習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

重ねてこの軽かりし音曲の調べを(2)

2012-11-27 20:03:52 | 漫画とアニメ
 それにしても、テレビ版第2シリーズの流れをくんで、やはりこの映画版も「ゆいあず」のための作品であった。
 ロンドン旅行のホテルの部屋割りに象徴的なように、今回も唯と梓が2枚看板の主役という扱いで、その他のメンバーは添え物として扱われているようだった。昔のドラマでいうと、唯と梓がユミとジュン、澪や律たちがキャプテンやチー子、サチ子、きみえさんたちのような(古いね、たとえが)。

 それは、もう、もともとそういう作品なんだからってことで、それが不満なら最初っから見るなってなもんであるが、だからといって、個人的に納得いかないことは事実なのだから、それもまたしょうがない。澪ファンの私だけでなく、世に棲む律ちゃんファンも、ムギちゃんファンも、不満に違いない。とくに律ちゃんなんて、本当に見せ場が皆無で、かわいそうなぐらいである。


 私の個人的な見苦しい恨みつらみになってしまうが、いかに、澪が作り手から大事にされていないか思い知らされて、映画を見ながら憮然となってしまったのが、バンドでの演奏シーンである。

 テレビ版第2期で演奏シーンが少なかった分を取り返すかのような演奏シーンの数々。
 ロンドンで2回、日本に戻って1回。
 映画版の上映時間はテレビ版換算で正味5回分ぐらいだろうが、テレビ版では5回に3回もまともな演奏シーンはなかったのだから、サービスといえばサービス。がんばった、と思う。たしかに。

 最初の飲食店のステージでは、1期から存在していた挿入歌なのに前奏と後奏しか本編で流れたことのなかった「カレーのちライス」が初の完全披露で流れ、次にロンドンの公園の屋外ステージで、コミカルな「ごはんはおかず」が流れ、さらに軽音部のテーマとも言うべき「ふわふわ時間(タイム)」が流れ・・・と、ここまで全て唯のボーカル曲ばかりである。
 唯が主人公なんだから当然、と言われてしまえばしかたないが、アニメ1期では少なくとも2トップということで、澪も同じぐらいの比率でリードボーカルをとっていたのだし、実際、ひいき目なしで見ても、澪(の中の人)のほうが美声だと思えるだけに、出てくる曲、出てくる曲、ことごとく唯のボーカル曲ばかりだったのには、私は見ながら悔しいやら悲しいやら情けないやら、テンションが落ちる一方である。

 帰国後の、物語後半のとってつけたような教室ライブのシーンでどうにかかろうじて澪のボーカルシーンも流れて、少しホッとしたのも束の間、澪のボーカルシーンはアッというまに終わって、すぐにまた唯ボーカル曲に替わってしまい、そして、そっちばかりやたら長いのである。

 なぜ、こんなにおとしめられてしまったのだろう、いつのまに。いったい澪がどんな悪いことをしたというのだろう。と、もう涙も出ないぐらいに悲しくなってしまった。

 そうして、虚しい気持ちのまま、映画本編が終わり、ここが最後の砦、最終絶対防衛ラインとわれわれ澪ファンが考えるエンディングになって、ここでようやっと澪がまともにフィーチュアされて、いい曲にいい映像で、これならどうにか気分よく鑑賞を終えられそうだと思ったら・・・せっかくの映像が途中で暗転して、またしても「ふわふわ時間(タイム)」のイントロ。
 ボーカルは、どうせというか、やはりというか、またもや唯。
 澪の歌声の余韻をかき消すように。

 喧嘩売ってんのか!!
 と、思わず叫びそうになる幼稚な私であったが、澪ファンだからといって、唯や梓をやっかんで敵視するようなみっともない真似はもとよりしたくないので、まあそこは我慢。
 しかし実際、テレビシリーズ2期の最終回でも、映画版でも、いくら「ふわふわ時間(タイム)」という曲が軽音部の原点だからといって、使い方としては間違っているだろうと思うしかない。
 せっかく余韻をもって綺麗に終わるべきところで、なぜ2回ともそれをぶちこわすような無粋な使い方をするのか。
 これでは、本来罪のない「ふわふわ時間(タイム)」の印象まで悪くなりそうではないか。

