(3)
・・・余談が過ぎた。
家康以外の話をしすぎてしまったようだ。
で、話は戻って、『徳川家康』(1983)の滝田栄なんだが。
NHKが得意とするセルフリスペクトというか、過去大河オマージュで、今回の『どうする』にも、できれば雪斎役で出てほしかった(※39)!
と思っていたら、まさか太原雪斎自体が出ないとは!桶狭間からいきなり始まるなんて無茶すぎる。とにかく初回からフルに松潤を出したかった=子役時代イラネというジャニーズ忖度か?
でも、その割りに進度が遅いから、ひょっとして家康が死ぬまではやらない気か?
まさかとは思うが、最後まで月代(さかやき)を剃らずに若いままなのか??(※40)
たしかに秀吉も家康も最後までやると、どうしても悪人化は避けられないからな。てゆーか、たしかに誕生から死までの正統派の家康の生涯は、王道の山岡荘八原作で既にやってるもんね。とすれば、変化球ものになるのは必然か(※41)。
で、その「最後までやるかやらないか」について言うと、信長なら最期まで描いてもキャラが変わらないからいいが(※42)、先述の通り、秀吉と家康は晩年の描き方というのが問題になる。秀吉も家康も最後までやると悪人化が不可避だから、最後までやらないという選択がけっこう多い。
山岡荘八の家康みたいに、かなりのムリムリ解釈で、強引に聖人君子化で押し通すという荒業もあるが、やはり、秀吉や家康については、最後まで描かず、天下を獲ったあたり=秀吉なら家康を臣従させたあたり、家康なら関ヶ原で勝利したあたりで止めておくのが無難なところだろう。
秀吉でいうと、大河に限らず、「最後までやらない秀吉」が実際に意外と多くて、柴田恭平(『太閤記』1987)も柳葉敏郎(『天下を獲った男豊臣秀吉』1993)も草なぎ剛(『太閤記/サルと呼ばれた男』2003)も出世するまで限定だった。竹中直人は主役の時(『秀吉』1996)に最晩年まではやらなかったようだから、ずっと後にリベンジで晩年の秀吉をやって(『軍師官兵衛』2014)、長年の宿題をやっつけたのか。緒形拳も最初の時(『太閤記』1965)は、最後が超駆け足だったらしいから、その後の二度目の秀吉役の時に(『黄金の日々』1978)たぶん同じようにリベンジというか、落とし前をつけたんだろう。知らんけど。
と、そんなこんなで、全く取りとめのない雑談に終始してしまったが、今後の大河ドラマの方向性について、ちょっとだけ私見。
何でも、来年2024年は紫式部と『源氏物語』の話らしい。そして、さ来年2025年は歌麿、写楽、北斎、広重などをプロデュースした画商の話らしい。
今まで、本ブログで幾度も「よくもまあ、毎年飽きもせずに、戦国織豊と幕末維新ばかりを・・・」と呆れていたことを思えば、画期的なことである。
その背景は、おそらく、日本の人口減と経済縮小をふまえ、NHKも海外戦略を考える必要が生じ、それで、実はガラパゴス英雄でしかない三英傑(※43)にばかりいつまでも頼っていては先細りになると痛感したということだろう。それで、ネトフリなどで韓国やその他の海外ドラマの後塵を拝し続けている現状を鑑みて、路線変更を試みようとしているのだろう。
すなわち、従来型の「戦国オタク」ばかりに向けたガラパゴス大河をやめ、海外セールスを意識して(※44)、紫式部や北斎・歌麿というような、従来の歴オタには歯牙にもかけられなかったが、しかし国際的知名度は三英傑より実はよっぽど上、という素材に触手を伸ばした・・・ということだろう(※45)。
もしそうであるならば、もしかして、定番の戦国織豊大河は、来年以降、しばらくお休みになるかもしれない。
