習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

運命の選択みたいな(3)

2012-12-16 09:22:54 | 政治・経済・社会・時事
3 陰謀論は楽し


 日本の総選挙という愚劣な国民的自殺ショウの週に、北鮮がミサイルを発射したり、中国当局が魚釣島で挑発飛行を行ったりして、これは、
「日本でも韓国でも選挙があるときに、なぜわざわざ右翼候補の格好のエサになるようなネタをまくんだ?もしや、陰で自由世襲党と申し合わせてやったのか?」
なんていうトンデモ陰謀説さえささやかれている絶妙なタイミングだが、密約はなくても、前にも書いた通り、こういうのはお互い阿吽の呼吸で暗黙の了解的に利用し合っている部分もあるからね。

 北で即位した王子様も、わが国で今回総理復帰する王子様も、「悪い外敵に毅然と立ち向かうカッコいいボクちゃん」って演出をしたいわけだから、利害が一致しているというか、そもそも「毅然と」を売りとするいわゆるタカ派の御仁にとっては(※15)、ものわかりのいいおとなしい隣人なんて困るわけだ。票がほしい「毅然とした」政治屋さんにとっても、予算のほしい軍部当局にとっても、受注のほしい軍産複合体関係者にとっても(※16)、隣国は自国民向け物語における「ならず者」こそありがたい。
 だから、北当局にとっては、南の首脳も日本の首相も「タカ派」であってほしいんじゃないか。そのため、「安倍さん、これからもよろしく」と、援護射撃をかねた親愛なる挨拶をおくったんじゃないか(※17)。

 な~んていうアホな妄想を書きたくなる今日この頃である。



4 良識の返る日はいつ来るか


 いや、ここまであんまり橋下大阪市長の話をしてないけどさ。
 なんか、こと今回の国政選挙に関して言ったら、もうどうでもいい感じもしちゃってね~。
 たしかに世の中はおバカな人が多いから、思い描く社会モデルのイメージなんてことを考えずに、若くてかっこよければ投票するみたいな具合で、ますます世の中は悪くなっていくんだと思うし、大阪は今なお危機的な状況が続いているのだから、決して看過できないだが、とりあえず橋下氏が国政の場で政権をとる可能性は今のところなさそうである。

 よかったのかどうかは、実はわからない。
 前にも書いたが、私としては、橋下氏には石原と同様、むしろ国政に行っちゃってもらって、そこで思うぞんぶん好きなことをわめいてもらって、地方政治はちゃんと真面目な行政のプロに任せたほうがいいと思っていた。だから、橋下氏が大阪府政・大阪市政から去って、渡辺喜美みたいな小党党首のタダの国会議員になるなら、現状よりはマシだろうと思っていた。

 が、予想通りといえば予想通りに、橋下氏は国会議員何百分の一になることを潔しとせず、大勢の市職員に対して威張りちらせる市長のポストを手放したくないという未練を露骨に出して、橋下・石原新党がどうなろうと、自分の地位は安泰という選択をした。予想通りに。

 たぶん、「維新の会」があわよくば第一党にでもなれば、すぐに議員の誰かを辞めさせて、自分もアッサリ市長の椅子を捨てて国会議員に転じて首相になる、なんて計画を思い描いていたのだろうが、そう甘くはなかったということがわかって、形勢がよくないと見るや、「今回ダメだったら、もう国政には関わらん」なんてキレてみたりもして(笑)。
 結果的には、人の持っているオモチャをほしがって、手に入らなかったら、あんなもんいらないやと言い出す、子ども並みの頭の持ち主だってことが大阪の人にも全国の人にも少しは理解浸透すればいいと思うけどね。

 そして、田中康夫やそのまんま東のときと同様、調子に乗って中央政治にばかり関心を示しすぎると、足もとでの支持を失うという鉄則があるから(※18)、わがままでかつチンケな卑怯者という橋下氏の本質がそろそろ大阪の人々に伝わって、コイツのコンテンツとしての賞味期限が一日も早く終わることをおおいに期待したい。

 大阪の皆さんが良識を取り戻す日が一日でも早く訪れることを願って。
 私の大好きな町に、また旅行に行けるようになることを願って(※19)。



(※15)
ただし、宗主国様には当然さからえないから、今後、たとえ沖縄で偵察機が墜落しようと、住人が強姦されようと、宗主国様に対する「毅然とした対応」は決して期待してはいけない。
なぜなら、彼ら「毅然とした」政治家の「毅然」とは、宗主国様の虎の威を拝借することによってのみ成り立つという、まことに勇ましいものだからだ。


