(2)
というわけで、『ゴジラ-1.0』は興行的に大当たりするとともに批評面でも大好評だったようなので、作中に見え隠れする右翼的マッチョイズムを毛嫌いする私のような偏屈者の少数派以外にとっては、掛け値なしの「傑作」だったのだろう。たぶん。
だから、『シン・ゴジラ』がキネ旬ベストテンの上位になったように、昭和の時代にはあり得なかった、『ゴジラ-1.0』のキネ旬ベストワンすらあり得るかも?
と、少し心配(?)しながら、『キネマ旬報』のベストテン発表号を覗いてみた。
そう、ここでやっと、冒頭のシーンに戻るってわけ(笑)。
はてさて、今年のキネ旬ベストテンってのは、どんな具合なのかな。ほう、外国映画部門1位は『TAR(ター)』か。たしかこれって、音楽もの、オーケストラものと言っても、異色のストーリーの作品だよね。アホ邦題の『エブリシング~』は、オスカーでは作品賞だったけど、キネ旬ではベストテン圏内とは言え、意外と下位だな。まあ、日本人が選ぶんだから、アジア系忖度なんていうアメリカ特有の大人の事情とは無関係だもんね。
で、日本映画のほうはどうなんじゃろ、まさか本当に『ゴジラ-1.0』だったりして(ドキドキ)。てか、他にどんな映画があったんだっけ?全然見てないけど。『福田村』と『君たちは』と・・・後は?知らんなあ。
なんて感じでページをめくってみると、果たして今年度の日本映画1位は・・・『せかいのおきく』。
え?何それ?
聞いたこともないぞ。
世界の山ちゃんとは関係ないのかな?世界のナベアツとも。(←アホか)
阪本順治監督・・・って、その名前は字面として見たことあるような感じはするけど。・・・
へえ、時代劇なんだ。時代ものが1位って、意外と珍しいかもね。
・・・と、ワイドショーレベルで全く話題にものぼっていなかった(たぶん。見てないから知らんけど)作品がベストワンということに驚きつつ、でも、そこがキネ旬クオリティ、今にはじまったこっちゃない、全然驚くようなことじゃないね、と、すぐに思いなおしてみる。
というわけで、雑誌をとじ、とりあえずは
(さすがはキネ旬、と言わせてもらおう)
と、つぶやきながら家路に着き、早速にユーネクストで配信をチェックする私であった。
そう。
キネマ旬報ベストテンは、映画批評家が選ぶ賞である。日本アカデミー賞のように業界人が選ぶのでも、ブルーリボン賞のように新聞記者が選ぶのでもない。
だから、メガヒット作が選ばれるとは限らない。全然限らない。
どころか、たとえすぐれた作品でも、大型話題作、ヒット作は評価が低いというケースすらある。逆に意外な小品というのが好まれたりする。洋画部門で言うと、『ダイハード』(1988)みたいな例外もあるが、総じてハリウッド大型エンタメよりヨーロッパの渋めの映画が好まれる。現に『ゴッドファーザー』(1972)も『タイタニック』(1997)も1位ではない。
日本映画なら、1973年の1位は『仁義なき戦い』ではなく『津軽じょんがら節』だった。1974年は『砂の器』ではなく『サンダカン八番娼館/望郷』が1位だった。1977年は『八甲田山』より『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』が上位になった。1990年には『大誘拐/Rainbow Kids』より『息子』だった。1997年は『もののけ姫』を下して『うなぎ』が首位になった。黒澤の今なお人気の『七人の侍』(1954)も『隠し砦の三悪人』(1958)も『用心棒』(1961)も、1位にはなっていない。
『泥の河』(1981)、『海と毒薬』(1986)、『桜の園』(1990)、『月はどっちに出ている』(1993)、『火口のふたり』(2019)みたいな映画がトップになるのは、コマーシャリズムの日本アカデミー賞ではあり得ない、まさに忖度無用のキネ旬ならではである。
と、まさにそういう事情がゆえに、キネマ旬報ベストテンは日本アカデミー賞なんかより遥かに信頼されてきているわけだが、じゃあ、その権威あるキネ旬ベストテンで1位になったという、『せかいのおきく』とやらは、どんな作品なんだろう?
