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それからベルリンフィルとのマーラーも、『巨人』、『復活』、4番と、いずれも私はバーンスタインよりハイティンクのほうが好きなぐらいだ(※15)。
交響曲以外のハイティンク盤だと、ウラジミール・アシュケナージをソリストにしたコンセルトヘボウ管のラフマニノフのピアノ協奏曲が、今なお定盤の筆頭に挙げられる見事なディスクであり、同じ組み合わせでオケにコンセルトヘボウ管とウィーンフィルを併用したブラームスのピアノ協奏曲もライバル盤は多数ながらも、今日の耳でもじゅうぶんに素晴らしい(※16)。
また、最近は忘れられつつある音源ながら、イツァーク・パールマンをソリストにしたコンセルトヘボウ管のメンコンことメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲も、ムター/カラヤン/ベルリンフィル、チョン・キョンファ/デュトワ/モントリオール響に勝るとも劣らない安定的高水準である(※17)。
何はともあれ、ハイティンクが存命のうちに一度でも生演奏に触れ、スタジオ盤の音源だけではわからない彼の神髄に触れることができたのは、本当に良かった。
それにつけても、私がクラシックを聴き始めた頃に中堅だったハイティンクやブレンデルが引退し、同じく中堅だったバレンボイムやポリーニが大御所になり、若手だったラトルやキーシンが中堅ないし重鎮になっているのだから、まあ、こっちも年取ったねえと、いつものように嘆息するしかない。まったく。
(※15)
そういえば、ハイティンクはブルックナーとマーラーを同じ比率で取り上げる指揮者だね。
これはたしか玉木正之氏の文章に書いてあったことだったか、戦前・戦中を生きた世代は、ヒトラーの愛好したブルックナーを好んで取り上げる指揮者はナチ協力者だった者が多く、ユダヤ系作曲家のマーラーを演奏する指揮者はナチと相容れないユダヤ系が多いのだが。
ブルックナー指揮者であるフルトヴェングラー、ベームはナチ協力者だし、カラヤンも両方振るがどちらかと言えばブルックナー派で、やはりナチ協力者(さらに余談ながら、ベームとカラヤンがどちらも得意とするR・シュトラウスもやはりナチ協力者の作曲家だ)。
一方、マーラー指揮者として有名なワルターとバーンスタインがまさにユダヤ系だ。
もちろん、ナチ協力者でありながらマーラー指揮者のメンゲルベルクのような例外はいるし、バレンボイムなんて、ユダヤ人でありながらマーラーよりブルックナー派で、かつブルックナーよりもっとナチ寄りのワーグナーも平気で振る。
そして、本稿の主役ハイティンクも戦後世代として、どちらも普通に取り上げる。
もとよりナチスとかユダヤとかっていう意識の薄いわが国の場合、ブルックナー指揮者の朝比奈さんもマーラー指揮者の小澤さんも、政治思想や人種などは関係なく、単なる音楽的相性の問題だ。
なお、米国のショウビジネスの世界がそうであるように、欧州のクラシック界でもユダヤ系の結束パワーは凄いようで、指揮者のバレンボイムやヴァイオリニストのパールマンなどはユダヤ人だからということで明らかに先人たちから贔屓にされ得してきている(もちろん実力もあるが)。
逆に韓国のヴァイオリニスト、チョン・キョンファがユダヤ一派から目の上のタンコブ視されていじめられた話は有名である。
大物指揮者のズービン・メータがインド人なのにイスラエル支持者としてのスタンスを明確にしているのは、インド出身という欧州楽壇ではハンデとなる出自をカバーすべくユダヤグループの後ろ盾を得ようとしたという動機付けだったのだろう、どう見ても(まあ、実際にユダヤの血もある程度は入っているのかもしれないが。よくは知らんけど)。
同じ被差別アジア人でも、自分の実力のみでユダヤグループの包囲網と戦ったチョン・キョンファと、どっちが潔くカッコいい生き様と見るかは、まあ人によるんだろうが。
だが、それにしても、ユダヤグループのボスであったヴァイオリンの故アイザック・スターンが、チョン・キョンファの活動を妨害したと言われている一方で、わが国の五嶋みどりのことはむしろ応援してくれていたというのは不思議なことである。チェリストのヨーヨー・マに対しても好意的だったようだし。ではなぜ、同じモンゴロイドで、チョン・キョンファにだけ冷たかったのだろう?
