習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

雪の音(2)

2009-06-30 18:38:20 | 創作


 忙しい日々が続いた。
 ラボは親方の技術への信頼と卓越した営業力で、世間の景気のよしあしとは無関係に、いつも繁盛している。
 例の四条大宮の児玉歯科からも、他の医院と同様、頻繁に仕事が入り、新太郎はつど受注と納品とで足を運んだ。
 基本的には歯科医師とのやりとりだが、歯科衛生士の女性が代行でやりとりすることも多い。衛生士の女性は名を美晴といった。明るくて、やさしい笑顔の人だった。

 技工士と違って、衛生士は患者とじかに接するのだから、無愛想な人や高慢な人は、技術能力以前にやっていけない。その点、この美晴という衛生士は、物腰やわらかで穏やかな人あたりだから、児玉先生からも患者からも信頼されている様子だ。
 何度か通っているうち、新太郎ともだんだんうちとけてきて、事務的な会話以外をすることも多くなってきた。

「いやあ。今日は暑いですねぇ」
 汗をふきながら入ってきた新太郎に、美晴は
「あー、小林さん。お疲れ様ですー」
と言って、麦茶を出しながら、
「今年の夏はとくに暑いみたいですねー」
と、軽く会話に乗ってきた。
 だいたい納品などで新太郎が訪れるのは、診察時間外や患者の少ない時間帯が多いので、お互い手がすいていれば、新太郎は美晴や歯科助手の千織ともだべるような間柄となった。

 今日は幸いなことに、先生も千織も外していて、美晴が一人だ。チャンスからもしれない。
 思い切って、新太郎は
「どうですか。今度いっぺん、食事でも行きませんか」
と、ストレートに言ってみた。
 すると、美晴は案外あっさりと、
「あー。いいですねえ。たまにはごはんでもご一緒したいですねー」
と返答してきた。
 美晴がどちらかといえば新太郎に悪くない印象を持っていそうだというのは、新太郎にはわかっていた。
 が、この返答がつきあうことを前提としてのOKなのか、単なる社交辞令的な「近いうちにメシでも」の文脈のつもりなのかはわからない。

 そこで、
「じゃあ、今夜あたり、鱧(はも)でビールでも飲みましょうか」
と、より具体的に、明確な形で踏み込んでみた。
「鱧というと・・・川床ですか」
「ええ。そうですよ。うちの親方とか、うちのみんなで前に行ったところが、なかなか安くてうまかったんですよ」
 身を乗り出して新太郎が言うと、美晴は
「私・・・川床はちょっと・・・」
と、眉根をよせ、顔をくもらせた。
「え?」
「私、正座するところは苦手なんです」

 ああ、そうか。
 新太郎は自分の迂闊さを悔いた。
 そうだ、そういえば、このクリニックに通ってしばらく経つが、美晴はいつも片足を引きずって歩いている。何ヶ月もそうだから、そのときにたまたま怪我をしていたというより、昔の怪我か何かで歩行に不自由が残っているのだろう。
 だとすれば、正座が苦手ということもありうるか。
 と、何となく新太郎は了解した。

「あ・・・失礼。じゃ、この近くのパスタでも行きましょう」
 美晴は
「ええ。そうですね。今日は六時頃にあがりますよ。どこでお会いしますか」
と、すぐ笑顔になって答えた。
「迷惑じゃなかったら、六時頃、ここに迎えに来ましょうか」
「いいんですか」
「はい、もちろん」
 新太郎はあまりの首尾よさに内心でガッツポーズをしながら、
「じゃ、また後で。お疲れ様です」
と頭を下げて、歯科医院のガラス扉を押した。
 
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雪の音(1)

2009-06-29 09:36:17 | 創作



 吉岡デンタルラボでは下宿を兼ねた。
 小林新太郎も、歯科技工工房の上の階のワンルームに就職以来住み続けていた。
 実家から通っても決して遠くはないものの、マンションの1階が作業場で、住まいがその上というのは、たしかに楽である。
 別に技工所がマンションのオーナーというわけではないが、マンションの1階が工房となっており、親方はじめ、従業員みんな職住一致であった。職場は表に派手な看板もなく、工房内も装飾とはほとんど無縁の殺風景な場所だ。

 長らく吉岡デンタルラボのエース職人ともいうべき存在だった川村が、自らの歯科技工所を開業する目途がついたとのことで退職し、新太郎にはこれまでにも増して仕事での期待と負担がかかってきそうだ。

