーが多種多様なクルマを発表した。最大の話題は二輪車レースで世界一となった本田技研が出品した「ホンダ・スポーツ360」と「500」だった。イギリスのミゼットやイタリアのスパイダーベローチェのような2シーターの小型オープンカーだったが、エンジンはどちらも総軽合金製の4気筒DOHC。自動車誌は「GPレーサーのエンジンを積んだスポーツカー」と書きたてた。360の市販化は見送られたが、500は排気量を10%ほど上げて63年に市販化され大ヒットとなった。
トヨタがスポーツコンセプトカーとして出品したのが、このパブリカ・スポーツ。乗用車「パブリカ」をベースにボディを被せているが、軽量化のために薄い鋼板を使用。強度を補うためとビビリ音を低減するために発泡ウレタンを充填させるユニークな手法を使った。最大の特長は乗降はドアではなく、大戦時の戦闘機のコクピットのようなキャノピーだった。スタイルはユニークだったが、ライバルとなったホンダ・スポーツと動力性能を比較すると非力さは否めなかった。その隣りに展示されたのが「パブリカ・オープン」だった。パブリカの2ドアセダンのルーフを切ったモデルで、製作はトヨタ自動車ではなく、販売会社の東京トヨペットだった。「4人が乗れるオープンカー」として注目を集め、こちらが先に市販化された。
62年ショーは本田技研の自動車市場進出だけでなく、メーカーのステップアップも多く見られた。東洋工業(マツダ)は「マツダ1000」、スズキは800ccの「4ドアセダン」を参考出品し、どとらも3年後にボディデザインを変更し「ファミリア」と「スズキ800」として市販化した。ダイハツは「コンパクト・ライトバン」と言う商用車を参考出品し、翌年「コンパーノ」としてバンとワゴンを先に発売し後にセダンの「コンパーノ・ベルリーナ」を追加する変わった手法を取った。
小型乗用車メーカーは輸入車に独占されていた普通乗用車(=3ナンバー)市場へ参入するクルマを出品していたのも62年だった。日産は1900ccの「セドリック」に直列6気筒OHVエンジンを搭載した「セドリック・スペシャル」をショーに合わせて発表。プリンスは1900ccの「グロリア」に国産初の直列6気筒OHCエンジンを搭載した「グロリア2500」を出品。翌年に同エンジンの2リッター版を「グロリア・スーパー6」を発売した。このエンジンは後にスカイラインGTに搭載され、R380やGT-Rのエンジンのベースともなった名機だった。
さらに62年は商用車にも参入が多かった。いすゞは乗用車べレルのライトバンを出品。エンジンを得意のディーゼルにしたのが特長で市販化された。愛知機械工業は軽自動車「コニー」の乗用車とバンを試作として出品し、バンのみ市販化された。富士重工は「スバル360」の後部を拡大し荷室とした「スバル360・カスタム」を出品、市販化。本田技研はS360/500の出品だけでなく軽トラック「ホンダ・T360」も発表した。S360のエンジンをデチューンした空前絶後のDOHC4気筒エンジンを搭載した軽トラックの誕生だった。
50年前の日本のクルマは性能は技術は欧米の足元にも及ばなかったのかも知れないが、そのコンセプトにはユメがいっぱい詰まっていた。今の日本のクルマはどうだろう?環境技術だけは世界最先端だが、そこにユメは入っていない