それで、もしそのフェアウェル作品が『どうする家康』なのだとすれば・・・そう、はからずも、1980年代なかば、大河ドラマが近現代路線にシフトしようとした時に、従来型歴ドラ路線の最後の記念として、山岡荘八原作の『徳川家康』(1983)が放たれた時とそっくりである。
戦国乱世を終わらせ、日本に「歴史の夏休み」のような天下泰平をもたらした徳川家康という人物は、やはり「戦国シリーズのフィナーレ」にふさわしい人物だったのか、と改めて痛感する次第である。
この退屈な稿の最後に、あるとてもバカな人の話を紹介しよう。
そのバカな人は、勤務先の接待旅行で、2015年頃、静岡に行き、久能山東照宮を参拝した時、そのご本尊(?)たる東照大権現に手を合わせ、こう祈ったんだそうな(※46)。
笑え。
「偉大なる東照宮様。・・・あなたが全生涯をかけ平和な世の中を作り出し、実際にこの国に200年以上の平和をもたらしたという、その途方もない偉業に改めて敬意を表します。
あなたの子孫がこの国を治めていた200年以上の間、長きに渡って、外国を侵略するどころか、そんな計画を立てたことすらないという偉大な事実に、改めて敬意を表します。200年以上に渡って、日本人の辞書に『戦死』という文字はなかったという史実に、改めて敬意を表します。
にもかかわらず。あなたの子孫から政権を奪った薩長のバカどもは、あなたの教えを破って周りの国々に次々と戦争を仕掛け続け、その挙げ句、世界中を敵にまわし、何百万もの同胞の尊い命と、それから侵略先の国の人命をたくさん奪った末に、国を滅ぼしてしまいました。
そして今、この国で政権を握っているのも、その愚かなる長州人の末裔です。あなたが命をかけ、一生をかけて築いた平和の大切さを忘れ、今またこの国を『戦争のできる国』にしようと躍起のようです。
そんな、あなたに顔向けできないような恥ずかしい歴史を綴ってきたのも、今そんな恥ずかしい低級な人物を為政者に据えてしまっているのも、われわれ後世の日本人の責任です。
今を生きる日本人の一人として、かつて200年以上も平和な国を築いていたあなたの国の人間の末裔の一人として、ただただお詫びする以外にありません。
本当に、本当に、あなたに対し、恥ずかしく思います。
申し訳ありませんでした。
でも、どうか見捨てないで、この列島に生きる私たちを見守ってください。・・・
『男の子が生まれた場合は、わが子とは思わず、陛下からのお預かりものと思え。そして、いつの日か、お国のため、陛下のために兵士として喜んで命を捨てるその日のために、しっかり育てなさい』・・・なんていうような、狂った世の中に、もう二度と戻りませんように・・・」
(※39)
ただ、この人はもう実質的に俳優は引退状態だから、出てなくてもしかたないのだが。
(※40)
これは以前に書いたことの繰り言になるが、とりあえず、戦国織豊期の武将で、総髪の肖像画の人はいないから、時代考証的には月代(さかやき=頭頂部)は剃らないとおかしい、はずだ。
が、けっこう昔から大河においては、「三枚目や年配の俳優は月代を剃って出てくるが、二枚目の俳優は総髪のまま」という慣習が横行している。
これは、「ジャニーズの人にあんなカッコ悪い髪型はさせられない」という悪しきジャニーズ忖度だろうと、私などはかねてから思っているのだが、実を言うと、ジャニーズに限らず、妻夫木聡や堺雅人あたりも史実無視の総髪スタイルだった。
なお、ジャニーズ勢だからと言って絶対に月代を剃らないスタイルばかりということでもなく、『太閤記/サルと呼ばれた男』(2003)で秀吉、翌年の『徳川綱吉/イヌと呼ばれた男』(2004)で徳川綱吉を演じた草なぎ剛は、キチンと月代を剃った姿だったことを念のため付記しておく。
(※41)
でも、この場合は悪人化を避けたいというより、老けメイクを避けたいというジャニーズ忖度だったりして。月代の件といい、本当にジャニーズってのは、日本の映像作品の質を落とすばかりの害悪なのね(嘆息)
