習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

生きる/LIVING

2023-04-07 17:44:41 | 映画
『生きる/LIVING』



 黒澤明監督の映画『生きる』(1952)は、「黒澤明監督作品の中でも最もよく知られたものの一つ」で、「人の心を動かさずにはいられない名作」、「黒澤明最高の作品」と評されるマスターピースであり(※1)、私個人の話をすると、極私的な「マイオールタイムベストテン」で、高校時代以来、「日本映画マイオールタイムベストワン」を一度も譲ったことがない映画作品である。

 私が高校生の頃というと1990年頃だが(※2)、『生きる』は、その頃から見ても40年近く前の映画で、かつ当時高校生の私からしたら、自分が生まれるより20年以上も前の作品である。が、その頃から既に、映画でも文芸でも音楽でもスポーツでも政治社会でも、なぜかリアルタイムのカルチャーや事象より自分がもの心つく前にどんなものがあったか、どんなことがあったかのほうにばかり興味を持っている変な高校生だった私は、『東京物語』(1953)や『二十四の瞳』(1954)と同様、『生きる』もビデオ(※3)で録画したものをしばらくしてから見て、大いに影響されたのであった。

 「平凡に無気力に暮らしてきた初老の地方公務員の男が、ある日、自分が癌で余命僅かであると知り、残された人生で、小さな公園の建設に情熱を注ぎ、最後の日々を〈生きる〉」、それがこの作品のあらすじとなる。

 何が凄いって、まず『生きる』というド直球、ドストレートのタイトルが凄い(※4)。そして、もちろん「死」という誰にでも訪れ、誰もが恐れる普遍的なことをテーマにした内容も。
 そもそも「難病もの、余命僅かもの」というのは、今でこそありふれた、ベタな素材のように見えるが、この『生きる』のリアルタイム当時では非常に真新しい題材だったはずである。この『生きる』が嚆矢となって、その後、「難病もの、余命僅かもの」がドンドン粗製乱造されたから陳腐なように見えるだけで、『生きる』のできた時はほとんど誰も使ったことのない新鮮なネタだったはずである。
 しかしながら、後続のほとんどにおいて、「余命僅か」なのは、いかにも同情を引きやすい、感情移入させやすい、「泣かせ」やすい、いたいけな少年少女か、もしくは美しきヒロインかイケメン青年であって(※5)、『生きる』のように冴えない中高年男性という、一般に同情を誘いにくいキャラクターを主人公に据えるというのはかなり珍しい(※6)冒険であったはずである(※7)。


 そんな『生きる』だが、私にとって、「青春思い出ゲタ上げ補正を含んでの永遠のマイオールタイムベストワン」であってみれば、それがリメイクされるなどということになれば、嬉しい反面、満足度のハードルが上がって、原典との些細な差であっても、許せなくなりそうなものである(※8)。
 はてさて。
 では、同時代の英国を舞台に、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロ氏の脚本でリメイクされた『生きる/LIVING』(2022)は??


 率直な感想を一言で言えば、『生きる/LIVING』は、非常に原典へのリスペストに満ちた良心的なリメイク作品だと思う(※9)。世の中には原作ファンが怒るような原作レイプ的映像化(※10)、オリジナル版のファンが怒るような原典レイプ的リメイクが多いが、この作品は本当にオリジナル版への愛情と敬意が感じられた。たとえば、『キング・コング』の2005年版のように(※11)。
 基本ストーリーの構造が原典に忠実であるというのみならず、クライマックスのブランコのシーンの構図など、至るところに「オリジナル版愛」が感じられる、そんな作品であった(※12)。

 もちろん、差異はたくさんある(※13)。そもそも全く同じだったら、何のためにリメイクするのかわからないだろうから(※14)。
 だから、オリジナル版のファンである私たちは、「あそこはオリジナル通りのほうが良かった」、「あそこは変えないでほしかった」的なことをギャーギャー言いつつも(※15)、それでも、黒澤ファンでも怒るより基本は嬉しい。
 ありがとう!カズオ・イシグロさん!と、そんな幸せなウィンウィンのリメイクと言えよう(※16)。


 『生きる/LIVING』と元祖『生きる』の違いは何かというと、まずは長さである。原典は2時間半ぐらいの、当時としては非常に長尺の作品であったが、リメイクのほうは約2時間と、今日の映画一般の平均的尺である。
 ということは、それゆえ内容はかなり短くならざるを得ないわけで、とくに主人公の死後のディスカッションドラマ的回想のシーンがかなりコンパクト化されていた。

 ここのところの大幅短縮は、意見の分かれるところであろう(※17)。黒澤特有の「くどさ」を回避するためか、息子夫婦が主人公の「放蕩」を勘違いしてそれを咎めだてようとするシーンも、原典と違って不発に終わるし、主人公が元部下の女性に自分の病気を告白するシーンも元の志村喬(たかし)の鬼気迫る演技(※18)とは比較にならないほどアッサリしているとともに、あの「ハッピーバースデー」の鳥肌が立つような(誤用)演出も見られなかったことには、不満を抱く原典ファンが多いはずである。