(※16)
ブラームスのピアノ協奏曲1番・2番と言えば、本文で挙げたアシュケナージ/ハイティンク/コンセルトヘボウ管(1番)、ウィーンフィル(2番)以外だと、1番のほうはルービンシュタイン/メータ/イスラエルフィル、2番のほうはバックハウス/ベーム/ウィーンフィルの2つの老オーソリティピアニスト盤が昔から決定盤とされており、今でも訂正の必要はないだろう。
私の一押しはブレンデル/アバド/ベルリンフィルなのだが、残念ながら国内盤は廃盤で、輸入盤しかないようだ(まあ、そもそも今はもうソフト時代ではなく、ダウンロードとサブスクの時代なわけだけどね)。国内盤で入手しやすいところでは、やはりツィマーマン/バーンスタイン/ウィーンフィルが今なおファーストチョイスであろうか。
(※17)
メンコンでは、他にも諏訪内晶子/アシュケナージ/チェコフィルも美しく手堅い出来栄えでなかなかだった。少し古い音源だが、スターン/オーマンディ/フィラデルフィア管もいい。
メンコンのCDは、性格のよく似たチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とのカップリングが多く、本稿で触れたCDもほとんどがそうだが、基本的にメンの演奏はいいけどチャイはダメとか、チャイはいいけどメンはダメといったことはなく、どっちかが良ければもう片方も良いものである(ちょうどピアノ協奏曲で言うと、シューマンとグリーグの関係と同じである)。
なお余談ながら、上記の定盤以外に参考盤として、クライスラーのメンコンの復刻盤(1926)も一度は聴いてみてほしい。冒頭のあのメロディのところだけでも。
クラシックの音源というのは、演奏内容以前に録音が新しいことが必須条件(と言っても、50年代末ぐらい以降なら、ほとんど問題はない。同時代の日本の歌謡曲のレコードの音質を思えば、欧米のクラシックレーベル、米国のジャズレーベルのレコーディングエンジニアの技術はかなり優秀だった)だと私は思うが、この復刻盤についてだけは、音の古さがかえっていい効果をもたしている。
ジリジリパチパチの古めかしい音が、内田百閒(門がまえに月と書く機種依存文字、字義としては「間」と同じ)、鈴木清順の世界を感じさせるとでも言おうか、そのまんまだが)。
それからベルリンフィルとのマーラーも、『巨人』、『復活』、4番と、いずれも私はバーンスタインよりハイティンクのほうが好きなぐらいだ(※15)。
交響曲以外のハイティンク盤だと、ウラジミール・アシュケナージをソリストにしたコンセルトヘボウ管のラフマニノフのピアノ協奏曲が、今なお定盤の筆頭に挙げられる見事なディスクであり、同じ組み合わせでオケにコンセルトヘボウ管とウィーンフィルを併用したブラームスのピアノ協奏曲もライバル盤は多数ながらも、今日の耳でもじゅうぶんに素晴らしい(※16)。
また、最近は忘れられつつある音源ながら、イツァーク・パールマンをソリストにしたコンセルトヘボウ管のメンコンことメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲も、ムター/カラヤン/ベルリンフィル、チョン・キョンファ/デュトワ/モントリオール響に勝るとも劣らない安定的高水準である(※17)。
何はともあれ、ハイティンクが存命のうちに一度でも生演奏に触れ、スタジオ盤の音源だけではわからない彼の神髄に触れることができたのは、本当に良かった。
それにつけても、私がクラシックを聴き始めた頃に中堅だったハイティンクやブレンデルが引退し、同じく中堅だったバレンボイムやポリーニが大御所になり、若手だったラトルやキーシンが中堅ないし重鎮になっているのだから、まあ、こっちも年取ったねえと、いつものように嘆息するしかない。まったく。
(※15)
そういえば、ハイティンクはブルックナーとマーラーを同じ比率で取り上げる指揮者だね。
これはたしか玉木正之氏の文章に書いてあったことだったか、戦前・戦中を生きた世代は、ヒトラーの愛好したブルックナーを好んで取り上げる指揮者はナチ協力者だった者が多く、ユダヤ系作曲家のマーラーを演奏する指揮者はナチと相容れないユダヤ系が多いのだが。
ブルックナー指揮者であるフルトヴェングラー、ベームはナチ協力者だし、カラヤンも両方振るがどちらかと言えばブルックナー派で、やはりナチ協力者(さらに余談ながら、ベームとカラヤンがどちらも得意とするR・シュトラウスもやはりナチ協力者の作曲家だ)。
