習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

野Q正伝

2020-12-23 17:15:01 | スポーツ
 2020年の日本シリーズは、大方の予想通り、ホークスの圧勝に終わった。まあ、さすがに2年連続のスイープとまで予想した人がどれだけいたかはわからないが、巨人OBであっても、「巨人が勝つ」と本気で予想していた人がほとんどいなかったはずで、4タテというのも、さして驚くべき結果ではない。

 その理由は、フロントのスタンス、選手のモチベーションを筆頭とした、総合的チーム力というものであって、またぞろ巨人が「いつもの病気」で、オフにFA札束補強をして、来年もリーグ優勝を金で買ったところで、日本シリーズは同じ結果になるだろう。
 双方のチームの差はそれだけ根深い。

 これは以前に書いたことの繰り返しになるが、かつて巨人監督の座を不本意な形で追われた王さんの、対巨人リベンジストーリーとして見てみると、たしかに2000年の「ONシリーズ」と喧伝された、監督としての長嶋巨人との直接対決では敗れはした。だから、一見すると、往年の三原脩(旧西鉄、旧大洋)や広岡達朗(ヤクルト、西武)、森祇晶(西武)のような「不本意な形で巨人を去った者が他チームの監督として巨人を倒し見事にリベンジ」というわかりやすいストーリーは成立しなかったように見える。
 しかし、もっと長い目で見れば。そしたら、長嶋さんのいわゆるひとつの「ほしがり病」というFA金満体質の後遺症をいまだに引きずり続ける巨人を、王さんが育て上げたホークスが圧倒し続けているという事実からは、やっぱり巨人に対し、長嶋さんに対し、王さんは完全なるリベンジを成し遂げたのだと見なしていいのではないか。少なくとも、たとえ巨人ファンであっても、長嶋さん時代以来のFA金満病に罹患したままの巨人が、王さんの育ててきたホークスより「いいチーム」だと思っている人はいないだろう。それは、実際のシリーズ結果が雄弁に証明していることでもある。


 で、繰り言はさておき。

 日本シリーズの結果だけ見ると、もうセリーグのチームが最後に勝ったのはいつだっけと、思い出すことも困難なぐらい、ここ最近はいつもパリーグが圧倒的に勝ち続けている。いつも圧倒的にだ。
 かつては、日本シリーズの通算対戦スコアといえば、何しろ巨人の、あの不滅のV9があるから、セリーグのほうがだいぶリードしていた。が、もうそろそろパリーグがトータルの対戦成績でも勝ち越しに入ったのではないか。たぶん(※1)。


 もともと、日本シリーズは、「昔は巨人が強くて、セリーグばっかり勝っていた」、「80年代以降は西武の黄金時代で、パリーグが圧倒的」というイメージがあるが、実はそうでもなくて、結構イーブンだった。
 巨人V9の9年間を除けば、00年代まで、ほぼ互角だったはずだ。
 巨人ばかりが日本一になっていた、わけではない。巨人は何しろ出場回数が群を抜いている分、勝ちも多いがそのぶん負けも多い。パリーグだと、巨人と同じくシリーズ出場回数の多いホークスは、20世紀には実は大きく負け越しているものの、旧西鉄が強い時期もあれば、旧阪急が強い時期もあった。西武が「出れば勝ち」の時期もあった。一方、セリーグ側でも、広島やヤクルトが「出れば勝ち」の時期があった。伝統人気球団の阪神と中日は案外シリーズに弱いが、その代わり、意外にも旧大洋、そして横浜は、20世紀には、日本シリーズには「出れば常に圧勝」だった。

 だから、巨人V9の時期を別とすれば、「毎回、大人と子どもの勝負」、「毎回、見る前から結果がわかっている」、「両リーグのレベルが違いすぎる」なんてのは、あくまでここ10年ほどの現象に過ぎない。
 直近10年程度!ここ重要!


 かつての名将、いまや迷将の原辰徳が、今回の完敗を機に、
「だから、セリーグでもDH制を導入すべきだ!」
と、吠えはじめたことについては、後述する根本的な理由とは別に、目先の事象への分析としても誤っている。

 だって、「DHがあるリーグのほうが強い」というのが本当なら、過去において、たとえば野村ヤクルトが「いつも出れば日本一」だったのは、何だったの?原さん、あんた自身が初の日本シリーズで西武に圧勝したのは何だったの?(※2)
 パリーグでDH制が導入されてもう40年以上、日本シリーズで現行の、「パリーグ主催試合はDH制、セリーグ主催試合は非DH制」方式が定着してもう30年以上。
 本当に「DHがあるほうのリーグが強い」んだったら、先述の野村ヤクルト黄金時代も、00年代の原巨人や若松ヤクルトや落合中日の日本一もあり得なかったはずでは?
 いくら、何ごとも効果が出るにはある程度のタイムラグがある、としてもだ(※3)。

 だとすれば、ここも気をつけて見たいポイントだが、原監督が「セリーグにもDHを」と言っているのは、おそらく、
「金で大砲をかき集める、わが永久に不潔たる巨人の社風には、絶対にDH制はフィットするはずだ。これで、またセリーグ内の他チームと差がつくぜ」
という、きわめてチンケな、志の低い思いからだろうと容易に想像がついてしまうところが悲しい。

 もし、巨人の「セリーグもDH制にしようぜ」提案に、もう少し我田引水主義のみではないリーグ全体の発展のためという大義が見えれば、まだしもセリーグ他球団も即却下ではなく、真剣に検討してもいいと思えていたんじゃなかろうか。


 しかし。

 もし今までの私の書いた文章を読んでくださった奇特な方がいらっしゃれば、その人にはおわかりの通り、私はセリーグもDHを導入すべきだ、などとは1ナノメートルたりとも考えてはいない。

 以下は完全に以前の物言いの繰り返しになる。

 DH制は「野球」ではない。
 野球とは、攻撃と守備を交互にやるスポーツである。
 打つだけで守備位置につかないプレーヤーとか、投げるだけで打席に立たないプレーヤーがいる競技は「野球」とは呼ばない(※4)。


 だから、極論と聞こえるだろうが、セリーグは、自分たちも野球モドキのニセ野球をやろう、などという邪心を起こすのではなく、むしろ過(あやま)てるパリーグに対して、野球モドキのニセ野球は一日も早くやめて本来の道に戻りなさい、と、「矯正指導」してやるべきである、と私は頑なに思っている。人からは狂人だと思われるかもしれないが。