 が、客観的に見れば、それも「あり」というか、21世紀の今のご時世で全世界的に一般受けするためには仕方ない改変かもしれない。

 たとえば、上記の息子とのすれ違いにしても、たしかに改めて考えれば、原典のように、そこまでハッキリ描かなくても、普通に伝わる話だろう。
 映画評論家の町山智浩氏が、黒澤映画のことを「胸ぐらをつかんで耳元でがなりたてるような映画」と評しているのは実に的を射ている。
 つまり、わかる人だけわかればいい、ではなく、何が何でも俺の狙い通りに感動させる、そうじゃなきゃ許さないという心の叫びが聞こえてきそうな映画。黒澤作品とは、そんな映画と言えそうである(※19)。
 一言で言うと、押しつけがましい映画(笑)。
 「プライバシー侵害ゴシップ雑誌はいけないんだあ!プライバシー侵害ゴシップ雑誌はいけないんだあ!」、「原水爆はいけないんだあ!原水爆はいけないんだあ!」、「汚職はいけないんだあ!汚職はいけないんだあ!」、「誘拐はいけないんだあ!誘拐はいけないんだあ!」、と、大事なことなので二度言いましたとばかりに、がなりたてる作風!
 私は黒澤ファンかアンチかと言われれば一応は前者だが、その押しつけがましい鬱陶しさというのはたしかに否定できないと思う。そう。まさに本人が『七人の侍』(1954)の目標として言った「鰻丼の上にさらにステーキを乗せたような」しつこい映画!(※20)

 そして、これも町山氏の受け売りだが、その点、『生きる/LIVING』のほうは、黒澤という素材だが、むしろ小津っぽい調理法だと。
 なるほど、黒澤映画は肉に分厚い衣をつけて、ギトギトに油で揚げて、そこにオタフクソースをかけて食わせる、血圧が上がりそうな濃厚な映画だが、『生きる/LIVING』のほうは、同じ肉料理でも、しゃぶしゃぶにしてポン酢で食わせるような淡白な映画となっている。

 映画の主題やカメラワークは全く違うが、たしかにその意味では小津的というのは嘘ではない。
 その一つがまさに、先ほど述べた「ハッピーバースデー」がないところである。「ハッピーバースデー」シーンは、たしかに小説では不可能な、映画ならではの象徴的な話法で、映画の教科書に載るような神業的上手さだが、見る人によっては、「くどい」、「くさい」となるシーンでもある。私は肯定派だが、否定派の気持ちもやはりわかる。それに、主人公が元部下の女性に自分の病気のことを告白するシーンも。


 ともあれ、オリジナル版の最大の成功要因であるとともに、リメイク版でも当然のこととして踏襲して正解だったのが、物語がヤマ場を迎えていよいよこれからというところで、いきなり主人公が死ぬという破格の構成である。たしかに『市民ケーン』(1941)などでも冒頭から使われている語り法だが、インパクトの強さという点では、『生きる』の「それから5か月。この物語の主人公は死んだ」のほうがより衝撃的である(※21)。

 共同脚本執筆者の一人で、この作品が実は黒澤組デビューとなる小国英雄(※22)の提案だという前半と後半の断絶。・・・たしかに、巷間よく言われる通り、時系列通りに主人公の行動をただ追うだけでは、「清く正しく美しく」の美談にはなっても、おそらく退屈で、エンタメとしてはガタ落ちだったろう。

 ただ、今般のリメイクを総じて非常に好意的に見たい私でも、やはり死後の葬式のシーンからはオリジナルのおもしろさにはどうしても勝てなかったと思う。
 たしかに、原典では葬式に現れない(おそらく主人公の死を知らない)元部下のヒロインが、リメイクのほうでは葬式に出席するという改変は、むしろいい改変だと思う(※23)。
 しかし、今回のリメイク版では、主人公死後のディスカッションドラマのパートが短すぎる、簡素すぎるなあと、原典と比べて思ってしまうのである。ついつい、そんな老害的な苦言を述べたくなってしまうあたり、いかに原典版のお通夜のシーンがスリリングでおもしろかったかということか。
 原典版でとくに関心するのが、和室というものを上手く使った演出である。この上手さは脚本の上手さではなく、演出の上手さだろう。
 役所の部下の一人、山田巳之助(※24)がリベロプレーヤーよろしくあっちに行き、こっちに行きと、自由自在に畳の上を動くことで画面が単調にならず、躍動する。テーブル席の饗宴だったらこうはいくまい(※25)。
 その山田巳之助と左卜全(ぼくぜん)の会話がまるで噛み合わない飲み会あるある的おかしさ(※26)。さらに藤原釜足、千秋実といった黒澤組常連(※27)と、中村伸郎(絶品!)や小堀誠(この人も絶品!)や日守新一や田中春男といった個性的なメンバーを上手く使い、役名も性格も最初はよくわかってなかったはずなのに、なぜか観客をして、いつのまにか各人のキャラクターを掴めさせてしまう物凄い力技!(※28)
 
 よく世間では後半のお通夜のシーンが長いと、ここでの黒澤のくどさに苦言を呈する向きも多いが(※29)、私の個人の感想としては、この回想シーンを駆使したディスカッションドラマの、だんだんと真相に迫ってくる展開こそがこの映画の中で最もスリリングでおもしろい部分だと思う(※30)。
 何より、回想シーンと現在シーンの目まぐるしい行き来がまったくわかりにくくならない橋本忍の会心のペン!(※31)

 そして、そのディスカッションが一通り出尽くしたところで、警官が登場し、あのあまりにも有名なブランコのシーンとなって、最後の1ピースが見事にはまる神構成!