というわけで、早速、配信で視聴してみた。いやはや、本当に便利な時代になったものである。
監督の阪本順治という人は、ググってみたら、何と、私が高校生の頃に一世を風靡した『どついたるねん』(1989)でいきなり天下を取った監督でしたか。藤山直美の逃亡者もの『顔』(2000)も、見てはいないが、メチャクチャ評価が高かったことは時事的話題として記憶してまっせ。そう、それに、農村歌舞伎をテーマにした『大鹿村騒動記』(2011)の監督でもあったのね。大鹿村には行ったことあるなあ、そういえば。99年頃だったっけか。それからずーっと、いまだにどこにも吸収合併されずに単独の村として存続してたんだね、偉いぞ。・・・と、それはさておき。
『せかいのおきく』はというと、これはかなり地味な作品といえよう。
一言でまとめようと思えば、一応、江戸時代を舞台にした青春ラブストーリー、とまとめられるが、そんな単純な作品でもない。
それどころか、かなり挑発的かつ大胆な作品である。
まず、主人公はカッコイイ武士などではない。が、大店の丁稚・手代でもないし、医師でも浮世絵師でもない。リサイクル業である。それも、肥料となる糞尿の汲み取り屋である。
そうなのだ。たしかに、大昔からハイテクノロジーの21世紀に至るまで、人間に排泄が欠かせないことは寸分も変わらないのだ。そして、この日本列島に人間が住み着いて以来、下水道やバキュームカーのある時代より、どちらもない時代のほうが遥かに長かった。なので、江戸のような大都市では、武家屋敷でも大店でも、そして庶民の長屋でも、トイレのし尿は汲み取り業者が回収して、近在の農村に持って行って肥料としていたわけだ。
江戸時代はエコ時代、と言われる。たとえば、着物が古くなっても捨てたりはせず、くたびれてよそ行きにできなくなった着物は寝間着にし、それも無理なぐらいに汚くなったら雑巾に縫い替え、それもできなくなったらハタキの先っぽにし、それでもボロくなったら、今度はカマドの焚き付けにし、そして、その燃やした灰ですら捨てずに畑の肥料にして、そうしてその畑からまた綿花ができて、やがて再び着物になる・・・というような。
そんな循環型SDG‘s社会の象徴の一つが、し尿の肥料としての再利用であった。このあたりは、石川英輔氏がよく書いていた通りである。
それは、文字通り、きれいごとではない。21世紀の先進国に生きるわれわれには想像すらしづらいが、当然臭いし、衛生的ではない。寄生虫や病原菌のもとでもあろう。だから、決して手放しで美化できるような栄光ある過去ではない。
だが、そんな美しくも輝かしくもない現実の歴史を見据え、そのような汚れ仕事に従事する人間、カッコよくも何ともない職業の人間を主人公にするという発想が実に痛快である。
沖田総司みたいなイケメン天才剣士を主人公にする物語なら企画も通りやすかろうが、糞尿の汲み取り屋を主人公にするなんて発想は、プライムタイムのドラマなどでは絶対にあり得まい。
だからこそ、そのような一般受けしにくい題材を扱った映画に1位を与えるキネマ旬報はさすが・・・ということになるわけだが。
しかし、私個人の率直な感想は・・・一言で言うと、「困惑」である。
この物語の主人公の「中次(ちゅうじ)」は、最初は古紙回収業者だったが、兄貴分となる「矢亮(やすけ)」に誘われ、汲み取り屋となる。そして、江戸市中の長屋や武家屋敷でし尿を買い取って、近隣の、現在でいう葛飾区あたりの農村に運んで、肥料として売る。