 前述の、


「セリーグがここ最近、日本シリーズで負け続けているのは、DH云々より、育成力・チーム編成力を含めたフロントの企業努力の差と、現場のモチベーションの差のたまものであって、過去の野村ヤクルト黄金時代のように、上記の二つが満たされていれば、非DHのセリーグ側が勝利する余地なんて、いくらでもある。もう一度言う。DHの有無が原因ではない。第一、もし本当にDH制の有無だけが問題であれば、もっとずっと前から両リーグの戦績に差がついていたはずではないか」


「原監督がDH導入を希望しているのは、日本シリーズでセリーグ球団が勝てるように、というより、金のある自チームにとって、ペナントで有利になりそうに見えるシステムだからでしかない。そこには、大局的な視野などは皆無で、来年、さ来年もセリーグ内で優勝したいという身勝手な思いしかない。もちろん優勝を望むことは勝負ごとである以上は当たり前の話だが、それでDH制、という短絡は、FA制導入や逆指名制導入の時と同じく、発想が実にさもしい」

に加え、この


「てゆーか、そもそもDH制というのは『野球』じゃありませんから!!」

という、3つ目の理由が私にとっては、最も大きい。

 日本シリーズの勝敗がどうだろうと、提案したのが巨人であろうとなかろうと、この「3」の主張は、今度とも私の中では動かないと思う。
 3が本質で、1と2は枝葉末節である。


 たしかに、時代は常に動く。
 世の中のどんなことも以前と同じではないし、同じであるべきでもない。

 だから、この私の妄言も、もし10年、20年経って誰かが読んだら、今以上に、
「は?何この化石人類は?バカじゃないの(笑)。昔はこんなアホなことを本気で言ってる人がいたんだ(笑)。ウケる~(笑)」
となると思う。


 でも。

 それでも。

 私は上記の「3」を譲るつもりは全くない。少なくとも今のところは。

 だから、たとえば、セリーグの選手会が
「ぜひうちらセリーグもDH制にしましょうや」
と提言して、その理由として、「選手、とくにピッチャーの負担の軽減」を挙げたことについて、私は、
「なるほど。たしかにピッチャーが打席に立つということは、プロテクターをつけたりして、何かとめんどくさいだろうな。バットに球を当てるってのは手が痛くなる行為なわけだから、次のイニングの投球にもいい影響は与えないもんな。まして、まかり間違って出塁なんてしちゃったら、走塁時の怪我リスクが馬鹿にならないよね。無論、死球や自打球のリスクもあるし。だから、投手が打席にて、面倒を避けるために球筋からウンと離れたところで突っ立って、予定調和に見逃し三振で、よかった塁に出ず済んで、とホッとするのも当然だよね。DH制にすれば、そんな余計なことに煩わされずに、投球だけに専念できるから効率いいよね」
・・・などと理解を示したりは、絶対に絶対に絶対にしないのである。

 なぜなら、彼らがしている競技は「野球」だからである!

 「投手の負担」という選手会の提言について、私の答えは一言で終わりである。

「ハア?何言っちゃってんの?だったら、野球なんてやめたら?あんたら、何の競技やってんの?」

 ・・・たしかに投手の本分は投げることで、だからこそ打者としての結果は契約更改時にもほとんど問われない(んだろう、たぶん。知らんけど)。であれば、投手がバント練習なんてする「余計な」時間も本業の練習にあてたいと思うのは、心情的にはもっともなことと理解はできる。走塁なんていう「些末な」ことで怪我でもして、「肝心の」ピッチングに支障をきたしたら、それこそアホらしい、と思うのもまた理解はできる。
 どの世界でも、レベルが高くなればなるほど専門分化していくのは必然だから、アマチュアの高校野球と違って、プロにおいては専門分野に特化するようになる流れは不可避であろう(※5)。

 だが。だからと言って、「野球とは攻撃と守備を(以下略)」という競技の根本までも変えていいのだろうか(※6)。
 だったらバスケも6人にしますか?だったらバレーも7人にしますか?だったらサッカーも12人にしますか?だったらラグビーも16人にしますか?相撲もタッグマッチにしちゃいましょうか?で、いっそのこと、野球は「守る9人」と「打つ9人」と「走る9人」の、1チーム27人出場ということにしましょうか?(※7)


 私に言わせれば、メジャーの悪い影響で、投手は本気で打席に立つべからずなんていう不文律ができてしまっているのも良くない。
 スポーツ競技をやっているのだから、たとえ投手だろうと、打者として打席に立った以上、本気を出さないのは敗退行為、すなわち八百長に他ならない。
 投手が投手としてわざと打たせるようなことをしたら敗退行為であるように、投手が打者としてわざと見逃し三振をするのも敗退行為じゃないのか(※8)。
 こんな茶番に対しては、無気力相撲への制裁金制度みたいなのを導入したらどうかと言いたくなってしまう。
 そして、こんな茶番を横行させないためにも、セリーグでは、投手も現に打者の一人である以上、打者としての成績もキチンと査定の対象にすべきだろう(※9)。

 DH制導入などという、「野球」の根本を歪めるようなことをしたがる輩が出てきてしまうのには、それ相応の理由もやはりあるわけで、であれば悪貨に良貨を駆逐させないためには、
「投手が打つ気まったくないんだったら、DH制にしろってなるのも自然な流れだよね」
などと言わせてはいけないのだから。・・・


 ・・・しかし、正直、たぶん無理だろう。
 私のような考えはもう古いのだろう。
 人はおそらく私のような者を愚かなピエロと呼ぶに違いない。
 少数派の「蟷螂の斧」であることはいくら私でも自覚している。

 残念な限りである。

 どうせ時間の問題だろう。
 どうせ遅かれ早かれ、セリーグも「野球モドキのニセ野球」をやるようになるはずだ。

 そして、私のリアルタイム野球への興味もますます薄らぐ・・・か(嘆息)。



(※1)
ちょうど、嵐が司会になってから、ジャニーズファン視聴者の一種の「組織票」で白組が毎年勝ち続けるようになった『紅白』のように。


(※2)
もし本当に、「DH制のあるリーグのほうが強くなる」のだとしたら、メジャーにおいても、日本シリーズと同様に、アメリカンリーグが毎回ワールドシリーズでナショナルリーグを圧倒し続けていないといけないことになるが、実際はそんなことは起こっていない、ということからも簡単に反証できる。


