習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

赤と白に分かれ歌う合戦終わりゃ

2021-12-29 16:03:12 | テレビ
 かくして、2021年も暮れようとし、大晦日は例年通り、『紅白歌合戦』が放送される。

 私が子どもの頃は、大晦日と言っても、テレビ番組のラインナップは今のように全局で長時間バラエティー特番という感じではなく、今では信じられないぐらい静かだったように思う。私が小学生低学年の頃―1980年代の初頭―は、大晦日といえば、自分的には『ドラえもん』スペシャルだったが、大人は別の部屋でゴールデンタイムは『レコード大賞』、そして、9時からそのままNHKの『紅白』になだれこむ、と、そういった時代だった。そう、『紅白』は昔は9時スタートで、3時間にも満たなかったのだ。これまた今では信じられないぐらいだが。

 私が親と一緒に『紅白』を見るようになったのは、1983年頃か84年頃、小学校の4年か5年ぐらいからだろうか。白組司会は当時のNHKの人気看板アナウンサーだった鈴木健二、赤組司会は黒柳徹子や森光子あたりだったか。
 そのあたりは、まだまだ国民的番組としての存在感があって、都はるみの引退紅白の年は、有名な「美空事件」や「1分間事件」などがあり、今ではあり得ないような高視聴率を叩き出していた(※1)。

 が、私が小学校を卒業するあたりから、わが家では日本テレビの大型時代劇スペシャルを見るようになり、わが家的には「大晦日=紅白」の図式が崩れ、それ以降は見たり見なかったり。
 それでも、1995年の岡本真夜が初めて顔出しした時とか、その前年の小室ファミリー全盛時の篠原涼子の変な衣裳とか、1999年にモーニング娘。が「LOVEマシーン」を歌った時とか、00年代には「DJオズマ事件」とか、何だかんだでリアルタイム目撃をしているのだから、やはり基本的には「大晦日はNHK」が続いていたとも言えよう。


 が、そうは言っても、もともと芸能・音楽好きな自分でも、ここ数年はまともに見ていない。昔は、テレビのない大晦日、テレビでのカウントダウンで新年を迎えない大晦日なんて考えられなかったのに、見なくなっちゃうとおかしなもので、あっという間に慣れてしまった。

 そんな私のような中高年が増えたからだろう、最近は毎年のように言われる「紅白自体もうオワコン」が、とくに今年は例年以上にかまびすしい気がする。


 『紅白』というオワコン・・・そうか、20世紀の常識はもう通じないのか。
 娯楽がみんな同じ時代から多様化の時代へ。
 みんなが巨人を応援し、みんながドリフで笑い、みんなが百恵ちゃんに憧れていた時代と違って、娯楽はもう完全に個別化しているということか。

 ここでポイントなのは、NHKの自己矛盾というおかしさだ。
 他のどの商業放送局よりダイバーシティとか言って、LGBT啓発も推しているのに、いまだに自分たちが昭和の夢から覚めるのを拒否するがごとく、「家族みんなでお茶の間で紅白」を望んだり、男=白、女=赤というステレオタイプな決めつけ色分けで男女対抗歌合戦スタイルを続けようとしたり。
 他の商業放送局に先駆けて「女優」の呼称を廃止して男女問わず「俳優」に統一した「ポリコレのNHK」とは大矛盾だ(※2)。

 そもそも男女対抗の音楽試合なんて、ポリティカルコレクトネスに敏感なアメリカあたりじゃあり得ない。白人とカラードの白黒歌合戦やキリスト教徒と異教徒の文明未開歌合戦を企画したら暴動が起きるのと同じぐらい、アメリカでは男性軍と女性軍の歌合戦だって看過されまい。

 ならばやめれば、と言いたいところかもしれないが、昔のようにはいかずとも、それでもいまだに『紅白』は他の番組よりよほど視聴率が高いのだから、やめられないのだろう。実際、仮に『紅白』をやめたとして、NHKのその次の大晦日番組が『紅白』より高い視聴率が取れるとはとても思えない。
 まあ、もちろん、ニュースや天気予報、スポーツ中継を除けば絶滅危惧種たる生放送のテレビショウが年一度ぐらいあってもいいとも思うし(←『のど自慢』は?)。