 澪びいきとか何とかいう個人的事情はさしひいて、演出上のミスだと思われてならない。


 「けいおん」アニメシリーズが今後もカレッジ編とハイスクール編に分岐して続くのかと言うと、たぶん商売になるうちは続くんだろうと思うが、それでもオリジナルメンバーがオリジナルの舞台である高校軽音部で活動する話はさすがにこれで打ち止めだろうから、シリーズ全体としては、どっちにしてもこの映画が、一つの時代をしめくくる作品には違いあるまい。

 だから、私としても、もっと後味よく見終えたかったのだが・・・残念な限りである。
 いっそ、最初っから唯のファンになっていれば、もっと楽しくうれしく気持ちよく見られただろうに、と思うと、残念というか、そんなことまで考えるのかよと、自分があわれにすらなってくるではないか。・・・


 と、今回はロクに考察らしい考察もなく、ただ感想を綴っただけになってしまっているが、まあ、そういうことで。
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重ねてこの軽かりし音曲の調べを(1)

2012-11-26 19:24:44 | 漫画とアニメ
 公開から1年も経って、かなり今さらな感じは否めないが、ようやくDVDで見た「映画けいおん!」の話を少し書きとめておこう。


 さて、そもそも「映画けいおん!」の評価は、世間ではどのぐらいなのだろうか。アニメとしては実際かなりのヒット商品だったわけだが、なにぶん地上波のテレビや一般向け雑誌にはあまり取り上げられていないから、たぶん、存在すら知られていないか、せいぜいタイトルだけは知られていても、オタク専用作品としてスルーされているかってところだろうか。
 だから、「世評」なんていうのも、実はあってないようなものなのかもしれないが、じゃあ私自身の評価はどうか。
 採点の難しいところだが、100点満点で40点ぐらいだろうか。

 劇場版だというのに、旅行には行くものの普段とたいして変わらないという点を、肯定的に見るか否定的に見るかというのがまず一つ目の評価ポイントであるが、私は、それ自体は肯定派である。
 『クレヨンしんちゃん』や『ドラえもん』みたいに、映画版になった途端、急にスケールアップしたり、キャラクターの性格が変わったりはしない。スケールアップということでいえば、たしかに海外旅行という、高校生にとっての大きな「冒険」がメインプロットであり、ロンドンをまたにかけて大スクリーンで疾走するのだから、スケールアップとは言えなくもない。
 が、もちろん地球の存亡はまったくかかっていないし、基本線は、仲良しの友達による楽しいグループ旅行という、それ以上でもそれ以下でもないわけで、であれば、テレビシリーズでやっていた夏休みの海水浴旅行や高原の野外ロックフェス旅行と時間の尺以外はとくに変わるわけでもない。

 まあ、それでいいのだろう。
 何といっても、万人にとってわかりやすい、まさに「日常系」の究極完成形のような仕上がりなのだから。
 とにかくキャラクターがみんなかわいくて、そのキャラクターをいとおしく眺めているだけで十分、というのはけっこう正しい批評なのだろうし、『涼宮ハルヒの消失』と違って、まったく予備知識なしに見ても別にわからないなんてことは一切ないわけだから、『消失』と違い単発の映画作品としても一応完結していると言えば言える。正確に言うと、テレビ版2期の大団円とリンクしているから、テレビ版をふまえている人にはよりいっそう楽しめる素敵なプレゼントだし、しかし、テレビシリーズを見ていなくても決して「ついていけない」わけではないという、ファンといちげんさんの双方の鑑賞に耐える作品に仕上がっている。
 きっと、予備知識なしに見た人でも、「ああ、友達っていいなあ~」と、高校生時代を思い出して、ほのぼのとした気持ちになれる作品に相違ないだろう。


 そして、毎度書いているので、少々しつこいと思われるかもしれないが、やはり京都アニメーションの映像は見事である。
 そうとしか言いようがない。
 光と影の芸術ーいくら今日のアニメの作画レベルが平均的に高いとは言っても、比べて見れば明瞭、他社の作品とは映像美の次元がまったく違う。
 今回も、ロンドンの町の丁寧な描写は必見であるが、とくにタクシーから見る夜景のロンドンは、それだけでも大スクリーンで見るに値する見事さである。
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トーキョーリヴァイアサン2012