(※3)
それから、日本シリーズに限定すれば、たしかにパリーグがここ10年ほど圧倒的に勝っているが、実はオールスターの戦績を見ると、そこまでワンサイドではない。
逆に過去においても、巨人のV9の頃のオールスターは、実はパリーグが勝つことのほうが多かった。
「どっちのリーグが強いか」なんていうのは、どの試合に重点を置くかで、いくらでも変わってくるということも指摘しておこう。


(※4)
もちろん、チャンスで投手の打順となったときに代打を送るかそのまま打席に立たせて続投かという判断の妙も「野球」の醍醐味の一つ、というのはあるが、もっとそれ以前の根本的な話として。


(※5)
この際だから「頭のおかしい化石老人」と言われそうなことを、ついでにもう一つ。
大谷翔平氏のいわゆる「二刀流」も、実を言うと私は「二刀流」とは認めていない。
彼の場合、投手として出る日はDH選手が別にいるので本人は打席に立たず、逆に打者として出る日はDHとしての出場だから守備位置につかず、という形なわけで。
そんなのは、「投手と野手の二刀流」じゃないっ!!
・・・ああ、こんなこと書いたら、本当に「前世紀の遺物」呼ばわり必至なんだろうな(泣)。


(※6)
もっとも、「競技の根幹を変えるようなルール変更」って、実は前例あるけどね(笑)。
10年ほど前、当時の勤務先の組合関係のレクリエーション行事でバレーボールをやったとき、サーブしてないほうのチームの敵陣への打ち込み成功に得点が記録されたのを見て、
「あれ?点数はサーブ権を持って攻撃成功した時だけ入るんじゃないの?」
と言ったら、
「それは昔のことw」
と笑われたものだった。・・・orz


(※7)
いや、まあ、それは半分くだらない冗談だとしてもね。


(※8)
「アンリトンルール」「藤井秀悟」でググってみておくれ。


(※9)
打者としてもいい仕事をした投手にはキチンとその分も評価する、と同じように、打者として何もしなかった投手は減点査定、という具合に。
そんなことしたら、まさに前注の不文律とかち合っちゃうわけだが。
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トランピスト修道院

2020-12-22 17:52:46 | 政治・経済・社会・時事
 いやはや、奇妙というか、何というか。
 アメリカ本国だけじゃなくて、日本の右翼の一部の人が、異常なまでにトランプ狂信なのには、はなはだ驚かされ、あきれさせられるね(※1)。
 一体、何が彼らをこんなによその国の選挙に熱くさせるのだろう?

 まあ、それは実は容易に想像がつくのだが。
 要するに彼ら(いわゆるネトウヨの人たち)は、トランプが中国に対し強硬的な発言をしてくれているのに「胸がすく」から、そんな正義の味方が選挙で負けるなんてことはあり得ない、あってはいけない、と、まあ、そんな動機づけでトランプに声援を送って、そして、負けてもいつまでもあきらめないんだろう。たぶん(※2)。

 でも、彼らの妄言というのは、哀れを通り越して滑稽なぐらいに、小学生でも論破できそうな稚拙な、というより支離滅裂な物言いだからなあ。・・・


 いわく、「今回のアメリカ大統領選挙(※3)の、90%なんていう投票率はあり得ない。日本を含む他の先進国の国政選挙投票率と比べても、高すぎる。バイデン側が不正をしていたからだ!」

 それは、全有権者に対しての90%ではなくて、投票者登録をした人の数に対しての90%でしょ。別に今回に限らず、いつもそんなもんなんじゃないの(※4)。


 いわく、「今回の選挙では、場所によっては、一時的に投票率が100%以上になったそうだ。これぞ、バイデン陣営が不正を行なっていた動かぬ証拠だ!」

 ああ、それは郵便投票の開票と有権者登録のタイムラグで一時的にそうなっただけね。未払い未収とその消し込みの順番がテレコになって一時的に残高がおかしくなったようなもん(←経理の人にしかわからないたとえをするな!)。


 いわく、「バイデン陣営の大統領選挙不正の『動かぬ証拠』が次々と出てきている。ドミニオン(投票用紙振り分け機)の異常など、既にユーチューブやSNSでいっぱい伝えられている。なのに、なぜCNNなどのオールドメディアは報じないのだ!?オールドメディアは、中共に闇で支配されているから報道しないに違いない。だから奴らは嘘ばかりつくのだ。信頼できる情報によれば、トランプは実は圧勝している。いずれ真実は明らかになるだろう!」

 中国に支配されているから報道しないんじゃなくて、事実である可能性が極めて低いから報道しないだけでしょ(笑)。東スポや夕刊フジなら読者の「願望」というか需要に合わせて誤報を流しても世間は許すけど、三大紙が誤報したら世間が許さないみたいなもので、ちゃんとしたメディアなら、情報の真偽判断に慎重になるのは当然のこと。
 だいたい民主党が大規模な不正なんてできるんなら、議会選挙のほうも民主党が圧勝してるだろ(笑)。もともと、一般的に言って、選挙に細工しやすいのは古今東西、政権党のほうであって、野党が大規模な不正をやって成功したなんてのは聞いたことない。

 それと、オールドメディアが嘘ばかりつくとか、真実を伝えるメディアは別にあるとかってのは、何が根拠なのだ?CNNが誤報を流しているとか、ニューヨークタイムズがフェイクニュースを流しているとか、あるいはどこぞのユーチューブの流す情報こそが真実だとか、そんなこと判定できる能力があんたらにあるのか(笑)?もしあるんだとしたら、凄いぞ(笑)。ネットで吠えてないで、アメリカに乗り込んで証明したらどうなの?キチンとした証拠が出せるのならね(※5)。



 ・・・まあ、こんなふうにおバカな人たちを揶揄していても全然生産的ではないので、これぐらいにするが、いずれにしても、アメリカの有権者は日本の憎中右翼の溜飲を下げさせるために自分たちの大統領を選んでいるわけではないからね。
 たとえ日本の一部の人が「中国に対して強硬なことを言ってくれる!うれしい!気持ちいい!胸がすく!黄門様!カッコイイ!」と、シビレていたとしても、アメリカ人は、日本のネトウヨの都合で自分たちの大統領を選んでいるわけではない(※6)。
 現実問題、嘘つき(※7)で差別主義者の下品な人物をいつまでも国の顔にしているわけにはいかないと、ごく当たり前のことを考える人が多かったという、至って当然の結果になっただけだろう(※8)。