 そしたら、『紅白歌合戦』という名前を残して番組継続し、なおかつポリティカルコレクトネスと両立させたいとしたら、どうすればいいんだろう。
 たとえば、男が白で女が赤で、というのをやめて、男女関係なく、まったくランダムに、くじ引きなどで2チームに分けて、それぞれ白組と赤組にするとか。そう、たとえば小学校の運動会みたいに。
 まあ、そしたら、通算赤何勝、白何勝、という通算成績はその瞬間から積算しても無意味になるが(※3)。


 ただ、どんな延命をしたとしても、もう語弊を恐れずに言えば、『紅白』というより、テレビ自体が、厳密には地上波テレビのリアルタイム視聴というスタイル自体が「オワコン」と言わざるを得まい。

 ハッキリ言って、今やテレビは高齢者のためのもの。
 リアルタイム地上波視聴は高齢者がするもの。
 だったら、その「お得意さん」のほうだけを向いて番組を作りゃあよさそうなものなのに、送り手側、とくにスポンサーがリアルタイム視聴してほしいのはF1層(若い女性)。
 この矛盾!(※4)

「お茶の間でみんなで見る、団らんの中心のテレビ」
 それは過ぎ去りし昭和の幻想(※5)。
 なのにNHKはいまだに、少なくとも『紅白』については、そうあってほしいらしい。

「うちも大晦日は一応、居間でみんなで『紅白』を見ているけどさ。でも、家族みんなで『紅白』見たって、もうみんなが等しく知っている歌ってのがないんだよね」

 そう。
 その通り。

 もう、『紅白』以前に普段から、お茶の間でみんなで歌番組を見るということがほぼなくなり、ストリーミングが音楽消費の中心になったのだから、「みんなが知っているヒット曲」がほとんどなくなったのも道理である。
 なのに『紅白』だけがお茶の間の団らんの中心でいられるわけない、と、これまた当然の理。

 よく、昔の『紅白』はその年のヒット曲集だったのに、今は知らない歌と懐メロばかり、なんて言われるが、その年の「みんなの知っているヒット曲」というのがそもそもないんだから、「その年のヒット曲集」はやりたくても無理で、ならばと、高齢者向けの「みんなが知っている歌」にすると、今度はワンパターンと批判される(※6)。


 で、送り手としては高齢者じゃなく本音は若い人に見てほしいからと、何とか若者向けの曲を入れようとするも、若い人はもともと地上波テレビをリアルタイムで視聴しようなんて思わず、せいぜい後でユーチューブで当該のシーンだけ見りゃいいやという考えだから、まるで空回り。

 それならいっそ高齢者向けに特化して、「その年の歌を振り返る」というお題目を潔く捨てて、高齢者のための昭和歌謡歌合戦、に徹しちゃえばいいのかもね。
 ま、それだとテレ東とかぶるんだろうが。

 だが、まあ、いずれにしても、もう『紅白』も、いろんな意味で延命装置つきオワコンというか、やめたところで今より人気を得られる番組ができる可能性もどうせないからというだけの理由で、ダラダラ続けている感じはどうしてもしちゃうねえ。大河ドラマなんかと同じで。



> 全世代が知っている国民的大ヒット曲が生まれなくなったし、
> 若い人たちは同世代でも細分化されている
> 個々で違うメディアを見る時代、
> 皆が同じものを見ていた時代の番組は消えていくしかない

 これが結論。

 「国民的〇〇」なんて、もうない。
 だからせめて『紅白』の懐メロ大会で往時を思い出す?