(※16)
もちろん、戦争ないしそれに近い緊迫状態を望むのは、軍部でも制服より安全地帯の背広組であり。あるいは軍需産業関係者だ。
原発の放射能だいすき、戦争に行って死ぬのが夢、という向きはどうぞ自己責任(経済右派の大好きな言葉)で、自由世襲党に入れればいいんじゃないのかな。
以下は半分冗談(てことはもう半分は本気)な話で、文明国・民主主義国の住人としては冗談でも言うべきことではないが、いっそ秘密投票じゃなく記名投票にして、自由世襲党か石原・橋下バカコンビ党に投票した人は老若男女問わず徴兵リストに優先登録されるとかならいいのにね。
いや、だってそんなに国を愛していて、宗主国様と一緒になって憎いアジア各国と戦争することを夢見ているんなら、ひとつ、率先してお国のために命を捨てて、われわれ非国民に模範を見せていただかないと。人間魚雷、発射!なんて言って(笑)。
いや、これは半分冗談だけどさ(てことはもう半分は本気)。


(※17)
「愛国心とは、悪党の最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)
もっとも、昨今の日本では、「悪党の」を「社会的落伍者の」と替えると一番ぴったりはまるか。


(※18)
そりゃ、当たり前だよね。
都道府県なり市町村なりの仕事をするからって言って立候補した人間が、その仕事をそっちのけで別のことばっかりやってたんじゃ、支持されるほうがおかしい(実際におかしかったのが東京都の有権者)。
市役所の職員が政治活動をやっていたら処罰すると言っていながら平日に毎日、「維新の会」の国政選挙活動をする橋下氏には、「じゃ、自分はいいのかよ」って多くの人が思ったことだろう。
ま、本業が別にあるくせに国政選挙ばっかりやってていいのか、って言葉は、無論、橋下市長だけではなく嘉田滋賀県知事にも向けられてしかるべきだろう。


(※19)
ンなもんは、私が勝手に大阪入りを断っているだけだけどさ(笑)。
フランコ政権があるうちはスペインに帰らないと宣言して実行したパブロ・カザルスにならって。(←アホかw)
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運命の選択みたいな(2)

2012-12-15 11:30:45 | 政治・経済・社会・時事
2 たまには橋下と意見が合うな(笑)


 自他ともに認める橋下嫌いの私だが、その橋下氏の、自由世襲党の世の中にまた戻してホントにいいのか、お前ら!三年前に何を思って自由世襲党を引きずりおろしたんだ?何も学ばなかったのか?言っとくけど、自由世襲党の体質は何も変わっちゃいねえぞ!という叫びそのものには共鳴する(苦笑)。
 実際問題、鳩山も菅直人も野田も、少しもよかったとは思わないが、じゃあ、安倍晋三は、いったい前回どれほどご立派な総理だったとおっしゃるんでしょうね~?と(※7)。

 自由世襲党もナンミョー党もいわゆる第三極の党も社民党も共産党も、民主党政権はひどかったって見解は、(野党だから立場上からも当然のこととして)完全一致していて、まあ野田政治の内容が完全に従米属米一直線で、かつ経団連優先、財務省シナリオ優先で、一般市民の生活権は二の次・三の次、弱者はシネ主義の、まさしく自由世襲党型(※8)だから、私は野田政権が万一続いてもまったくうれしくもありがたくもない。それは念のため強調しておく(※9)。

 が、もちろん安倍氏や石破氏の単なる趣味ないし憧憬に巻き込まれて戦争にかり出されるのもごめんだし(大袈裟)、原発事故で体が汚染されるのもごめんだから、経団連の要請で原発続行の自由世襲党もノーだし(※10)、いつか核兵器を持ちたいからその技術は持っときたいなんていう理由で原発継続を主張する石原もノーである(※11)


 まあ、ミンス政権がダメだヘボだったってのも自由世襲党の世の中に戻したい人たち(※12)のある程度の誇張というか、メディアでダメだダメだ、決められない決められないと、くり返し強調されることによって、実態以上に割りを食ってると、同情できなくもないかな。どちらかといえば。
 たとえば、震災のときの対応も、もちろん決して満点ではないことは当然で(誰がやってもそりゃそうだろう)、さほど褒められたもんではなかったろうが、阪神淡路のとき、すなわち自由世襲党を含んだ連立政権の対応に比べて、とくに悪かったとは私は思っていない(※13)。とくに地震直後の枝野官房長官の国民向けの指示とかね。
 対応が悪かったとされるのは、地震それ自体より原発事故への対応のほうだが、もし自由世襲党を含む連立だった95年の大地震のときに同じように原発事故が起きていたら、本当にもっといい対応ができていたのだろうか。自分たちが長年にわたって安全だ安全だと宣伝して作りまくってきた原発の事故にうまく対処できていただろうか・・・って、なんで私がこんなミンス党政権を擁護するような言い方をしなきゃならんのかもよくわからんが(笑)。

