習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

高地戦(2)

2021-09-26 08:26:26 | 映画
 ・・・いかがでしたか。



 この映画の中、いくつも忘れがたい場面、忘れたくても忘れられない場面があったのではないでしょうか。

 陣地の穴倉を通じた敵と味方の奇妙なコミュニケーションには、陰惨な描写の続く映画の中で不思議とホッとしたひと時を与えられたことでしょう。
 銃声と弾速の2秒のタイムラグからそのまま「2秒」と呼称される敵方スナイパーの正体に驚いた人も多いと思います。私は、この敵方スナイパーの設定から、スタンリー・キューブリック監督の『フルメタルジャケット』(1987)を思い出しました。
 あるいは、無茶な命令をする頭筋肉の上官を適切に「始末」するシーンには、戦争経験者のご高齢者は、牟田口もああできていればと溜息をつかれたかもしれません。


 ここで、皆さんに改めて問いたいと思います。


 戦争とは何でしょうか。


 戦争とは、国家が国民に武器を手に取らせ殺し合いを命ずることです。

 あの「人類史上最も悲惨な戦い」として知られる独ソ戦の、とくに激戦として有名なスターリングラード攻防戦に参加した兵士は、このような言葉を残したそうです。

「戦争は狂気だ」

「もはや〈戦場〉ではない。〈地獄〉だ」

 なぜ狂気なんでしょう。
 なぜ地獄なんでしょう。
 それは、人間が人間でなくなってしまうから・・・そう、国家の命令により、人間が人間でなくなってしまうからなのではないでしょうか。

 その意味で、この『高地戦』という作品は、まさに戦争とは何かという本質をわれわれに教えてくれます。

 とかく私たちの国では、戦争を扱った作品といえば、原爆です。東京大空襲です。本当にもっぱらそればかりです。
 たしかに、それらは悲惨な歴史的出来事であり、決して忘れてはならない、許されてはならないことです。しかし、私たちが原爆や東京大空襲の映画で見るものは、罪のない大勢の人々が戦争によって死ぬという悲劇ではあっても、それはまだ戦争とは何かの半分でしかありません。
 すなわち、原爆や東京大空襲を描いた日本の映画やドラマ、アニメからは、まるで天災とその被災者のように戦争が見えてしまうだけで、人が人でなくなる恐ろしさ、国家が国民に殺し合いをさせる狂気は伝わってこないのではないでしょうか。

 もちろん、一般市民が犠牲となる空襲の非人道性ということも、われわれは被害者として、そして、あまり知られてはいませんが加害者として、決して忘れてはいけないことです。それは絶対に間違いありません。
 しかし、戦争のもう一つの面からも、どうか目をそらさないでください。忘れないでください。

 作中、あの手を失った少女にやさしい言葉をかける心すらも失ったスヒョン。
 戦前のアメリカ映画『西部戦線異状なし』(1930)にも描かれていたように、彼はいつのまには人の心を失って殺人機械になっていたのです。

 あのイリョンという心を病んだ青年将校の回想シーンで、自分が助かるために多くの仲間たちを殺す場面がありました。普通に考えたら、彼の行動は人道上、許されないことでしょう。ですが、そうせねば自分らも死ぬという極限の状況下において、果たして誰が彼の行動を責められるのでしょうか。
 仲間を殺してでも、仲間を食ってでも・・・そうしなければならない。それがまさに戦争の狂気なのではないでしょうか。



 私たちはよく、「戦争でなくなった英霊たちの尊い犠牲の上に今日の私たちの繁栄がある」などと言います。
 英霊とは何でしょう。英霊たちの尊い犠牲の上に、とは何なのでしょう。彼らが悲惨な死に方をしてくれたおかげで、戦後の国の発展があったという意味なのでしょうか。ということは、戦争を起こして彼らを死なせなければ、この国は発展しなかったとでも言いたいのでしょうか。

 そんなことを自問しながら、この『高地戦』を見ると、私たち日本人としては別の感慨もあるかもしれません。
 今、「英霊たちの犠牲の上に」というレトリックを申しました。日本の場合、この修辞はある意味、とても逆説的ですが、太平洋戦争以上に、朝鮮戦争に対して言えるのかもしれません。