 ・・・いや、その必要もない。
 昔の映像ならユーチューブでいくらでも見られる。地上波でリアルタイムに垂れ流し受け止めなんてしなくても。・・・
 ・・・って、そうか。高齢者はその「地上波テレビリアルタイム垂れ流し受け止め」以外の映像受容を知らないのか(※7)。

 でも、それだって、変わるかもしれないものね。
 私にはあまり関係ないけれど。


 大晦日の晩、私は配偶者とネットフリックスで海外ドラマでも見ているか、ユーチューブでBTSの動画でも見ながら過ごしているんだろう(※8)。たぶん。

 そういえば、五輪パラも今年は一切合切まったく完全に何も見た記憶ないな。・・・



(※1)

桑田の三波春夫風コスチューム事件はその前の年だったろうか。


(※2)

なお、これはちょっと教養のある人なら百も承知のことだろうが、女優という言葉があるのは、かつて「俳優」が男性だけの職業だった名残りである。
ご案内の通り、日本を代表する伝統演劇である歌舞伎は、江戸時代以降、今日に至るまで男性だけが舞台に立つ。そういった俳優=男性という時代が長かったゆえに、女性の俳優は例外的な存在としてとくに「女優」と呼んで区別し、一方で、もともと俳優=男性が当たり前だったために男性の俳優のほうはわざわざ「男優」と呼ぶ必要もなく、そのまま単に「俳優」と呼ぶ傾向が続いているわけだ(逆に女性のほうが主役で話題の中心となるAVの場合は、男性のほうが特殊的存在として「AV男優」と常に呼ばれる。決して「AV俳優」とは呼ばない)。いい悪いは別として。
女子校の場合は「川越女子高」とか「宇都宮女子高」というように「女子」がつく学校が多いのに、男子校の場合は「浦和高校」とか「高崎高校」という具合にわざわざ「男子」をつけないのも、同じような理由からだろう。いい悪いは別として。
ちなみに、個人的には「俳優」より「役者」のほうが何となくよりユニセックスな言葉で、男女兼用で使いやすいようなイメージがあるが、もちろんそれは錯覚で、「役者」こそ、まさにもともとはイコール歌舞伎俳優のことなのだから、「俳優」よりもっと男性専用の言葉である。
そして、個人的には「俳優」は映画やテレビで演技している人にも使って違和感ないけど、「役者」は舞台に立つ人という感じがする。たとえば、レジェンド女優でいうと、杉村春子や奈良岡朋子は舞台が本業の人なので、ポリコレして「役者」と呼んでもいいが、田中絹代や吉永小百合のような映像作品専業で舞台に立たない人は「役者」と呼んではいけないような気がしてならない。


(※3)

ちょうどポストシーズンのプレイオフ&クライマックスシリーズ開始以後の「日本シリーズ」、「日本一」が無意味になったように。


(※4)

昨今は「世帯視聴率」に対する「コア視聴率」という言葉を聞くことが多い。
それは、要するに、いわゆる「F1層」に代表される「スポンサーにとって見てほしい年齢層」の視聴率のことで、商業放送各局はそちらを重視しているようだ。
逆に言えば、いくら従来型「世帯視聴率」が高い番組でも、子どもや高齢者の視聴率なんて広告代理店とスポンサーにとっては意味がない、コア視聴者=中高生以上高齢未満に見てほしい、ということで、要は「ジジババとガキンチョはイラネ」という趣旨らしい。
だが、改めて考えてみればわかることだが、目先の「コア視聴率」をほしがるスポンサーに合わせて、子ども番組を切り捨てていったら、どうなるか。
子どもにとって面白くも何ともないー大人にとってもだが(笑)―ヒナ壇ワイプバラエティーなど与えられてもしょうがないからそれらには見向きもせずに、ディズニープラスを見て育った子どもたちが、急に「コア視聴者」年齢になったからと言って、地上波テレビのリアルタイム視聴などしてくれるわけがない。当たり前の話である。
テレビ局と電通は、ガキンチョは切り捨てておきながら、いざそのガキが大人になった途端、手の平を返して、「さあ、いらっしゃいませ、お客様!地上波テレビをご覧くださいませ!」と言いたいのかもしれないが、子どもの時から「テレビっ子」として育てられていない者が、急に大人になった途端、彼らのお望み通りに地上波テレビのリアルタイム視聴をしてくれるお客様になるなんて、あり得ないことだ。人をバカにするにもほどがある。
翻って、以前に別稿で書いたことがあるが、私たち団塊ジュニアが幼かった80年頃は、ゴールデンタイムは各局ともアニメなど子ども向け番組がかなり多く、夕方も昔のアニメの再放送がかなり多く、夏休みなどになれば、それこそ朝からアニメや特撮などの子ども番組がヘビーローテーションで、子どもたちは「テレビ漬け」であった。そうして「テレビっ子」が育ち、彼らが90年代のキムタクドラマ全盛時代、反町ドラマ全盛時代、常盤ドラマ全盛時代、そして『おかげです』全盛時代、『ウリナリ』全盛時代を支えたのである。
すなわち、われわれ団塊ジュニアは子どもの頃からテレビ視聴習慣を植え付けられ、それで、大人になってもテレビ視聴習慣をそのまま持続していた(過去形)わけである。われわれとて、お望みの「コア視聴者」の年齢になってから急にテレビ好きになったわけではない(「時代劇と演歌は老人向け」と見なされるが、若い頃からそれらに触れていない世代が老人になったからって急に時代劇や演歌のファンになるわけではない、というのと同じ理屈)。
このような当たり前すぎるぐらい当たり前な、簡単な話からも、地上波テレビのリアルタイム視聴文化がすたれていくことは必然だなと思わざるを得ない。


