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忙しい日々が続いた。
ラボは親方の技術への信頼と卓越した営業力で、世間の景気のよしあしとは無関係に、いつも繁盛している。
例の四条大宮の児玉歯科からも、他の医院と同様、頻繁に仕事が入り、新太郎はつど受注と納品とで足を運んだ。
基本的には歯科医師とのやりとりだが、歯科衛生士の女性が代行でやりとりすることも多い。衛生士の女性は名を美晴といった。明るくて、やさしい笑顔の人だった。
技工士と違って、衛生士は患者とじかに接するのだから、無愛想な人や高慢な人は、技術能力以前にやっていけない。その点、この美晴という衛生士は、物腰やわらかで穏やかな人あたりだから、児玉先生からも患者からも信頼されている様子だ。
何度か通っているうち、新太郎ともだんだんうちとけてきて、事務的な会話以外をすることも多くなってきた。
「いやあ。今日は暑いですねぇ」
汗をふきながら入ってきた新太郎に、美晴は
「あー、小林さん。お疲れ様ですー」
と言って、麦茶を出しながら、
「今年の夏はとくに暑いみたいですねー」
と、軽く会話に乗ってきた。
だいたい納品などで新太郎が訪れるのは、診察時間外や患者の少ない時間帯が多いので、お互い手がすいていれば、新太郎は美晴や歯科助手の千織ともだべるような間柄となった。
今日は幸いなことに、先生も千織も外していて、美晴が一人だ。チャンスからもしれない。
思い切って、新太郎は
「どうですか。今度いっぺん、食事でも行きませんか」
と、ストレートに言ってみた。
すると、美晴は案外あっさりと、
「あー。いいですねえ。たまにはごはんでもご一緒したいですねー」
と返答してきた。
美晴がどちらかといえば新太郎に悪くない印象を持っていそうだというのは、新太郎にはわかっていた。
が、この返答がつきあうことを前提としてのOKなのか、単なる社交辞令的な「近いうちにメシでも」の文脈のつもりなのかはわからない。
そこで、
「じゃあ、今夜あたり、鱧(はも)でビールでも飲みましょうか」
と、より具体的に、明確な形で踏み込んでみた。
「鱧というと・・・川床ですか」
「ええ。そうですよ。うちの親方とか、うちのみんなで前に行ったところが、なかなか安くてうまかったんですよ」
身を乗り出して新太郎が言うと、美晴は
「私・・・川床はちょっと・・・」
と、眉根をよせ、顔をくもらせた。
「え?」
「私、正座するところは苦手なんです」
ああ、そうか。
新太郎は自分の迂闊さを悔いた。
そうだ、そういえば、このクリニックに通ってしばらく経つが、美晴はいつも片足を引きずって歩いている。何ヶ月もそうだから、そのときにたまたま怪我をしていたというより、昔の怪我か何かで歩行に不自由が残っているのだろう。
だとすれば、正座が苦手ということもありうるか。
と、何となく新太郎は了解した。
「あ・・・失礼。じゃ、この近くのパスタでも行きましょう」
美晴は
「ええ。そうですね。今日は六時頃にあがりますよ。どこでお会いしますか」
と、すぐ笑顔になって答えた。
「迷惑じゃなかったら、六時頃、ここに迎えに来ましょうか」
「いいんですか」
「はい、もちろん」
新太郎はあまりの首尾よさに内心でガッツポーズをしながら、
「じゃ、また後で。お疲れ様です」
と頭を下げて、歯科医院のガラス扉を押した。
忙しい日々が続いた。
ラボは親方の技術への信頼と卓越した営業力で、世間の景気のよしあしとは無関係に、いつも繁盛している。
例の四条大宮の児玉歯科からも、他の医院と同様、頻繁に仕事が入り、新太郎はつど受注と納品とで足を運んだ。
基本的には歯科医師とのやりとりだが、歯科衛生士の女性が代行でやりとりすることも多い。衛生士の女性は名を美晴といった。明るくて、やさしい笑顔の人だった。
技工士と違って、衛生士は患者とじかに接するのだから、無愛想な人や高慢な人は、技術能力以前にやっていけない。その点、この美晴という衛生士は、物腰やわらかで穏やかな人あたりだから、児玉先生からも患者からも信頼されている様子だ。
何度か通っているうち、新太郎ともだんだんうちとけてきて、事務的な会話以外をすることも多くなってきた。
「いやあ。今日は暑いですねぇ」
汗をふきながら入ってきた新太郎に、美晴は
「あー、小林さん。お疲れ様ですー」
と言って、麦茶を出しながら、
「今年の夏はとくに暑いみたいですねー」
と、軽く会話に乗ってきた。
だいたい納品などで新太郎が訪れるのは、診察時間外や患者の少ない時間帯が多いので、お互い手がすいていれば、新太郎は美晴や歯科助手の千織ともだべるような間柄となった。
今日は幸いなことに、先生も千織も外していて、美晴が一人だ。チャンスからもしれない。
思い切って、新太郎は
「どうですか。今度いっぺん、食事でも行きませんか」
と、ストレートに言ってみた。
すると、美晴は案外あっさりと、
「あー。いいですねえ。たまにはごはんでもご一緒したいですねー」
と返答してきた。
美晴がどちらかといえば新太郎に悪くない印象を持っていそうだというのは、新太郎にはわかっていた。
が、この返答がつきあうことを前提としてのOKなのか、単なる社交辞令的な「近いうちにメシでも」の文脈のつもりなのかはわからない。
そこで、
「じゃあ、今夜あたり、鱧(はも)でビールでも飲みましょうか」
と、より具体的に、明確な形で踏み込んでみた。
「鱧というと・・・川床ですか」
「ええ。そうですよ。うちの親方とか、うちのみんなで前に行ったところが、なかなか安くてうまかったんですよ」
身を乗り出して新太郎が言うと、美晴は
「私・・・川床はちょっと・・・」
と、眉根をよせ、顔をくもらせた。
「え?」
「私、正座するところは苦手なんです」
ああ、そうか。
新太郎は自分の迂闊さを悔いた。
そうだ、そういえば、このクリニックに通ってしばらく経つが、美晴はいつも片足を引きずって歩いている。何ヶ月もそうだから、そのときにたまたま怪我をしていたというより、昔の怪我か何かで歩行に不自由が残っているのだろう。
だとすれば、正座が苦手ということもありうるか。
と、何となく新太郎は了解した。
「あ・・・失礼。じゃ、この近くのパスタでも行きましょう」
美晴は
「ええ。そうですね。今日は六時頃にあがりますよ。どこでお会いしますか」
と、すぐ笑顔になって答えた。
「迷惑じゃなかったら、六時頃、ここに迎えに来ましょうか」
「いいんですか」
「はい、もちろん」
新太郎はあまりの首尾よさに内心でガッツポーズをしながら、
「じゃ、また後で。お疲れ様です」
と頭を下げて、歯科医院のガラス扉を押した。