https://gendai.media/articles/-/110973。
ま、中には、比較的ましな俳優も出てきているけどね、とフォローも。
(※42)
そもそも信長一代記で本能寺までやらないというのは普通はないが、実は先に触れた渡辺謙主演のTBSの正月スペシャルドラマ『織田信長』(1989)が、まさに「最期までやらない信長一代記」だった。
(※43)
幕末維新の「英雄」たちー西郷さん、龍馬、松下村塾、奇兵隊、新撰組、白虎隊などーも、もちろん同様に、知名度はほぼ国内に限られる。
(※44)
『光る君へ』は、国内のオンエア視聴率で言ったら、世帯視聴率もコア視聴率も、たぶんお得意の戦国織豊ものより落ちることだろう。そして、そのことで週刊誌等で叩かれることもあろう。
だが、そもそもそんなことは最初からわかった上での企画であって、力点はそこではないはず。
(※45)
もし仮に、本当にそうだとしたら、紫式部、浮世絵画商の次は、芭蕉とその一門あたり??あるいは親鸞・道元・日蓮といった人たち??(でも、特定の宗教宗派の宣伝になるようなのはダメか)
(※46)
さらについでのついでに、本文で話題の中心となった1983年の大河『徳川家康』の最終回の最終シーンのナレーションを採録しておこう。40年経って、最後のくだりが、ますます耳に痛く響いてくるとは言えまいか。
「75年。まさしく太平の悲願を突き貫いて、久能山に祀られる家康の遺体もまた立って西に臨み、さらに1年後には二荒山(ふたらさん)に移って平和の根になろうという飽くなき祈りの往生である。その凄まじい意志の前に、戦国はひれ伏した。この卓絶した悲願を、後の世の人々がどう受け継いでいったか。それは厳しい歴史の目が裁いてゆくに違いない」
・・・余談が過ぎた。
家康以外の話をしすぎてしまったようだ。
で、話は戻って、『徳川家康』(1983)の滝田栄なんだが。
NHKが得意とするセルフリスペクトというか、過去大河オマージュで、今回の『どうする』にも、できれば雪斎役で出てほしかった(※39)!
と思っていたら、まさか太原雪斎自体が出ないとは!桶狭間からいきなり始まるなんて無茶すぎる。とにかく初回からフルに松潤を出したかった=子役時代イラネというジャニーズ忖度か?
でも、その割りに進度が遅いから、ひょっとして家康が死ぬまではやらない気か?
まさかとは思うが、最後まで月代(さかやき)を剃らずに若いままなのか??(※40)
たしかに秀吉も家康も最後までやると、どうしても悪人化は避けられないからな。てゆーか、たしかに誕生から死までの正統派の家康の生涯は、王道の山岡荘八原作で既にやってるもんね。とすれば、変化球ものになるのは必然か(※41)。
で、その「最後までやるかやらないか」について言うと、信長なら最期まで描いてもキャラが変わらないからいいが(※42)、先述の通り、秀吉と家康は晩年の描き方というのが問題になる。秀吉も家康も最後までやると悪人化が不可避だから、最後までやらないという選択がけっこう多い。
山岡荘八の家康みたいに、かなりのムリムリ解釈で、強引に聖人君子化で押し通すという荒業もあるが、やはり、秀吉や家康については、最後まで描かず、天下を獲ったあたり=秀吉なら家康を臣従させたあたり、家康なら関ヶ原で勝利したあたりで止めておくのが無難なところだろう。