(※5)

その昔、テレビが普及する前はラジオがまさにお茶の間の団らんの中心だった。テレビにお茶の間の主役の座を奪われてからのラジオは、深夜放送に代表されるように、「みんなで聴くもの」から「一人で聴くもの」にスイッチし、絶対的聴取者人口自体は激減させながらも、何とか今日まで上手く延命してきた。
何と言っても、日本人がラジオ中継向けのスポーツである野球を愛し、車や居酒屋等で野球中継を好んで聴いてきたことが大きいだろう(実は聴取率で言ったら、『オールナイトニッポン』などよりプロ野球中継のほうが比較にならないぐらい圧倒的に聴かれている「番組」である)。
さて。そのような「家庭の娯楽の主役の座から降りた大先輩」の先例をふまえ、テレビはどのようにダウンサイジングしソフトランディングしていくのだろうか。


(※6)

「天城越え」「津軽海峡」「天城越え」「津軽海峡」また「天城越え」
これは、某歌手の『紅白』ワンパターン隔年選曲を揶揄した狂歌である。


(※7)

定額制映像配信サービスを覗いてみると、アマゾンプライムやユーネクストなどで、昔の邦画・洋画がメジャー作品からマニアックな作品まで、かなり大量に提供されている(たとえば、往年の東映チャンバラ映画や任侠映画など)。
本当なら、お年寄りから大いに喜んでもらえるサービスのはずなのに、高齢者は「一方的に垂れ流される地上波テレビをただひたすら受け止める」以外のテレビの使い方を知らず、それゆえ、おもしろくも何ともない(私見)ひな壇ワイプバラエティーを我慢して見続けているのかと思うと、余計なお世話ながら、何だか気の毒で、歯がゆくてしかたない(もし画面上の操作でIDを取得したりパスワードを入れたりといった加入方法でなく、普通に0120で申し込めるようにすれば、高齢者でもかなりアクセスしやすくなると思うんだが、無理なんだろうか)。


(※8)

西岸良平の『夕焼けの詩』(ビッグコミックオリジナルに連載され、映画化もされたおなじみのほのぼの昭和レトロ漫画が『三丁目の夕日』。その『三丁目の夕日』シリーズを中心に西岸良平の読み切り作品等もあわせた作品集の書籍が『夕焼けの詩』)2巻に収録された『狂った映像』は、未来世界では国民がますますテレビ中毒になって、NHKの発信する映像が全て「真実」とされ、大衆は唯々諾々とそれを妄信し、絶対権威たるNHKが巨大権力化する・・・・という未来ディストピアものであった。
70年頃の作品だと思うが、その頃は、そういうふうな未来予想がスタンダードだったのだろう。
ところが、現実の21世紀は、テレビ一極集中どころか正反対に、YoutubeやTikTokや各種SNSでみんながどんどん自由に情報を発信し、情報発信者としてのテレビ及び新聞の特権的ポジションが急速に失われている。結果、NHKや大マスコミの報道を「フェイクニュース」だとして信じないようなトランプ信者やネトウヨが増えている。
けだし、未来の予想とはなかなか当たらないものである。
そういえば、昔の「未来」SFでは家庭用コンピューターと称して現実の21世紀のノートPCの何十倍もあるような巨大な機械が家の中にあって、ジジジジ・・・と信号テープみたいなのを打ち出していたり、固定電話としての巨大なテレビ電話で通話したりしていながら、携帯情報コミュニケーションツールは誰も持っていなかったりとかするしね。