 でも、一応言っておくと、2016年の大統領選において、内政のスタンスとしてトランプのような主義主張をする野党候補が出てきて、そして一定数がそれを支持したということは、ある意味でまっとうなことだとも思う。それは、人種差別発言をしてもいいという意味ではなく、反グローバリズムで自国優先、とくに雇用の視点から生産拠点の海外流出に反対し保護貿易を主張するというのは、現実にどこまで可能かは別として、野党ならそう主張して当たり前・・・と言っては語弊があるが、でも、まあ当たり前のことだと思う。ある意味、それこそ「愛国心」なのだから、そういう意味で日本の社民党や共産党なんか、トランプ的な日本ファーストを(もっと上品に)訴えたっていいと思う(※9)。

 そんなわけで、トランプが人品卑しいデマゴーグであるとかいうこととは別に、「自国ファースト」、イコール「グローバル企業の儲けより自国の労働者の雇用ファースト」というスローガンには、実は個人的には共鳴したいところもなくはない。
 それが偽らざる私の本音だったりもするのだ。

 そして、トランプが嘘つきであったこと、品がなかったこと、それゆえ大国アメリカの「国父」にふさわしくなかったことは否定しがたくとも、しかし、イランにて―結果として成功判断と見るか否かは別として―戦争しようと思えばできる状況下でそれを踏みとどまった、アメリカ史上まれに見る最高指揮官であったことは記憶されていいし、いつの日か再評価されてしかるべきだと思うのだ(※10)。



(※1)
ちなみに、日本の右翼は、民主党が親中で、ならば一方の共和党が反中の同志でいてくれようと、そんな動機でトランプを応援していたようだが、実は伝統的一般的傾向としては、民主党政権のほうが、「他国の人権問題を憂えて『民主主義の輸出』をしたがる」というお節介体質から、中国に対して声高にあげつらう傾向が強い。
さらに余談の余談として。上記の通り、民主党政権はその「お節介体質」ゆえに、アメリカ企業のための「売り込み」に官民一体で協力する、みたいな日本の財界にとっては迷惑な性癖もあり、それゆえ、日本の政財界は、押しつけがましい民主党政権よりレッセフェールな共和党政権のほうを歓迎する傾向にある。理念的なことではなしに。


(※2)
「右翼っぽい」というだけで、トランプを安倍晋三に似ていると捉える人もいたかもしれないが、あまり適切ではない。安倍は、「バカな世襲政治家」という共通点から、トランプよりむしろジョージ・W・ブッシュに近い。そして、トランプは「品性下劣な政界アウトサイダーのレイシスト」という共通点で、安倍より橋下徹に近い。
そう考えると、トランプがブッシュ親子のような保守本流ではなく、異端だったのだということも理解しやすいか。何しろ、副大統領も上院議員も下院議員も州知事も経験せず、職業軍人だったこともない大統領というのは、200年以上に及ぶアメリカ大統領史上、トランプが唯一のはずである。


(※3)
アメリカ大統領選の、「州ごとの選挙人総取りを競う間接選挙」という陣取り合戦的なややこしいシステムについては、選挙速報報道で日本でもおなじみになったが、「普通の選挙ルールだったら勝っていたはずの人が負けて、普通の選挙ルールだったら負けていたはずの人が勝っちゃう」という奇っ怪な現象が起こるのが特徴である。
実際の選挙人方式の本選挙だと、ビル・クリントン以降の、1992年から2016年までの大統領選は民主党4勝、共和党3勝だが、もし普通のルールだったらと仮定してみると、何と民主党6勝、共和党1勝となるのだ。まあ、そういう意味でマイケル・ムーアが憤慨するのもわかるし、現に理不尽な負け方をしたアル・ゴアやヒラリー・クリントンにとっては終生納得はいくまい。
この、一般投票の得票数と獲得した選挙人の数のねじれというのは、歴史をひもとくと、19世紀にも例のあったことだが、なぜかその時も必ず得するのが共和党、損するのが民主党だったというのがおもしろい。
ということは、民主党側から見れば、僅差ではダメで、大差をつけないと本当には勝てないということになるし、共和党から見れば55対45なら勝てるのは当然として、45対55でも実は勝てるハンデ戦ということになる。次の注で触れる有権者登録制度の運用とともに、こういう一種のアファーマティブアクション的な下駄によってアメリカの二大政党制は維持されている(そうしないと民主党だけが勝ち続けて、そのうちヒスパニックばかりが大統領になってしまう?)ということも、ふまえておいて損はなかろう。
なお、余談の余談になるが、オリンピックイヤーの11月に州ごとの選挙人選出という方式で選ばれるアメリカの大統領選挙というシステム、それを含めたアメリカ中央政治の基本システムは、18世紀後半の建国以来、全く変わっていない。日本で言うなら、田沼意次や松平定信、平賀源内や本居宣長の生きていた時代から全く変わっていないのだ。
アメリカ合衆国といえば、「新しい国」というイメージがあるが、政体の連続性という視点でみると、日本よりはるかに「古い」国である。中国より韓国よりロシアよりはるかに「古い」国である。フランスよりドイツよりはるかに「古い」国である。意外と見落としがちな部分であるが、本当にそうなのである(これは岩波新書のアメリカ史の本からのイタダキ)。
改めて考えると、ジョージ・ワシントンという人は、やっぱり偉大だったんだね。当時の常識からすれば、国と言ったらイコール君主国なのだから、周りもみんなワシントン王朝ができるのかとばっかり思ってたら、選挙で選ぶ大統領という、当時ほとんど誰も知らない制度を創始(だから、「アメリカ独立『革命』」と呼ばれる)。しかも、スターリンや蒋介石のように「死ぬまで権力を手放さない」ではなく、潔く2期8年で引退して、院政も敷かず、もって後世の前例となし、もちろん北朝鮮やシリアのように「共和国のはずなのに世襲国家」などというアホなことも一切なく・・・と、その先見の明と無私の潔さには本当に頭が下がる。


(※4)
ちなみに、アメリカの場合、本音と建て前の使い分けというか、日本みたいに18歳になれば誰でも自動的に投票用紙が自宅に送られてくるので選挙に行きたきゃ行ける、ではなくて、投票者登録みたいなのを自分でしないといけないわけね。
で、この登録は、白人は簡単に受け付けてもらえるけど、黒人や移民には登録まで屋外で何時間も行列させたり、面倒な手続きを課したりして、「もういいや、めんどくさいからやめた!」と仕向けるようにできているんだそうな。
あらゆる「チート」な手段を使ってでも有色人種を投票に行かせまいとする、先進国とは思えないようなあさましい現実が横行するアメリカと、制度上は思想信条にも階級にも関係なく誰でも投票に行けるけど、実際は誰も選挙に行かないから、ぶっちゃけたとえ内閣支持率1%でもたぶん政権交代は起こらない、だから与党は実は何の心配もしていない、という日本と、民主主義国としてどっちがまともなのか、わからないな。


(※5)
それにしても、その「いずれ真実が明らかになり、トランプが勝利する」の「いずれ」ってのは、いったいいつのことなのかね。
11月の選挙直後には、「もうまもなく正義の司直判断が下される」で、12月半ばの選挙人投票の時期には、「選挙人投票のときにひっくり返るのだ」で、たぶん、今は「1月20日の就任式までには真実が明らかになりバイデンは逮捕されるのだ」で、そしたら、就任式以降はどう言うつもりなのかな(苦笑)?