 ここについては、リメイク版でも、最後の最後で、原典へのリスペクトたっぷりに、忠実にオリジナルを再現して、名シーンを作ってくれている(※32)。

 リメイク版に対し、オリジナル版信者の立場から、いろいろとないものねだりをしてきた私だが、ここのところ、実に適切な処理法で、最後の最後に、最高のシーンをプレゼントしてくれたリメイク版の作り手たちには、やはりオリジナルのファンとして、改めて最大限の感謝をしたいところである。


 ありがとう!カズオ・イシグロさん!
 ありがとう!オリヴァー・ハーマナス監督!
 ありがとう!ビル・ナイさん!
 ありがとう!エイミー・ルー・ウッドさん!



(※1)

『映画史上ベスト200シリーズ/日本映画200』(キネマ旬報社/1982)より。


(※2)

1980年代から90年代は、質的にも興行的にも邦画はハリウッドに圧倒されていた。『となりのトトロ』(1988)が前例のない「アニメ作品にしてキネ旬ベストテン1位」という栄冠に輝いたのも、要はそれだけ全体が不作の時代だったということである。
映画好きな私の同級生たちも、みんなスピルバーグのファンである一方で、「日本映画なんて、2時間ドラマでやってりゃいいような程度のもんだろ」と、バカにして、見る前から歯牙にもかけていなかった。まあ、そう言われても仕方ない映画が多かったのは事実だろうが。


(※3)

もちろん当時はVHS。黒澤作品は、レンタルビデオ全盛の80年代~90年代においても、権利関係の都合か、ソフト商品化が遅れていたが、当時まだ始まって間もなかった東京国際映画祭の絡みで、深夜に放送されたのをたまたま録画していたのだ。
城ヶ崎祐子氏が解説をしていたから、たぶんNHKではなくフジテレビだったはずだが、中断CMが一切挟まらない、良心的な放送であった。
なお、どうでもいいことながら、この放送日がいつだったかというのは、実は簡単に特定できる。本編が始まった直後に、「広島大学学部長殺人事件の容疑者を逮捕」というニュース速報のテロップが一緒に録画されていたから。その事件の被疑者が逮捕された日、で調べてみると、1987年の10月2日、金曜日ということになる。ちょうど第2回の東京国際映画祭が開催されていた時期にあたるようだ。それから長い年月が流れ、東京国際映画祭も、もう35回ぐらい、という事実に、我ながら年を取ったものだと慨嘆する(笑)。


(※4)

この時代の日本で、動詞の終止形(辞書形)のタイトルというのは珍しかったのではないか。少し後には、成瀬の『流れる』(1956)とか『乱れる』(1964)とかがあるけど。
ちなみに、この作品は、『生きる』というタイトルに決まる前の準備稿の段階では、『渡辺勘治の生涯』という仮題だったとか。それじゃ幻滅だわなあ、と、そんなことを思うと、タイトルというのは、本当~に大事だと痛感する。


(※5)

『愛と死をみつめて』(1964)、『クリスマス・ツリー』(1969)、『ある愛の詩』(1970)、『翼は心につけて』(1978)、『ラブ・ストーリーを君に』(1988)、『病は気から/病院へ行こう2』(1992)、『僕の生きる道』(2003)、『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)、『電池が切れるまで』(2004)、『1リットルの涙』(2005)、『Little DJ/小さな恋の物語』(2007)、『その日のまえに』(2008)、『余命1か月の花嫁』(2009)、『僕の初恋をキミに捧ぐ』(2009)、『はなちゃんのみそ汁』(2015)、『四月は君の嘘』(2016)他多数。


(※6)

見てないけど、『大病人』(1993)ぐらいか。


(※7)

そもそも志村喬(たかし)のような地味な中高年俳優をピンの主人公にするというのが、興行的には驚くべき冒険であったろう。
たしか澤地久枝の本によれば、志村喬夫人は、夫が単独主役の映画なんて、観客が来てくれるのか不安になって、こっそり映画館に偵察に行って、そしたら、映画が始まってオープニングクレジットで夫の名が初めて一枚で出てくるのを見て思わず本編が始まる前から涙してしまったのだとか。夫婦愛を感じさせるいいエピソードである。


(※8)

『生きる』は、2007年にも日本国内で、21世紀現在を舞台にリメイクがされている。
その時も、原作への敬意に満ちたリメイクで、リメイクされたこと自体はとても嬉しかったものだが、脚色(市川森一)はともかく、キャスティングや演出には不満があった。


(※9)