P.S.1

“紅白のジェンダー問題”に星野源も言及…「男女でチーム分け」は本当に時代錯誤なのか?《ヒットチャートは男性優位の現実》
https://bunshun.jp/articles/-/51195
紅白が「男女同数」を止めたら何が起きる? 民放特番の男女比に見る“衝撃の事実”《女性比率はMステ32%、FNS歌謡祭37%》
https://bunshun.jp/articles/-/51196


上記の文春の記事の分析が、非常に意外でおもしろかった。
とくに「無自覚のアファーマティブアクション」という逆説的視点のユニークさ!
屁理屈かもしれないが、ものは言いようで、一種のクオーター制のようなものと言ってしまえば、「男女対抗の紅白歌合戦」否定派のフェミニストに逆に一太刀入れられるかもしれない。

ここで説かれる、実は過去一貫して、男性歌手・男性ボーカルグループのほうが女性歌手・女性ボーカルグループより売れていたという、意外すぎるデータ。
自分が若い頃ー90年代のいわゆる小室ファミリーブームの時なんて、女性アーチストが男性アーチストを圧倒している印象があっただけに、実に意外である。
それに、80年代育ちの自分などは、聖子ちゃんや明菜ちゃんのファンで毎回レコードを買っていると公言する女子はいても、少年隊や光ゲンジのレコードを毎回買っている熱心な男子ファンは皆無に等しい、という印象論的先入観を持っていたのだが、実態は逆だというのか???キツネにつままれたぐらい面妖な話である。
まあ、たしかにアイドルでなくアーチストであるなら、私の世代で言うと、男子が普通に尾崎豊を買ってたし、男子が普通にハウンドドッグを買ってたが。でも、そのぶん女子も普通にレベッカを買ってたし、ドリカムを買ってたよねえ?と、即座に論破できる気がするし。
それか、そもそもアーチストの絶対数で、男のほうが多い?・・・って、そんなこともあるかなあ?
だいたい、90年代に流行った「何ちゃってアーチスト」というのかな、「アーチスト」として売り出されるアイドル=結果的に同性にも買われるアーチストもどきって、女ばっかりだったよね。スピード、安室、マックス、華原、浜崎、ヒトミ、相川七瀬、鈴木あみ、ってね。
だから、腑に落ちないんだな(たしかに90年代に隆盛を誇ったスマップなんかは、それまでのジャニーズ勢に比べれば、相対的に男性にも受け容れられていたとは思うが)。

ただし、上記の文春の文章にある、「女性アーチストのほうが、男性アーチストより『賞味期限』が短い傾向がある。それは、女性アーチストには疑似恋愛対象としての若さが、男性に比べより強く求められるからだ」という、フェミニストたちが舌なめずりして食いつきそうな卓説には、かなり首肯させられる。もちろん、中島みゆきのような例外も多数あることは承知の上で、それでも趨勢として。
思えば、同性の、すなわち女性ファンにとっても、安室奈美恵や浜崎あゆみなどは、ファッションリーダー的アイコンとして、「若さ」という価値と不可分の受容のされ方が、音楽そのものの受容より大きなファクターを占めていたのかもしれない。ともすれば、「若くないスピードなんて、女子ファンにとっても価値がない」・・・なんていう、「女を馬鹿にするにもほどがある!」と怒る人もいそうな仮説だって、残念ながら真実だったりするのかもしれない。とくに、嵐のような、アーチストというよりあくまで異性リスナー向けの「アイドル」であるグループさえもが、年月を経てすっかり「おじさん」になっても固定客にずっと支持され続けていた現象と比較してみると、なかなか興味深い。