2012-11-03 11:08:37 | 政治・経済・社会・時事
 石原東京都知事ーいや、もう前知事だなーが辞任したらしい。
 もともと国政にしか興味がない(※1)男が地方政治をやっていてもしょうがないのは当然だから、遅すぎたまっとうな判断であろう。

 地域の経済にも地域の医療にもおそらく関心なかったんだろう。
 地元の商店街の人たちは何か困っていることはないかとか、医療・介護の現場が望んでいることは何かとか、山間部・島しょ部の生活者には行政としてどんなバックアップが求められているかとか、まったく興味なかったんだろう、たぶん(※2)。

 老害(※3)ようやく去るーとりあえず東京都政からは(※4)ーということで、この機に私もこの前知事への悪口も山ほど言おうと思えば言えるが、本稿ではそれよりは次代への要望を主眼に述べよう。都民でもないくせに(笑)。


 私はー少数意見かもしれないがー今こそ真面目で地道な行政のプロを強く望みたい。
 新潟県の泉田知事、京都府の山田知事、そして宮崎県の故・松形元知事(※5)のように。
 いわゆる電通主導の(?)マスコミ世論だと、霞ヶ関官僚や都道府県庁プロパーが首長になることは悪であるとする風潮が強いが、そんなに悪いことなのだろうか(※6)。
 逆にタレント首長でみんな幸せになったのか。暮らしが良くなったのか。

 たとえば東京都でいうと、戦後、知事は6人いて(※7)、それを出自ごとに分類すると、

・安井誠一郎(1947~59)、鈴木俊一(1979~95)→行政官
・東龍太郎(1959~67)、美濃部亮吉(1967~79)→学者
・青島幸男(1995~99)、石原慎太郎(1999~2012)→タレント議員

と、綺麗に三分されるが、90年代以降、もっぱらタレント議員出身者ばかりが知事になって、本当によかったのか。それで誰が幸せになったのか。よく考えてみたらいい。逆に官僚出身というマスコミ世論的な「悪」の出自を持つ知事が、はたして都民にとって本当に悪かったのかどうか、考えなおしてみたらどうか(※8)。


 さっき書いた通り、私の考えることなんて所詮少数意見だと思う。
 が、はっきりと望む。
 もうタレント首長はいらない。小さな政府路線さえ言ってりゃいいと思っているような松下政経塾首長もいらない。
 真面目で地道で、そして誠実であってさえくれれば、行政のプロのほうがよっぽどいい(※9)。

 あなたが勤める会社で、急に素人が社長になったら、それは望ましいことだろうか。会社にとって、従業員にとって、取引先にとって、すべてのステークホルダーにとって。
 または、あなたが投資している会社の社長に、そんな素人になってほしいだろうか。株主として。


 だが、どうせこんなことを書いていても、無駄なんだろうとは思っている。
 本稿を書いている時点で候補者はまだ出そろっていないが、どうせタレント議員か、または議員ですらないタレントが知事になるんだろう。

 この国の民度がアップするのは、いつのことだろうか。・・・



※1
ただし国政マターの中でも一部(戦争)にしか興味ないというのも、まことに珍しい政治家である(笑)。
ヒトラーもびっくりだ(笑)。


※2
教育現場に無理矢理『新しい歴史教科書』をゴリ押しする、とかそういう興味はあったかもしれないが。


※3
石原が「老害」なのは明白だが、ただし老人だから悪いという意味ではないので、念のため。
たしかに老人になればなるほど概して人は(主に男性は)威丈高で人の意見を聞かなくなる。それでいて注意を与える人がいなくなるから、歯止めがきかなくなりがちである。
が、無論、ナベツネや石原が「老害」なのは老人だからではなく、本人の人柄と思想信条が歪んでいるからであって、若い人ならいいとも限らないのは当然である。
いい意味で「落ち着いた」「経験豊富な」年輪の功を東京にもたらしてくれる人生の先達が知事になってくれるんなら、それはそれで、おおいにいいんじゃないか。


※4
今度は国政の場で害悪を垂れ流すのだろう。垂れ流しどころを間違っていないという意味では、都知事としてそれをやるよりはある意味正しいとは思うが、それよりはアンタはネッシーでも探しに行ってなさい、二度と戻ってこなくていいから、って感じだけどね。
彼が死んだら、私は石橋湛山にならってこう書こう。「死もまた社会奉仕なり」と。


※5
余談ながら、いかにも好々爺然とした風貌の老知事、故・松形祐堯(すけたか)氏のことは、私は宮崎県に縁もゆかりもないくせに大ファンだった。一度、生前に会ってみたかった人だ。
私がものごころつかぬ頃に祖父をなくして、「やさしいおじいちゃん」という存在に、子どもの頃、ある種のあこがれを抱いていたせいだろうか。志村喬や笠智衆や森繁久彌のファンなのも、そのせいか?