そもそも今どきスタンダード画面(昔のブラウン管テレビと同じ4:3のアスペクト比の画面サイズ)をあえて使っているというところが、驚くべき慧眼というか、英断のリスペクトである。


(※10)

『ソロモンの偽証』(2015)は、本当に本当にひどかった。ひどかった。・・・
それに、『元彼の遺言状』(2022)も、あまりに原作をいじりすぎだった。いじりすぎだった。・・・


(※11)

1976年版も決して嫌いではないが。


(※12)

たとえば、小道具にしても、その「使い方」では異なるが、ウサギのぬいぐるみがちゃんと出てくるところなんて、ものすごい「原典愛」を感じるところであった。
と、それにしても、英国では1950年代からUFOキャッチャー(というのは登録商標で、一般名詞としてはクレーンゲーム)があったのね。私がUFOキャッチャーをはじめて見たのは90年頃だった気がするが、日本でも実は昔からあった・・・のだろうか??


(※13)

どうでもいい部分ながら、原典からの改変で微妙に気になったのが、主人公、すなわち原典での渡辺勘治、リメイクでのウイリアムズ氏の職場でのアダ名の変更である。
「ミイラ」と「ゾンビ」と何が違うのか。変えた理由は何なのか。それとも深い意味はなく、単に最近はゾンビものの映画が流行りだからそうしたというだけなのか。
でも、1950年代の世の中で、ゾンビという言葉はそんなに市民権を得ていたのだろうか。少なくともその頃の日本では、ミイラという語は知られていても、ゾンビという語は誰も知らなかったと思うが、英国ではどうだったのだろう。


(※14)

と言っても、「ほとんど同じ完コピ」だから意味がないということにはなるまい。
『無法松の一生』(1958)なんて、オリジナル版(1943)と同じ脚本、同じ監督で、カット割りやカメラ構図までほとんど同じだが、オリジナル版が戦時中の軍部の検閲と戦後の占領軍の検閲とで大幅にカットされてしまい、おしまいのほうは意味不明になってしまっていたから、作り直す必要性はたしかにあった。
『二十四の瞳』(1987)や『サイコ』(1998)だって、あるいはテレビドラマ『赤ひげ』(2002)だって、オリジナル版のファンからの評価は良くないが、その時代の若い観客のためにカラーで忠実に作り直すことで、原典に触れるきっかけを持ってもらうという意義はあったろうし、またオリジナルのファンにも、「見比べて差異を見つける」楽しさを提供したはずである(では、もともとカラーだった『犬神家の一族』(2006)は・・・?ヒット鉄板ネタだからもう一回やって儲けようぜっていうモチベーションか?)。


(※15)

日本の元祖版では、主人公は直接には癌の告知をされず、待合室での会話からそれを悟るが(見事なブラックユーモアシーン!ここでのワンシーンキャラの待合室の患者の演技がとてもいい!余談の余談だが、黒澤作品のワンシーンキャラでは、この『生きる』の渡辺篤の他、『天国と地獄』(1963)の藤原釜足及び沢村いき雄も素晴らしい!)、英国リメイクでは、ちゃんと医師が直接告知する。
これは実際に昔の日本と欧米との必然的な差である。
が、それはそうと、『生きる』オリジナルのほうの医者は、主人公本人には言わずとも、なぜ息子のほうにでも告知しなかったのか。昔の日本だと、本人に伏せる代わりに家族には告げていたのでは?な~んてツッコミは野暮だろうね。
ちなみに、『天国に行けないパパ』(1990)というアメリカのコメディー映画では、本人には余命を告知するが家族は知らない、というところが物語の勘所となっており、昔の日本では作りようがなかった話だろう。


(※16)

とくに、私のように、黒澤と言えば何かとサムライアクションものばかりが取り沙汰されリメイクされる傾向に不満を持っていた人間にとっては、実に本望である。


(※17)

英国では、おそらく昔の日本のように葬式の席で酒宴となる習慣がなく、酔った勢いでいろいろまくしたてるという展開がしにくかったからだろう(「お通夜」という、夜のお弔いの習慣がないんだから、当然)。


(※18)

志村喬といえば、カラー時代になってからは、『寅さん』でも他のドラマや映画でも、淡々と静かに語るような印象が強いので、ここでのオーバーアクト気味なほどの鬼気迫る独白は、後世の寅さんファンにも向田ファンにも特撮ファンにも驚きの、一世一代の爆演である。


(※19)

たとえば、『生きる/LIVING』のほうでは、元部下の女性との対話において、原典にあった「何か作ってみたら」という啓示がないゆえ、主人公が生まれ変わったこととの因果関係がわかりづらくなってしまっているが、原典ではその後の「ハッピーバースデー」という象徴的シーンで、否が応でも「主人公が生まれ変わった」とわからせてしまうのである。
こういう作品だからこそ、初鑑賞時に高校生だった私でも理解でき、感動できたのだろう。


(※20)

『赤ひげ』(1965)で、黒澤のストレートなヒューマニズム追求路線が一段落してからは=黒澤全盛期が終わってからは、作劇的な押しつけがましさは減退したが、その代わり、画面表現の押しつけがましさが増した(笑)。


(※21)

