習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

ゴジラ対おきく(2)

2024-02-18 10:17:09 | 映画
(2)

 というわけで、『ゴジラ-1.0』は興行的に大当たりするとともに批評面でも大好評だったようなので、作中に見え隠れする右翼的マッチョイズムを毛嫌いする私のような偏屈者の少数派以外にとっては、掛け値なしの「傑作」だったのだろう。たぶん。
 だから、『シン・ゴジラ』がキネ旬ベストテンの上位になったように、昭和の時代にはあり得なかった、『ゴジラ-1.0』のキネ旬ベストワンすらあり得るかも?
 と、少し心配(?)しながら、『キネマ旬報』のベストテン発表号を覗いてみた。

 そう、ここでやっと、冒頭のシーンに戻るってわけ(笑)。

 はてさて、今年のキネ旬ベストテンってのは、どんな具合なのかな。ほう、外国映画部門1位は『TAR(ター)』か。たしかこれって、音楽もの、オーケストラものと言っても、異色のストーリーの作品だよね。アホ邦題の『エブリシング~』は、オスカーでは作品賞だったけど、キネ旬ではベストテン圏内とは言え、意外と下位だな。まあ、日本人が選ぶんだから、アジア系忖度なんていうアメリカ特有の大人の事情とは無関係だもんね。

 で、日本映画のほうはどうなんじゃろ、まさか本当に『ゴジラ-1.0』だったりして(ドキドキ)。てか、他にどんな映画があったんだっけ?全然見てないけど。『福田村』と『君たちは』と・・・後は?知らんなあ。

 なんて感じでページをめくってみると、果たして今年度の日本映画1位は・・・『せかいのおきく』。
 え?何それ?
 聞いたこともないぞ。
 世界の山ちゃんとは関係ないのかな?世界のナベアツとも。(←アホか)
 阪本順治監督・・・って、その名前は字面として見たことあるような感じはするけど。・・・
 へえ、時代劇なんだ。時代ものが1位って、意外と珍しいかもね。

 ・・・と、ワイドショーレベルで全く話題にものぼっていなかった(たぶん。見てないから知らんけど)作品がベストワンということに驚きつつ、でも、そこがキネ旬クオリティ、今にはじまったこっちゃない、全然驚くようなことじゃないね、と、すぐに思いなおしてみる。

 というわけで、雑誌をとじ、とりあえずは
(さすがはキネ旬、と言わせてもらおう)
と、つぶやきながら家路に着き、早速にユーネクストで配信をチェックする私であった。


 そう。
 キネマ旬報ベストテンは、映画批評家が選ぶ賞である。日本アカデミー賞のように業界人が選ぶのでも、ブルーリボン賞のように新聞記者が選ぶのでもない。

 だから、メガヒット作が選ばれるとは限らない。全然限らない。
 どころか、たとえすぐれた作品でも、大型話題作、ヒット作は評価が低いというケースすらある。逆に意外な小品というのが好まれたりする。洋画部門で言うと、『ダイハード』(1988)みたいな例外もあるが、総じてハリウッド大型エンタメよりヨーロッパの渋めの映画が好まれる。現に『ゴッドファーザー』(1972)も『タイタニック』(1997)も1位ではない。

 日本映画なら、1973年の1位は『仁義なき戦い』ではなく『津軽じょんがら節』だった。1974年は『砂の器』ではなく『サンダカン八番娼館/望郷』が1位だった。1977年は『八甲田山』より『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』が上位になった。1990年には『大誘拐/Rainbow Kids』より『息子』だった。1997年は『もののけ姫』を下して『うなぎ』が首位になった。黒澤の今なお人気の『七人の侍』(1954)も『隠し砦の三悪人』(1958)も『用心棒』(1961)も、1位にはなっていない。
 『泥の河』(1981)、『海と毒薬』(1986)、『桜の園』(1990)、『月はどっちに出ている』(1993)、『火口のふたり』(2019)みたいな映画がトップになるのは、コマーシャリズムの日本アカデミー賞ではあり得ない、まさに忖度無用のキネ旬ならではである。


 と、まさにそういう事情がゆえに、キネマ旬報ベストテンは日本アカデミー賞なんかより遥かに信頼されてきているわけだが、じゃあ、その権威あるキネ旬ベストテンで1位になったという、『せかいのおきく』とやらは、どんな作品なんだろう?
 というわけで、早速、配信で視聴してみた。いやはや、本当に便利な時代になったものである。

 監督の阪本順治という人は、ググってみたら、何と、私が高校生の頃に一世を風靡した『どついたるねん』(1989)でいきなり天下を取った監督でしたか。藤山直美の逃亡者もの『顔』(2000)も、見てはいないが、メチャクチャ評価が高かったことは時事的話題として記憶してまっせ。そう、それに、農村歌舞伎をテーマにした『大鹿村騒動記』(2011)の監督でもあったのね。大鹿村には行ったことあるなあ、そういえば。99年頃だったっけか。それからずーっと、いまだにどこにも吸収合併されずに単独の村として存続してたんだね、偉いぞ。・・・と、それはさておき。


 『せかいのおきく』はというと、これはかなり地味な作品といえよう。
 一言でまとめようと思えば、一応、江戸時代を舞台にした青春ラブストーリー、とまとめられるが、そんな単純な作品でもない。
 それどころか、かなり挑発的かつ大胆な作品である。

 まず、主人公はカッコイイ武士などではない。が、大店の丁稚・手代でもないし、医師でも浮世絵師でもない。リサイクル業である。それも、肥料となる糞尿の汲み取り屋である。
 そうなのだ。たしかに、大昔からハイテクノロジーの21世紀に至るまで、人間に排泄が欠かせないことは寸分も変わらないのだ。そして、この日本列島に人間が住み着いて以来、下水道やバキュームカーのある時代より、どちらもない時代のほうが遥かに長かった。なので、江戸のような大都市では、武家屋敷でも大店でも、そして庶民の長屋でも、トイレのし尿は汲み取り業者が回収して、近在の農村に持って行って肥料としていたわけだ。

 江戸時代はエコ時代、と言われる。たとえば、着物が古くなっても捨てたりはせず、くたびれてよそ行きにできなくなった着物は寝間着にし、それも無理なぐらいに汚くなったら雑巾に縫い替え、それもできなくなったらハタキの先っぽにし、それでもボロくなったら、今度はカマドの焚き付けにし、そして、その燃やした灰ですら捨てずに畑の肥料にして、そうしてその畑からまた綿花ができて、やがて再び着物になる・・・というような。
 そんな循環型SDG‘s社会の象徴の一つが、し尿の肥料としての再利用であった。このあたりは、石川英輔氏がよく書いていた通りである。

