習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

たたえよハイティンク(4)

2021-07-30 17:33:35 | 音楽


 それからベルリンフィルとのマーラーも、『巨人』、『復活』、4番と、いずれも私はバーンスタインよりハイティンクのほうが好きなぐらいだ(※15)。


 交響曲以外のハイティンク盤だと、ウラジミール・アシュケナージをソリストにしたコンセルトヘボウ管のラフマニノフのピアノ協奏曲が、今なお定盤の筆頭に挙げられる見事なディスクであり、同じ組み合わせでオケにコンセルトヘボウ管とウィーンフィルを併用したブラームスのピアノ協奏曲もライバル盤は多数ながらも、今日の耳でもじゅうぶんに素晴らしい(※16)。
 また、最近は忘れられつつある音源ながら、イツァーク・パールマンをソリストにしたコンセルトヘボウ管のメンコンことメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲も、ムター/カラヤン/ベルリンフィル、チョン・キョンファ/デュトワ/モントリオール響に勝るとも劣らない安定的高水準である(※17)。


 何はともあれ、ハイティンクが存命のうちに一度でも生演奏に触れ、スタジオ盤の音源だけではわからない彼の神髄に触れることができたのは、本当に良かった。
 それにつけても、私がクラシックを聴き始めた頃に中堅だったハイティンクやブレンデルが引退し、同じく中堅だったバレンボイムやポリーニが大御所になり、若手だったラトルやキーシンが中堅ないし重鎮になっているのだから、まあ、こっちも年取ったねえと、いつものように嘆息するしかない。まったく。



(※15)

そういえば、ハイティンクはブルックナーとマーラーを同じ比率で取り上げる指揮者だね。
これはたしか玉木正之氏の文章に書いてあったことだったか、戦前・戦中を生きた世代は、ヒトラーの愛好したブルックナーを好んで取り上げる指揮者はナチ協力者だった者が多く、ユダヤ系作曲家のマーラーを演奏する指揮者はナチと相容れないユダヤ系が多いのだが。
ブルックナー指揮者であるフルトヴェングラー、ベームはナチ協力者だし、カラヤンも両方振るがどちらかと言えばブルックナー派で、やはりナチ協力者(さらに余談ながら、ベームとカラヤンがどちらも得意とするR・シュトラウスもやはりナチ協力者の作曲家だ)。
一方、マーラー指揮者として有名なワルターとバーンスタインがまさにユダヤ系だ。
もちろん、ナチ協力者でありながらマーラー指揮者のメンゲルベルクのような例外はいるし、バレンボイムなんて、ユダヤ人でありながらマーラーよりブルックナー派で、かつブルックナーよりもっとナチ寄りのワーグナーも平気で振る。
そして、本稿の主役ハイティンクも戦後世代として、どちらも普通に取り上げる。
もとよりナチスとかユダヤとかっていう意識の薄いわが国の場合、ブルックナー指揮者の朝比奈さんもマーラー指揮者の小澤さんも、政治思想や人種などは関係なく、単なる音楽的相性の問題だ。
なお、米国のショウビジネスの世界がそうであるように、欧州のクラシック界でもユダヤ系の結束パワーは凄いようで、指揮者のバレンボイムやヴァイオリニストのパールマンなどはユダヤ人だからということで明らかに先人たちから贔屓にされ得してきている(もちろん実力もあるが)。
逆に韓国のヴァイオリニスト、チョン・キョンファがユダヤ一派から目の上のタンコブ視されていじめられた話は有名である。
大物指揮者のズービン・メータがインド人なのにイスラエル支持者としてのスタンスを明確にしているのは、インド出身という欧州楽壇ではハンデとなる出自をカバーすべくユダヤグループの後ろ盾を得ようとしたという動機付けだったのだろう、どう見ても(まあ、実際にユダヤの血もある程度は入っているのかもしれないが。よくは知らんけど)。
同じ被差別アジア人でも、自分の実力のみでユダヤグループの包囲網と戦ったチョン・キョンファと、どっちが潔くカッコいい生き様と見るかは、まあ人によるんだろうが。
だが、それにしても、ユダヤグループのボスであったヴァイオリンの故アイザック・スターンが、チョン・キョンファの活動を妨害したと言われている一方で、わが国の五嶋みどりのことはむしろ応援してくれていたというのは不思議なことである。チェリストのヨーヨー・マに対しても好意的だったようだし。ではなぜ、同じモンゴロイドで、チョン・キョンファにだけ冷たかったのだろう?