ちなみに『サイコ』(1960)も、予備知識なしで見たら、主人公だと思っていた登場人物が、物語の真ん中へんぐらいで死んじゃうという、観客の意表を突く映画で、私も初めて見たときは非常に驚いたものである。


(※22)

小国英雄は、本数の上では橋本忍より、菊島隆三より、久板栄次郎より共作参加が多いので、彼らの中で「黒澤組デビュー」が一番遅いというのは意外な感じがする。
が、にも関わらず共作本数が一番多いということは、とりもなおさず、『生きる』以降は不参加作が少ないということだから、それだけ黒澤の信任が厚かったということだろう。


(※23)

もともと、主人公とヒロインの心の結びつき、絆は、オリジナルよりリメイク版のほうがずっと強いと言えるのだし。
そして、その部分の美しさは、リメイク版で、私のとくにすきな部分である。とともに、ヒロインが役所時代の同僚の若い男性(原典では日守新一に該当すると思われるが、キャラはまるで違う)と恋愛関係になるという改変も、リリカルで好もしい改変であった。
ちなみに、余談の余談ながら、日本国内で2007年にリメイクされたバージョンでも、この元部下の女性(ここでは深田恭子)がラストでもう一度出てきていたが、こちらのほうは、むしろ余韻をぶち壊すような無粋な蛇足的再登場で、全く感心しなかったものである。
まあ、この時はそもそも、主役のキャスティングからして、ミスキャストだったと思うが(もし武田鉄矢か西田敏行だったなら・・・と、当時、歯噛みしたものである)。


(※24)

なぜか黒澤作品では『生きる』でしか見たことのない俳優であり、他の作品でも私はあまり見たことのない俳優だが、実に適材適所である。


(※25)

2007年の日本国内でのリメイク『生きる』では、お通夜のディスカッションドラマのシーンが、テーブル席になっていたのが失敗だった。
たしかに、もう自宅でお葬式をやる時代じゃなくなっていたから、斎場が舞台というふうに改変されるのは、やむを得ないところだとは思うが。むしろ07版が残念だったのは、設定より、その葬式シーンで、オリジナルほど芸達者がいなかったことのほうだろう。


(※26)

酒席で「感動」し、「誓った」ことを、翌日には全員アッサリ忘れているという強烈なブラックユーモアのオチも、いかにも「飲み会あるある」である。まるで『劇画オバQ』のような。


(※27)

実は藤原釜足は、この『生きる』が黒澤組デビュー作で、これも小国英雄と同様、意外と遅い感じがする。
黒澤作品での藤原釜足といえば、先に触れた『天国と地獄』(1963)のワンシーン出演での「ブリキは燃えねえってんだよ!」が最高だが、『七人の侍』(1954)や『隠し砦の三悪人』(1958)の農民もいいし、『悪い奴ほどよく眠る』(1960)の小役人も上手い。名作『赤ひげ』(1965)では、セリフの全くない役だが、その鬼気迫る眼の演技が凄まじい。凄まじいと言えば、『用心棒』(1961)のラストでの、狂人演技もなかなか凄い。また、黒澤組常連が一気にいなくなった『どですかでん』(1970)にも、釜足だけは例外的に出ていて、なかなかの熱演の語りを見せている。
なお、藤原釜足は、成瀬巳喜男作品でも常連であり、戦前の傑作『二人妻/妻よ薔薇のように』(1935)、かわいい小品『秀子の車掌さん』(1941)、戦後成瀬の隠れた最高の魅力作『秋立ちぬ』(1960)と、印象的な作品が多い(ユーネスクトでぜひご覧あれ。とくに『秋立ちぬ』は大推奨。世間的に最も有名な『浮雲』(1955)なんかよりずっといい。→この点は、成瀬巳喜男評論家の平能哲也氏と全く同意見である)。
そんな藤原釜足のテレビドラマ出演作では、私は『ぶらり信兵衛/道場破り』(1973~4)が昔から大好きである。


(※28)

もし三船敏郎が『生きる』(1952)に出ていたら・・・というイフの妄想は、黒澤ファンなら一度はした妄想だろうが、もし三船に演じさせるとしたら、無難なのは宮口精二の、セリフがないのにインパクト絶大なヤクザあたりか。
でも、日守新一の役が三船だったら・・・と想像しないでもない。たぶん、パワフルな熱血漢の三船が演じたら、水と油になること請け合いだろうが・・・


(※29)

たとえば、ドナルド・リチー『黒澤明の映画』(キネマ旬報社/1979)。


(※30)

それだけに、このディスカッションドラマを列車の中の短い会話だけでアッサリ打ち切ってしまったリメイク版には、本文でも述べたが、正直不満がある。
たしかに先述の通り、「お通夜での酒宴」がない外国の話だからしょうがないわけだが。そして、クライマックスの列車内での会話のために、冒頭で通勤列車を出してくるカズオ・イシグロの伏線の張り方は、やはり上手い。


(※31)

この、橋本忍の回想シーンの使い方の上手さは、『切腹』(1962)について以前書いた稿で触れた通りである。『切腹』しかり、『砂の器』(1974)しかり、『張込み』(1958)しかり。