 だが、ともかくメディアによって故意であろうとそうでなかろうとまかれるネガティブなイメージは勝手に増殖して、落ち目のときは下降が止まらないもんだから、もう与党側は腹をくくってあきらめるしかないだろね。思えば三年前もそうやって自由世襲党がなだれのごとく沈没したんだし(※14)。



(※7)
私は学歴で人を差別する人間は大嫌いだが、さりながら、歴代首相について言えば、東大を出ているからって辣腕とも限らず、長い目で見て日本人のためにいい首相とも限らない一方で、二流大学出身のすぐれた首相がいたためしがまったくないというのも、これまた動かしがたい事実である。
安倍晋三は、祖父も大叔父も父も東大卒という家系に生まれながら、総理としては(あくまで総理としては、だからね)実に格安な学歴をもつ、タカ派ならぬバカ派の雄だが(笑)、まさにその典型的サンプルだわなあ。
いや、でも今度の総理復帰を機に、ちゃんと真面目に奮起して汚名挽回(ジェリド・メサ調誤用)できるんなら、それはそれで、誰にとってもいいことだろう。
実際、私も上記のようなことを書きながら、安倍次期政権(たぶん)の経済政策に関してはわりと買っている。インフレターゲットとか。実際に可能ならば。
それに念のため言っておくと、安倍氏の前回政権時の「内容」はロクなもんじゃなかったと思うけど、病気でやめたこと自体についてはしかたないことなんだから、それを「投げ出し」なんて言って責めるつもりもない。
まあ、選挙に負けて、最初はそれでも続けたいと言い張って、それで旗色が悪くなったら今度は急に病気ですと言って辞める、という流れはたしかに何だかヘンだったけど。


(※8)
厳密にいうとそれは自由世襲党の中でもとくに清和会系の芸風だということは、宏池会系、平成研系、三木河本系の人々の名誉のためにつけ加えておくか、まあ、そんなもんは程度の差でしかないが。


(※9)
野田首相は、党内反対派を追い出して、財務省・経団連受けを良くしておきつつ、自分が主導しやすい党体制を作って、そいでもって選挙にのぞみ、ミンス党が比較第一党の地位から転げ落ちることは承知の上で、しかし自由世襲党とナンミョー党も過半数には届くまいと読んで、キャスティングボードを握る立場で民自公路線を継続して連立与党として残る・・・という目論見だったんだろうが、目算は外れたっぽいな。どうやら地滑り的大敗くさいから。まあ小選挙区制ってのは、そういうもんだわな。
まあ、それでも他の首相にはない野田のいい点をしいて挙げるとしたら、まともな意味で弁の立つところだろうね。小泉みたいに人をバカにしてはぐらかすのではなく、普通の意味で誰にも言い負かされない弁舌たくみなところだろうね。たしかに、日本の政界で重視される「血筋」よりも、総理の資質としては、こっちのほうがナンボか重要かもしれない、本来なら。
アメリカ大統領選挙みたいにテレビでの一対一討論が戦局を左右する選挙だったら、野田の旗色は変わっていたかもしれない。


(※10)
自由世襲党が今度の選挙で圧勝した後は、今後は今までと違って、原発継続こそ選挙で示された「民意だ」と言われたら、逆らえなくなるわけだけど、みんなそれも承知の上なんだろうかね?


(※11)
と書きつつ、しかし石原の物言いは、歴代自由世襲党政権のある意味本音でもあったわけだから、それをウソ偽りなくハッキリ言ってくれているあたりは、むしろ誠実だとは思う。そして、核武装も、もし日本が本当にフランスみたいな自主独立の強国になれるんだったら、賛成の余地はなくもない。現行の従米属米の状態で核武装をしようってんだったら賛成しないけど(もちろん従中属中の核武装ってのもありえねー)。
てゆーか、どっちにしたって、日本国民がどう思うか以前に、日本の核武装なんて、宗主国のアメリカ様ご自身が喜ばれないでしょ。


(※12)
って誰だろうね。電通を含む財界なのか宗主国様なのか、世襲ステークホルダーズ自身なのか。
霞ヶ関は少なくとも鳩山時代と違って野田時代になってからは民主党も言うこときくようになったから、ああこれなら民主党政権でも別にいいんじゃんって思ってるだろうけどね。
あとはゴミ売り新聞なんかにとっては、まさに苦節三年の努力の末の待ちに待った瞬間ってことで特別ボーナスでも出るんじゃろうか。
いいね~。うらやましいね~。


(※13)
おバカな自由世襲党支持者は、阪神淡路のときは総理が社民党(当時社会党)だったから悪かった、東日本のときは民主党政権だから悪かったと、実に好都合に思っているようだが、前者のときは自由世襲党も思いっきり連立の政権与党だったんだけどね~。都合の悪い情報は頭に入らないんだとしたら、ネット右翼(自称愛国者)っていうのも気楽な稼業でいいねえ(笑)。