※6
行政のプロが知事になったほうが、かえって「プロの目」で部下の仕事をしっかりチェックできるという利点もあるだろう。
素人のタレント知事はたしかに県の広告塔としてはいいかもしれないが、行政については県庁幹部に丸投げ、となりがちである(県庁幹部からすれば、役人の手口を知っている玄人知事よりタレント上がりの素人知事のほうが御しやすいということになるんだろう)。
ならば、たとえ出自は官僚でも、選挙で選ばれた人がじかに行政現場に指導力を発揮するほうがよくはないか。


※7
実は知事が公選制になって60年以上経つが6人しかいないというのは、日本の首相と比べてはるかに少ない=平均在任年数が長いということはもちろん、米国大統領と比べてもだいぶ少ない。まあ、向こうはマックス8年までだからね。


※8
鈴木都知事の後継者にプロの官僚ではなく、タレント議員出身の青島が当選し、同時期に大阪府知事選でもプロの官僚ではなくタレント議員が当選したことが今思えば、日本の都市部の首長選挙における候補者擁立基準のターニングポイントであったろう。
はて、都民・府民は、そのときの青島とノックという選択が、本当に官僚候補を選ぶより良い選択だったと思っているのだろうか。
もっとも、青島幸男は、たしかに何もしなかった・・・かもしれないが、その後、3期余りの石原時代を経験した今から思えば、余計なことをしないだけむしろマシだったという気もしなくはない。


※9
なお私は、以前にも書いたが、実はそもそも首長公選制自体いらない派である。
首長公選制は米国の民主主義であって、欧州では首長は公選によらないのがむしろ当たり前である。任命制だったり議会による指名だったりするが、でも別に英国もフランスもドイツも「民主主義国」には違いあるめえ?
日本は国政は英国式、地方政治は米国式のシステムをとっているが、地方こそ欧州型にしてほしいというのが私見である。
(あと、この際だから言っちゃうと、もうちょっと民度が高くなったらという条件つきで、国政のほうは国家元首を直接選ぶフランス式になってほしいと思っている。いつの日か)
ただ、現行の首長公選制を続けるなら、それはそれで、首長が辞めるたびに出直し選挙をする現行制度より米国大統領のように正・副をセットで選んで、もし正が死んだり辞職したりしたら、副が即座に継承して残りの任期をまっとうするというほうが政治空白もなく、無駄な選挙費用もかからないという意味で、すぐれたシステムだと思う。
ちなみに、米国の副大統領は、本来なら「副大統領」というより「予備大統領」と訳したほうがふさわしい。最近でこそチェイニー前副大統領のような力のある副大統領もいるが、もともと副大統領というのは一般に考えられるような大統領の補佐役という規定は憲法上はないのだから。
しかしその一方で、トルーマンやリンドン・ジョンソンのように副大統領から正大統領に昇格した例は多い。歴史的な有名どころでいえば、ポーツマス条約によって日本でもおなじみのセオドア・ルーズベルトもそうだ(ちなみに誤解している人が多いが、史上最も若く就任した大統領は、ケネディではなく、セオドア・ルーズベルトである)。
フランクリン・ルーズベルト大統領が急死したとき、トルーマン副大統領がエレノア・ルーズベルト未亡人に
「奥様、お悔やみ申し上げます。何か私にできることがあったら、何なりとおっしゃってください」
と言ったら、ルーズベルト未亡人は、
「いえいえ。逆に私に何かできることがあったら、遠慮なしにおっしゃってください。これから大変になるのはあなたなんですからね。大統領閣下」
と答えたというエピソードは、後の国連大使エレノアの気丈さやウィットを示す挿話として伝えられるが、同時に、副大統領から正大統領への自動昇格システムの何たるかを象徴的に描いたエピソードでもある。
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