(※32)

あれ、そういえばあの例の象徴的シーンがまだ出ていてないぞ、まさかこのまま終わるのか?と不安に思わせといて、あ、なるほど、ここで使うのか!と膝を打つ。たしかに、あの教会での葬式に警官が来たら不自然だものねえ、と、改めて納得しながら。
ここは、実に上手いアレンジであった。


(付記/2024年1月)

上記で触れた、2007年リメイクのテレ朝版『生きる』について。
2023年にCSのテレ朝チャンネルで再放送された同作を、最近になって見なおしたのだが。・・・
はて????
上記の注25でそう書いた通り、15年余り前のオンエア時に見た記憶では、渡辺勘治のお通夜は、原典と違って現代風に斎場で行われており、そこでのディスカッションドラマはテーブル席だった・・・はずなのだが。私の記憶では。
ところが、今般、見直してみたら、原典と同じく自宅の畳の上のお通夜だった。
ということは、私の記憶が間違っていたのか??
何だか、キツネにつままれたような、というより、キツネに化かされたような、面妖な気分である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四月バカはバカを見るのか

2023-04-01 09:32:27 | ノンセクション
「今日は私の誕生日である。二十歳になった」

 ・・・というのは、『二十歳の原点』の書き出しだが、久々にこの冒頭の文と向き合ってみて、改めて考えてみる。

「今日は私の誕生日である。二十歳になる」
ではなくて、
「今日は私の誕生日である。二十歳になった」
という書き方。

 う~ん、正確だ!
 と、思わず唸ってしまった。


 「人が『年を取る』のはいつか」
といえば、数え年なら正月だが、満年齢の場合は誕生日となる。
 ここまでは当たり前の話。
 では、その誕生日で年を取る満年齢方式の場合、誕生日の何時何分で年を取るのか?
 本来なら、生まれた時刻ピッタリ、であるべきだろうが、そのような時刻は、もし病院で記録され母子手帳に書き入れられるものだとしても、それをちゃんと覚えている人がどれだけいるのか。せいぜい「朝だったらしい」とか、「夕方だったと聞いている」とか、岡本真夜みたいに「真夜中だったそうだ」とか、ザックリと認識していればいいほうだろうから、万人に適用するのは非現実的だろう。

 で、結局、人はいつ年を取るの?
 深夜0時、誕生日になった瞬間?
 それとも、深夜0時、誕生日が終わった瞬間?

 たとえば、1月1日の元日生まれの人が「年を取る」のは、大晦日のカウントダウンで、「3!2!1!0!ハッピーニューイヤー!!」と叫ぶ瞬間なのか。それとも、元日が終わる深夜24時、イコール1月2日になった瞬間の午前0時なのか。

 答えは、実は前者である。
 「えっ?」と思う人も多いだろうが、実は前者なのだそうだ
 私も後者だと長年思っていたけれど。

 だから、『二十歳の原点』の日記の記述は・・・という冒頭の話になるわけ。
 なるほど、もし誕生日の当日の夕方なり晩なりにでも書いているなら、「今日、二十歳に『なる』」んではなく、「今日、二十歳に『なった』」で正しいわけだな。


 で、主眼はここからで、4月1日生まれの人が誕生日で「年を取る」のはいつか、という有名なネタにつながる。
 これはよく話題になるので知っている人も多いと思うが、4月1日生まれの人というのは、学年でいうと、早生まれ扱いになる。すなわち、新年度トップランナーではなく、その前の年度の最終ランナー扱いになるのだ。

 今年、2023年4月に小学校に入学する子どもは、2016年度生まれの子どもである。たとえば、2016年4月2日に生まれた子どもは、2023年4月に小学校に入学する。
 ところが。
 その前日、2016年4月1日に生まれた子どもは、早生まれ、すなわち前の年度のテールエンドにまわるのだ。つまり、1年早く、2022年4月には小学校に入学しちゃっているのだ。

 なぜ!!!???
 と、これは、何とも違和感のある話だろう。
 2016年3月31日生まれの子どもが、2016年4月2日生まれの子どもより前の学年になる、なら何の疑問もないが、なぜ2016年4月1日生まれの子どもが翌日2016年4月2日生まれの子どもより前の学年になるの??と。

 この理由が、前述の「人はいつ年を取るか」なのだ。


前提条件1
「人は誕生日になった瞬間=言い換えるなら誕生日前日が終わった瞬間に年を取る」

前提条件2
「小学校は、その年の4月1日の時点で、満6歳である子どもが入学対象となる」

 この二つの条件をよく見てみよう。

 2016年4月1日生まれの子どもは、2023年4月1日に何歳か。
 1年ずつゆっくり見ていくことにしたい。
 2016年4月1日生まれなら、2017年の4月1日になった瞬間、すなわち2017年3月31日深夜24時=2017年4月1日午前0時に満1歳、以下、2018年3月31日深夜24時=2018年4月1日午前0時に満2歳、2019年3月31日深夜24時=2019年4月1日午前0時に満3歳、2020年3月31日深夜24時=2020年4月1日午前0時に満4歳、2021年3月31日深夜24時=2021年4月1日午前0時に満5歳、2022年3月31日深夜24時=2022年4月1日午前0時に満6歳。2023年3月31日深夜24時=2023年4月1日午前0時に満7歳。