P.S.2

閑話休題。
事務所力だけで決まる内輪受けみたいになってるレコ大もまた、『紅白』以上にとっくに過去の遺物で、それでも終わらせて別の番組にしたら今よりもっと落ちるからという消極的理由で惰性延命しているだけという『紅白』と同じパターンの化石オワコンである。


P.S.3

と、それはさておき。話題がまるで変わるが。
個人的にはどうでもいいことだし、単なる屁理屈だとは百も承知ではあるが、ジェンダー論者たちが、LGBTというマイノリティのことは過剰なまでにーそれこそひれ伏さんばかりにー慮っていながら、ロリコンやショタコン、アイドリアン(死語)≒「ドルヲタ」、SM趣味、二次萌え、など、ヘテロ内のマイノリティについては一切シンパシーなしで、ただ変態として切り捨てるようなダブルスタンダードも、(今に始まったことではないが)疑問と言えば疑問である。というか、圧倒的多数派の一般ヘテロタイプ(いわゆる「ノンケ」)についても、何だか、上野千鶴子氏のような人の物言いを聞いていると、法律婚をしている異性愛者のことはーとくに夫が専業主婦の妻を扶養しお互い真面目に不倫もせず生活しているような人たちのことはー犯罪者とでも思っているように感じるぐらいなんだが。
ただし、くれぐれも言っておくが、私はLGBTでもロリコンでもショタコンでもSM趣味者でも二次萌えでも断じてないので、誤解なきよう!
(で、さらについでに。「同性愛は『病気』ではない。『治療してなおす』などという対象ではない」という主張にはもちろん賛成である。医学的にも、たぶんそういうことになっているんだろう。でも、小児性愛(ペドフィリア)は、「病気」であり、「治療してなおさないといけない」ものということになっているわけ?道徳的善悪ではなく、医学的に、「LGBTは病気ではない」、「ペドフィリアは病気」の根拠が、よくわからないのだが。一般的なLGBTは「病気」ではなく、ジャニー喜多川氏は「病気」ということ?しつこいようだが、道義的な善悪是非ではなく、医学的にそれが正しいの?大人が成人したジャニーズアイドルのファンになるのは正常でも、大人がローティーンのジャニーズジュニアのファンになったら、「病気」なの?)


P.S.4

ただ、私や私の配偶者は、年をとっても、昔の音楽ばかり聴いているという後ろ向きな志向でなく、適度に最新情報も仕入れにゃアカンとは思っているので、00年代以降の紅白は、「勉強の場」だと思って見ている面もある。
実際、今回の目玉アーチスト・藤井風氏の出場なんて、紅白を通じて「日本の音楽界のいま」を中高年が知るいい機会となろう。
ちなみに、藤井風氏は、私の場合、半年ほど前に配偶者から教えてもらってユーチューブで初めて見た。個人的には、藤井氏はピアノ奏者としては実に見事だと思うものの、ソングライターとして、歌手としては、正直それほど好きなタイプではない。優劣でなく、好き嫌いの話として。私はいわゆるR&B系音楽というのは、男性ボーカル・女性ボーカル問わずあまり耳に合わないもので。


P.S.5

なお、余談の余談であるが。上記のPS1の「無意識のアファーマティブアクション」に関連した話題をもう少し。

男女を分けるべき場合とそうでない場合の線引きというのは、なかなか難しいテーマである。
本来なら全てのコンペティションにおいて男女分けがなく単純混合というのが理想だろうが、上記の『紅白』のように、男女分けが「無自覚のアファーマティブアクション」、「結果としてのアファーマティブアクション」になっている場合も多いので、ケース・バイ・ケースで、というしかないだろう。