彼らの行きつけの長屋に住んでいるのがヒロインのおきく、そしてその父親である。おきくが黒木華(くろきはる)、父親が佐藤浩市である。父親は浪人、おきくは近所の寺で手習い師匠をして生計を立てている。
中次や矢亮たち、し尿汲み取り業者はと言うと、決して社会的地位の高い職業ではなく、金が儲かる職業でもないが、当然ながら絶対に生活に欠かせない職業である。現に、雨続きで汲み取りが滞った時に、トイレが溢れて、長屋の住人が困りはてるというシーンが出てくる。
物語は、ヒロインの父である浪人が、昔の勤め先の藩のトラブルに絡んでか、その藩の武士に「ちょっと顔貸せや」と、ひとけのない場所に連れ込まれて斬殺されるところで、大きく動く。
ヒロインおきくは、父の危機をいち早く察し、短刀を持って駆けつけるも、自分も切られ、首に大ケガをする。そして、そのケガがもとで、しゃべれなくなってしまう。
声を失ったおきくはどうするのか。そして、そんなおきくに、中次たちはどう接するのか。・・・
・・・と、そんな話である。
が、基本的にタイトルロールのおきくより、中次と矢亮のほうが中心の狂言回しで、とにかく糞尿の汲み取りのシーンが多い。多い!多い!!
最初、映画を見始めた時にはー『ゴジラ-1.0』(の私の見たバージョン)と同様にーモノクロであることに驚くが、これら糞尿場面のあまりの多さに、(なるほど、こりゃ、カラーで見せられたらチトしんどいわなw)と、万人が納得することだろう。
とまれ、動機はどうあれ、結果的にモノクロ映像にしたことは成功だったろう。糞尿がやたらと映るのは、決して気持ちのいい画(え)ではないが、風景は文句なしに美しい。江戸の街並みのセットも美しいし、何よりクライマックスの雪のシーンの美しさ!その白黒画面に映える雪の江戸風景の美しさは、『河内山宗俊』(1936)を軽く凌駕し、『赤ひげ』(1965)に匹敵する。
映画そのものは、単一のストーリーではあるが、いくつかの章立てに分かれ、それぞれの章の最後の部分だけカラーになる。もっとも、その一部だけカラーにした意図は、実は『オズの魔法使』(1939)や『初恋のきた道』(1999)の場合と違って、よくわからないのであるが。
そう、わからないと言えば、父親が殺された理由も、ボーッと見ているとよくわからないし、ヒロインおきくが中次に惚れる理由に至っては、しっかり見ていてもよくわからない(苦笑)。
そのあたりが、私としては「困惑」と書いたゆえんでもある。
無論、役者の演技は総じて、実にいい。主人公の中次の俳優は私の全く知らない俳優だったが、演技巧者ではないものの、それゆえ、いい意味で主張しすぎないところがいい。そして、「ここ、笑うとこ!」という現代の吉本芸人のような口癖の、兄貴分・矢亮の俳優は、申し分なく上手い。
タイトルロールおきくの黒木華は、NHKの『みをつくし料理帖』(2017)の時と同様、その風貌から、いかにも徳川時代の日本人の顔といった風に見えるところが適材適所だし、寺の住職を演ずる真木蔵人に至っては、クレジットを見なきゃ絶対に真木蔵人とわからないだろってぐらいの大化けで、お見事!である。
そして、一番の大物たる佐藤浩市は、早々に退場してしまうものの、物語の主題たる「世界」とは何かを主人公に語るシーンで、絶大な存在感を示していて、さすがである。
かくして、このような地味な、ヒーロー不在の庶民点描映画が、『ゴジラ-1.0』という大仕掛けの好戦的ヒロイック叙事詩を抑えて、キネ旬ベストワンになったことには、「さすがキネ旬!!」と快哉を叫びたい。本当に。
ブラーヴォ!!