(※16)

ブラームスのピアノ協奏曲1番・2番と言えば、本文で挙げたアシュケナージ/ハイティンク/コンセルトヘボウ管(1番)、ウィーンフィル(2番)以外だと、1番のほうはルービンシュタイン/メータ/イスラエルフィル、2番のほうはバックハウス/ベーム/ウィーンフィルの2つの老オーソリティピアニスト盤が昔から決定盤とされており、今でも訂正の必要はないだろう。
私の一押しはブレンデル/アバド/ベルリンフィルなのだが、残念ながら国内盤は廃盤で、輸入盤しかないようだ(まあ、そもそも今はもうソフト時代ではなく、ダウンロードとサブスクの時代なわけだけどね)。国内盤で入手しやすいところでは、やはりツィマーマン/バーンスタイン/ウィーンフィルが今なおファーストチョイスであろうか。


(※17)

メンコンでは、他にも諏訪内晶子/アシュケナージ/チェコフィルも美しく手堅い出来栄えでなかなかだった。少し古い音源だが、スターン/オーマンディ/フィラデルフィア管もいい。
メンコンのCDは、性格のよく似たチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とのカップリングが多く、本稿で触れたCDもほとんどがそうだが、基本的にメンの演奏はいいけどチャイはダメとか、チャイはいいけどメンはダメといったことはなく、どっちかが良ければもう片方も良いものである(ちょうどピアノ協奏曲で言うと、シューマンとグリーグの関係と同じである)。
なお余談ながら、上記の定盤以外に参考盤として、クライスラーのメンコンの復刻盤(1926)も一度は聴いてみてほしい。冒頭のあのメロディのところだけでも。
クラシックの音源というのは、演奏内容以前に録音が新しいことが必須条件(と言っても、50年代末ぐらい以降なら、ほとんど問題はない。同時代の日本の歌謡曲のレコードの音質を思えば、欧米のクラシックレーベル、米国のジャズレーベルのレコーディングエンジニアの技術はかなり優秀だった)だと私は思うが、この復刻盤についてだけは、音の古さがかえっていい効果をもたしている。
ジリジリパチパチの古めかしい音が、内田百閒(門がまえに月と書く機種依存文字、字義としては「間」と同じ)、鈴木清順の世界を感じさせるとでも言おうか、そのまんまだが)。
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たたえよハイティンク(3)

2021-07-29 17:31:59 | 音楽


 このハイティンクとRCOのベト全集については、
「楽譜を細部に至るまで豊かに鳴らして堂々たる響きを作りつつも、リズム描出は鈍ることなく、わずかに重い足取りながら心地よく音楽を推進するし、旋律の歌わせ方にもよく神経が通って含蓄に富んだカンタービレを聴かせる。安易なドラマを設定して大仰なポーズをとったり、煽り立てたりすることを自らに戒めた演奏は聴き手を選ぶだろうが、オーケストラの芳醇な音色と相まって、聴きこむほどに深まる滋味を感じさせてくれるはずだ」
と評されていて(『クラシック名盤大全/交響曲・管弦楽曲編・上』(音楽之友社/2015)p.42)、かつてハイティンクを不当に敵視する酷評―というよりただの悪口―が目立った『レコ芸』系出版物にしては、過不足ない適切な評価である。