 なぜなら、われわれはまさに半島の「犠牲の上で」戦後復興を成し遂げたからです。その意味で、皮肉にもわが国の繁栄は、彼ら=朝鮮半島の人々の「尊い犠牲の上に」ある経済発展と言えてしまうのです。はからずも。
 そうです。ご案内の通り、当時の言葉で言う「朝鮮動乱特需」によって戦後日本の高度成長は始まったのですから。ジャーナリストの斎藤貴男氏が『戦争経済大国』という本で明示している通りです。
 第二次大戦後、われわれは、直接、手に武器をとって戦争はしませんでしたが、他国の戦争によって豊かさを手に入れました。それは間違いないことです。私たち日本人は戦後、米ソ両陣営によって国が分断され肉親同士が離散するような悲劇にはあわず、むしろ隣国の戦争によって高度経済成長を達成できたのです。
 朝鮮半島の人々の立場からすれば、アジア太平洋戦争の元凶と彼らがーあくまで彼らがー考える旧宗主国日本がドイツと違って分断されず、代わりに自分たちが分断国家にされ、そして自分たちの同士討ち戦争によって日本が潤ったという事実はどう映るのでしょうか。
 私たちはあくまで日本人なので、安易に「気持ちはわかる」などとはまかり間違っても言えませんし、言うつもりもありませんが、もし自分たちが彼らの立場だったら、隣国日本を尊敬し愛することができるだろうかと、虚心坦懐に考えてみてもいいのかもしれません。

 そして、私たちが「犠牲」に、すなわち「踏み台」にしたものとは何であったか、どのような「犠牲」の上に私たちは豊かさを手に入れたかを知ることは、大袈裟に言えば、私たち現代日本人の義務だと考えても決して間違ってはいないと思います。
 その意味で、私たちは『高地戦』のこの狂気の世界から目をそらしてはいけないのではないでしょうか。


 さて。
 また話がそれてしまったようです。

 このような作品に余計な能書きは不要、と言っておきながら、つまらない能書きをしつこく申してしまったことをお詫びいたします。

 本当に言いたかったことは、ただ一つだけです。


 戦争とは何でしょうか。


 この作品に出てきたセリフを改めて反芻しながら、私も皆さんと一緒に考えたいと思います。

「敵と戦っているんじゃない。〈戦争〉と戦っているんだ」

「神様、殺してください」

「山ほど人を殺したから、地獄に落ちるべきだ。だが、ここ以上の地獄はない。だからここに生きているんだ」

「俺たちは〈人間〉じゃない。〈人間〉としての俺はもう死んだ」


 ・・・最後にもう一度、皆さんにうかがいます。

 戦争とは何でしょうか。

 皆さん、この国を再び戦争ができる国にしたいですか。
 戦争の時代に生まれ育った人間の一人として、皆さんの一票をよーく考えて行使してくださいとお願い申し上げて、終わりとしましょう。




(急に口調が変わって)
 さあ、来週はお待ちかね、『刑事コロンボ』シリーズの登場です!
 『刑事コロンボ/二枚のドガの絵』。
 この作品はたくさんの方から、もう一度見たいというリクエストをいただいた回で、シリーズ最高傑作と呼ぶ人も多い回です。名画コレクターの富裕な老人が射殺され、コロンボはその遺産相続者の美術評論家の男を疑うのですが、その男はもう一人の相続者である被害者未亡人に罪を着せようと目論みます。
 見どころは、何といってもコロンボの「罠」の巧みさ!アッと驚くラストの大どんでん返し!
 どうぞご期待ください!


 いや~、映画って、本当~に・・・・・・ものすごいものですね。
 ではまた、金曜ロードショーでお会いしましょう。
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高地戦(1)

2021-09-25 17:48:13 | 映画
 ご機嫌いかがですか、水野春雄です。

 さあ、今夜はお待ちかね・・・ではないかもしれませんが、皆さんの多くがおそらく見たことはないだろう映画をご紹介します。
 実を言いますと、最初、局で用意されていたラインナップは違う作品だったのですが、ジブリ、『コナン』、『ハリポタ』ばっかりもう勘弁してください、ということで、とくに私からテレビ局にお願いして、この映画を紹介させてもらうことにしたんです。

 『高地戦』、皆さん、ほとんどの方は聞いたことない作品でしょう。

 これはどこの国の作品かと言いますと、韓国の映画なんですね。韓国の2011年の作品です。
 皆さんの中には普段、韓国のドラマを好んでご覧になっている方も大勢いらっしゃることでしょう。そう、ヨン様以来、日本の、とくに女性の皆さんにはおなじみの、悲恋ドラマやラブコメドラマがありますね。大変な人気です。
 ところが、この作品はまったく違います。だから、韓流ドラマファンの皆さんにも、韓国を憎悪する余り韓国映画・韓国ドラマに対しても食わず嫌いしている皆さんにも、ぜひ先入観なしで見ていただきたいと思って、お送りさせてもらうことにいたしました。


