習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

真昼の暗黒/ちょっと冗長・完全版ロングバージョン(2)

2023-07-16 10:04:54 | 映画
 ・・・いかがでしたか。

 あまりの衝撃的な結末に、正直言葉が出ない・・・という皆さんが多いのではないでしょうか。


 警察とはいったい何なのでしょう。私たち庶民の味方なのか。たぶんそのはず。そう思いたい。・・・でも、私たちがもし、何かの手違いで「警察の敵」に認定されてしまったら、私たちに対し、どのように牙を剝いてくるのか。・・・
 この映画は、そんな命題を突きつけてきます。
 警察は私たちを犯罪から守ってくれる、はずだ。では、警察から私たちを守ってくれるのは誰だ。・・・そんなふうに自問してしまった人も少なくなかったことでしょう。

 あの真に迫った取り調べシーン。
 ここで素晴らしいのが、警察の管理職を演じる民芸の名優・加藤嘉でしたね。後年の傑作『飢餓海峡』(1964)や『砂の器』(1974)でのキャラクターからは想像できない役回りです。されど、今作や、あるいは帝国陸軍の実態を暴いた『真空地帯』(1952)における加藤嘉の怪演は、「皇軍」の本質や警察の本質を実際に経験的に知っている世代の俳優だからこそできた、真に迫った良心の絶演仕事でしょう。
 この一連の取り調べーというより拷問―のシーンは、戦前の特高警察の拷問を実際に体験した今井正監督ならではのリアルな表現でした。明らかに正義の職務遂行のための義務感でなく、被疑者を虐待することを楽しんでいるとしか思えない刑事たちの描写は、実際のこの時代の警察で当たり前だったことをそのまま描いた、誇張でも何でもない演出だったようです。というより、今でも大差ないと言われています。警察が取り調べの可視化、録画公開などに絶対に応じようとしないのが、その何よりの証拠でしょう。


 さて。
 警察は、いったいそこまでして、何をしたかったのでしょう。何を守ろうとしたのでしょう。
 これはもう、ハッキリ言い切れますが、警察と検察にとって何より一番大切なのは自分たちと国家のメンツです。
 そうです。人命より人権より、組織と国家の威信が大切なのです。
 国家の威信や体面のためなら、人命だの人権だのは二の次。言い換えるなら、自分らの体制維持と面目のためなら、たとえ自国民を戦争等で千人殺そうが一万人殺そうが平気、良心はまったく痛まないーあるいは良心なんてものは最初から存在すらしていないーそれが国家というものです。資本主義国家だろうとコミュニスト国家だろうと。

 そして、警察・検察とは、仮に自分たちに誤りがあったとしても、是が非でもその誤りを認めようなどとはしない人たちなのです。なぜなら、組織の、そして国家の威信が最優先なのですから。裁判所も、あくまで国家権力をバックに「お裁きをくだす」立場ですから、基本的には中立ではなく、どこまでも権力サイドです。
 それゆえ、この国では、ひとたび起訴されたら99.9%の確率で有罪となるのです。そんな先進国は他にありません。痴漢冤罪を扱ったことのある弁護士によれば、起訴されたらその時点でほぼ絶対にアウト、法廷で戦って無罪を勝ち取ることなんてまず期待できない、だから何とか不起訴に持っていって勘弁してもらう以外にやりようがない・・・のだそうです。情けないようですが、それがこの国の現実なのです。
 「被告人は全て無罪と推定される」、「疑わしきは被告の利益に」、「10人の真犯人を逃すとも、無辜(むこ)の人を罰することなかれ」。この原則がこれほど守られていない先進国が他にあるでしょうか。警察・検察においても。マスコミ・一般世論においても。


 大事なことなのでもう一度申しますが、警察にとっても、検察にとっても、究極の目的は真実を明らかにすることではありません。正義を守ることでも市民を守ることでもありません。
 「犯人」を捕まえて有罪にし、国家と組織の体面を守ることが目的なのです。重要なポイントとして、その犯人が本当の犯人かどうかなど、彼らには実はどうでもいいことなのです。誰かを捕まえた、有罪にした、「解決」した、という「事実」だけが大切なのです。