 一方、『モーストリークラシック』の連載コラムで知られる元音楽プロデューサーの中野雄氏は、同全集について、
「円熟期を迎えたハイティンクの生真面目さがそのまま音像として盤に刻まれた印象で、プラス・アルファ、すなわちベートーヴェンの音楽に加味された演奏者側の想いというものが聴き手に伝わってこない」
と、やや厳しい言い方をしていて(『指揮者の役割』(新潮選書/2011)p.251)、私としても言わんとしていることは残念ながらわかる。中庸すぎて、演奏者の存在、主張が見えにくいといったところか(※13)


 ただ、ハイティンクの場合、ベートーヴェンもたしかにいいが、私なら録音で聴くハイティンクといえば、むしろブルックナーだ。ベートーヴェン、ブラームスのCDでハイティンク盤をベーム盤より上だと書けばウソになるが、ブルックナーのCDなら基本的にベームよりハイティンクのほうが私は好きだ。ウィーンフィルとの4番、8番、コンセルトヘボウ管との9番、シカゴ響との7番など、いずれも素晴らしい。また、ロンドン響と来日したときに生で聴いたブル7は私が経験した全ての音楽ライブで最高のものだった(※14)。



(※13)

もっとも著者の中野氏は、その後で、「『凡演』などという不遜な言辞を二人とこのオーケストラに贈るつもりはないが」とフォローしている。「二人」とは、ハイティンクと、当時のロイヤルコンセルトヘボウ管のコンサートマスター、すなわちオーケストラリーダーのテオ・オロフ氏のことである。
まあ、この中野雄氏という書き手も、「ウィーンフィルの団員の人がこう証言していた」というのを金科玉条とするあまり、自分の耳より「ウィーンフィルの人がこう言っていた」ばかりが基準になってしまって、「ウィーンフィルの人が褒めていた指揮者=いい指揮者」、「ウィーンフィルの人が嫌っていた指揮者=悪い指揮者」と妄信しすぎているという弊害のある書き手なので、「話半分」に読んでおいたほうがいいところもある。が、それでも、自分の好き嫌いを優劣と混同するような評論家よりはマシか?
また、自身が日本人、すなわちアジア人でありながら、「本場」ヨーロッパの音楽家との交流のしすぎで、自分もウィーン人になったような錯覚を抱いてしまっているのか、どうもアメリカのオーケストラ、または日本人以外のアジア人演奏家をこきおろして悦に入るというか、たぶんアメリカのオケや中国や韓国の演奏家をけなすことで、あたかも自分も憧れのヨーロッパ人の仲間入りをしたように錯覚して酔ってしまっているように見える節があるのは、所詮はお年寄りだから仕方ないと言ってしまえばそれまでながら、やはり「痛い」ところではあるね。たぶん、ラン・ランやユジャ・ワンやチョ・ソンジンをこきおろすことで、自分もあたかもウィーンっ子になったような気分に気持ちよく浸っているのだろう。
(なお、このテの人の場合、「歴史の浅い」アメリカ合衆国のオーケストラや演奏家は目の敵にするくせに、カナダ人のグールドや中南米出身のアラウ、アルゲリッチあたりは全く敵視しないのも不思議なことである。そういえば、クラシック以外の一般社会でも、「アジア人初の快挙!」なんて具合に、BTSがアメリカの音楽賞を受賞したりノミネートされたりしたとかいう報道が出ると、「何で他国の歌手のことなんか報道するんだよ!いったいどこの国のマスコミだよ!」と、必死に涙目で言いがかりをつける痛い人たちも多いけど、そういう人たちというのは、「日本だけがアジアの別格」でなければいけない、そうであった時代に戻したいというノスタルジーの持ち主なのか。否。たぶんそういう人たちでも、欧米のアーチストはもとより、アジアでももしマレーシアやらインドやらのアーチストが「アジア人初の快挙」だと報道されたところで、別に文句は言わないんだろう、たぶん。要するに、中国と韓国がただただひたすら憎く、その憎悪が生きがいなんだろう。「どうぞご自由に」という他ない)
・・・・・・と、余談の余談はさておき、ハイティンクのベートーヴェン全集といえば、私が聴いているのはロイヤルコンセルトヘボウ管とのスタジオ録音盤だが、より新しいロンドン響とのライブ盤もあって、世評は実はそちらのほうがより良いらしい。たしかにハイティンクはスタジオ盤CDで聴くよりライブのほうがいい傾向にあるから、さもありなんという話で、いずれロンドン響との新盤のほうも聴かねばと思っている。