まず、スポーツ競技などについては、男女を分けるということに異議のある人はほとんどいないはずである。もし政治的正しさを追求して完全混合にしたら、大半の競技で女子選手は上位になるチャンスを失ってしまうだろう。だから、実際に男女が完全に同じ土俵で競うことになっている競技なんて、競馬や競艇、各種モータースポーツのような乗り物系競技ぐらいである(このテの競技の場合、女子プレイヤーがあまりにも少ないから、分離独立させたくてもできないというのが実際のところかもしれんが)。

しかし、スポーツでなく、頭脳の競争なら男女を分ける必要はないのではないか?と、それはその通りで、大学入試なんて基本的に男子100名・女子100名みたいな募集はせず、男女問わず得点上位からとっている。ゆえに、男子受験生の多い大学や学部では男子学生の比率が高くなったり、女子受験生の多い大学や学部では女子学生の比率が高くなったりといったことが当然の帰結として起こっている。
大学においてアファーマティブアクションとして、女子枠を作るべきか否かは意見の分かれるところだろう。
いわく、「女子だからというだけの理由で東大という税金運営の国策的最高学府に入りやすいようにゲタをはかせてもらえるのだとしたら、そんな不公平なことはないのでは?それこそ、男子に対する逆差別では??」と。
気持ちはわかる。「結果の平等」というのは、そんな単純な話でもないのだが、でもまあ、気持ちはわかる(じゃあ、Fラン大学なら特別枠があってもOKなのか?というのも気になるが、それはさておき)。

一方、公立高校の入試なんかだと、(一般論として女子のほうが中学教師受けして内申点の高い真面目なー要領のいい?―生徒が多いゆえに)男女同数の募集だと男子より女子のほうが高得点レベルの争いになり、男子なら受かる成績の生徒が女子だと合格しない、なんていう「不公平な」現象がしばしば起こっており、これらもどう対応するか難しいところである。大学と違って、小中高は、男女比率が極端に偏ると教育上の支障が生じるかもしれないゆえに、単純にスコア順にしてしまって、結果として男子ばっかりの学校、女子ばっかりの学校を生じさせるのは是か非か??と。
(また、よく話題になるが、慶応幼稚舎などは、男女比が2:1での募集枠となっており、いくら私立だからって、ほぼ無条件で有名大学への進学が保証される特権校において、こんな不公平は許されるの?なんていう話もある)
ただ、「東大入試は女子枠を確保しろ」、「高校入試は男女関係なく上位者から合格にしろ」では、ダブルスタンダードとの誹りは免れ得ないだろう。同様に、高校入試で「男女問わず上位者からの合格」方式でなく、男女同数ずつの割り当て制度を支持するのなら、選挙において男女同数クオータ制を取り入れようという意見がもし出た場合、反対できないはずだ。理屈では。

また、話を戻して、入試以外の「頭脳競技」における男女別か男女混合かという問題を考えると、本来は体格と関係ないことであれば大学入試と同様、単純男女混合が当然、と考えられるわけだが、たとえば将棋や囲碁、麻雀などは現に男女別であり、それを統合しようなどとは議論すらされていないように見える。これなど、典型的な「分けることが結果としてのアファーマティブアクションになる」好例だろう。先天的・生物学的な向き不向きでなく、競技人口の圧倒的な差ゆえに、もし単純男女混合にしてしまったら、女性棋士、女性雀士にはタイトルのチャンスがなくなってしまう。少なくとも今のところは(混合にして100年ぐらい経てば変わるだろうが)。もしどこぞのフェミニストが、「女流」王位、「女流」王座などという枠は差別だから統合せよと言い出したら、当の「女流」棋士・雀士が猛反対するに違いない。
一方で、クラシック音楽のコンクールなどは当然のこととして完全男女混合である(もちろん声楽は別)。日本ではなぜかピアノやヴァイオリンを学ぶ人は圧倒的に女性が多いので、仮に男女別にしたら、男性の競争率は低く、女性の競争率は高い、なんていう妙なことになるかもしれない。まさに囲碁将棋の世界と逆で。もちろん、世界的には、クラシック音楽の器楽ソリストといえば女性ばかり、なんてことはなく、たとえばショパンコンクールの歴代優勝者は男性のほうが断然多いわけだが、無論、これも先天的・生物学的な向き不向きの問題ではない。
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