 だからこそ、この映画で描かれた通り、たとえ捏造ストーリーでも、国家の威信を守るためには、ただひたすら強行突破あるのみなのです。
 なぜなら、彼らにとって、真実が何であるかは主眼ではなく、自分たちにとっての「真実」を認めさせ、国家の威信を保持することだけが裁判の目的だからです。
 その意味では、警察官・検察官というのは、憲法上は「全体の奉仕者」とされていますが、実態は、領民のためではなく、ただただ藩主のために働く徳川時代の武士と変わりはないのかもしれません。


 さて。
 この映画の冒頭に表示される「この映画は事件そのままではない」というサジェスチョン的な文言は、万一の場合のリスクヘッジでしょうが、検察の主張通りにもし本当に植村らが犯人だったら、そんな小細工的な言い逃れはできないだろってぐらいに汚点映画になってしまっていたことでしょう。「現実の事件の顛末とは関係なく、これはこれですぐれたサスペンス映画だ」と主張したとしても、世評としての価値は半減、いや消滅したに違いありません。「あの時の感動を返せ」とドヤされてもしかたありません。場合によっては、監督生命、脚本家生命を絶たれるほどの危険な仕事です。

 つまり、言いたいことは、監督も脚本家もプロデューサーも、それだけのリスクを背負ってまでも背水の陣で臨んだ勇気ある作品だということ。そして、逆に言えば、そのように自信を持って自らの映画人生の進退を賭けられるぐらいに警察・検察のストーリーはデタラメだったということです。

 それが最もよく表れているのが、警察・検察側が複数犯説を押し通すために、犯行時間を植村らの有効アリバイ時間後に無理矢理ずらして限定したために、犯行をするには時間的無理が生じたことを、コミカルな早回しで表現した皮肉たっぷりな、あの印象的な演出です。被告席にいる者まで思わず失笑してしまうぐらいに稚拙な論理を無理押ししようとする検察に、もはや正義はありません。あるのは、何が何でも誤りを認めないという国家権力の尊大で無理筋な意地だけ。「ウソつきは警察の始まり」とは、本当によく言ったものです。
 後年の疑獄事件の証人喚問で乱発される「記憶にございません」話法が、既にこの頃から権力者側のオハコだったということにはあきれるしかありません。

 事実、この映画に描かれたモデルの事件には後日談があって、捜査当局・検察当局は、被疑者に有利な証言をした証人を強引に「偽証罪」で逮捕して、真実の証言をする口を塞ぐような卑劣なことまでしました。
 何度でも繰り返し申します。
 警察にとって、検察にとって、真実などクソくらえです。人権などクソくらえです。有罪にさえできれば、有罪にした、イコール「仕事」をしたという「事実」さえ残せれば、無実の人間の人生を奪うことなど、何でもないのです。
 高知白バイ衝突死事故(2006)のように、警察が証拠を捏造した疑念のある事例さえあります。しかも、かなり最近の案件で。


 そう。
 また繰り返しになりますが、政治家でも役人でも、とにかく絶対に間違いを認めないし、認められない、一度動き出したら撤退することは国家として組織としての面目にかけてできない。戦争でも五輪でも万博でも国葬でもリニアモーターカーでも。とにかく「中止」ということが絶対にできない。「撤退」ということが絶対にできない。「損切り」ということが絶対にできない。それがこの国の「お上」の不変の特質なのです。
 たとえ間違っていても、自ら率先して過ちを認めることは絶対にない。強行突破一択。なあに、強行さえしちまえば、どうせ国民はいつもの通り、既成事実を追認するだろ。・・・もはやそこまでくると、なめられている国民のほうも悪いと言わざるを得ないのかもしれませんが、ともかくそれが日本の、あるいはアジアの現実なのです。


 史実としての、この物語の続きを申し上げますと、たしかにこの後、あの作中にも登場した弁護士たちの粘り強い仕事によって、最後には映画の役名でいう植村たちは無罪判決を勝ち取りました。
 しかし、それまで15年以上の長い歳月がかかり、事実上、彼らは人生の最も充実しているべき若い日々を国家権力によって奪われたのです。
 失われた年月は戻りません。
 過去の日本の冤罪犠牲者となった、免田事件(1948)の免田氏、財田川事件(1950)の谷口氏、徳島ラジオ商殺し事件(1953)の富士氏、足利事件(1990)の菅家氏らがみんなそうだったように、不当逮捕と不当裁判で奪われた人生の時間はもう取り戻せないのです。
 そして、これら冤罪が事実として認められた事件のみならず、正式認定はされていないまでも、帝銀事件(1948)、名張毒ぶどう酒事件(1961)、袴田事件(1966)といった冤罪可能性が極めて濃厚な事件の「犯人」たちのことも忘れてはいけません。
 飯塚事件(1992)のように、死刑を執行した「犯人」が冤罪だった可能性を指摘されている案件さえあります。飯塚事件については、国はたとえ間違いでもそれを認めないのでしょう。すなわち、意地でも再審をしないんでしょう。もし仮にこの「犯人」が本当に冤罪だったとしたら、国家に殺されてもなお、国家の沽券を守るために死後の自身の名誉回復をさせてもらえないという、二重に踏みつけにされたような人生となります。
 無論、冤罪の犠牲になった人がいるということは、そのかわり、真犯人を結果的に逃がしていることになるのだという事実も看過できないことです。