 舞台は1950年代前半、今から70年ほど前の朝鮮半島です。
 と言えば、おわかりの方も多いことでしょう。そう、朝鮮戦争の時代なんですね。これは朝鮮戦争を描いた映画です。
 タイトルにあります「高地戦」というのは、米軍が加担する南側の大韓民国軍と中国の義勇軍が加勢した北側の朝鮮民主主義人民共和国軍とで、戦略上の重要な陣地となる山岳地域を奪い合った、その戦闘のことです。

 朝鮮戦争がようやく終わりに近づいた時期、韓国軍の防諜部隊の青年士官であるウンピョという男が、その激戦地である高地に向かいます。防諜部隊というのは、日本で言うと憲兵隊のような、軍組織内部の粛正捜査をするチームのことです。
 彼は高地で、戦争の始まった頃に生き別れたままとなっているスヒョクという戦友と再会します。スヒョクはかつて、気弱な心やさしい青年でした。今はどうでしょう。
 また、イリョンという精神を病んで薬物が手放せなくなっている若い将校とも出会います。いったい、彼はなぜ精神を病んでしまったのか。彼は戦場でどんな経験をしたのでしょうか。


 そして、このウンピョという主人公の目を通じて、その激戦地である高地が、敵である北朝鮮軍との末端兵士同士のある種の連絡窓口となっている特殊事情が明らかにされていきます。

 同じ言語を持つ同じ民族同士による戦争。互いの「敵国」内に家族や親類や知人・友人がいるという異常な状況。
 皆さんの目にはどう映るでしょうか。



 この映画の舞台となった1953年、朝鮮戦争は休戦を迎えています。
 今、私は「休戦」と申しました。
 そうです。「休戦」です。終戦ではありません。これは意外とご存じない方もいらっしゃるかと思うので、あえて申し上げますが、朝鮮戦争の双方の当事者たる南側の大韓民国、すなわち韓国と、北側の朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる北朝鮮とでは、ヴェルサイユ条約やサンフランシスコ条約のような、終戦の講和条約は互いに締結していません。
 ですから、法的には現在もあくまで「休戦」状態に過ぎず、正式には朝鮮戦争は「続いている」ことになるんですね。

 これは、海を隔てた私たち日本人がともすれば忘れがちな、あるいは知らないままの事実と言えるのではないでしょうか。韓国の人たちは、「休戦」中に過ぎない戦争相手とずっと間近に対峙しながら日々生活しているんですね。そのあたりは、ともかくも相互に承認し合ってはいたかつての東西ドイツとは全く違います。
 法的には戦争状態が続いていること、その相手は本来は同じ民族、同じ国民であったということ、そして、その敵国内に血のつながった同胞が多くいること。これらの意味をしっかりと嚙み締めずに、われわれが韓国政府の対北政策をとやかく批判することはできないのではないか。皆さんはどうお考えでしょう。


 さて。
 話がそれましたが、この映画の中でも、アメリカの指導のもと、韓国は休戦交渉に臨み、ともかく休戦が成約の運びとなりました。
 しかし、休戦が決定したことと、その協定が効力を発揮することとは別だという点に注意しなければなりません。
 これはどんな契約書でもそうですが、何月何日づけからの契約、と明記されているということは、逆に言えば、その日が来るまではまだ契約内容は生きてはこないわけです。
 休戦の協定の場合であれば、何月何日の何時をもって休戦と仮に書いてあるならば、その日のその時刻まではまだ戦争は終わりません。
 そして、ここが重要なところですが、もし何月何日の何時の時点での両軍の勢力範囲をもって、以後の暫定国境線とすると書いてあったとしたらどうでしょう。
 休戦成立の刻限までの間に少しでも前へ前へ勢力圏を確保した上でその刻限を迎えようと、政府や軍上層部は考えることになるではないでしょうか。

 休戦は決まった。兵士たちにもその朗報が届いた。でも、まだ休戦「成立」までは半日ある。その間に少しでもわが陣地を多めに確保しておけ。・・・政府や軍上層部にとっては簡単な命令です。しかし、現場にとってはどうなのでしょうか。・・・


 さて。

 少しくどくどと説明しすぎたようです。

 百聞は一見に如かず。

 私などが長々とご説明するより、この地上の地獄の凄まじさは、実際に映画を見ていただくほうが絶対に掴めるはずです。

 では、どうぞ。ごゆっくりご覧ください。
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