何しろモノクロ。何しろスタンダード画面。
そして、今どきにしては異例の、1時間半ぐらいのほどよい尺。
そう。昨今の映画は、世界基準に比して高いチケット代と、それでいて一本立てという固定化した興行形態ゆえに、内容いかんを問わず尺は2時間余り必要という本末転倒に陥っているので、この『せかいのおきく』のような1時間半程度という尺だと、興行的にメジャー配給は難しかろう(まあ、尺だけでなく内容的にもメジャー配給は難しいわけだがw)。
かつまた、映画代が高い一方で、ちょっとすれば、DVDを買うまでもなく、すぐに配信され、しかも家のテレビ画面も昔よりずっと大きくて鮮明なこのご時世。
でもって、そのような環境ゆえに、家のテレビと差別化して映画館に人を呼ぶために必要な装置として考案された4DX効果。そんな4DXに合わせた、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023)のような、「4DXを活かすために、とにかく次から次へとひっきりなしにアクション!アクション!またアクション!緩急緩急じゃなくて急急急急!」の、これまた本末転倒のごときコンテンツ(作品、ではなく、コンテンツ!)。
かくのごときご時世の中で、『おきく』は4DXが必要ない、というよりしてほしくない(笑)作品である(理由は、さんざ書いた通りの場面ゆえw)。
身も蓋もないことを言うと、この尺で、この内容で、劇場に出かけて2000円ぐらい払って見るか?となっちゃいそうな、そんな作品。
でも!
家で一人で配信で観たら、
「変わった映画だな。感動、とも違うし・・・でも、やっぱり見てよかった映画なんだろうな、うん」
と、きっと思わせられる、そんな作品。
たしかに、先述の「困惑」ゆえ、(さすがはキネ旬!・・・とは言いつつ、でも・・・本当に、この作品が1位でいいのかなあ?)と思ってしまう自分がどこかにいることもたしかなのだけれど。
まあ、私なんかが困惑しようとするまいと、どうせ日本アカデミー賞のほうでは、『ゴジラ-1.0』がブロック受賞するんだろうが。どうせ。
というわけで、『ゴジラ-1.0』は興行的に大当たりするとともに批評面でも大好評だったようなので、作中に見え隠れする右翼的マッチョイズムを毛嫌いする私のような偏屈者の少数派以外にとっては、掛け値なしの「傑作」だったのだろう。たぶん。
だから、『シン・ゴジラ』がキネ旬ベストテンの上位になったように、昭和の時代にはあり得なかった、『ゴジラ-1.0』のキネ旬ベストワンすらあり得るかも?
と、少し心配(?)しながら、『キネマ旬報』のベストテン発表号を覗いてみた。
そう、ここでやっと、冒頭のシーンに戻るってわけ(笑)。
はてさて、今年のキネ旬ベストテンってのは、どんな具合なのかな。ほう、外国映画部門1位は『TAR(ター)』か。たしかこれって、音楽もの、オーケストラものと言っても、異色のストーリーの作品だよね。アホ邦題の『エブリシング~』は、オスカーでは作品賞だったけど、キネ旬ではベストテン圏内とは言え、意外と下位だな。まあ、日本人が選ぶんだから、アジア系忖度なんていうアメリカ特有の大人の事情とは無関係だもんね。
で、日本映画のほうはどうなんじゃろ、まさか本当に『ゴジラ-1.0』だったりして(ドキドキ)。てか、他にどんな映画があったんだっけ?全然見てないけど。『福田村』と『君たちは』と・・・後は?知らんなあ。
なんて感じでページをめくってみると、果たして今年度の日本映画1位は・・・『せかいのおきく』。
え?何それ?
聞いたこともないぞ。
世界の山ちゃんとは関係ないのかな?世界のナベアツとも。(←アホか)
阪本順治監督・・・って、その名前は字面として見たことあるような感じはするけど。・・・
へえ、時代劇なんだ。時代ものが1位って、意外と珍しいかもね。
・・・と、ワイドショーレベルで全く話題にものぼっていなかった(たぶん。見てないから知らんけど)作品がベストワンということに驚きつつ、でも、そこがキネ旬クオリティ、今にはじまったこっちゃない、全然驚くようなことじゃないね、と、すぐに思いなおしてみる。
というわけで、雑誌をとじ、とりあえずは
(さすがはキネ旬、と言わせてもらおう)
と、つぶやきながら家路に着き、早速にユーネクストで配信をチェックする私であった。
そう。
キネマ旬報ベストテンは、映画批評家が選ぶ賞である。日本アカデミー賞のように業界人が選ぶのでも、ブルーリボン賞のように新聞記者が選ぶのでもない。
だから、メガヒット作が選ばれるとは限らない。全然限らない。
どころか、たとえすぐれた作品でも、大型話題作、ヒット作は評価が低いというケースすらある。逆に意外な小品というのが好まれたりする。洋画部門で言うと、『ダイハード』(1988)みたいな例外もあるが、総じてハリウッド大型エンタメよりヨーロッパの渋めの映画が好まれる。現に『ゴッドファーザー』(1972)も『タイタニック』(1997)も1位ではない。
日本映画なら、1973年の1位は『仁義なき戦い』ではなく『津軽じょんがら節』だった。1974年は『砂の器』ではなく『サンダカン八番娼館/望郷』が1位だった。1977年は『八甲田山』より『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』が上位になった。1990年には『大誘拐/Rainbow Kids』より『息子』だった。1997年は『もののけ姫』を下して『うなぎ』が首位になった。黒澤の今なお人気の『七人の侍』(1954)も『隠し砦の三悪人』(1958)も『用心棒』(1961)も、1位にはなっていない。
『泥の河』(1981)、『海と毒薬』(1986)、『桜の園』(1990)、『月はどっちに出ている』(1993)、『火口のふたり』(2019)みたいな映画がトップになるのは、コマーシャリズムの日本アカデミー賞ではあり得ない、まさに忖度無用のキネ旬ならではである。
と、まさにそういう事情がゆえに、キネマ旬報ベストテンは日本アカデミー賞なんかより遥かに信頼されてきているわけだが、じゃあ、その権威あるキネ旬ベストテンで1位になったという、『せかいのおきく』とやらは、どんな作品なんだろう?
というわけで、早速、配信で視聴してみた。いやはや、本当に便利な時代になったものである。
監督の阪本順治という人は、ググってみたら、何と、私が高校生の頃に一世を風靡した『どついたるねん』(1989)でいきなり天下を取った監督でしたか。藤山直美の逃亡者もの『顔』(2000)も、見てはいないが、メチャクチャ評価が高かったことは時事的話題として記憶してまっせ。そう、それに、農村歌舞伎をテーマにした『大鹿村騒動記』(2011)の監督でもあったのね。大鹿村には行ったことあるなあ、そういえば。99年頃だったっけか。それからずーっと、いまだにどこにも吸収合併されずに単独の村として存続してたんだね、偉いぞ。・・・と、それはさておき。
『せかいのおきく』はというと、これはかなり地味な作品といえよう。
一言でまとめようと思えば、一応、江戸時代を舞台にした青春ラブストーリー、とまとめられるが、そんな単純な作品でもない。
それどころか、かなり挑発的かつ大胆な作品である。
まず、主人公はカッコイイ武士などではない。が、大店の丁稚・手代でもないし、医師でも浮世絵師でもない。リサイクル業である。それも、肥料となる糞尿の汲み取り屋である。
そうなのだ。たしかに、大昔からハイテクノロジーの21世紀に至るまで、人間に排泄が欠かせないことは寸分も変わらないのだ。そして、この日本列島に人間が住み着いて以来、下水道やバキュームカーのある時代より、どちらもない時代のほうが遥かに長かった。なので、江戸のような大都市では、武家屋敷でも大店でも、そして庶民の長屋でも、トイレのし尿は汲み取り業者が回収して、近在の農村に持って行って肥料としていたわけだ。
江戸時代はエコ時代、と言われる。たとえば、着物が古くなっても捨てたりはせず、くたびれてよそ行きにできなくなった着物は寝間着にし、それも無理なぐらいに汚くなったら雑巾に縫い替え、それもできなくなったらハタキの先っぽにし、それでもボロくなったら、今度はカマドの焚き付けにし、そして、その燃やした灰ですら捨てずに畑の肥料にして、そうしてその畑からまた綿花ができて、やがて再び着物になる・・・というような。
そんな循環型SDG‘s社会の象徴の一つが、し尿の肥料としての再利用であった。このあたりは、石川英輔氏がよく書いていた通りである。
それは、文字通り、きれいごとではない。21世紀の先進国に生きるわれわれには想像すらしづらいが、当然臭いし、衛生的ではない。寄生虫や病原菌のもとでもあろう。だから、決して手放しで美化できるような栄光ある過去ではない。
だが、そんな美しくも輝かしくもない現実の歴史を見据え、そのような汚れ仕事に従事する人間、カッコよくも何ともない職業の人間を主人公にするという発想が実に痛快である。
沖田総司みたいなイケメン天才剣士を主人公にする物語なら企画も通りやすかろうが、糞尿の汲み取り屋を主人公にするなんて発想は、プライムタイムのドラマなどでは絶対にあり得まい。
だからこそ、そのような一般受けしにくい題材を扱った映画に1位を与えるキネマ旬報はさすが・・・ということになるわけだが。
しかし、私個人の率直な感想は・・・一言で言うと、「困惑」である。
この物語の主人公の「中次(ちゅうじ)」は、最初は古紙回収業者だったが、兄貴分となる「矢亮(やすけ)」に誘われ、汲み取り屋となる。そして、江戸市中の長屋や武家屋敷でし尿を買い取って、近隣の、現在でいう葛飾区あたりの農村に運んで、肥料として売る。
彼らの行きつけの長屋に住んでいるのがヒロインのおきく、そしてその父親である。おきくが黒木華(くろきはる)、父親が佐藤浩市である。父親は浪人、おきくは近所の寺で手習い師匠をして生計を立てている。
中次や矢亮たち、し尿汲み取り業者はと言うと、決して社会的地位の高い職業ではなく、金が儲かる職業でもないが、当然ながら絶対に生活に欠かせない職業である。現に、雨続きで汲み取りが滞った時に、トイレが溢れて、長屋の住人が困りはてるというシーンが出てくる。
物語は、ヒロインの父である浪人が、昔の勤め先の藩のトラブルに絡んでか、その藩の武士に「ちょっと顔貸せや」と、ひとけのない場所に連れ込まれて斬殺されるところで、大きく動く。
ヒロインおきくは、父の危機をいち早く察し、短刀を持って駆けつけるも、自分も切られ、首に大ケガをする。そして、そのケガがもとで、しゃべれなくなってしまう。
声を失ったおきくはどうするのか。そして、そんなおきくに、中次たちはどう接するのか。・・・
・・・と、そんな話である。
が、基本的にタイトルロールのおきくより、中次と矢亮のほうが中心の狂言回しで、とにかく糞尿の汲み取りのシーンが多い。多い!多い!!
最初、映画を見始めた時にはー『ゴジラ-1.0』(の私の見たバージョン)と同様にーモノクロであることに驚くが、これら糞尿場面のあまりの多さに、(なるほど、こりゃ、カラーで見せられたらチトしんどいわなw)と、万人が納得することだろう。
とまれ、動機はどうあれ、結果的にモノクロ映像にしたことは成功だったろう。糞尿がやたらと映るのは、決して気持ちのいい画(え)ではないが、風景は文句なしに美しい。江戸の街並みのセットも美しいし、何よりクライマックスの雪のシーンの美しさ!その白黒画面に映える雪の江戸風景の美しさは、『河内山宗俊』(1936)を軽く凌駕し、『赤ひげ』(1965)に匹敵する。
映画そのものは、単一のストーリーではあるが、いくつかの章立てに分かれ、それぞれの章の最後の部分だけカラーになる。もっとも、その一部だけカラーにした意図は、実は『オズの魔法使』(1939)や『初恋のきた道』(1999)の場合と違って、よくわからないのであるが。
そう、わからないと言えば、父親が殺された理由も、ボーッと見ているとよくわからないし、ヒロインおきくが中次に惚れる理由に至っては、しっかり見ていてもよくわからない(苦笑)。
そのあたりが、私としては「困惑」と書いたゆえんでもある。
無論、役者の演技は総じて、実にいい。主人公の中次の俳優は私の全く知らない俳優だったが、演技巧者ではないものの、それゆえ、いい意味で主張しすぎないところがいい。そして、「ここ、笑うとこ!」という現代の吉本芸人のような口癖の、兄貴分・矢亮の俳優は、申し分なく上手い。
タイトルロールおきくの黒木華は、NHKの『みをつくし料理帖』(2017)の時と同様、その風貌から、いかにも徳川時代の日本人の顔といった風に見えるところが適材適所だし、寺の住職を演ずる真木蔵人に至っては、クレジットを見なきゃ絶対に真木蔵人とわからないだろってぐらいの大化けで、お見事!である。
そして、一番の大物たる佐藤浩市は、早々に退場してしまうものの、物語の主題たる「世界」とは何かを主人公に語るシーンで、絶大な存在感を示していて、さすがである。
かくして、このような地味な、ヒーロー不在の庶民点描映画が、『ゴジラ-1.0』という大仕掛けの好戦的ヒロイック叙事詩を抑えて、キネ旬ベストワンになったことには、「さすがキネ旬!!」と快哉を叫びたい。本当に。
ブラーヴォ!!
何しろモノクロ。何しろスタンダード画面。
そして、今どきにしては異例の、1時間半ぐらいのほどよい尺。
そう。昨今の映画は、世界基準に比して高いチケット代と、それでいて一本立てという固定化した興行形態ゆえに、内容いかんを問わず尺は2時間余り必要という本末転倒に陥っているので、この『せかいのおきく』のような1時間半程度という尺だと、興行的にメジャー配給は難しかろう(まあ、尺だけでなく内容的にもメジャー配給は難しいわけだがw)。
かつまた、映画代が高い一方で、ちょっとすれば、DVDを買うまでもなく、すぐに配信され、しかも家のテレビ画面も昔よりずっと大きくて鮮明なこのご時世。
でもって、そのような環境ゆえに、家のテレビと差別化して映画館に人を呼ぶために必要な装置として考案された4DX効果。そんな4DXに合わせた、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023)のような、「4DXを活かすために、とにかく次から次へとひっきりなしにアクション!アクション!またアクション!緩急緩急じゃなくて急急急急!」の、これまた本末転倒のごときコンテンツ(作品、ではなく、コンテンツ!)。
かくのごときご時世の中で、『おきく』は4DXが必要ない、というよりしてほしくない(笑)作品である(理由は、さんざ書いた通りの場面ゆえw)。
身も蓋もないことを言うと、この尺で、この内容で、劇場に出かけて2000円ぐらい払って見るか?となっちゃいそうな、そんな作品。
でも!
家で一人で配信で観たら、
「変わった映画だな。感動、とも違うし・・・でも、やっぱり見てよかった映画なんだろうな、うん」
と、きっと思わせられる、そんな作品。
たしかに、先述の「困惑」ゆえ、(さすがはキネ旬!・・・とは言いつつ、でも・・・本当に、この作品が1位でいいのかなあ?)と思ってしまう自分がどこかにいることもたしかなのだけれど。
まあ、私なんかが困惑しようとするまいと、どうせ日本アカデミー賞のほうでは、『ゴジラ-1.0』がブロック受賞するんだろうが。どうせ。