 それから、忘れてはいけないことをもう一つ。
 この物語の被告たちは拷問に苦しめられた上、何年も何十年も収監され、苦しみ続け、人生の半ばを奪われ、家族ともども心に癒しがたい傷を残しました。しかし、被告らを苦しめた元凶たる警察関係者、検察関係者は何も罰せられていないということです。他人の人生を奪った「間違い」について、いっさい償っていないのです。おそらく、その後も雇用を保証され続け、高額の退職金を受け取ったことでしょう。何しろ、警察官が痴漢や傷害で逮捕されれば懲戒免職になるのに、左翼に冤罪の濡れ衣を着せるために自作自演で交番を爆破したら、逆に後でこっそり大出世させてもらえるという、そんな組織です。
 ですが、果たして、このような「司法による殺人、または殺人未遂」がいっさい罰せられないなどということがあっていいのでしょうか。・・・
 その点についてだけ言えば、万一結果的に冤罪が発覚したら捜査関係者は斬罪・遠島などと厳しく処分されたという江戸時代のお白洲のほうが、ある意味よほどまっとうだったぐらいでしょう。「国家不問責の法理」と呼ばれる、「国家によって個人が損害を受けても国は一切その責任を負う必要なし」を原則とした大日本帝国憲法下の体制が、果たして本当に徳川時代より進歩した文明国家だったと言えるのでしょうか。
 もし医者が誤診で患者を結果的に死なせたら、訴訟されて社会的ダメージを受ける可能性がありますが、裁判官や検事が間違った裁判で無実の人の人生を奪っても、事実上、何も罰せられない。・・・本当にそれでいいのでしょうか。・・・


 とにかくこの作品を見るときは、自分が、あるいは自分の家族が植村らと同じ目に合わされたらと思って見てください。菅家氏や袴田氏の例を引くまでもなく、実際にいくらでも起こり得ることなのですから。

 よく世間の「善良なる市民の皆さん」は、死刑制度廃止を主張する人々に対して、「自分の家族が殺されても(殺人事件の被害に遭っても)同じことを言えるのか」なんて宣(のたま)いますが、私は逆に死刑制度存続論者の方に質問してみたいと思います。「自分や自分の家族が警察の拷問により冤罪にされ、死刑を執行されても同じことが言えるのか」と。

 たとえば、ネット上での、こんなヤフーコメント。

> 悪いやつだから、死刑になってるんだろ。
> だったら、ドンドン執行のハンコを押して死刑にすりゃいいんだよ。
> だいたい日本は加害者に甘すぎるんだよ。
> 加害者に人権なんてねえんだよ。
> だから、良心の呵責なんて要らないだろ。
> 法律で決まっているんなら、速やかに執行しろよ。

 実にお見事です(笑)。きっと、こういう人は、自分が誤認逮捕されて冤罪で死刑判決を受けても、喜んで縛り首になるんでしょうね(笑)。「天〇陛〇バンザーイ!」なんて言って。まさに帝国臣民のカガミです(笑)。
 自分や家族が国家のメンツのために犠牲になって殺されても本望という人は、どうぞ国家と心中なさってください。私はお断わりですが。


 さて。
 そんな人命・人権・真実・真理より体制維持と体面を優先する国家と、そんな国家に盲従する「臣民」たちの民度を見ていると、こんなことを思います。
 この国の歴代首相は、よく日米は民主主義の価値観を共有する同志としてともに結束して云々と言いますが、深層の本音では、宗主国アメリカ様ではなく、仮想敵国の中国や旧ソ連の強権支配体制に憧れ、目標としているのではないでしょうか。中国や旧ソ連の支配者と同様、反対意見は抹殺し、不都合な情報は隠蔽して永久に闇に葬れたらいいなあというような。