 新太郎は昨日からかかってきた補綴物(ほてつぶつ)を完成させると、納品のため包装した。ポケットから、あらかじめパソコンでプリントアウトしておいた地図を出し、納品先の歯科医院の場所を確認する。そう遠くはない。
「じゃ、児玉歯科にお届けに行ってまいります」
 新太郎の声に親方―と呼ばれることをこの人は好む―は、
「おう」
と、研磨作業の手を止めずに、下を向いたまま軽く答えた。
 親方は技工作業も大好きだが営業も大好きという人で、作業のあいまあいまに自ら得意先まわりをしている。新太郎も親方と同じく、いわばセールスマイスターとして、営業も兼務しているような具合だ。

 四条大宮の児玉歯科医院からの仕事は以前は退職した川村の担当だったが、新たに新太郎が担当になり、行くのは実は今日がはじめてだ。
 マンションの駐車スペースから技工所共用の原付を出してまたがると、新太郎は軽快に発車させた。

 児玉歯科は表通りに面した雑居ビルの中にある、典型的な都市型の歯科医院だった。
 エレベータで三階に昇り、医院の扉を開けると、都会の歯科医院らしく仕事中にちょっと抜けてきたらしいサラリーマンやOLが待合室に座っている。他にも地元の商店主やおかみさんらしき中高年の姿も見える。

「すいません。吉岡ラボの小林です。お届けにあがりました」
「あ。はいはい。お疲れ様です」
 受付の歯科助手が担当の歯科衛生士を呼びに行くと、奥から白衣を着た歯科衛生士の女性がマスクをとりながら出てきて、
「こんにちは。お疲れ様です。今日は川村さんはお休みなんですか」
と、愛想よく話しかけてきた。
「いや。川村は退職したんで、今後、私がこちら児玉歯科さんの担当になります」
「あ、そーなんですか」
「小林です。よろしく」
 新太郎が最敬礼すると、
「あ。いえいえ。こちらこそよろしく」
と、衛生士の女性は、にっこりと頭を下げ、
「えーと、宮本治さんの義歯ですね。たしかに受領しました」
と、届け物の中味を確認し、奥のほうへと入っていった。
 怪我でもしているのか、足を引きずるような、いわゆる「びっこを引く」ような危なげな歩調で。

 その後、歯科医師の先生から新しい依頼の指示書と印象(歯の型)を受け取って、新太郎は技工所に戻った。
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『雪の音』について

2009-06-28 16:33:39 | 創作
さて、『雪の音』ですが、これまた、何度もしつこいのですが、『すきとおる季節の中で』のバリエーションとしてできてしまった愚作です。
『すきとおる季節の中で』のラスト数行が、後から勝手に伏線になるとでも申しましょうか、そこで書いたことが別エピソードを勝手に呼び込んでしまったというあたりです。

そんなわけで、この作品は島崎藤村と、それから「雪の音」があることを教えてくれた学生時代の旧友に捧げます。
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『冷たい雫』の後説

2009-06-20 10:29:21 | 創作
『すきとおる季節』のラスト数行から、勝手に別エピソードが生まれた。・・・と、まあ、そんな感じでしょうか、『冷たい雫』は。

とくにつけ加えることは、今のところないのですが、改めて読み返してみて、ヒロインの印象というのは、少し心配ではあります。
連作を通じてのヒロイン、すなわち「美晴」は、本来、私としては明るくて前向きで、さわやかな女の子として描きたかった、はずなのですが、どうも、読んだ感じとして、メソメソした性格に読めてしまわないかと、それが不安だったりもします。

まあ、そんなわけで、次回またがんばりますんで。と、よくわからないまとめ方。
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冷たい雫(6)

2009-06-18 19:02:32 | 創作


 私が美晴のために余計なことをしたとは思っていない。理性では。
 そのときも。それから後もずっと。
 なのに、私はそれ以来、どうにもできない重みを心に抱えてしまった。

 それから後、私は東京の大学でのサークル活動やら友達づきあいやら、そして時が流れて就職活動や東京での会社員生活で忙しくなり、何となく美晴との連絡が途絶えがちになってしまった。
 美晴も国家試験に向けての学校の勉強と、そして就業後はその仕事で忙しくなったようだ。
 それで、気がつけば、年賀状程度のやりとりがせいぜいで、電話で話すことすらあまりなくなってしまった。美晴とも、他の部活仲間とも。
 今は?今は、そうではない。
 こないだ、バレー部のOG会が久々に会って、美晴含め、昔と変わらぬ仲間でワイワイやって、今度の美晴の結婚式のために、みんなで何か演しものでもやろうかと盛り上がっている。

 しかし・・・今でも私はあの夜のことを思い出すと、胸の奥のどこかが痛くなる。
 今も心の中の重たい場所を、あの夜の冷たい雫が無情に濡らしている。・・・


(2009年2月)
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