 それは、文字通り、きれいごとではない。21世紀の先進国に生きるわれわれには想像すらしづらいが、当然臭いし、衛生的ではない。寄生虫や病原菌のもとでもあろう。だから、決して手放しで美化できるような栄光ある過去ではない。

 だが、そんな美しくも輝かしくもない現実の歴史を見据え、そのような汚れ仕事に従事する人間、カッコよくも何ともない職業の人間を主人公にするという発想が実に痛快である。
 沖田総司みたいなイケメン天才剣士を主人公にする物語なら企画も通りやすかろうが、糞尿の汲み取り屋を主人公にするなんて発想は、プライムタイムのドラマなどでは絶対にあり得まい。

 だからこそ、そのような一般受けしにくい題材を扱った映画に1位を与えるキネマ旬報はさすが・・・ということになるわけだが。
 しかし、私個人の率直な感想は・・・一言で言うと、「困惑」である。


 この物語の主人公の「中次(ちゅうじ)」は、最初は古紙回収業者だったが、兄貴分となる「矢亮(やすけ)」に誘われ、汲み取り屋となる。そして、江戸市中の長屋や武家屋敷でし尿を買い取って、近隣の、現在でいう葛飾区あたりの農村に運んで、肥料として売る。
 彼らの行きつけの長屋に住んでいるのがヒロインのおきく、そしてその父親である。おきくが黒木華(くろきはる)、父親が佐藤浩市である。父親は浪人、おきくは近所の寺で手習い師匠をして生計を立てている。

 中次や矢亮たち、し尿汲み取り業者はと言うと、決して社会的地位の高い職業ではなく、金が儲かる職業でもないが、当然ながら絶対に生活に欠かせない職業である。現に、雨続きで汲み取りが滞った時に、トイレが溢れて、長屋の住人が困りはてるというシーンが出てくる。

 物語は、ヒロインの父である浪人が、昔の勤め先の藩のトラブルに絡んでか、その藩の武士に「ちょっと顔貸せや」と、ひとけのない場所に連れ込まれて斬殺されるところで、大きく動く。
 ヒロインおきくは、父の危機をいち早く察し、短刀を持って駆けつけるも、自分も切られ、首に大ケガをする。そして、そのケガがもとで、しゃべれなくなってしまう。

 声を失ったおきくはどうするのか。そして、そんなおきくに、中次たちはどう接するのか。・・・


 ・・・と、そんな話である。
 が、基本的にタイトルロールのおきくより、中次と矢亮のほうが中心の狂言回しで、とにかく糞尿の汲み取りのシーンが多い。多い!多い!!
 最初、映画を見始めた時にはー『ゴジラ-1.0』(の私の見たバージョン)と同様にーモノクロであることに驚くが、これら糞尿場面のあまりの多さに、(なるほど、こりゃ、カラーで見せられたらチトしんどいわなw)と、万人が納得することだろう。

 とまれ、動機はどうあれ、結果的にモノクロ映像にしたことは成功だったろう。糞尿がやたらと映るのは、決して気持ちのいい画(え)ではないが、風景は文句なしに美しい。江戸の街並みのセットも美しいし、何よりクライマックスの雪のシーンの美しさ!その白黒画面に映える雪の江戸風景の美しさは、『河内山宗俊』(1936)を軽く凌駕し、『赤ひげ』(1965)に匹敵する。


 映画そのものは、単一のストーリーではあるが、いくつかの章立てに分かれ、それぞれの章の最後の部分だけカラーになる。もっとも、その一部だけカラーにした意図は、実は『オズの魔法使』(1939)や『初恋のきた道』(1999)の場合と違って、よくわからないのであるが。
 そう、わからないと言えば、父親が殺された理由も、ボーッと見ているとよくわからないし、ヒロインおきくが中次に惚れる理由に至っては、しっかり見ていてもよくわからない(苦笑)。

 そのあたりが、私としては「困惑」と書いたゆえんでもある。

 無論、役者の演技は総じて、実にいい。主人公の中次の俳優は私の全く知らない俳優だったが、演技巧者ではないものの、それゆえ、いい意味で主張しすぎないところがいい。そして、「ここ、笑うとこ!」という現代の吉本芸人のような口癖の、兄貴分・矢亮の俳優は、申し分なく上手い。
 タイトルロールおきくの黒木華は、NHKの『みをつくし料理帖』(2017)の時と同様、その風貌から、いかにも徳川時代の日本人の顔といった風に見えるところが適材適所だし、寺の住職を演ずる真木蔵人に至っては、クレジットを見なきゃ絶対に真木蔵人とわからないだろってぐらいの大化けで、お見事!である。
 そして、一番の大物たる佐藤浩市は、早々に退場してしまうものの、物語の主題たる「世界」とは何かを主人公に語るシーンで、絶大な存在感を示していて、さすがである。

 かくして、このような地味な、ヒーロー不在の庶民点描映画が、『ゴジラ-1.0』という大仕掛けの好戦的ヒロイック叙事詩を抑えて、キネ旬ベストワンになったことには、「さすがキネ旬!!」と快哉を叫びたい。本当に。
 ブラーヴォ!!

 何しろモノクロ。何しろスタンダード画面。
 そして、今どきにしては異例の、1時間半ぐらいのほどよい尺。
 そう。昨今の映画は、世界基準に比して高いチケット代と、それでいて一本立てという固定化した興行形態ゆえに、内容いかんを問わず尺は2時間余り必要という本末転倒に陥っているので、この『せかいのおきく』のような1時間半程度という尺だと、興行的にメジャー配給は難しかろう(まあ、尺だけでなく内容的にもメジャー配給は難しいわけだがw)。
 かつまた、映画代が高い一方で、ちょっとすれば、DVDを買うまでもなく、すぐに配信され、しかも家のテレビ画面も昔よりずっと大きくて鮮明なこのご時世。
 でもって、そのような環境ゆえに、家のテレビと差別化して映画館に人を呼ぶために必要な装置として考案された4DX効果。そんな4DXに合わせた、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023)のような、「4DXを活かすために、とにかく次から次へとひっきりなしにアクション!アクション!またアクション!緩急緩急じゃなくて急急急急!」の、これまた本末転倒のごときコンテンツ(作品、ではなく、コンテンツ!)。