 ややこしいが、ポイントは、2022年4月1日に満6歳に「もうなっている」というところだ。
 2022年3月31日の深夜24時、イコール4月1日午前0時0分0秒に、もう「満6歳になっている」のだから、2022年4月1日現在で、前提条件2の「満6歳の子ども」に該当する。そして、2023年4月1日現在では、ひとつ年を取って満7歳である。

 一方、2016年4月2日生まれなら、と考えてみよう。
 年を取る瞬間が、誕生日になった瞬間=誕生日前日が終わった瞬間とするならば。そしたら、2016年4月2日生まれの子どもは、2022年4月1日の時点では、まだ満5歳である。2022年4月1日深夜24時ちょうど、イコール2022年4月2日午前0時0分0秒をもって、満6歳になる。
 だから、2022年4月1日の時点ではまだ5歳でしかなく、「満6歳の4月1日」は、翌2023年4月1日になる。・・・


 ・・・と、できるだけわかりやすく書いたつもりではあるのだが、それでも正直まだ相当ややこしくて、わかりづらいだろうとは思う。

 ちなみに、そもそもこの「誕生日になった瞬間とは、イコール誕生日前日が終わった瞬間である」という定義は、「うるう年の2月29日に生まれた人は4年にいっぺんしか年を取らないのかい?」という疑問に対する回答なのだろう。「誕生日前日が終わった瞬間」と言い換えられれば、毎年問題なく年を取れるのだから。
(つまり、うるう年の2月29日に生まれた子どもの「お誕生会」は、平年には、2月28日でなく3月1日にすべし、ということになる)

 で、うるう年のことはともかくとして、結果的に、
「4月1日生まれは前の学年」
「4月2日生まれの人は次の学年」
ということになるわけだ。


 ちなみに、4月1日生まれの有名人、といって、私が思い浮かべる人物に、元巨人のエースで、現在、巨人の二軍監督の桑田真澄氏がいる。
 桑田といえば、1983年の夏の甲子園で、無名の1年生ながらエースとして、当時全盛期だった「やまびこ打線」の池田高校(徳島県)を倒して優勝し、PL黄金時代の幕を開けるという劇的な形で、彗星のごとくわれわれの前に現れたわけだが、4月1日生まれ=早生まれということは、1年生の中でも最も若い、同学年と最大で約1年違う若さだったということになる。まさに驚異的な偉業である。
 桑田が一日遅く生まれていれば、次の学年になったのだから、あの池田高校を粉砕して優勝したシーンは存在しなかったし、あの劇的なKK同時ドラフトの明暗物語もなかった。息子があんなに似ても似つかない、人形みたいな不気味な容姿になるなんてことも・・・って、それは関係ないか。

 というわけで。
 その桑田真澄は知っていたけど、じゃあそれ以外には、4月1日生まれの有名人というと、どんな人がいたっけ?と、林家ぺーに聞かずとも、今はちょっとググれば、すぐわかる。便利な時代になったものである。
歴史人物だと、鉄血宰相ビスマルク。作曲家のラフマニノフ。戦後だと、国際的大スターの三船敏郎。スティーブ・マックイーンの妻だった『ある愛の詩』のアリ・マッグロー。ザ・ピーナッツの二人。直木賞作家の林真理子。さらに新しいところで、鉄骨娘こと鷲尾いさ子。『イカ天』の司会だった相原勇。フィギュアスケートの八木沼純子。2020年に急逝(自殺)した女優の竹内結子。他多数。


 さて。
 余談はともかくとして。

 4月1日生まれで、「次の学年のアタマ」ではなく、「前の学年のおしり」となることは、損なのか、得なのか。

 大人になってから、高齢になってからの1年、2年の違いは小さいが、幼児期の1年の違いはかなり大きい。

 たしか、かのミスタープロ野球、長嶋さんは2月の早生まれで、それゆえ小学校低学年の頃は自分より実質年上の子どもたちに囲まれ、「チビスケ」といじめられていたんだそうな。もちろん、絶対年齢が上がるにつれ、1年以下の誤差は相対的にだんだん目立たなくなるから、ご案内の通り、ミスターもやがては同世代で群を抜いたアスリートに成長して、めでたしめでたし、となるわけだ。まさに、後の部下、前掲の桑田真澄がそうであるように。

 が、結果はそうでも、やはり子ども時代に、「その学年で一番年下」と「その学年で一番年上」では、ハンデ状態がまるで違うのではないか。
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」とはよく言ったもので、もし4月1日生まれでも、役所にはあえて4月2日生まれとして届け出たほうが、子どものためにいいのではないか。・・・

 と、そんなことを思わないでもない。
(実際には、大昔はともかく今は病院の医師が署名した出産証明記録みたいなものを出生届に添えて提出するだろうから、そういう改ざんはできないと思うが)