(※14)

クラシックでは、ね。ジャズならジョニー・グリフィン。一般邦楽なら渡辺美里。
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たたえよハイティンク(2)

2021-07-28 17:25:35 | 音楽


 ベートーヴェンの交響曲全集と言えば、私はシャープに引き締まった、切れ味鋭い演奏を聴きたいときはジョージ・セルを聴き、威風堂々たる貫禄たっぷりの演奏を聴きたいときはカール・ベームを聴く。過去の有名指揮者のベートーヴェンも、大別すれば、上記のどちらかだ。

 筋肉質のエッジ鋭いベートーヴェンなら、セル/クリーブランド管(※4)以外だとトスカニーニ/NBC響、カラヤン/ベルリンフィル(※5)、ショルティ/シカゴ響(※6)、ムーティ/フィラデルフィア管、アバド/ベルリンフィルなどの名盤がある(※7)。
 一方、大河のごとき威風堂々たるベートーヴェンなら、ベーム/ウィーンフィル以外だと、バーンスタイン/ウィーンフィル、バレンボイム/ベルリンシュターツカペレなどの有名な全集がある(※8)。それから、私は未聴だが、ティーレマン/ウィーンフィルのベト全もこのタイプらしい。
 さらに、オケはやや薄手ながら、往年のワルター/コロンビア響も演奏のタイプとしてはゆったり型だし(※9)、全集として完成はしていないが、ジュリーニ/ミラノスカラ座管も後者の典型タイプ(※10)。
 日本代表の小澤征爾/サイトウキネンは前者のしゃっきりキビキビタイプのソップ型ベートーヴェンで、一方、国際的な格は小澤とは比べるべくもないしオケの合奏力も比較にならないが、日本国内に信者多数だった朝比奈さん/大阪フィルは後者のゆったりどっしりタイプのアンコ型ベートーヴェンだろう(※11)。

 そして、両陣営のちょうど中間を行く名全集がハイティンク/ロイヤルコンセルトヘボウ管(当時・アムステルダムコンセルトヘボウ管)なのである。どちらにも偏らないニュートラルなベートーヴェンということで、「まず曲を知る」ためのビギナー向け全集とも言えそうだ(※12)。




(※4)

ジョージ・セルとクリーブランド管のベートーヴェン全集は、かの吉田秀和氏も「ベト全を一組だけ持つならこれ」とプッシュしたという、完全無欠の完成度を誇る名全集中の名全集である。
スピーディーで引き締まったサウンド設計、非の打ち所がない合奏精度、そして一糸乱れぬ迫力と、もう半世紀以上前の録音ながら、現代の演奏と比較しても全く驚くほどに遜色ない演奏である。
ここでのセルはまさに「完全体」と言えるだろう。
他に「セル完全体」が味わえる音盤としては、ハイドンの交響曲選集、シューマンの交響曲全集、ワーグナーの『指輪』のハイライト盤、ブラームスの交響曲全集、ドヴォルザークの8番、エミール・ギレリスをソリストに迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲全集、ピエール・フルニエをソリストに迎えたドヴォルザークのチェロ協奏曲、そしてモーツァルト40番やシベリウス2番を取り上げた日本ライブ盤あたりが、現在の水準でも十二分に驚嘆できる完成度を持つ無敵の音盤だと思う。


(※5)

ただ、カラヤンのベートーヴェンというのは、個人的には評価の難しいところである。
間違いなく完成度は高く、どこにも瑕疵はないのだが、個人的にはベームやセルの演奏のほうが好きなのである。
たしかにカラヤンはどんなレパートリーでも質の高い音盤を作る偉大な才能の指揮者だが、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスあたりは、個人的にはカラヤン以外で聴くことが多いし、もし私がビギナーのクラ友に推奨CDを紹介する場合もカラヤン以外になりそうだ。
私との相性なのか、カラヤン自身とその音楽との相性なのかはわからないが、やはりカラヤンは第一にイタリアオペラだろう。次にR・シュトラウスだろう。それから『惑星』だろう。交響曲なら『悲愴』と『不滅』(ニールセン)だろう(もちろん、新ウィーン楽派の管弦楽曲も忘れてはなるまいし、北欧ものも総じて見事である)。
そんなカラヤンのベートーヴェンについて、「一見金ピカだが、中味のないハリボテだ」などというアンチ派の言いがかりにはさすがに同調はしないまでも、40%ぐらいは気持ちがわからないでもない。
が、それでも別にいいではないか。ベートーヴェンやブルックナーをメインレパートリーとする指揮者が「偉大な」指揮者で、近現代音楽を得意とする指揮者がそうでないなどということは全くないのだから(いったい誰がそんなこと言い出した?丸山真男か?)。
たしかに、かつて日本の一部の頭のおかしい評論家に、ブルックナーやベートーヴェンで自分好みの演奏をする指揮者が「偉大な指揮者」で、ベトブルの解釈が好みに合わない指揮者は、「才能がない指揮者」、「聴きに行くほうが悪い」などと噴飯ものの妄言を真剣に吐いていた人がいて、カラヤンも槍玉に上がる対象だったようだが、カラヤンのベートーヴェンが自分にとっての優先ディスクじゃないからと言って、私自身はそういう好き嫌いと優劣を混同する人たちに与するつもりは断じてない。
まあ、カラヤンがかつて「アンチ」の多い指揮者だったのは、全盛期の巨人軍と同じで、それだけ世間の一般的知名度・注目度が圧倒的だったから、オタクにとっては巨人や大鵬と同じく褒めるよりけなすほうが何となく「通」っぽくてカッコよかったからなのだろう。
・・・って、この稿はカラヤン論じゃなくてハイティンク論だったのに、随分それてしまったな(笑)。


(※6)

グラミー賞最多受賞という知られざる不滅の記録を保持するサー・ゲオルク・ショルティは、当たりはずれのムラがある指揮者である。
ショルティの場合、キャラクターはハッキリした指揮者で、「ギラギラ」、「ガンガン」、「バリバリ」といったオノマトペで語られるのがもっぱらである。たしかに手兵シカゴ交響楽団の、とくに金管部隊のパワフルさは上記の擬態語がふさわしい。
が、何が当たりで何が外れかは、あまり法則性がなくて、よくわからない指揮者なのだ。まったく。
たとえば『新世界』なんかは、ボヘミアの郷愁という性格よりはニューヨークのメトロポリタンライフの性格に傾斜した演奏だが、第四楽章主題の快刀乱麻を断つような切れ味は今もってトップ水準である。ベートーヴェンでも5番や7番がいいのは予想通りながら、『田園』あたりも意外なことに良かったりする。あとは、1番や2番といった初期の曲も正統王道ではなかろうが、なかなかフレッシュで魅力的だ。その一方で、第九については、なぜか私にはテンポ操作などがフィットしなかった(私が聴いたのは新盤のほう)。
他では、ブルックナーなんて水と油かと思いきや、ブル7なんて意外なほど良かった。食わず嫌いの人にブラインドで聴いてみてほしいと思うぐらいに。が、そのわりに同じブルックナーでも8番はいまひとつであったりもして。
ゲオルグ・ショルティ・・・やはり謎の指揮者である。
ただ、言うまでもなく、ショルティはそもそもシンフォニーでなくオペラが本領の人である(ま、それを言ったら、ベームもカラヤンもそうだが)。日本ではそのことがあまり理解されず、指揮者といえば何かとベトモツシンフォニーあたりを基準に評価しようとする向きが多すぎるようで。


(※7)

また、指揮者としての評価はラフマニノフやショスタコーヴィチなどのお国もの以外は高くない人だが、アシュケナージ/N響も実は意外と良かった。そりゃまあ、BPOやVPOやRCOの演奏よりも優先して聴くべしとは言わないけど、もっと高く評価されていいと思う。
一押しは『田園』で、高音弦が美しい『田園』は多いが、低弦の美しさがこんなに際立つ『田園』は珍しい。総合点でも、名盤の誉れ高いワルター盤やベーム盤に匹敵しよう。
それから、余談の余談として、『田園』といえば、特筆しておきたいのが、アバド指揮/ウィーンフィルの80年代録音の『田園』である。上述のアシュケナージと違ってかなり遅い演奏だが、同じ遅い『田園』でも、ジュリーニや朝比奈さんよりずっといい(私見)。とにかく美しい!本当に本当に美しい!なんて滑らか!なんてきめ細やか!こんなに流麗な珠玉の『田園』は他にないと思う(滅多に聴く機会のないカンタータ曲がカップリングされているという点でもお得!)。個人的な好き嫌いで言ったら、実は『田園』に関する限り、ワルターよりベームよりセルよりカラヤンよりバーンスタインよりハイティンクより私はアバド押しなのである(ただし、同じアバドの指揮でも、後年のベルリンフィルとの音盤や映像では、良い演奏ではあっても、この透徹したオンリーワンの美しさは失われてしまっている)。


(※8)

バレンボイムとベルリンシュターツカペレのベートーヴェン全集について、「フルトヴェングラーのベートーヴェンをいい音で聴きたい人向け」と書いた評を読んだことがあり、なかなか的を射た言だと思ったものである。
そしたら、さしずめムーティとフィラデルフィア管のベト全は「トスカニーニのベートーヴェンをいい音で聴きたい人向け」かな。


(※9)

ワルターとコロンビア響のステレオのベートーヴェン全集は、世評の高い『田園』と1番、2番がすぐれているのはその通りながら、『英雄』や第5もいいし、もちろん4番や8番もいい(とくに4番は白眉!)。第5なんて、初めて聴いた人はビックリしちゃうぐらいにスローテンポだが、同じ「驚くほど遅い第5」でも、ジュリーニや朝比奈さんより説得力があるのはさすがである(私見だが、朝比奈さんはベートーヴェンよりブラームスがいい)。
残念なのは7番で、肝心の終楽章がちょっとフニャフニャな感じでどうにも迫力に欠ける。それと第9も、1~3楽章は文句がないし、最終楽章も歌になるまではとてもいいのだが、独唱・合唱が何とも落ちる。これは録音の問題、とくにマイクがオン(近い)かオフ(遠い)かという問題もあるだろうが。
7番と9番がもっと良ければ、今もってベートーヴェン全集のファーストチョイスにだってなり得るのに、残念なことだ。


(※10)

私にはいくら何でも遅すぎる演奏だし、ソニークラシカルの録音もなぜかパッとしない、というかマイクがオフすぎるので、どうにも肌に合わず、早急に売っ払ってしまった。
ジュリーニの音源もドイツグラモフォンならいいやつは良くて、ベルリンフィルとの第九やヴェルレクもいいし、ウィーンフィルとのブラームス全集なんて、やはり遅すぎるものの、それでもなかなか抗いがたい魅力の音盤ではあるのだが。


(※11)

とにかく晩年の朝比奈さんといえば、出せば売れる(信者に)ということで、コンサートのたびにライブ録音されCDが出ていたから、朝比奈さんの音盤、とくにベートーヴェン交響曲全集はやたらと種類が多かった。今はCD時代自体が終わったということもあって、ほとんど廃盤だろうが。
私が昔、アマゾンで買ったのは90年代後半ぐらいに出たポニーキャニオンのベートーヴェン全集であった(十代の頃、アルフィーや中島みゆきのファンだった私としては、ポニキャンから朝比奈さんのクラシックCDが出るという不思議な組み合わせに感無量だった・・・のだが、その後、あっさりクラシック部門は切り捨てられてしまったらしい(泣))。
朝比奈さんの演奏はとにかく遅いのが特徴なので、好き嫌いは分かれるだろうし、それ以前にそもそも大フィルの演奏レベルがBPOやRCOやCSOとは違うから、信者以外にとってどれだけ価値があるのかというのは、キチンと客観的に厳しい目で評価しないといけないところではある。
で、私個人の感想としては、この全集で気に入ったのは、意外にも8番だったりする。ベートーヴェンの9曲の中で一番短くて一番軽やかとされるこの曲を、朝比奈さんのずっしりスローテンポで聴いてみたら、かなり意外な味わいの演奏効果になっていて、実におもしろく鑑賞できた。
なお、余談の余談として。朝比奈さんのディスクは、上述の通り、もっぱら「ベートーヴェン交響曲全曲演奏会」、「ブラームス交響曲全曲演奏会」の機会にライブ録音されたものである。
そのため、一般のベト全集・ブラ全集では必ずと言っていいほど録音時間の余白にオマケとしてつく『エグモント序曲』や『コリオラン序曲』、『大学祝典序曲』や『悲劇的序曲』は収録されていない。
もともと、朝比奈さんのディスクは、日本国内の固定客(信者)向けの商品で、世界相手の商売ではないから、グローバルなメジャー指揮者の音盤に比べて値段が高くなりがちな上、オマケも一切つかないというのでは、たしかに信者以外の一般人には推奨しにくくなってしまうのも、しかたないか。
・・・いや、何度も書いた通り、そもそも今はもう「ディスク」の時代ではな(ry


(※12)

本当に中庸の標準的演奏だからこそ、たった1セットだけ所有するならハイティンク、ということも言えるはずだ。
私はハイティンクとコンセルトヘボウ管のベト全を、「別荘に備えとくCDセット」と呼びたい(もちろん私は別荘なんて持っていないけど)。
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たたえよハイティンク(1)

2021-07-27 17:37:42 | 音楽


 私の場合、小説や漫画やアニメなら21世紀以降の作品もそれなりに触れてきているし、映画やドラマもたまにチョコチョコ程度ながら、一応は見ている。
 が、音楽は気がついたらいつのまにか、新しいものにめっきり触れなくなった。一般邦楽で00年代なかば以降に登場したアーチストで、まあまあいいなと思ったのなんて、相対性理論とSOLEIL(ソレイユ)ぐらいかもしれない。

 一般邦楽・一般洋楽ばかりではない。クラシックでもそういえば普段聴いているのは古いのばっかりかもしれないと気づく。
「クラシック」は古くて当たり前だろ、と、そういう意味ではなくて。たとえば指揮者なら現役のラトルやドゥダメルやペトレンコらのディスクはほとんど聴かず(※1)、いまだにワルター、ベーム、セル、カラヤン、バーンスタインなどの往年の巨匠、日本風に呼ぶと「昭和の名人」のレコーディングばかりを聴いてしまうという意味で。


 そんな中で、今回は、先年ついに引退したオランダ出身のクラシック指揮者、ベルナルト・ハイティンク長老の素晴らしい音楽について書いてみたい。

 ハイティンク氏は、ひと昔前の『レコ芸』で、老害評論家たちから凡才の代名詞のごとく目の敵にされていたため、日本国内での評価は不当に低かったが(※2)、近年は正当な評価を得てきていた。が、この人の何が素晴らしいのかと説明しようとして、巷間よくある論評でどんなふうに書かれることが多いか考えてみると、まさに褒める言葉とけなす言葉が表裏一体であり、肯定派の私でも否定派の気持ちがわかってしまうところがおもしろい。