秀吉でいうと、大河に限らず、「最後までやらない秀吉」が実際に意外と多くて、柴田恭平(『太閤記』1987)も柳葉敏郎(『天下を獲った男豊臣秀吉』1993)も草なぎ剛(『太閤記/サルと呼ばれた男』2003)も出世するまで限定だった。竹中直人は主役の時(『秀吉』1996)に最晩年まではやらなかったようだから、ずっと後にリベンジで晩年の秀吉をやって(『軍師官兵衛』2014)、長年の宿題をやっつけたのか。緒形拳も最初の時(『太閤記』1965)は、最後が超駆け足だったらしいから、その後の二度目の秀吉役の時に(『黄金の日々』1978)たぶん同じようにリベンジというか、落とし前をつけたんだろう。知らんけど。
と、そんなこんなで、全く取りとめのない雑談に終始してしまったが、今後の大河ドラマの方向性について、ちょっとだけ私見。
何でも、来年2024年は紫式部と『源氏物語』の話らしい。そして、さ来年2025年は歌麿、写楽、北斎、広重などをプロデュースした画商の話らしい。
今まで、本ブログで幾度も「よくもまあ、毎年飽きもせずに、戦国織豊と幕末維新ばかりを・・・」と呆れていたことを思えば、画期的なことである。
その背景は、おそらく、日本の人口減と経済縮小をふまえ、NHKも海外戦略を考える必要が生じ、それで、実はガラパゴス英雄でしかない三英傑(※43)にばかりいつまでも頼っていては先細りになると痛感したということだろう。それで、ネトフリなどで韓国やその他の海外ドラマの後塵を拝し続けている現状を鑑みて、路線変更を試みようとしているのだろう。
すなわち、従来型の「戦国オタク」ばかりに向けたガラパゴス大河をやめ、海外セールスを意識して(※44)、紫式部や北斎・歌麿というような、従来の歴オタには歯牙にもかけられなかったが、しかし国際的知名度は三英傑より実はよっぽど上、という素材に触手を伸ばした・・・ということだろう(※45)。
もしそうであるならば、もしかして、定番の戦国織豊大河は、来年以降、しばらくお休みになるかもしれない。
それで、もしそのフェアウェル作品が『どうする家康』なのだとすれば・・・そう、はからずも、1980年代なかば、大河ドラマが近現代路線にシフトしようとした時に、従来型歴ドラ路線の最後の記念として、山岡荘八原作の『徳川家康』(1983)が放たれた時とそっくりである。
戦国乱世を終わらせ、日本に「歴史の夏休み」のような天下泰平をもたらした徳川家康という人物は、やはり「戦国シリーズのフィナーレ」にふさわしい人物だったのか、と改めて痛感する次第である。
この退屈な稿の最後に、あるとてもバカな人の話を紹介しよう。
そのバカな人は、勤務先の接待旅行で、2015年頃、静岡に行き、久能山東照宮を参拝した時、そのご本尊(?)たる東照大権現に手を合わせ、こう祈ったんだそうな(※46)。
笑え。
「偉大なる東照宮様。・・・あなたが全生涯をかけ平和な世の中を作り出し、実際にこの国に200年以上の平和をもたらしたという、その途方もない偉業に改めて敬意を表します。
あなたの子孫がこの国を治めていた200年以上の間、長きに渡って、外国を侵略するどころか、そんな計画を立てたことすらないという偉大な事実に、改めて敬意を表します。200年以上に渡って、日本人の辞書に『戦死』という文字はなかったという史実に、改めて敬意を表します。
にもかかわらず。あなたの子孫から政権を奪った薩長のバカどもは、あなたの教えを破って周りの国々に次々と戦争を仕掛け続け、その挙げ句、世界中を敵にまわし、何百万もの同胞の尊い命と、それから侵略先の国の人命をたくさん奪った末に、国を滅ぼしてしまいました。
そして今、この国で政権を握っているのも、その愚かなる長州人の末裔です。あなたが命をかけ、一生をかけて築いた平和の大切さを忘れ、今またこの国を『戦争のできる国』にしようと躍起のようです。
そんな、あなたに顔向けできないような恥ずかしい歴史を綴ってきたのも、今そんな恥ずかしい低級な人物を為政者に据えてしまっているのも、われわれ後世の日本人の責任です。