 実際、ひと昔前の国連拷問禁止委員会という場で、日本における拷問等禁止条約の履行性をただされ、日本の人権意識が先進国基準から大きく遅れていると、本当のことを指摘された日本の外交官が「うるせー!黙れ!シャラップ!」と逆ギレして絶叫したという、まことに恥ずべき出来事がありました。あまり大きく報道されなかったので知らない人も多いと思いますが、ご興味ある向きはググってみてください。まあ、このようなみっともない出来事に対しても、頭の悪い人の中には支持する人もいるようですが(苦笑)。


 政府及びその関係者だけではありません。国民も同じです。
 思うに、われわれ日本人は外交的には欧米諸国のお仲間のつもりでいますが、お上のお裁きへの盲従、死刑制度への世論の賛否、それを含めた人権意識などについては、宗主国アメリカ様や憧れのヨーロッパではなく、忌み嫌っているはずの中国や北朝鮮、そしてーここは既に死刑は実質ありませんがーロシアあたりのほうが、民度としては遥かに近しいのではないでしょうか。たとえば、前出の免田氏や菅家氏が釈放された時には、「本当はやっていたに違いないんだ。なのに何で釈放するんだよ。左翼の陰謀だあ」と、意味不明の文句をたれて吠えていた無関係の人が大勢いました。
 「陰謀」とやらの根拠は何なのでしょう。国家は絶対に間違いをしないという願望、あるいは信仰なのでしょうか。そのような水準の方々が大勢いらっしゃるという、それがこの「美しい国・日本」の実態です。

 それにしても、「悪の独裁国家」たるレッドチャイナを憎悪し、民主主義体制の台湾への熱烈支持を言明し、香港の自由を守れと主張するような人ほど、国内的には大日本帝国型の滅私奉公主義を賛美し、国家への盲従を主張し、個人益や地域益より国益を優先することを絶対的な信仰として疑わず、「人権」や「多様性」、「マイノリティ」といったワードを忌み嫌っているという、この大矛盾はいったい何なのでしょう。保守とか愛国者とか自称する人たちというのは、そんな矛盾に気づかないぐらい頭が悪いということなんでしょうか。
 こういった方々は、民主主義国はお気に召さないのでしょうから、中国か北朝鮮あたりに帰化なさることをお勧めしたいものです。
 ついでながら、権力の監視という当然のジャーナリズムの務めを果たすーなんていうこと自体実際はほとんどないのですが(苦笑)ー新聞やテレビ番組に対し「偏向だあ」と吠える御仁も、アメリカ流の言論の自由がお気に召さないのでしょうから、ぜひ「心の祖国」中国・北朝鮮にでも帰化なさるといいでしょう。

 またまた余談を述べると、夫婦別姓選択や同性婚を一切認めていない国も、G7では日本が唯一です。なお、夫婦別姓を認めていない日本の「同志」にはロシアがあり、同性婚を認めてない日本の「同志」には中国があります(笑)。右翼の皆さんが大好きな台湾は、同性婚を認めているということも、ご参考までに。
 さらについでに言えば、オリンピックのメダルの数に目の色を変える「メダルキ〇ガ〇」と言われる嗜好性も、アメリカやヨーロッパではなく、「シナチョンロスケ」にそっくりです。五輪やFIFAワールドカップで日の丸を振っている皆さん、鏡をご覧になってください。「シナチョン」どもにそっくりの顔がありませんか。

 まあ、それはともかくとして、唯一の被爆国として平和憲法を持ち、世界から一目置かれる日本が、死刑制度を頑なに維持し、国民世論も死刑制度存続支持者のほうが多いという、その人権感覚は、西洋諸国から見ると、もしかしたら奇異に映るかもしれません。
 それに、平和憲法を否定し、主権在民や基本的人権を制限して戦前体制に戻ることを究極の目標とする政党が、常に選挙で勝利し政権政党であり続けているという事実も、西洋の知識人を困惑させる事柄かもしれません。


 自然が美しく、食べ物もおいしく、サブカル分野にすぐれ、安全で便利で暮らしやすい素晴らしい国・日本の、意識されにくい意外な側面として、人権感覚が中世並みという事実は、ここまで申し上げてきた司法において、まさしくそうですが、司法だけではありません。
 これも余談になりますが、映画『牛久』(2022)で暴かれている難民への凄惨な取り扱いも、「世界一のおもてなし」の国の、見逃してはならない一面の現実です。
 先進国としての体面から建て前上は難民受け入れ国として登録はしているものの、結果的に難民が難民として受け入れられる率の低さたるや、まさにー比較することが適切かはともかくとしてー裁判における無罪率の異常な低さとそっくりです。
 勘違いしないでいただきたいのですが、私は「難民鎖国」自体が悪いと言っているのではありません。そんなに難民流入が嫌なら、難民条約から脱退し、「わが国はいっさい難民を受け入れませんので、あしからず」と、世界に向けて高らかに宣言すればいいのです。そうすれば、ウソがなく、むしろすがすがしいぐらいです。そうせずに、表向きは欧米と同じく難民受け入れ国という顔をしながら、実際には排除するという、姑息なウソつき状態が滑稽だと言っているだけです。

 しかし、そんなわが日本が、本当にいつまでも、難民を含む移民が目指す行き先でいられるかどうか、実は危ういところです。
 私たち誰しもが認めたがらないことですが、賃金上昇がG7最低で、右翼の皆さんが蔑み続けてきた中国や韓国にも平均賃金の上では抜かれているわが国が、いつまでも移民が「来たがってくれる」ような国でいられるかの保証はどこにもないのです。もしかしたら、戦前の『蒼氓(そうぼう)』の時代のように、私たちが移民として海外を目指さざるを得なくなる時代が再び来る可能性だってゼロではありません。あくまで「もしかしたら」ですが。

 さらに余談の余談を述べさせていただきますと、訪日観光客だって、「世界一のおもてなし」を求めて「クールジャパン」にやって来る、世界が感動、日本スゴい!・・・というのは実は昔話、または願望的フィクションで、円安で金がかからない行き先だからという理由で「チープジャパン」に来ているだけ・・・というふうに、いつか認識を改めなければならなくなるかもしれません。
 無論、あくまで「もしかしたら」という可能性の話ですが、そのような可能性をも鑑みて、自分の足元をしっかり見据えながら、誰も不幸にしない、一人一人の幸せを大切にする国がいつの日か作られることを強く希望いたします。何百年かかっても無理かもしれませんが、それでもいつかは、と。


 さて。
 映画のお話に戻りますと、このような冤罪をテーマにした強い社会的主張を持った名作は、この『真昼の暗黒』の他にもたくさんあります。
 たとえば、同時代の日本の映画では、『真昼』と違ってフィクションですが、エンタメとしてソツなくまとまっており、美人女優も出るので、初心者には『真昼』よりとっつきやすいこと請け合いの、新藤兼人脚本による『その壁を砕け』(1959)がまずおすすめです。
 また、『真昼の暗黒』と同じ実際の事件をもとにした作品では、『証人の椅子』(1965)があります。『真昼の暗黒』と同じく、何が何でも是が非でも被疑者を有罪にしたい権力側の卑劣な手口がじっくりと描かれ、背筋が寒くなること間違いなしです。
 より新しい日本の作品では、ご存知の方も多いであろう周防正行監督の『それでもボクはやってない』(2007)が、やはり素晴らしい力作です。「人質司法」と俗称される、「自白」をしない限りいつまでも勾留し続けることで無理やり「自白」に導くという卑劣なやり口―外国人記者をして「旧東側の官憲よりひどい」と言わしめた手口―を暴いた意義はとても大きいと言えます。ぜひ、映画をご覧になった上で、高野隆弁護士の人質司法に関する本も手に取っていただきたいものです。

 ハリウッドの古典名作では、人種差別起因の冤罪事件を扱った名作『アラバマ物語』(1962)が必見です。グレゴリー・ペックといえば、『ローマの休日』(1953)の相手役、という認識しかない皆さんは、ぜひこちらの「本当の代表作」を一度ご覧になってください。そして、「真のヒーロー」とはどんな人であるか、考えてみてください。
 さらに古いところですと、法廷劇ではなくあくまでサスペンスですが、『幻の女』(1944)が今見ても意外とおもしろい作品ですし、陪審員たちの室内のディスカッション劇に終始するという異色の名作『十二人の怒れる男』(1959)も、広義の冤罪ものと言っていいでしょう。また、これは内容的に、冤罪ものと呼んでいいか迷いますが、ビリー・ワイルダー監督の『情婦』(1957)―原題でいうと『検察側の証人』―も、その驚くべきラストのドンデン返しのおもしろさゆえ、古い白黒映画を普段見ない人たちにも、自信を持ってお勧めできます。
 さらに、ヒッチコックの『間違えられた男』(1956)という作品もありますし、ヨーロッパものでは、実際に無実の人を死刑にしてしまった悲劇の事件を描いた古典名作『死刑台のメロディ』(1971)があります。

 それから、法廷ものとはちょっと違いますが、冤罪容疑から逃げる男を描いた『逃亡者』(1993)、それとは逆に冤罪で収監された後のことを主に描いた秀作『ショーシャンクの空に』(1995)も忘れてはいけない作品です。また、『逃亡者』と同じハリソン・フォード主演の『推定無罪』(1990)という作品もありました。
 より新しいところでは、『無実の投獄』(2017)に『黒い司法/0%からの奇跡』(2020)。前者は『ショーシャンク』に近い作品で、後者は先述の『アラバマ物語』の現代版と言っていいでしょう。どちらも検察側の恫喝による「目撃者」の捏造がポイントで、両作品とも実話なのが恐ろしいところです。それから、これは逮捕・起訴されたわけではないので、冤罪事件というより「冤罪未遂事件」とすべきでしょうが、そのことも含めて日本の松本サリン事件とそっくりなクリント・イーストウッド監督の、これも実話ものの『リチャード・ジュエル』(2019)。そもそも罪状そのものからして無茶苦茶な韓国映画の同じく実話もの『弁護人』(2016)。
 いずれもおすすめの作品です。

 テレビドラマのほうですと、韓国ドラマ『ある日/真実のベール』(2021)が、おすすめの力作です。法廷サスペンスとしてのスリリングなパートと『ショーシャンク』のような獄中の人間模様とがバランスよく併存しており、思わず引き込まれてしまう娯楽的完成度も兼ね備えた作品と言えましょう。
 日本のドラマでは、これは社会的プロテストというよりは純粋に推理エンターテインメント作品ですが、名優・小林桂樹が冤罪と戦う反骨の弁護士を演じた『朝日岳之助』シリーズ(1989~2005)もぜひご覧いただきたい作品の一つです。いわば、日本のペリー・メイスンでしょうか。他にも、嵐の松本潤氏主演の『99.9%』(2016、2018)という作品もあります。
 時代劇の場合、昔の捕物帳などは真犯人(下手人)を逮捕することで、誤認逮捕された無実の人の潔白を証明する、というのが頻出のパターンですが、単発長編では、山本周五郎の『さぶ』(2002、2020他)を挙げておきましょう。
 さすが、作者の生涯の代表作と言われるだけあって、真犯人のオチはともかく、大変読み応えのある原作で、ドラマのほうも、原作イメージとのビジュアル的違いに目をつぶればやはりいい作品です。前掲『ショーシャンク』に似ていると感じる人もいるかもしれません。


 そして、それら一連の作品の中でもひときわ金字塔として特筆されるべき作品、永遠に記憶され語り継がれるべき作品が、今日ご覧いただいた『真昼の暗黒』だったわけです。
 ご覧いただいておわかりの通り、この作品は、橋本忍の緻密な脚本、今井正の気迫のこもった演出、そして無名の舞台俳優を中心とした役者たちの熱演により、大変に求心力のある、力強い映画になっています。

 たしかに、純粋に映画的に見れば、無駄に見えるシーンもあることでしょう。たとえば、小島が犯行に至るまでの荷車のトラブルのくだりなどは省略してもいいところに見えるかもしれません。
 が、これはあくまでセミドキュメンタリーの実録的作品ですから、実際の事件の重要なピースは省けなかったわけです。

 また、これも物語の本筋とは関係ない挿話なので、ともすれば映画のテンポを悪くしかねない場面ですが、冤罪を訴える「犯人」の家族が、やっていようがやっていまいが「とにかくまずは被害者に詫びろ」と周囲に強要されるというのも、いかにもありがちな、日本のムラ社会のどうしようもなさを如実に表していて、とても印象に残るシーンです。