(※6)
そもそも―今さら当たり前すぎるぐらい当たり前のことだが―外交は、アメリカ大統領の仕事の一部でしかない。
FDRもトルーマンもJFKもLBJもニクソンもクリントンも、本国での歴史的評価は、まずは景気や雇用、社会政策等の内政面での評価がありきで、その次に戦争を含めた外交政策の評価という順番になろう(現にわれわれ日本人が日本の歴代首相をそう評価しているように)。
当然のことであるにもかかわらず、日本人はここのところを意外と見落としている。
とかくわれわれは、FDR=パールハーバー、トルーマン=原爆、LBJ=ベトナム、ニクソン=電撃訪中、と、外交・戦争の面ばかりを見て評価したがり、ともすれば、彼らに国内向けの仕事があることを意識すらしなかったりする。
そして、そんな彼らの内政面の業績をちゃんと視野に入れなければ、なぜ日本の歴史修正主義者にとっての「永遠の悪者」FDRの評価が米国内で高いのか、なぜ60年代の日本の反戦全共闘世代にとって評判が悪かったLBJの評価が米国内で高いのか、わからないだろう。


(※7)
誠実とは言いがたいニクソンやレーガンであっても、品行方正とは言いがたいビル・クリントンであっても、理知的とは言いがたいブッシュ・ジュニアであっても、紳士的とは言いがたいリンドン・ジョンソンであっても、トランプのように前の大統領に対して、「アメリカ生まれではない。大統領の資格がなかったのだ」などと、デッチアゲの言いがかりをつけたりはもちろん一度もせず、ちゃんと前任の国家元首に対する最低限の礼節は守っていたはずだ。


(※8)
ただし、バイデン氏が未曽有の得票数で圧勝したからと言って、大統領として今後ずっと安泰なわけでは決してなかろうというのは、誰でも簡単に予測できてしまうところである。
周知の通り、バイデン氏は自身が政治家として積極的に支持されたというより、「とにかくトランプじゃなければ誰でもいいんだから!」という良識派の総出の投票で大統領になったという、ある意味でタイミングに恵まれたラッキーな当選者なのだから。
それゆえ、4年後に、トランプかあるいはそのポジションに近い誰かに再びやられる可能性は十分にあるだろう。積極的支持でない勝利がいかに脆いかは、われわれ日本人も国政・地方政治で幾度も味わいつくしているはずである。だから、アメリカの良識派市民の皆さんもくれぐれも気をつけないと本当に危ういで!


(※9)
いや、しているのかもしれないが。マスコミに大きく取り上げてもらえてないだけで。


(※10)
なお、過去におけるアメリカ大統領のこのような稀有な英断としては、1956年に起こったスエズ動乱(第二次中東戦争)に、あえて介入しなかった例がある。
時の大統領はノルマンディー上陸作戦で有名な元陸軍元帥のアイゼンハワー。やはり戦争の何たるかを熟知する軍人あがりだからこそ、安易な軍事介入を避けるという冷静な判断ができたのだろうか(小ブッシュに爪の垢を煎じて飲ませたかった!)。この時、他ならぬアメリカ大統領が「侵略者」・「ならず者国家」たるイスラエルに対し、毅然とした、適切な対応をしたという事実は、後世の歴史を知る者には涙が出るほど感動的な、今では信じられないような話である。
アイゼンハワーといえば、Dデイの英雄として語り継がれる一方、大統領としては、FDR、トルーマン、ケネディ、LBJ、ニクソンらと比較して、「何もしなかった人」だと思われがちだが、スエズにて安易な武力行使をせず、冷戦時代にあっても軍事費増強をあまりせず、むしろ例の退任演説時には軍産複合体の肥大化に警鐘を鳴らした、ものすごくまっとうで、ものすごく良識的な大統領だったとして、もっともっと再評価されてもいいのではないか。
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『幕末太陽伝』-遅れての古典映画鑑賞事例その2-

2020-12-17 18:21:03 | 映画
『幕末太陽伝』川島雄三監督/日活/1957


 異色の奇才、「昭和の戯作者」と謳われた映画監督・川島雄三の代表作にして、「日本映画史上オールタイムベスト」選出の上位常連の一作。とにかく有名な映画で、「奇跡の快作」と常に称えられるカルト人気作『幕末太陽伝』。
 少なくとも、商業出版物で、この作品にケチをつけるような文章には接したことはない。たぶん、ネット上の論評でもそうだろう。

 しかし、私の率直な感想は・・・

「つまらない!とにかくつまらない!いったいどこがどう『名作』なのか!?!?いや、そりゃあ今まであまりおもしろくない映画もいっぱい見てきた。しかし、ここまでパーフェクトに、見事なまでにつまらない映画は、まれかもしれない」

 大事なことなので、何度でも言う。つまらない。本当~につまらない。最初から最後まで、とにかくつまらない。
 妓楼の美術セットとそのセットを俯瞰して撮るカメラアングル以外、いっさいどこにも良く言えるところが見つからない。褒めるところがまったくない。いっさいない。0点!時間の無駄、ここに際まれり。いったいなぜ世間の人は、こんなゴミ以下の映画を称えるのだろう。何かの悪い冗談だろうか。


 そもそも私には、この作品の、遊廓を舞台にしたコメディーという趣向からして気に入らない。戦争と身分制度と人種主義と遊廓と子だくさんを美化することは、私は絶対に許さない。
 男性にとっての非日常のハレの夢舞台は、女性にとっては監獄なのだ。男性にとっての「イキな江戸文化の発信地」は、女性にとってのイキ地獄なのだ。様々な江戸文化が吉原で育まれたとして肯定的に語る向きも多いが、人を逃げられないように監禁した場所で生まれる文化なんて、あってたまるか。だから私は、古典落語でも、遊廓を男性目線で「面白おかしく」描いた廓噺は大嫌いだ。
 