一方、マーラー指揮者として有名なワルターとバーンスタインがまさにユダヤ系だ。
もちろん、ナチ協力者でありながらマーラー指揮者のメンゲルベルクのような例外はいるし、バレンボイムなんて、ユダヤ人でありながらマーラーよりブルックナー派で、かつブルックナーよりもっとナチ寄りのワーグナーも平気で振る。
そして、本稿の主役ハイティンクも戦後世代として、どちらも普通に取り上げる。
もとよりナチスとかユダヤとかっていう意識の薄いわが国の場合、ブルックナー指揮者の朝比奈さんもマーラー指揮者の小澤さんも、政治思想や人種などは関係なく、単なる音楽的相性の問題だ。
なお、米国のショウビジネスの世界がそうであるように、欧州のクラシック界でもユダヤ系の結束パワーは凄いようで、指揮者のバレンボイムやヴァイオリニストのパールマンなどはユダヤ人だからということで明らかに先人たちから贔屓にされ得してきている(もちろん実力もあるが)。
逆に韓国のヴァイオリニスト、チョン・キョンファがユダヤ一派から目の上のタンコブ視されていじめられた話は有名である。
大物指揮者のズービン・メータがインド人なのにイスラエル支持者としてのスタンスを明確にしているのは、インド出身という欧州楽壇ではハンデとなる出自をカバーすべくユダヤグループの後ろ盾を得ようとしたという動機付けだったのだろう、どう見ても(まあ、実際にユダヤの血もある程度は入っているのかもしれないが。よくは知らんけど)。
同じ被差別アジア人でも、自分の実力のみでユダヤグループの包囲網と戦ったチョン・キョンファと、どっちが潔くカッコいい生き様と見るかは、まあ人によるんだろうが。
だが、それにしても、ユダヤグループのボスであったヴァイオリンの故アイザック・スターンが、チョン・キョンファの活動を妨害したと言われている一方で、わが国の五嶋みどりのことはむしろ応援してくれていたというのは不思議なことである。チェリストのヨーヨー・マに対しても好意的だったようだし。ではなぜ、同じモンゴロイドで、チョン・キョンファにだけ冷たかったのだろう?
(※16)
ブラームスのピアノ協奏曲1番・2番と言えば、本文で挙げたアシュケナージ/ハイティンク/コンセルトヘボウ管(1番)、ウィーンフィル(2番)以外だと、1番のほうはルービンシュタイン/メータ/イスラエルフィル、2番のほうはバックハウス/ベーム/ウィーンフィルの2つの老オーソリティピアニスト盤が昔から決定盤とされており、今でも訂正の必要はないだろう。
私の一押しはブレンデル/アバド/ベルリンフィルなのだが、残念ながら国内盤は廃盤で、輸入盤しかないようだ(まあ、そもそも今はもうソフト時代ではなく、ダウンロードとサブスクの時代なわけだけどね)。国内盤で入手しやすいところでは、やはりツィマーマン/バーンスタイン/ウィーンフィルが今なおファーストチョイスであろうか。
(※17)
メンコンでは、他にも諏訪内晶子/アシュケナージ/チェコフィルも美しく手堅い出来栄えでなかなかだった。少し古い音源だが、スターン/オーマンディ/フィラデルフィア管もいい。
メンコンのCDは、性格のよく似たチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とのカップリングが多く、本稿で触れたCDもほとんどがそうだが、基本的にメンの演奏はいいけどチャイはダメとか、チャイはいいけどメンはダメといったことはなく、どっちかが良ければもう片方も良いものである(ちょうどピアノ協奏曲で言うと、シューマンとグリーグの関係と同じである)。
なお余談ながら、上記の定盤以外に参考盤として、クライスラーのメンコンの復刻盤(1926)も一度は聴いてみてほしい。冒頭のあのメロディのところだけでも。
クラシックの音源というのは、演奏内容以前に録音が新しいことが必須条件(と言っても、50年代末ぐらい以降なら、ほとんど問題はない。同時代の日本の歌謡曲のレコードの音質を思えば、欧米のクラシックレーベル、米国のジャズレーベルのレコーディングエンジニアの技術はかなり優秀だった)だと私は思うが、この復刻盤についてだけは、音の古さがかえっていい効果をもたしている。
ジリジリパチパチの古めかしい音が、内田百閒(門がまえに月と書く機種依存文字、字義としては「間」と同じ)、鈴木清順の世界を感じさせるとでも言おうか、そのまんまだが)。