 かくのごときご時世の中で、『おきく』は4DXが必要ない、というよりしてほしくない(笑)作品である(理由は、さんざ書いた通りの場面ゆえw)。
 身も蓋もないことを言うと、この尺で、この内容で、劇場に出かけて2000円ぐらい払って見るか?となっちゃいそうな、そんな作品。
 でも!
 家で一人で配信で観たら、
「変わった映画だな。感動、とも違うし・・・でも、やっぱり見てよかった映画なんだろうな、うん」
と、きっと思わせられる、そんな作品。

 たしかに、先述の「困惑」ゆえ、(さすがはキネ旬!・・・とは言いつつ、でも・・・本当に、この作品が1位でいいのかなあ?)と思ってしまう自分がどこかにいることもたしかなのだけれど。

 まあ、私なんかが困惑しようとするまいと、どうせ日本アカデミー賞のほうでは、『ゴジラ-1.0』がブロック受賞するんだろうが。どうせ。
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ゴジラ対おきく(1)

2024-02-17 20:26:55 | 映画
『ゴジラ対おきく』


(1)

 2月半ばのある休日、久々に近場のショッピングモールで書店に入ったら、『キネマ旬報』が恒例のキネ旬ベストテンの発表号だったので、(ああ、そうか。そういえば、そんな季節だね)と思って、パラパラとめくってみた。

 と言っても、恥ずかしながら、今年度に封切られた(死語?)映画は邦画・洋画とも、あまりちゃんと見てはいない。たまたま、『ゴジラ-1.0(マイナスワン)』を映画館で見ただけである。
 『君たちはどう生きるか』は、とうの昔に宮崎を見限った自分には興味ゼロだったし、『福田村事件』も、題材には興味を惹かれて、サブスクでブックマークだけはしといたものの、結局は未見のままだったりした。
 外国映画については、アカデミー作品賞の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が、邦題もそのまんまになったことに「これはひどい(笑)」と失笑した程度で、内容は一切見ていなかった。まあ、『コーダ/あいのうた』の時もそうだったが、映画については、自分は世間の流行に1~2年は遅れて反応することが多い。ドラえもんだったら「君は他の子より数年遅れて生きてるんだね」と無表情で毒舌を吐きそうなぐらいに。

 だから、まあ、キネ旬ベストテンの順位チェックというのも、私の場合、熱心なリアタイ映画ファンのように一喜一憂する儀式ではなく、今年についていえば、(そういやあ、こないだ見たゴジラは何位だったのかな。まさか1位じゃないとは思うが・・・)と、半ば心配(?)しながら確認せんとした、といった具合であった。


 で、その『ゴジラ-1.0』なんだが。
 もともと、私はゴジラについてはーあるいは特撮もの全般についてはー80年代ぐらいまでの作品で自分の中の興味は終わってしまっていた。
 なので、かなり評判の良かった金子ガメラも庵野ゴジラも、ろくすっぽ見ていない。そもそも90年代以降のゴジラの、妙に等身が小さくて、そのくせ恰幅が良すぎる、重戦車みたいな三角体型には違和感しかない(さりとて、エメリッヒゴジラのあのフォルムもやっぱり「コレ違ウ!」だけどね。過ぎたるは及ばざるがごとし)。

 モスラの場合であれば、キャラクターとして個人的にゴジラよりむしろ好きなぐらいなので、90年代のリブート三部作は一応全部見たが、まあ、ジュヴナイル向けファンタジーに徹するということで、よくある怪獣VS防衛軍みたいなワンパターン映画とは全く違う世界観なところが新鮮で良かったかもね、と思いつつ、そんなに思い入れを持って繰り返し鑑賞するというほどではなかった。


 というわけで、『ゴジラ-1.0』に関しては、(ふ~ん、またやるんだ、好きねえ~)ぐらいの事前感想しかなく、わが人生には何の関わりもなく終わる・・・と思っていたのだが、なぜか私の配偶者が興味を持って、見てみたいとの意向だったので、そいじゃ行ってみよかと、シネコンまで出向いて見てみることになった次第。

 ただ、しつこいようだが、もともと私はここ数十年の、いわゆる「平成」以降のゴジラには関心が薄かった上、山崎貴という監督にはかなり懐疑的だったので、正直あまり気が進まなかった。

 山崎貴・・・ああ、あの『ALWAYS/三丁目の夕日』シリーズ(2005~12)の人か。『三丁目の夕日』ね・・・・・・不平等と過重労働と搾取、パワハラにセクハラに体罰にブラック校則、性差別に人種差別に障がい者差別、そして公害といった「昭和の暗部」に全く目を向けずに、ただただ「あの頃は良かった」、「希望に満ちた明るい時代だった」と、昭和時代を捏造美化したシリーズね。五輪を美化して、愛国心マンセーを刷り込む映画ね。それから、『永遠の0』(2013)か。見てないけど、どうせ反戦ならぬ賛戦映画なんだろ。単細胞な右翼を喜ばせ、戦争を知らない世代に、戦死とはこんなに美しくカッコイイものなのヨ!と洗脳するためのプロパガンダ映画なんだろ、どうせ。・・・なんて具合に、ひねくれた見方ばかりする私は、もう見る前から負の先入観全開である(苦笑)。


 で、まあ、見てみた。何はともあれ。
 たまたま私の見た回は、モノクロバージョンであった。最近よくある「4DX」の上映形態である。

 あまり予備知識を入れて臨んだわけではないが、とりあえず今回の『ゴジラ-1.0』が、制作同時代の2020年代を舞台にした作品でなく、古い時代を舞台にした作品だということは理解していた。
 思えば、1954年のファーストゴジラ以降、84年のリブートも、庵野さんの『シン・ゴジラ』(2016)も、みんな「今の日本に巨大怪獣が現れたらどうなるのだろう。政府や自衛隊はどう対応するのだろう」が共通テーマであった。だから、庵野版から10年も経っていないリブートであってみれば、差別化するために、あえてリアルタイム同時代ではない設定にする必然性があったのだろう。たとえば、ピーター・ジャクソン版の『キング・コング』(2005)みたいに。
 ・・・と、ここまでは誰でも予測しそうなところ。

 が、『ゴジラ-1.0』は、ある意味、われわれ素人の読みのさらにその先を行く発想であった。現代どころか、ファーストゴジラの戦後10年目、ですらなく、戦後すぐの時代、すなわちファーストゴジラよりもっと古い時代を舞台にした作品であった。
 そして、後述するが、内容も過去の歴代ゴジラ、というより、歴代怪獣映画とはあえて全く違う切り口を狙った作品であった。

 CGを駆使した映像技術は、まあ予想通りに凄い。CG技術は本当に日進月歩であり、好き嫌いは人それぞれながら、昔の着ぐるみ+ミニチュアの「特撮」とは比較にならない視覚効果である。「4DX」で見れば尚更に。
 ところが、売り物たるべきゴジラの東京襲撃シーン自体は意外なほど短い。ファーストゴジラが、品川駅の第一次上陸とその後の本番と、東京襲撃を二回見せてくれたのに対し、『ゴジラ-1.0』では、東京襲撃は一回だけな上、場所も銀座付近に限定されており、時間としても相当短い。
 映画全体の尺は結構長いのだが、肝心のゴジラの東京襲撃場面が拍子抜けするほど短いので、そのぶん、人間たちのドラマパートが異様に長い。本当に長い。演出のテンポはいいので退屈はさせないのだが、それにしても長い。映画館には子どもの姿も結構あったが、子どもには正直キツい映画だったんじゃなかろうか。

 だが、もちろん、よくできたエンターテインメントであることは間違いない。
 そりゃ、細部にツッコむなら、吉岡秀隆の髪型は、いくら現役軍人じゃないにしても、当時の日本人としては不自然すぎるだろ、とか、そういえばコトー先生の時にも髪を切ってなかったな、こいつは、とか、何かね?吉岡は髪を切らないことをオファーを受ける条件にでもしとるのかね?だとしても、監督サイドも、考証的にそんなわがままな「条件」を唯々諾々と飲んでちゃダメだろ!とか、そんなすこぶる些末な枝葉末節的イチャモンは言える。
 しかし、水圧の差でゴジラを屠るというアイディアは、かのオキシジェン・デストロイヤーに匹敵する、見事な着想である。私のような理科オンチには絶対に思いつかない冴えた着眼点である。
 そこは、素直に拍手したいところである。
 それに、クライマックスで伊福部マーチをガッツリ使うリスペクトっぷりも嬉しい。


 では、映画内容全体の極私的評価はと言うと・・・はて、どうかねえ。
 ストーリー的には、特攻隊の生き残りという、映像作品において「よくある」出自の(鶴田浩二?)主人公が、紆余曲折あって、飛行機に乗ってゴジラに挑む、という話です。ごく単純化すれば(←単純化しすぎw)。
 これって何かに似てる?と思ったら、ゴジラシリーズではなくて、『ウルトラQ』(1966)だった(笑)。そうか、『ウルトラQ』の「東京氷河期」の回じゃないか。ペギラに体当たりした沢村さんじゃないか。
 と、それはさておき(笑)。

 せっかくの力作・ヒット作なので、極力ひねくれず、素直に評価したいとは思うが、やはり山崎貴だねえ、悪くも悪くも。てなヘソ曲がりの感想をやっぱり書きたくなってしまうわけで。
 何というか、反戦映画のふりして好戦的、軍批判のふりして軍人マンセー、と、一言で言うとそんな作品かな。鵺(ぬえ)のような映画、とでも呼ぼうか。
 民間人、という立場であっても、要するに元日本軍人たちが奮戦してゴジラをやっつける話なわけだからね。
 占領下の時代を舞台にしておきながら、何だかんだ理屈をつけて駐留米軍には絶対に活躍させず、あくまでヒーローは日本人、というのは、まあ、占領時代の話に限らず、戦後のどの時代の国産怪獣映画においても、「あるある」なツッコミポイントだが。


 しかし、そんな「昭和の日本人スゴい!昭和の日本人がんばった!」の自画自賛オヤジ作品のようでいながら、アメリカで物凄く受けた、それこそ過去のどんなゴジラものよりも・・・というのは、意外なようでいて、でも実は至極当然のことだったのかもしれない。
 作り手たち自身がどこまで意図的に狙ったかはわからないが、過去の歴代作品との差別化―歴代怪獣映画とはあえて全く違う切り口―の結果、見事に「アメリカ人好み」のテイストの作品に仕上がってしまっていたから。

 キーワードは「ボランティア(義勇軍)」。これである。
 『アルマゲドン』(1998)、『ダイハード』(1988)、そして、スタローンやシュワルツェネッガーの筋肉映画。アメリカ人は、マッチョな男たちが軍などの「お上」の組織力に拠らず、徒手空拳で奮戦する映画が大好きなのだ。
 今回の『ゴジラ-1.0』は、意図通りか結果論か、今までの日本政府と自衛隊が国家ぐるみでゴジラ対策をするパターンとの差別化で、ボランティア(義勇軍)の男たちによる民間有志の活躍を描く映画になった、それが、見事にアメリカ人の好みにピタリとはまったのだ。
 と、これは、映画専門誌などで、既に多くの識者が指摘しているところだとは思うが、まあ、そういうわけだろう。

 だが、当の日本人自身の好みに合致していたかどうかは・・・よくわからない。何だかんだで社畜好きの日本人、赤穂浪士の時代から『陽はまた昇る』(2002)まで、所属する組織の中でがんばるサラリーマンこそがみんな好きだからねえ。
 とか何とか言いつつも、もちろん国内でも大ヒットしているわけだから、細けえことは抜きに、みんなこのCG満載の愛国娯楽映画を楽しんだんだろう、たぶん(投げやり)。
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その「推し」に異議あり!?

2024-02-02 19:40:37 | 歴史
 私の今の職場の上司の人は、神奈川県小田原市の出身である(※1)。お江戸を発って20里上方の相州小田原といえば(※2)、首都圏の人にとっては伊豆・箱根への通り道という印象であるが、山あり海ありで、農林水産業に工業・商業と、第一次産業から第三次産業までがまんべんなく揃っており、城跡があり、伝統進学校があり、海鮮も旨い、蒲鉾や梅干しのような名物にも事欠かない、と、コンパクトなオールインワンシティーである。
 東京の感覚だと、千葉県なら市川、船橋、習志野、千葉に松戸に柏、埼玉県なら草加に春日部、川口、浦和、大宮、さらに所沢に川越、多摩地区は三鷹、調布、府中、町田、小金井、立川、八王子、そして神奈川県だと川崎、横浜、横須賀、藤沢、平塚、厚木、相模原といったあたりは、完全な「首都圏」であり「通勤圏」、言い換えるなら、東京都市圏の一部だが、小田原あたりまでくると、水戸や銚子と同様、「独立した地方都市」という感覚が勝るか(※3)。

 と、そんな印象を持つ一因が、小田原城址の存在だろう。お城があるというと、イコールいかにも独立国、って印象になりやすいものである。実際、東京から最も身近な「ちゃんと天守閣のある城跡」といえば、とりもなおさず小田原城となろう。
 もちろん言うまでもなく、東京こそがまさに、近世最大の城郭である江戸城跡地のある場所に他ならないのだが、江戸城址はいわゆる「皇居」として非公開の場所が多く、立ち入り可能な場所も、城跡として観光地整備されているとは言いがたい(※4)。たしかに、お堀の周りをランニングするというような具合に、東京の人にとってはごく身近な場所であることは間違いないが、やはり、一般に人が「お城」と聞いてイメージするであろう天守閣がないと、「城跡」として意識されにくいのかもしれない(※5)。


 さて。
 そんな小田原城址は、私も小学生の頃に初めて行って、その後も、大学時代にデートで行ったし、大人になってからも行ったことがある、やはり東京モンにとっての身近なお城である。

 小田原城といえば、北条氏。と、これは秀吉や家康、あるいは武田信玄や上杉謙信が主役級となる大河ドラマを見たことのある人なら、常識的な知識であろう。
 そして、多少なりとも、日本人としての常識レベルの歴史知識を有する向きは、当然のごとく、こんな疑問を抱くことだろう。
「北条といえば、『鎌倉殿の13人』の、中世の執権の北条家が有名だけど、そういえば、時代が下って、戦国時代に信玄と同盟を結び、謙信と戦い、最後は秀吉に滅ぼされた小田原城の北条家って、鎌倉殿の執権の北条と関係あるの?子孫?」
と。

 そこで、やや長くなるが、小田原北条家の成立の歴史を語ると、以下のようになる。


 15世紀の後半。室町時代。応仁の乱の頃。京都の室町幕府の役人で、伊勢新九郎盛時という人がいました。
 ある時、この伊勢盛時は東国は駿河の国、今の静岡へと下向します。というのは、この盛時のお姉さんが、駿河の守護大名の今川氏に嫁いでおり、このたび、夫、すなわち盛時から見ると義理の兄が死んだため、息子―盛時から見ると甥っ子―に後を継がせたいのだが、息子はまだ小さいので、弟である盛時に後見人になってバックアップしてほしいと要請してきたからです(ちなみに、この甥っ子の今川氏親という人が、「信長のかませ犬」として有名な今川治部大輔義元の父親にあたる人です)。
 伊勢盛時はとても有能な人物だったので、よく甥っ子を補佐し、後にはその甥っ子の邪魔になる者を実力で排除したりもして、駿河今川家において欠かすことのできない客員顧問格として力をふるいます。

 ですが、肝心なのはここからで、盛時は単なる今川家の客員顧問で終わるつもりはありませんでした。もともと室町幕府の役人でありながら、あわよくば、自分自身が実力で独立大名になる機会を狙っていたのです。なかなかの野心家と言えましょう。
 盛時は、伊豆の堀越公方という室町幕府の出先機関での内紛に乗じて兵を挙げ、紆余曲折を経て、堀越公方をつぶし、伊豆の大名として、幕府の権威に依らず、自分の実力で独立王国を作ってしまったのです。ここから東日本における「戦国時代」は本格的に幕を開けたと言っていいでしょう。

 その後、盛時は伊豆の国をよく治め、戦争が強いのみならず、民政家としても有能さを発揮しました。
 やがて、盛時の晩年になって、伊豆から東の相模への進出をはかり、1495年頃、上杉氏系の城だった小田原城を奪って、その足がかりにします。

 そんな伊勢盛時―晩年は出家して伊勢宗瑞(※6)―の死後、息子の氏綱の代になって、本格的に小田原を本拠地として相模の国の経営に着手、その際、北条という名字を名乗り始めます。何しろあなた、「伊勢」では、いかにも西日本から来たヨソ者ですと言わんばかりではありませんか。その点「北条」なら、
「あ、北条さん。ていうことは、あの鎌倉幕府の執権の北条家のご子孫ですか、いやあ、そうでしたかあ、こいつぁ失敬」
「ええ、まあ、はい、何ていうか、まあ、その・・・ゴニョゴニョ」
という具合に、関東の人が上手く勘違いしてくれますものね(笑)。

 と、そんなわけで、伊勢氏綱は北条氏綱となり、以後、武田信玄と同盟して上杉謙信と戦った北条氏康、豊臣秀吉に滅ぼされた北条氏政・北条氏直と、およそ100年に渡り、伊勢盛時改め伊勢宗瑞の子孫は、小田原を拠点に南関東を支配し続けたのでした。・・・

 ・・・以上が、「小田原北条五代物語」の概略である。後半は駆け足だったけど(笑)。
 かくして、さっき書いた
「北条といえば、『鎌倉殿の13人』の、中世の執権の北条家が有名だけど、そういえば、時代が下って、戦国時代に信玄と同盟を結び、謙信と戦い、最後は秀吉に滅ぼされた小田原城の北条家って、鎌倉殿の執権の北条と関係あるの?子孫?」
という疑問への答えは、
「全然関係ない(笑)!ただの便乗(笑)」
となる(爆)。


 そんなこんなで、最後は豊臣秀吉に滅ぼされはしたものの、戦国期の関東の覇者である後北条氏は今も小田原民の心の偶像であり、前出の小田原出身の上司が「市でも一生懸命、小田原北条五代を大河ドラマにしてもらおうと、キャンペーン活動しているんだけど、なかなか実現しなくてねえ」と嘆いていたように、大袈裟な言い方をすれば、小田原後北条の大河ドラマ化は小田原民の悲願である、らしい(※7)。
 実際、小田原城址周辺では、毎年「北条五代祭り」という大名行列パレードが行われたり、駅周辺では回転ずし屋や焼き肉屋まで「北条」を名乗るなど、街を挙げての「後北条推し」であるようだ(※8)。

 だが、ちょっと待ってほしい(朝日社説調w)。

 伊勢盛時が小田原城を奪ったのは1495年頃だ。
 そして、盛時の子孫の北条氏政・氏直親子が秀吉に滅ぼされた小田原の役(小田原征伐)は1590年だ。
 ということは、実は、後北条氏が小田原を領有していた期間は、100年にも満たないことになる。

 翻って、今日の場所で今日の縄張りで小田原城が成立した近世江戸時代。譜代の小田原藩で主に藩主を担っていた家は大久保加賀守家である(※9)。
 大久保家が小田原城を預かっていた期間は、豊臣政権下の頃から廃藩置県まで、中断を挟むも実に都合およそ210年間!

 何と!「大久保の小田原城」のほうが「後北条の小田原城」の二倍以上の期間なのだ!
 なのに、小田原市当局も小田原の街の商店会も、小田原駅の銅像も、後北条一色!
 これでいいのだろうか??(※10)。

 ・・・って、そりゃたしかに、戦国時代のオーナー城主と、天下泰平の時代の雇われ城主とでは、「ヒーロー度」が雲泥の差だから、それが「推し」の濃淡の差になること自体は、まあ当然と言えば当然なんだけどね(苦笑)(※11)。


 ちなみに、結構こういうことって、「お城で町おこし」ではしょっちゅうあることだったりする。
 信州上田の真田推し。(戦国期ではないが)播州赤穂の忠臣蔵推し。そして、何と言っても、大阪の豊臣推し。
 上田藩は、徳川時代には譜代の藤井松平伊賀守家が治めていた時代が断然長く、わが郷土の殿様として推すなら松平であるべきだが、現在の上田の歴史観光は、当然のごとく、真田昌之・真田信繁(幸村)推し一色で、「関ヶ原の時に上田城で徳川秀忠軍を足止めした」伝説推し一色である(※12)。
 また、赤穂藩は忠臣蔵の浅野分家が治めていたのは、50年余り。その後の森家のほうが、廃藩置県まで浅野の約3倍の150年も治めている(※13)。なのに、赤穂市の観光は、当たり前のように浅野一色、赤穂浪士一色で、森のモの字すら見る影がない。(※14)。

 こういった例を見ると、小田原の後北条推しは、決して珍奇なことなどではなく、全国どこでもありふれた、ごく当然の現象なのだろう。いいか悪いか別として(※15)。
 そう。泰平の江戸時代の藩主より、戦国大名のほうがカッコイイ、みんなが興味を持つ、というような(※16)。ゆえに、熊本城では細川より加藤清正が推され、広島城では浅野より毛利が推される(※17)。では、高知の人は長宗我部と山内(※18)と、どっちを推すのだろう・・・?(※19)

 そして、やはり「江戸時代より戦国織豊時代推し」の典型の一つが、大阪城となるか。
 ご案内の通り、豊臣大坂城というものは30年ぐらいしか地上に存在せず、現在も残る城郭が徳川幕府の管理物件として存在した期間はそれより遥かに長い250年近く。

 現在の復興天守閣の、徳川の城郭の徳川の天守台の上に秀吉時代をモチーフにした建物を乗っけるという発想が、そもそも歴史学的に間違っていた。
 もし天守閣を再建するなら、徳川時代の白亜の天守を建てるべきだった(※20)。今の大阪城復興天守閣はたしかに既に築90年の歴史的建造物で、1930年代の建築遺産と呼ぶべきものだが(※21)、それでも万一将来建て替える時には、徳川時代の天守閣を再現すべきだろう。もっとも江戸城もそうであるように、大坂城も、そもそも徳川260年の間、天守のない時代の方がよほど長かったわけだが。・・・


 ・・・というわけで、いつもながらダラダラと無駄に長い稿になった。
 結局、何が言いたかったのか?

 本文ではなく注釈のほうで触れた保科正之の英断の偉大さだったのかもしれないな、もしかしたら。


(※1)

現小田原市域出身もしくはゆかりの有名人といえば、歴史人物では二宮尊徳(二宮金次郎)がおり、政治家では河野太郎の父である河野洋平、祖父である河野一郎、文化人だと私小説作家の尾崎一雄、大脚本家にして小説家の山田太一、『陰陽師』の夢枕獏、『ガンダム』の父・富野由悠季、芸能人だと柳沢慎吾、スポーツ界だと、ベイスターズ(旧ホエールズ)の「アジの開き」こと、ホームランバッターの田代富雄といったあたりが挙がる。
私なんかは、「あれ?レベッカのドラマーの小田原豊さんは??」と思ってしまうのだが、よく調べたら、この人は名字が小田原なだけで、別に小田原市の出身ではなかった(笑)。


(※2)

と、このフレーズを聞いてニヤリとする人は、演劇部か放送部の人だ(笑)。


(※3)

実際には、私の大学時代の後輩で、小田原から矢上(横浜市港北区)まで通学している猛者も普通にいたが。


(※4)

江戸城の天守閣を仮に再建したとしても、現在の大手町・丸の内界隈の景観を考えたら、周囲を圧してそびえたつ、というふうには到底ならず、高層ビル群に埋もれるような、情けない感じに見えてしまいそうだ。姫路城の天守閣みたいに丘の上に建っているか、平地でも岡山城の天守閣みたいに、すぐ近くに高いビルが見えないという位置なら映えるだろうが。
(できた当初は立派に見えたんだろうけど、今となっては高層ビル群の中に埋もれて情けなく見える・・・の典型例が、ご案内の通り、札幌時計台であろう。時計台といえば、一方で、たとえば、東大の時計台(安田講堂)なんかは、私などは初めて見た時、想像していた以上の威容に感動したものだが、あれとて、もし札幌時計台みたいにビル街の谷間に建ってたら、そんな立派に見えたかどうか。同様に、もしライトの旧帝国ホテルが日比谷の地で昔のまま残っていたとしても、ともすれば札幌時計台みたいなカッコ悪い感じになっちゃっていたかもしれない)
本稿の主役・小田原城の場合はというと、小田原市当局が小田原城天守閣より高い建物をできるだけ建てさせないように規制しているのか、市街の広範囲から天守閣が見えて、三層ながらもいい景観を維持している。
東京でも、昔のようにビルが31メートル規制の範囲内であれば、再建天守閣が十分に威容を誇れただろうけどねえ。
以下は余談の余談。高度成長期までは上記の「31メートル規制」があったわけだが(これを破った最初の「超高層ビル」が有名な東京の霞が関ビルだが、それ以前にも国会議事堂のような例外もあるにはあった。映画『キングコング対ゴジラ』(1962)で、コングが国会議事堂に登っているのは、何のことはない、当時はそれが「日本で一番高いビル」だったからである)、なぜ「30メートル」ではなく「31メートル」なのかというと、それは、昔の尺貫法で「100尺」にあたるからである。
だいたいメートル法表示で妙に半端な数字というのは、尺貫法かヤードポンド法の規格を無理やりメートル法に換算したからである。たとえば、鉄道の線路幅は、1メートル6センチ7ミリという半端な規格だが、これはヤードポンド法のインチにすれば、キチンと丸い数字になるらしい。また、「てんとう虫」ことスバル360などで知られる昔の軽自動車の規格360ccというのは、なぜ300ccでも350ccでもなく360ccなのかというと、それは「2合」だから。といえば、一升瓶が1.8リットル、四合瓶が720ミリリットルというところから類推して、すぐに理解できるだろう(なお、マラソンが42.195キロという半端な数字なのも、てっきりマイルからの換算のせいだと思っていたが、これは全く別の理由らしい。その理由もなかなかおもしろい(あまりにしょーもなさすぎて)ので、興味のある向きはググってみることをお勧めする)。


(※5)

明暦の大火(1657)からの江戸復興の時、大火で焼け落ちた江戸城天守の再建も当然、To doリストに上がったものの、時の幕府指導者・保科肥後守正之は、「もう既に泰平の世。巨大な天守閣などで威圧せずとも、パックストクガワーナの平和と安定の世の中は揺らぐまい」と、天守閣再建プランは事実上凍結して、被災者救済と江戸の街の再整備を優先させたのだとか。
そして、それ以後も、幕末に至るまで、結局、天守閣はないままだったという。
つまり、徳川260年余の間、江戸城天守が存在していたのは、何と、最初の50年程度でしかなかったのだ。
だから、忠臣蔵ものや『暴れん坊将軍』などのかつての映像作品で、しばしば「江戸城」なんてテロップを出して姫路城の天守閣を映していたのは、「そもそも赤穂事件の頃や吉宗の頃には、とっくに天守閣なんてなかったヨ!」という意味で、二重の間違いということになる。
とまれ、古くは聖武天皇から、最近は吉村大阪府知事まで、公共の福祉よりハコモノや大イベントを優先する為政者が多い腐った国にあって、かつて保科のような人物がいたということは、一服の清涼剤か。
と、そんな歴史をふまえて考えると、江戸時代を通じてずっと天守閣がそびえていた名古屋城あたりと違って、江戸城天守閣というのは、仮に法的に再建が可能だとしても、再建する必要はないのかなあと思わないでもない。いかめしい天守閣などで威嚇せずとも、何百年にも渡ってこの国が平和に治められたという、そのことこそが、江戸城と江戸政権の偉大さを表しているように思われてならないから。「あえて再建しない」意志を継ぐほうが、保科へのリスペクトと言えるのではなかろうか。


(※6)

名乗りは伊勢盛時、通称は伊勢新九郎、号して伊勢宗瑞、もしくは早雲庵宗瑞。これがこの人物の呼称である。
たしかに、いわゆる「北条早雲」とは、この人物のことだが、「北条」というのは、宗瑞の死後に息子の氏綱が称するようになった名字で、宗瑞の生前にはまだ北条という名字は使われていない。また、「早雲」は通常の法名ではなくあくまで庵号なので、まるでファーストネームのように用いるのは、やはり不適当であろう(変なたとえだが、三遊亭円生を「山崎三遊」、古今亭志ん朝を「美濃部古今」と呼ぶようなものだろう)。
この際、ハッキリ書いておこう。「北条早雲」などという人物はいない、と。
細川ガラシャという人物がいなかったように。真田幸村という人物がいなかったように。安藤広重という人物がいなかったように。大石りくという人物がいなかったように。
なので、ちゃんとした書籍では、最近は「北条早雲」などという歴史上存在しなかった名ではなく、「伊勢宗瑞」と、正確に記すものが増えてきている。歴史エンタメや観光案内の世界では、まだまだ「北条早雲」という不適切な呼称がはびこっているが、それも時間の問題で、いずれちゃんと適切な呼び名に落ち着く・・・といいね。
それと同様に、いわゆる「聖徳太子」も、最近の書籍では「厩戸王」とされており、その神格化された「伝説」がキチンと学問的に見直されているのは、いい傾向だと思う。


(※7)

しかし、伊勢宗瑞とその息子の北条氏綱というのは、大河ドラマにはなりにくいだろうな。何しろ人気の戦国ヒーローと時代的に絡まないから(ならば、『毛利元就』は・・・?)。氏康なら信玄・謙信と絡むし、氏政・氏直なら秀吉・家康と絡むんだが。
そこで、宗瑞の一代記で一年間ではなく、後北条五代の物語、すなわち宗瑞が東国に来てから、秀吉による小田原陥落までの百数十年の歴史にすればどうかという、小田原市役所もプッシュするプランとなるわけだが。
それでも宗瑞の晩年から氏康が信玄・謙信と関わりを持つようになるまではトピックに乏しく、ドラマ的にはチトつらいか?


(※8)

https://www.kaitensusi-hojo.com
https://ggkn200.gorp.jp


(※9)

かつて講談などで知られた「天下のご意見番」大久保彦左衛門忠教の一族である。


(※10)

ただし、小田原城址の天守閣内の資料館では、さすがに100年に満たない後北条時代の展示だけでは「もたない」ということか、期間が長く、時代が新しいゆえに史料・遺品も豊富な大久保時代のものもかなり展示されている。


(※11)

なお、本文に記した通り、伊勢盛時改め伊勢宗瑞に始まる後北条は、京都からやってきた室町幕府役人の子孫なので、鎌倉執権の北条氏と違って、もともと東日本の土着ではない。
もちろん、江戸時代の藩主である大久保家も、徳川譜代だから、関東土着ではなく三河がルーツということになる。


(※12)

真田信繁(幸村)個人でなく、「真田家」推しということで言うなら、上田より松代ががんばってもいいと思うのだが。
松代は、今は長野市の一部となっているが、江戸時代の大半を通じて、真田家が治めた藩である。
ちなみに、私は20数年前、短期間だが長野市に住んだことがあり、その頃に松代の旧市街にも行ったことがあるが、あまり「真田推し」はしていなかったようだ。まあ、人気の信繁(幸村)じゃなくて、不人気の兄貴・信幸の系譜の城下町だからね。赤穂浪士における大野九郎兵衛、新撰組における伊東甲子太郎みたいに、嫌われ役キャラということで、あんまり積極的に推してないのかもね。
そんなこともあって、松代駅(今は廃止済み)界隈の旧市街は、何だか生気のない、寂しい感じの町だったという記憶がある(失礼!)。
だが、松代の長野インターに近い、冬季五輪の頃に建ったロイヤルホテル長野はとてもいいホテルで、長野市街からは遠いが、市街地の老舗の犀北館ホテルよりむしろお勧めなぐらいである(元長野市民・談)。


(※13)

余談ながら、本能寺の変の映像作品で、信長に光秀謀反の一報を伝える小姓の森蘭丸というのは、この森家の一族である。
って、何だか司馬遼太郎みたいな「余談」だな(笑)。


(※14)

浅野家も森家も、もとをただせば播磨の土着ではない。
というか、そもそも徳川時代の藩主なんて、鹿児島藩の島津みたいに本当に歴史の長いところは例外として、ほとんどが土着ではない。
近世の大名家は、信長・秀吉・家康が天下を取ったおかげで大名になったという家が多いから、ルーツは愛知県、という家が断然多い。


(※15)

ちなみに小田原北条氏も、秀吉の小田原攻めで完全に根絶やしになったということではなく、その後、江戸時代にも大阪狭山で細々と続いている。
その縁で、小田原市と大阪狭山市は姉妹都市・・・かと思ったら、別にそういうことはないらしい(笑)。
小田原民は、小田原を離れた後の、落ちぶれた後北条家にはもう関心がないということか?けっこう冷たいな(笑)。


(※16)

仙台藩の伊達なんかは、戦国大名がそのまま江戸時代にも統治し続けたので、郷土のヒーローの戦国大名と、徳川時代の殿様がそのまんま地続きとなる幸福なケース。
一方で、加賀百万石の金沢藩・前田なんかは、信長・秀吉が天下を取ったおかげで大名になったという典型例で、もともとは地場産でなく尾張の出だが、普通に地元では「加賀百万石の利家&おまつ推し」である。
これは、一つには加賀というのは、戦国時代に支配する戦国大名がいない特殊な土地柄だったせいもあろう。


(※17)

赤穂浅野の母体でもある広島藩43万石の浅野宗家は、ご案内の通り、豊臣秀吉の妻の実家だったために豊臣政権下で特別に優遇され、石田三成に与しなかったおかげで徳川時代にも生き延びた家である。
その芸州広島藩浅野家だが、実は広島城の資料館では戦国大名である毛利家のほうがより強く推されており、徳川時代に長きに渡って広島の地を治めた浅野家は、やや扱いがぞんざいだった記憶がある。


(※18)

土着で、自らの力で四国を併呑した戦国大名である長宗我部元親に対し、尾張の織田家に仕え、秀吉によって大名にされ、やがて家康から(関ヶ原前の「小山軍議」の席で他人の阿諛追従アイディアを盗んだことで?)土佐一国を与えられた山内一豊は地元的ヒーロー度はどうか。
土着の旧長宗我部系の家来の者は、よそ者の山内系の連中に虐げられ、藩士の下の「郷士」という下位カーストにされた(それ自体、司馬遼による誇張か?)・・・とかいう台湾の「本省人」のようなルサンチマンで、山内家は、竜馬信者(史実の龍馬ではなく尾ひれのついた「ヒーローとしての竜馬」像を史実と混同して崇拝する人々。たとえば武田鉄矢など)から、わだかまりを持たれ、憎まれてきた。
が、『功名が辻』の大河ドラマ化のおかげで山内人気も高知で無事に盛り上がった・・・のかな?知らんけど。


(※19)

現在の城跡と戦国期の戦国大名拠点が一致しないので本文では挙げなかったが、山梨なんて、「戦国大名だけを推して、江戸時代の藩主はガン無視」の最も典型的な事例である。
江戸時代の甲州エリアは、当初は徳川親藩・譜代の甲府藩で、その後は幕府直轄領であったが、山梨の歴史観光は武田信玄一色で、徳川は影も形もない。
たしかに、甲州武田家が源平合戦の頃からの地元大名なのに対して、甲州における徳川というのは、信長急死後のドサクサに紛れて火事場泥棒的に居座っただけで、土着でも何でもないからね。それこそ、甲州の歴史からしたら、徳川時代より武田時代のほうがよほど長いわけで。
ついでに、武田信玄といえば、ライバルは戦国最強の正義の士・上杉謙信だが、江戸時代の上杉藩というのは山形県の米沢になる。だが、上杉が米沢藩となったのは関ヶ原以後のことで、謙信本人は米沢とは関係ないので、米沢の町で謙信推しというのはしづらいことだろう。直江兼続推しや上杉鷹山推しならできようが。
まあ、それでも関係ない土地で小藩に落とされてしまったとは言え、廃藩置県までしっかり大名家として残ったんだから、信長に滅ぼされてしまった武田家よりずっとましだったろうね。
ついでのついでで、『天地人』の直江兼続以後で、江戸時代の上杉家がエンタメ作品に登場するのが、ご承知の通り赤穂浪士もので、吉良の身内として出てくる。吉良上野介の実子で上杉家に跡取りの養子として入った当時の米沢藩主(ドラマだと大抵は三田寛子の夫の八代目中村芝翫)が討ち入り時に実父を助けに行こうとするのを、家老の千坂兵部または色部図書が押しとどめるという演出が定番であるが、あくまで史実でなく創作であろう。


(※20)

徳川大坂城の天守閣自体は竣工してから40年ぐらいで焼失しており、天守閣そのものの寿命で言ったら、豊臣大坂城の天守閣と大差ないわけだが。
そして、豊臣大坂城が黒田屏風によりかなり詳細に描かれているのに対し、徳川大坂城の天守閣については、おそらく戦前の時点ではあまりよくわかっていなかったのだろう。だから、再現したくてもできなかったのだろう。
それにしても、大坂の役でたいして活躍したという話を聞かない福岡藩の黒田家が詳細な絵を残しているのは、やはり藩祖の黒田如水(黒田官兵衛)が基本設計をした偉大な城の姿を後世に残したかったからに違いない。


(※21)

大阪城の復興天守閣は、ゴジラとアンギラスの戦いで壊されたり、バルゴンに凍らされたり、ゴモラにも壊されてたりと、なぜか怪獣ととても縁が深い。
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