今を生きる日本人の一人として、かつて200年以上も平和な国を築いていたあなたの国の人間の末裔の一人として、ただただお詫びする以外にありません。
本当に、本当に、あなたに対し、恥ずかしく思います。
申し訳ありませんでした。
でも、どうか見捨てないで、この列島に生きる私たちを見守ってください。・・・
『男の子が生まれた場合は、わが子とは思わず、陛下からのお預かりものと思え。そして、いつの日か、お国のため、陛下のために兵士として喜んで命を捨てるその日のために、しっかり育てなさい』・・・なんていうような、狂った世の中に、もう二度と戻りませんように・・・」
(※39)
ただ、この人はもう実質的に俳優は引退状態だから、出てなくてもしかたないのだが。
(※40)
これは以前に書いたことの繰り言になるが、とりあえず、戦国織豊期の武将で、総髪の肖像画の人はいないから、時代考証的には月代(さかやき=頭頂部)は剃らないとおかしい、はずだ。
が、けっこう昔から大河においては、「三枚目や年配の俳優は月代を剃って出てくるが、二枚目の俳優は総髪のまま」という慣習が横行している。
これは、「ジャニーズの人にあんなカッコ悪い髪型はさせられない」という悪しきジャニーズ忖度だろうと、私などはかねてから思っているのだが、実を言うと、ジャニーズに限らず、妻夫木聡や堺雅人あたりも史実無視の総髪スタイルだった。
なお、ジャニーズ勢だからと言って絶対に月代を剃らないスタイルばかりということでもなく、『太閤記/サルと呼ばれた男』(2003)で秀吉、翌年の『徳川綱吉/イヌと呼ばれた男』(2004)で徳川綱吉を演じた草なぎ剛は、キチンと月代を剃った姿だったことを念のため付記しておく。
(※41)
でも、この場合は悪人化を避けたいというより、老けメイクを避けたいというジャニーズ忖度だったりして。月代の件といい、本当にジャニーズってのは、日本の映像作品の質を落とすばかりの害悪なのね(嘆息)
https://gendai.media/articles/-/110973。
ま、中には、比較的ましな俳優も出てきているけどね、とフォローも。
(※42)
そもそも信長一代記で本能寺までやらないというのは普通はないが、実は先に触れた渡辺謙主演のTBSの正月スペシャルドラマ『織田信長』(1989)が、まさに「最期までやらない信長一代記」だった。
(※43)
幕末維新の「英雄」たちー西郷さん、龍馬、松下村塾、奇兵隊、新撰組、白虎隊などーも、もちろん同様に、知名度はほぼ国内に限られる。
(※44)
『光る君へ』は、国内のオンエア視聴率で言ったら、世帯視聴率もコア視聴率も、たぶんお得意の戦国織豊ものより落ちることだろう。そして、そのことで週刊誌等で叩かれることもあろう。
だが、そもそもそんなことは最初からわかった上での企画であって、力点はそこではないはず。
(※45)
もし仮に、本当にそうだとしたら、紫式部、浮世絵画商の次は、芭蕉とその一門あたり??あるいは親鸞・道元・日蓮といった人たち??(でも、特定の宗教宗派の宣伝になるようなのはダメか)
(※46)
さらについでのついでに、本文で話題の中心となった1983年の大河『徳川家康』の最終回の最終シーンのナレーションを採録しておこう。40年経って、最後のくだりが、ますます耳に痛く響いてくるとは言えまいか。
「75年。まさしく太平の悲願を突き貫いて、久能山に祀られる家康の遺体もまた立って西に臨み、さらに1年後には二荒山(ふたらさん)に移って平和の根になろうという飽くなき祈りの往生である。その凄まじい意志の前に、戦国はひれ伏した。この卓絶した悲願を、後の世の人々がどう受け継いでいったか。それは厳しい歴史の目が裁いてゆくに違いない」