 と、まあ、それはさておき、クールダウンして話を戻すが、ともかくそんなわけで、『幕末太陽伝』ほど、世評と個人的感想とが極端に乖離した事例も珍しい。
 まあ、もともと映画なんて、「Aさんにとっての名作がBさんにとっても名作とは限らない」、「Cさんにとってのおもしろい映画が、Dさんにはおもしろくも何ともない」と、そういったもんで、相性というのはあるから、黒澤だって小津だってフェリーニだってヴィスコンティだって、相性の悪い人、波長の合わない人にとっては何の価値もない、ということなんだろう。
 もしかしたら、私が誰かに大好きな黒澤の『生きる』(1952)や木下恵介の『二十四の瞳』(1954)を薦めたとしても、大好きなフェリーニの『道』(1954)やピエトロ・ジェルミの『鉄道員』(1956)を薦めたとしても、波長の合わない人にとっては、「ハァ?何これ?」程度なのかもしれない。だから、人に嗜好品を薦めるときには、その人の波長に合いそうかどうか真剣に考えないと、ただの迷惑になりかねないなと、そんなことも自戒的に思う。
 とくに白黒の時代劇や西部劇というのは、慣れない人にとってはキャラの個体判別がしにくいので、そのせいでストーリー把握もおぼつかなくなりがちだ。たとえば、私の偏愛する『鴛鴦(おしどり)歌合戦』(1939)なんて、白黒の時代劇を見慣れていない人にとっては、3人のヒロインが個体判別できず、こんがらがってしまうため、ビギナー向けとは言い難い(だから、願わくばカラーライズして日本語字幕つきにしてほしい作品だ。そうすれば、この愉しいミュージカル映画を安心して今の人たちにも薦められるはずだ)。


 結局、映画との出会いはー映画に限らないがー相性とタイミングだろう。タイミングということで言うと、以下は前回の繰り返しになるが、映画でも他の芸術作品でも、やはり多感な十代の頃に出会うのと、大人になってだいぶ経ってから出会うのとでは、印象がまるで違う。
 私が学生時代に見て、その映像美に魅了された『旅の重さ』(1972)など、改めて冷静に見れば、「変な女の誰得物語」でおしまいかもしれない。クラシック洋画で言えば、『ヘッドライト』(1956)は、若い頃に鑑賞した自分は、その哀愁ただようムードに魅了されて、おおいに心惹かれたものだが、客観的にはただの男性目線の通俗的不倫メロドラマだと言われても抗弁しがたい。
 一方で、前回も述べたが、『天井桟敷の人々』(1944)などは、昔の「映画ファンが選ぶオールタイムベストアンケート」で1、2位を争っていたため、単純な私は、さだめし素晴らしい作品なんだろうと思いこがれて、されどなかなか見る機会がなく、大人になってだいぶ経ってからやっと見たら、
「ハァ?これのどこが『名作』!??」
と、驚くほどつまらなかった。たしかに台詞は洒落ていたし、ラストの群衆シーンなんて上手い撮り方だと感心するところではあったが(それでも、同時代の木下恵介『陸軍』(1944)の出征シーンのほうが普通に上だと思うけど)、今の視点で見ると、ヒロインの容貌のあまりの魅力のなさ(ハッキリ言って「ただの“おばはん”」!)も含め、「こんなしょうもない映画のどこが『名作』や!?北野武監督は、何でこんな愚作を高評価してるんだ!?」と本当~に心底から思った。身も蓋もないほどに。

 と言っても、念のため書いておくと、私は別にわかりやすい盛り上がりのある、単純なエンタメ作品じゃなきゃダメというタイプではなくて、フェリーニも小津も普通に好きなたちなのだが、いやはやそれにしても『天井桟敷』は期待外れはなはだしかったな。うん。

 それから、これまた前回も書いた通り、『めまい』(1958)も私にとって「がっかり“名作”」だった。世界の批評家が選ぶオールタイムベストテンでトップにくるほどの映画ながら、私にはおもしろくも何ともなかった。『8 1/2』(1963)や『去年マリエンバードで』(1960)のような、通俗的な「おもしろさ」をハナから追求していない作品ならともかく、ヒッチコックの一般向け娯楽作品のはずの『めまい』が少しもおもしろくなかったのだ。これも相性とか波長といった問題か。
 たしかに私は『サイコ』(1960)以外、ヒッチコック作品ではそれほどおもしろいと思ったものはない。『汚名』(1946)しかり『裏窓』(1954)しかり『鳥』(1963)しかり。


 で、やっと本題に戻って『幕末太陽伝』であるが。なぜこんなに私にとってつまらなかったのだろう。たしかに同作は『七人の侍』(1954)のような「敵が来る。仲間を集める。鍛える。困難に遭いながらも戦い、遂には敵を倒して勝利する」といった『少年ジャンプ』型の明快な目的地というかテーマがなく、雑多なエピソードを積み重ねたような映画で、しかもストーリー進行上の主人公が誰なのかもあまりハッキリしないような群像劇である。
 だから、ある意味「据わりが悪い」とでも言おうか、キャラクターたちが何をしたいのかがわからない、あるいは劇中で何が起こっているのか、起ころうとしているのかがわからなくて話についていけず、感情移入もしようがない、それで観客は所在なく置き去りにされてしまう、というようなところがある。

 が、仮にそんな混沌タッチの作品であっても、たとえば『桜の園』(1990)のように脚本と演出が良ければ、グイグイと引き込まれて退屈しないはずだ。そもそも映画とは、感情移入できなければダメというものでもない。そういう映画はたくさんあるではないか。たとえば、『フェリーニのアマルコルド』(1974)なども、「キャラクターたちが何をしたいのかわからない」ような、ストーリー的には何もないと言っていい映画ではあるが、映像が魅力的なので引き込まれる、そんな映画である。
 一方、『幕末太陽伝』は、いったいなぜこんなにまでもつまらないのか。こんなにまでも魅力がないのか。監督も脚本家も、まったく才能がないのか?いや、これほど世間で過大に評価されている監督だ。そんなはずはない。現に私だって、川島監督その人のキャリアを全否定するわけではない。『とんかつ大将』(1952)、『特急にっぽん』(1961)、『箱根山』(1962)、『喜劇とんかつ一代』(1963)あたりなら、凄くおもしろいとまでは言わずとも、まあそこそこ楽しめる。
 しかるに、『幕末太陽伝』は最低だ。
 大事なことなので、もう一度言う。最低だ。では、こりゃまた一体、どういうわけだ。私の感性がよほどおかしいのか。私の映画的センシビリティーがよほどダメなのか。と、つい自分を責めたくなってしまうほどのつまらなさである。自分にとって。


 せっかくだから、『幕末~』のストーリーあらすじをかいつまんで書こうかとも思ったが、その必要もあるまい。どうせもう、私は一生こんなもの二度と見ないし、誰かに薦めることも絶対にないだろうから。こんなもの。

 ただ一応、キャスト陣について少しだけ触れておこうか。主演のフランキー堺はたしかに上手いが、シリアス演技なら『私は貝になりたい』(テレビドラマ版=1958、映画版=1959)や『翼は心につけて』(1978)のほうがいいし、コメディー演技ならおなじみ『社長』シリーズ(1956~70)、『駅前』シリーズ(1958~69)のほうがいい。
 石原裕次郎も準主役で出ているが、こちらは「ああ、裕ちゃんが出てるね」というだけで、何か映画的に有益な役割をするわけではなく、裕ちゃんファンにとってもおそらくたいして価値のある出演作ではなかろう。左幸子だって小沢昭一だって、彼らにとってもっと意義深い作品はいくらでもある(たとえば、言うまでもなく『飢餓海峡』(1965)や『「エロ事師たち」より/人類学入門』(1966)など)。
 私にとっての唯一の収穫は、後の『寅さん』シリーズ(1969~95)の博の長兄であり、『刑事コロンボ』シリーズ(1968~78)の常連犯人ロバート・カルプの吹き替え声優でもあり、朝ドラ『こころ』(2003)や『古畑任三郎』3シリーズ(1999)の七代目染五郎(現・十代目幸四郎)回でもいい味を出していた劇団民芸の名バイプレーヤー梅野泰靖(やすきよ)の若き日の姿が見られたということぐらいか。


 教訓。
 世間で言う「名作」でも全てがいい作品とは限らない、どころか救いようもない駄作・愚作もある(自分にとって)。
 滑り出しはつまらなくても後から盛り返す作品もあるからと、最後まで我慢して見たのだが・・・いやはや、本当に時間の無駄だった。
 しいて挙げるなら、『品川心中』をもじった自殺未遂のシーンとその復讐のシーンが少し-本当にほんの少し-楽しめた程度で、後はもう、とにかくつまらない。いや、もう、本当に、本当に、本当につまらない。
 くどいようだが、ここまで何の価値もない映画も珍しい。
 くれぐれも映画文献にだまされてこんなどうしようもない駄作を見て時間の無駄遣いをすることのなきよう!
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『切腹』-遅れての古典映画鑑賞事例その1-

2020-12-16 17:25:13 | 映画
『切腹』小林正樹監督/松竹/1962


 彦根藩・井伊家の江戸屋敷の門に津雲半四郎(つぐもはんしろう)と名乗るみすぼらしい浪人が現れ、
「困窮のあまり、生きていてもしかたない。かくなる上は武士らしくいさぎよく切腹して果てたい。こちらの玄関先で腹を切らせてくれ」
と門番に告げる。門番は、内心(やれやれまたか・・・)と思いながら、上司に取り次ぐ。
 実はこれは、その頃に流行ったゆすりたかりの手口だった。大名屋敷側では門前で自殺など迷惑だから、しかたなく適当に金を与えて帰らせる。それを狙いにした騙りの常套手段だった。いわば、「ハラキル詐欺」!

 しかし井伊家はそんな甘い大名家ではなかった。津雲と面会した江戸家老・斉藤勘解由(かげゆ)は、半年前まったく同じように訪ねてきた武士の顛末を津雲に語る。
 
 今日と同じように、半年前、くしくも同じ旧広島藩・福島家の取り潰しによる浪人、千々岩求女(ちぢいわもとめ)という若者が、金目当ての狂言切腹に訪れたのだという。
 だが斉藤勘解由は、そんなクレーマーのようなヤツに金を与えてはクセになる、と、求女に対し、いったんは雇用してやるかのように見せかけ、何と、
「さあ、準備は整った!心おきなくどうぞ!」
と、本当に切腹させてしまったというのだ!
 竹光の短刀を無理矢理に腹に突き刺し、苦しみながら死んでいった求女の悲惨な最期を津雲に言って聞かせ、暗に
(わかったか。うちはそんな手口には乗らないぞ。あきらめて帰れ)
と示唆する斉藤勘解由。
 だが、津雲はガンとして切腹すると言い張る。やむなく庭で切腹の仕度が整えられる。そこで、津雲ははじめて自分と求女との関係を勘解由に語り始める。

 かつて旧福島家ありし頃、求女の父・千々岩陣内と津雲とは同僚で親戚同士、陣内の一人息子・求女と津雲の一人娘・美保とを結婚させる将来計画だった。だが、幕府により福島家は取り潰され、陣内は上司と共に責任をとって自決してしまう。

 失業した津雲と美保、求女は、江戸に出て、貧困生活を余儀なくされた。が、それでも、やがて求女と美保が結婚し、孫も生まれ、貧しいながらもささやかな幸せが訪れる。
 しかし、それも束の間。貧乏暮らしの心労か、美保が結核に倒れ、赤ん坊も病気になって、求女は「あの方法」で金を作ることを思いつく。・・・津雲が求女の「思いつき」を知ったのは、井伊家から求女の死体が届けられた時だった。・・・
 そう。津雲は娘婿のカタキをとるために井伊家に乗り込んできたのだった。・・・


 モノクロの時代劇。2時間超の長さ。現代人にはわかりにくいセリフの言い回し。切腹シーンの目を覆う陰惨さ。そして結末の後味の悪さ。・・・これらの要素を思えば、『切腹』は、決して万人に薦められるような口当たりのいい作品ではない。製作委員会方式による昨今のとっつきやすい、共学高校の美少年美少女のリア充悲恋ものか天才刑事もの、天才医師もののイケメン映画しか見たことのない若い人にはおそらく無理だろう。
 だが、自分の最も素直な感想はただ一つ。
“どうしてこんなにおもしろい映画をもっと早く見なかったんだろう!!!”