 ハイティンク氏を肯定的に書いた文章では、しばしば「真面目」、「誠実」という言葉が登場する。これはまったくその通りで、ハイティンクという指揮者は昔から「ここをこんなふうに演奏したら、意外性があってウケるだろうなあ」とか、「ここんところ、こうやったら、みんなビックリしてくれるだろうなあ」といったスケベ心で指揮することはまったくなく。一切なく。決してなく。フルトヴェングラーのように、作品を自らの自己顕示欲を満たすための道具だなどとは考えず。まったく、一切、決して考えず。ただ一途に、地道に、真面目に、誠実に、音楽に取り組む。
 だから、私のようなハイティンク肯定派は真面目さ、誠実さに好感を持ち、好意的に評価し、氏を「最も信頼のおける解釈者」と見なすわけだが、私のようなハイティンクファンでも、実は案外、否定派の気持ちがわかってしまうところがあって、困ってしまう。

 否定派はハイティンクの演奏について、よくこんなことを書く。
 いわく、「思わず息をのむような瞬間が全然ないままに終わってしまう演奏だ」と。
 また、「思わず身を乗り出すような瞬間がないままに終わってしまう演奏だ」と。
 あるいは、「何か出そうで最後まで出ない、という感じの演奏だ」と。

 これは、実はまったくおっしゃる通り、ごもっともと、ハイティンクファンの私でもうなずいてしまう見解だったりする。とくにスタジオ録音の音源だとそうだ。
 ハイティンクの「真面目」で「誠実」で「羽目を外さない」演奏とは、同時に「特徴に乏しい」、「平凡」、あるいは「ただ食材を切って盛りつけただけ」と言われてもしかたない面がある。
 そもそも、「律儀」で「謙虚」なんてのは、夫として父としては美点でも、芸術家としてはちっとも褒め言葉じゃないと言われれば、たしかに一理ある(※3)。

 私はふと思う。ベートーヴェンでもマーラーでも、世の中の全てのCDを足し合わせて割ったら、ちょうどその商はハイティンクになるかもなあと。平均的とは、言葉を換えれば「平凡」になりかねない。だからハイティンク肯定派の私にとっても、刺激というかパンチのある演奏が聴きたくなったときにはハイティンク以外のCDに手が伸びてしまったりもする。
 いわば、「悪く言うところがどこにもない。が、決定打もどこにもない」という感じか。



(※1)

まあ、今やもうとっくに「ディスク」の時代ではなく、音楽作品も映像作品もダウンロード購入か定額制配信サービスで受容するものというのが常識化している時代ではあるが。
されど、クラシックファン(現代音楽ファンやジャズファンも)というのは、もともと「最新ヒットを抑えとく」という音楽への接し方をするマジョリティとは異なり、「追求」し「発掘」し「蒐集」したがる人種なので、どうしてもサブスクよりソフト購入のほうに親和性のある悲しい化石人類なのである。
ただ・・・青春時代にCDを聴いて育ってきた団塊ジュニアとその下のTK世代、ドリカム世代、Bz世代、ミスチル世代、ヴィジュアル系世代、スピード世代、モー娘世代らは人口層としては厚いので、彼らへのレトロニーズという観点で、ソフト文化の盛り返しも多少は期待できようか?


(※2)

中には、「あんな顔でいい演奏ができるはずがない」などという文章を書いた「評論家」もいて、ここまでくると、もはや評論ではなく、下品な言いがかり、たちの悪い因縁のたぐいであり、こういうことを商業出版の有償依頼原稿に平気で書くライターも非常識だが、それをそのまま掲載する版元も良識を疑う。


(※3)

私が配偶者と一緒にハイティンク&ベルリンフィルの映像を見ていたら、「この人(ハイティンク)はいい人そう」と言われた。いわく、映像を見ての印象として、カラヤンは欲望むき出しの野心家タイプ=財前教授タイプで、ハイティンクは草食系の良識派タイプ=里見助教授タイプに見えるとのことであった。
両者と面識のない(当たり前!)私も、おそらくその通りだろうなと思う。とくに、カラヤン=財前五郎というのはなかなか言い得て妙で、ベルリンフィルの音楽監督の地位を狙うも前任者のフルトヴェングラーに嫌われて妨害を受けたというところまで財前とソックリである。
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