 この映画は、いわゆる美男美女の大スターが出ていませんので、そこは、リアルタイムにおいても、今の視点でも、大衆アピールが弱いと指摘されてしまう部分かもしれません。

 ですが、実際に興行的にはどうだったかというと、今日でいうインディーズ作品であったにもかかわらず、話題作として、年間トップテンには入らないまでも、しっかりヒットしたのです。
 そもそも、この作品は、係争中の事件に対し、ハッキリと白か黒かを主張するという前代未聞の作品であるがゆえに、司法当局から激しい妨害を受け、その圧力をはねのけて作られたという、気骨の作品です。
 そして、そのあまりにデリケートな内容ゆえに、映画が作られてからも、メジャー配給会社が恐れをなして敬遠したという、まさにいわくつきの作品だったのです。
 しかし、今日でいうインディーズ公開でありながらも、多くの人の支持を得て、冒頭で私が述べましたように、その年の映画賞を総ナメにしたのです。

 今、この21世紀のご時世に、改めてそのことの意味を皆さんと一緒に考えたいと思います。
 現在の世の中で、政府や警察や司法当局の圧力をはねのけてまで、強いプロテストを含んだ映画が企画され制作されるということがあるでしょうか。
 そして、それが権力側の圧力に屈せずに公開され、しっかりと批評家や映画記者の選ぶ映画賞で最高賞を受けるということがあり得るでしょうか。
 『真昼の暗黒』から半世紀以上が経ち、その間にこの国の民度は進化したと言えるのでしょうか。それとも退化しているのでしょうか。

 ふと気がついて邦画界隈を見渡せば、イケメン・美女の天才外科医の活躍か天才刑事の活躍か美少年・美少女高校生の悲恋か、あるいは有名漫画の「実写化」か、そんな映画ばかりです。
 もちろん、そうでない作品もありますが、少なくとも大資本の製作委員会を通して作られるメジャー映画は、そのような作品がほとんどになってしまいました。

 もう映画人は、あるいはわれわれ映画ファンは、『真昼の暗黒』が作られた当時のような気概を取り戻すことはできないのでしょうか。

 いや、そんなことはないはずだ・・・・・・と、いま一度、とくに映画関係者に見つめなおしていただきたいがために、今夜はあえてこの映画をお送りさせていただきました。


 あなたのハートには何が残りましたか。


(急に口調が変わって)さあ来週はお待ちかね、『刑事コロンボ』シリーズの登場です!
 『刑事コロンボ/パイルD3の壁』。
 この作品は何と、コロンボを演じるピーター・フォークが自ら監督をした唯一の作品なんです。
 建築家の男が施工主を殺害するのですが、問題はその死体をどう処理するかです。そうです、これは『コロンボ』シリーズの中でも、比較的珍しい死体遺棄の、その隠し場所がヤマとなる物語なんですね。
 さあ。犯人がいかに死体を隠すか。そして、コロンボがいかに見破るか。最後はアッと驚く結末が待っています。
 どうぞご期待ください!


 いや~。映画って、本当~に意義深いものですね。

 ではまた、金曜ロードショーでお会いしましょう。



P.S.

まことにまことに無粋ながら、筆者から追記。

この稿を書き終えた後、知ったこと。


>  現在の世の中で、政府や警察や司法当局の圧力をはねのけてまで、
> 強いプロテストを含んだ映画が企画され制作されるということがあるでしょうか。
>  そして、それが権力側の圧力に屈せずに公開され、
> しっかりと批評家や映画記者の選ぶ映画賞で最高賞を受けるということが
> あり得るでしょうか。

>  もう映画人は、あるいはわれわれ映画ファンは、
> 『真昼の暗黒』が作られた当時のような気概を取り戻すことは
> できないのでしょうか。


なんて悲観的なことを書いていたら、何と、2020年の日本アカデミー賞の最優秀作品賞は、『新聞記者』(藤井道人監督)だったらしい!
迂闊にも知らなかったが、実に驚愕の、本当に本当に驚くべき快挙である。

映画評論家が選ぶキネ旬ベストテンや映画記者の選ぶブルーリボン賞ならともかく、まさか日テレをはじめメジャー資本の意向で選ばれるものとタカをくくっていた(そしてそれゆえ諸々の映画賞の中で一番権威がない)日本アカデミー賞で、『新聞記者』のような作品が最高賞を獲るとは!!
しかも、キネ旬ベストテンも、ブルーリボン賞作品賞も、毎日映画コンクール日本映画大賞も獲っていないのに!

いやはや、日本アカデミー賞を見直さざるを得ないわ。
ごめんね、今までバカにしてて。
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