 そう。あまりに有名でタイトルや監督名は聞いたことがあって、ある程度の周辺知識があったがゆえに何となくわかっているような気になって、今の今まで迂闊にもわざわざちゃんと見ていなかったのだ!!何と、驚くべきことに。・・・

 たしかに「名作」という世評をもって何となくわかった気になっていた作品でも、多感な十代の頃ならともかく40過ぎて初めて触れた場合だと、(何だ!?この程度の作品の、どこが「名作」!??)と、拍子抜けして失望することも少なくない。たとえば(私の場合だと)、『天井桟敷の人々』(1944)、あるいは『めまい』(1958)のように。
 だが、これは凄い。何と緻密な構成。まさに完璧、としか言いようがない。津雲が井伊家を訪れ、斉藤勘解由と面会し、庭先に切腹の場が設けられ、やがて津雲が「特攻」するまでの現在時間の軸と、津雲や求女らの過去の来歴の回想シーンとが、めまぐるしく行ったり来たりするのだが、それがまったくわかりにくくなっていない。たとえば『LBJ/ケネディの遺志を継いだ男』(2016)などと違って、非常にわかりやすい。驚異的なほどに。

 キャリア初期の名作『生きる』(1952)の後半のお通夜の席で、次々と回想証言が挟み込まれるくだり、あるいは後の傑作『砂の器』(1974)での、捜査会議とコンサート会場と、そして映画のキモたる過去の遍路が交互に流れるあのクライマックスにも通ずる、橋本忍の完璧に設計された脚本をベースに、演出と編集のテンポもいいのだろう。飽きない。長いのに飽きない。まるで法廷劇のようなサスペンスフルな緊張感が、全編に渡って持続する。そう、「緊張感」。これが「完璧」と共に、この映画を語るキーワードだ。
 さらに美術セットのリアルな重厚さも、パンフォーカスのクールなカメラワークも、そして不協和音を巧みに使った世界のタケミツの和楽器のBGMも、全て実にスキのない「いい仕事」なのだ。

 もちろん役者もしかり。津雲の仲代達矢と斉藤勘解由の三国連太郎、2人の大俳優の火花散る「対決」。千々岩求女の石浜朗は、美空ひばりの娯楽映画で相手役を務めたことで知られる俳優だが、かわいそうな「いい人」の感じがよく出ており、その妻・美保を演じた若き岩下志麻はと言うと、とくに演技の上での見せ場はないものの、良き娘・良き妻の雰囲気を過不足なく出している。さらには、井伊家の家臣でサディスティックな陰険剣士・彦九郎役を演ずる丹波哲郎の、まるで霊界に誘なうかのような不気味な存在感が出色である。また冒頭では、津雲の来訪を家老の斉藤勘解由に取り次ぐ門番として、若き日の「おやっさん」=小林昭二が登場しているのも興味深い。


 『切腹』はまさに、「美しき武士道賛歌」への、「勧善懲悪の非現実的ヒーロー時代劇」への冷徹なアンチテーゼである。
 組織の論理・会社の論理で不都合なことは隠蔽し、トップではない者に責任を押しつけ表向きを取り繕うその姿は、何百年たった後の21世紀のこの国でも、財務省をはじめとする官庁、役所、そして大企業で繰り返されることになろう。あるいは、20世紀なかばにおいても、敗戦に際して憲法上の最高司令官が部下の首を差し出して自らは何の責任も取らないという形で再現されることになろう。ハッピーエンドとは真逆の、皮肉に満ちたシニカルなバッドエンドから、われわれは、武家社会の今に通ずる虚飾と非人間性を見いだすことになろう。

 ただ、われわれは、この劇中時間の二百余年後に井伊家がたどる運命を知っているから、そこでやや溜飲を下げることができるのであるが。・・・

(ちなみに、この作品にはリメイク版もあるらしいが、こんな完璧な作品をリメイクする必要などあるのだろうか。もしするなら、ガス・ヴァン・サント版の『サイコ』(1998)のような「完コピ」だったらまだ許せる?ま、それこそリメイク不要だが(笑))



追記(2023年12月)

 ついでの付記として、『切腹』(1964)が気に入った人にお勧めの類似作を二つ紹介しておこう。

 まずは『切腹』と同じく橋本忍の脚本による『仇討』(今井正監督/1964)。主演は萬屋錦之介、三田佳子、田村高広ら。
 橋本忍単独脚本では実は意外と珍しい原作なしのオリジナル作品。『切腹』と『大殺陣雄呂血』(田中徳三監督/1966)を合体させたような作品である。

 些細な口論から「果たし合い」を挑まれた主人公が、結果的に勝ってしまったことにより、やがて藩公認の「カタキ」として衆人環視のもとで殺人ショーの生け贄になるまでの物語。

 すぐれた映画ではあるものの、『切腹』と比較すると見劣りするのはしかたないか。
 橋本忍得意の回想シーンを駆使した作品であるが、この作品については、『羅生門』(1950)や『生きる』(1952)、『切腹』、『砂の器』(1974)と違って、回想シーンを使わず、時系列通りのまんまのほうが見やすかったかも、と思わないでもない。
 ちなみに、丹波哲郎が、ここでも『切腹』の時と同じようなキャラクター、同じような役回りで登場するのが、とってもデジャヴである(笑)。

 そして、『上意討ち/拝領妻始末』(1967)。
 『切腹』と同じく、橋本忍脚本+小林正樹監督。出演者は、三船敏郎、仲代達矢、司葉子、加藤剛など。
 三船敏郎と仲代達矢の組み合わせ、とくれば、黒澤時代劇のファンが泣いて喜ぶところ。実際の知名度では『用心棒』(1960)、『椿三十郎』(1961)、それに『隠し砦の三悪人』(1958)といった黒澤サムライアクションとは比ぶべくもないが、内容はおさおさ劣らない、やはり橋本忍らしいスリリングな作品である。

 殿様の愛人の女性が、殿様に「反抗した」ことから愛人をクビになり、家臣に妻として「払い下げ」られるも、やがてその女性がかつて生んだ子どもが跡取りに決まったため、女性は一転して「お世継ぎの生母」となる。それで、今度は藩当局が手のひらをかえして、その家臣にくだんの女性を「返せ」と言ってくるという、女性の人権を徹底的に無視した、今から見ると驚愕のストーリー。
 『切腹』、『仇討』とともに、「橋本忍の武家社会理不尽摘発三部作」とでも呼びたい作品だが、これが実話だというから驚く。
 近現代の日本人もだが、前近代の日本人も相当なクズが多かったんだな。

 いずれもアマプラやユーネクストなどで配信されているので、ぜひご覧あれ。
 まあ、『切腹』と同様、白黒の時代劇に見慣れてない人には相当ハードルが高いとは思うけど。・・・
 アマプラやユーネクストでも、ネトフリみたいに字幕が出るようになればいいのにね。
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