 まあ、たしかに子ども時代の勉強面やスポーツ面でいったら、4月1日生まれで「その学年で一番年下」になるより、4月2日生まれで「その学年で一番年上」になるほうが、間違いなく得だろう。
 11歳10か月で迎える中学受験と12歳10か月で迎える中学受験では、大違いだろう。14歳10か月で迎える高校受験と15歳10か月で迎える高校受験では、大違いだろう。
 学校の受験の結果が、その後の人生に大きな影響を与える(場合が多い)ことを思えば、1年分の人生経験の差を持って臨めたほうが、そりゃ有利だろう。


 でも。
 実は長い目で見ると、そうとばかりも言い切れなさそうなのだ。つまり、「4月1日生まれ(=前の学年の最後尾)より4月2日生まれ(=次の学年の先頭)のほうがお得」とは、必ずしも言い切れなさそうなのだ。

 たとえば、1960年4月1日に生まれた人―仮にAさんとする―と、1960年4月2日に生まれた人―仮にBさんとしよう―の人生コースを比較してみよう。

 1960年4月1日に生まれたAさんは、1966年3月31日深夜24時=1966年4月1日午前0時0分0秒に満6歳なので、1966年4月に小学校入学。
 それから、義務教育を終え、高校を卒業し、ストレートで4年制大学を出たとするならば、1982年の春に大学を卒業し、1982年4月1日、入社式を迎え、社会人の仲間入りとなる。

 一方、その翌日、1960年4月2日に生まれたBさんは、1966年4月1日深夜24時=1966年4月2日午前0時0分0秒に満6歳だから、「4月1日現在」では、まだ満5歳。よって、翌年の1967年4月に小学校入学となる。
 それから、同様にストレートに小中高から4大を卒業したならば、上記のAさんの1年後、1983年の春に大学を卒業。で、1983年4月1日に入社式で、社会人となる。・・・

 なるほど、ここまでで見れば、「前の学年で一番年下」の4月1日より、「次の学年で一番年上」の4月2日生まれのほうが得、としか思えないかもしれない。少なくとも、損だとは思わないだろう。


 が、さらにその後の人生を追っていったら、どうなるだろう。
 仮に二人が同じ会社に勤めていたとして、そしてその会社が60歳定年だとしたならば。
 そしたら、AさんもBさんも、当然ながら、同時期に定年退職を迎えることになろう。
 たいていの会社は、定年退職の退職日は、もし満60歳が定年なら、その満60歳の誕生日を迎えた月の月末いっぱいか、もしくはその前日(社会保険の都合でそうする場合もある)のはずだ。

 二人とも、学年は違うが、ともに2020年の4月に満60歳になる。1960年4月1日生まれのAさんも、1960年4月2日生まれのBさんも、ともに「満60歳の誕生日の月の月末いっぱい」は、2020年4月30日である。

 ということは。

 そう。

 実は、入社がまるまる1年違うにもかかわらず、定年退職はまったく同時なのだ!(・・・って、改めて考えりゃ当たり前だけどねw)

 であるから、当然の帰結として、Aさんは、
1982年4月1日から2020年4月30日まで、勤続38年1か月
Bさんは、
1983年4月1日から2020年4月30日まで、勤続37年1か月
ということになる!

 定年前の最後の1年が、勤続38年目の人と、37年目の人とでは、同じ職階であるならば、当然、前者のほうが給料が高いはずだ。
 37年間社会人をやっていた人の生涯収入と38年間社会人をやっていた人の生涯収入が1年分違うのは当然だが、その1年分とは、給料の安い新入社員の1年分ではなく、最後の38年目の1年間分があるかないかだから、これは大きい。
 退職金というのも、勤続年数と、そして最後の年の給与額に応じて出るから、もちろん退職金の額も違ってくるだろう。

 というわけで。

 4月1日生まれで、前学年の最後尾になることは、損どころか、思いっきり得だったのだ!
 変に気をまわして、あえて4月2日生まれとして届け出る、なんてことはーどのみちできないだろうけどーしなくて正解だったのだ!

 そうか。ちょっと事例は違うけど、これこそが、私が高校を出て浪人した時に、大人から「浪人すると、生涯賃金がそのぶん少なくなるから、現役で大学に入ったほうが得だよ」と言われた理由に他ならなかったのか、と今さらながら驚嘆する私であった。
 18歳、19歳の頃は、ショウガイチンギンなんてピンと来なくて、目先のこと以外は眼中になく、ただ「何年かかっても入りたい大学に入りたい!」としか思っていなかったが。そうか。そういうことだったのか。と、いい年して今さら戦慄するアホな自分もいたりする。


 ・・・ま、もっとも、それは単純化した場合の話だけどネ。
 個々の事例としては、前学年の最後尾ではなく次学年のトップランナーになったからこそ、超難関校に入れて、そのおかげで医師になれた、とか、そのおかげで出世できた、なんていうケースもあるだろう。現役で受かったところで妥協せず、浪人してでも東大に入ったからこそ、社会的成功者になれた、なんてことも普通にあるだろう。というか、そういう事例のほうが多いぐらいかもしれない。

 だから、あくまで計算上は、の話として、ね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする