MiddleDayTripperの徒然記

気ままな中年オヤジの独り言

日産を象徴したスカイライン

2012-07-05 22:19:27 | Weblog

登録した経緯は覚えていないが、日産からメルマガが送られてくる。普段は読まずに削除しているが、今回はスカイラインの壁紙と言う事で読んでみた。

かつてのスカイラインは日産やプリンスのモータースポーツの象徴だった。メルマガのリンク先にはR31系の壁紙があった。

スカイラインは敗戦で解体された立川飛行機(通称:「赤とんぼ」の95式練習機で有名)の技術者が立ち上げた「東京電気自動車」(小型電気自動車「たま」シリーズが有名)からスタートし、中島航空機系列だった「富士精密機器」と合併した「プリンス自動車」が57年に発売した小型乗用車が元祖になる。前輪はダブルウィッシュボーン、後輪はド・デオンアクスルと乗り心地重視の足回りでエンジンは当初は1500ccのみだったが、58年の東京モーターショーに1900ccのエンジンを搭載したモデルを出品。グロリアとして発売され、今上天皇のマイカーとなった。同じエンジンを搭載したモデルは61年の法改正(3ナンバー排気量が1600cc以上から2000cc以上に引き上げ)を待って発売された。またミケロッティがデザインし60年のイタリア・トリノショーに出品した2ドア・オープンの「スポーツ」を62年に追加。当時の国産乗用車の代表だった日産ブルーバードやトヨペット・コロナが60万円前後だったのに対してスカイラインはセダンが120万、スポーツは185万円と高級乗用車だった。

63年に2代目モデルとなるが、上級のグロリアと差別化するためにボディは一回り小さくなり1500専用モデルとなった。64年に全日本グランプリに出場するべく、グロリア用の直6:1988ccエンジンと搭載するためボンネットを20cm延長したホモロゲーションモデル「GT」を100台限定で生産。これが大好評だったため65年2月にレース仕様と同じく吸気にウェーバーを3連装した2000GTを発売。9月にはホモロゲモデルと同じくシングルキャブのGTモデルを追加した。このモデルはGT-Aとなり青エンブレム、ウェーバーモデルはGT-Bとなり赤エンブレムとなった。後のGT-Rの赤エンブレムの誕生である。しかしこの頃のプリンス自動車は増大する開発コストと車種の少なさから経営不振に陥っており、68年に日産自動車との合併となった

3代目は合併直後に発売。1500はデラックス、2000はGTに区別され、GTのエンジンは日産のL20に変わった。プリンス自動車はモータースポーツに力を入れており、プロトタイプレーシングカー「R380」を開発していた。このR380用に開発された2000ccDOHCエンジンがGR8で、これを日産と共同で改良したのがS20。これを搭載した「スカイライン・レーシングタイプ」が68年10月の東京モーターショーに出品され話題となり、69年にGT-Rとして発売され、プリンスが開発していた1800ccのG18のモデルが追加となった。70年には2ドアハードトップモデルが追加され、CMで「愛のスカイライン」のキャッチコピーが使われた。またGT-RはこのHTのみとなり、国内のツーリングカーレースで無敵を誇っていた。

72年に4代目が登場。直6:2000ccモデルのGTはそのままだが、G15に代わりG16の1600と1800のモデルはGLとなった。ボディはセダン、HT、ワゴン・バンの3タイプ(GTにワゴンは無い)テールランプがセダン系GTと全HTモデルが丸目4灯となった。CMキャッチコピーは「ケンとメリーのスカイライン」で通称:ケンメリだった。73年1月にHTモデルにGT-Rが登場したが、当時は排気ガスによる公害が社会問題化しており、メーカーは排ガス対策に追われたがGT-Rに搭載されるS20は対策不可能な事が判明。またレースでもマツダ・サバンナの台頭や人気低下もあり撤退を決定していたため、ケンメリ・GT-Rは在庫のS20を消化するためだけに生産され4ヶ月で生産中止となった。

77年に登場した5代目は先代を踏襲したモデル構成だったが、4気筒モデルの名称はGLからTIに変更された。テールはGTは先代を踏襲した丸目4灯、TIは分割ブロック式だった。79年のマイナーチェンジで当時流行していたスラントノーズに変更されGTは角目2灯となった。80年4月にセド/グロ、ブルーバードに続いてGTにターボモデルが登場し、日産初のAT&ターボが設定された。6月には直6:2800ccディーゼルエンジンLD28を搭載する280DGTとTIにZ20(直4:2000cc)を搭載するモデルが追加された。

81年8月に6代目が登場。ボディ・モデル構成は先代を踏襲したが、ワゴンに代わり5ドアセダンが追加された。ポール・ニューマンを起用したためCMキャッチコピーは「ニューマン・スカイライン」。10月にはS20以来となるモータースポーツ用エンジンFJ20を搭載したモデルが追加され、GT-R復活と言われたが6気筒でなかったためRSとなった。83年2月にはFJ20のターボモデルが追加され、スカイラインはワークスとしてモータースポーツに復帰。8月にマイナーチェンジされRSはフロントグリルが廃止され「鉄仮面」と呼ばれ、84年にRSターボにインタークーラーが追加された。

この頃になるとスカイラインのライバルはスポーティーイメージからトヨタ・セリカとされるようになった。80年のターボ登場に対して、セリカはDOHCを強調し、CMでは「名ばかりのGTは道を開ける」とやった。

そして85年に「7thスカイライン」のキャッチコピーで登場したのが、壁紙の7代目R31。大きな変更点は3代目から続いたL20が、姉妹車ローレルで先行投入されたRB20のDOHC版とDOHCターボ版に変わったのと、後輪操舵システムHICASを世界で初めて採用した事だった。またボディ構成も2ドアHTが4ドアに変わった。当時の日産はライバル・トヨタのマークⅡ三兄弟、ソアラ、XXのハイソカー&ツインカム攻勢に晒されていたための苦肉の策だった。しかしこの路線変更はローレルとのポジショニングが曖昧になっただけとなり、販売台数が大きく落ち込んだ。急遽86年5月に2ドアモデルクーペをGTSクーペとして追加したが、販売台数の劇的回復には至らなかった。87年8月にはGTSクーペをチューンナップしたホモロゲモデル「GTS-R」を800台販売しツーリングカーレースに復帰した。

R31は『史上最悪のスカイライン』と揶揄されるが、市場イメージを無視した販売戦略は失敗を招く事を痛感した日産は次期モデルでスカイラインを原点回帰させる事にした。背景にはハイソカー市場はTeaserキャンペーンが成功しヒット作となったセフィーロがある。ボディを一回り小さくしボディ剛性を向上させ、RB20をベースに2.6l化しツインターボを装着したRB26DETTを搭載し、HiCASを発展させた4WDシステムを採用したスポーツモデルGT-Rが復活する。セフィーロ同様にTeaserキャンペーンを行ない大ヒットとなったシーマやマーチベースの限定生産車Be-1などと日産はバブル景気を謳歌し、90年代に入ると「ビッグカーの時代が来る」とCMで豪語したものの、既にバブルは崩壊し始めており、その時代は来なかった。