(※14)
もっとも、小泉・安倍の悪政のツケを背負って09年に敗北将軍になった麻生太郎も、実際には前任の福田同様、むしろ悪政の負をある程度清算しようと努力していた側の人間だったのだから、実は気の毒な首相だったと思う。
ちょうどブレアの外交失政のツケを払わされたブラウンみたいなもんだな。ブレアと小泉に共通するのがマスコミ的イメージ作りのうまさであり、ブラウンと福田・麻生に共通するのがその下手さだったわけで、麻生氏の立場からしたら、09年の下野のそもそもの元凶をつくった一人の安倍が臆面もなく首相に復帰したり、小泉のせがれがおバカなB層愚民から人気をとっている姿は、かなり不愉快なものではないかと同情をこめて想像する。
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運命の選択みたいな(1)

2012-12-14 21:18:38 | 政治・経済・社会・時事
1 選択はできるか、選択はなりたつか


 さて、どうやら下馬評では自由世襲党があっさり政権に復帰するらしい総選挙がもうすぐなわけだけど。
 最近でこそ、自由世襲党の圧勝ということで、いわゆる「第三極」の話もあまり出なくなった感はあるが、たしかに、乱立しているばっかりで、何がなんだかわけわからん、って人々が思ったのも当然かもね~。

 極右の石原党にしても、その他の渡辺喜美のところにしても、マスゾエのところにしても、そして実は「第一極」と「第二極」のミンス党と自由世襲党にしても(※1)、根本原理は、少なくとも経済政策スタンスとしては思いっきり右ばっかりだからね。

 もちろん、経済政策・社会政策的にも、そして外交政策的にも社民・共産は、それらとは一線を画しているわけだが、長年の習性(洗脳効果?)で善良なる一般市民は、それらイデオロギー政党に投票することに抵抗のある向きが多いから(※2)、実際には、「選択肢」に入っていない場合が多い。

 そこで、まあ、いわゆる第三極の中で嘉田滋賀県知事(※3)のところならどうだ?って話になるわけで、たしかに、「経団連と米国の言いなりでTPPに入るのは都市農村問わず一般国民の生活を破壊する危険が大きいから反対(※4)」とか、あるいは原発推進に反対するとか、端的に強きを助け弱きをくじくみたいな政治はもうやめようとか思っている向きには、社共以外での「選択肢」となり得るか、という感じは受けないでもなかった。
 が、事実として小沢系の色が強いということをマスコミに集中攻撃されて、民主党政権への批判票というものはあまり嘉田党には集まっていないようにみえる。
 民主党はアメリカ様と経団連様のご意向は絶対としているし、自由世襲党も選挙前は農協漁協の票がほしいから言葉をにごしていても、いざ政権奪取後にアメリカ様からTPPを要求されれば、絶対に拒否しない体質だから、そうしたら、地方という弱者はどうすればいい?なんて言ったとき、地方にとってもしかしたら頼りになる選択肢となる可能性も多少はあった・・・んじゃないかと思うと、少し惜しい気はする(※5)。

 このような新党が、地方自治はともかく、国政においてまともな選択肢になってもらっては困るという勢力もたしかにあるだろう。それでゴミ売り新聞をはじめとするマスコミの、かなりムキになってのネガティブキャンペーンによって、早々につぶされた・・・ように見えなくもない(※6)。
 ま、小沢の傀儡云々というのは事実だし、小沢自体、常に理念じゃなく集票の損得でものを言っているように見えるから、信用できないというのももっともだしね。
 だが、小沢であれ何であれ、「未来の党」の政策内容がいいか悪いかは人によるだろうが、現実的な、そして実はけっこう切実であやうい問題として、選択の余地がないという状況は本当に危ないと思う。


 話は飛ぶが、鳩山が最初に首相になったとき、ある程度はアメリカとの距離を少し見直してみようとか、アメリカ型新自由主義にかたむきすぎているから、もう少しヨーロッパ型社会民主主義的な方向の可能性はないかとか、今まで与えられてこなかった別の選択が示される可能性ももしかしたらあった、のかもしれない。

 が、誰の都合か、ネガティブキャンペーンによって鳩山がつぶされ、そのあとは、自由世襲党時代とまったく変わらない従米属米とアメリカ型資本主義をやるしかなくなり、そしたら、民主党の政権交代の意味も失われて、支持率が落ちて、結局、自由世襲党のつくった格差社会で下に生きるB層の奴隷たちが率先してまた自由世襲党政権を作る。・・・
 ということは、要は誰が何を言って政権をとっても、結局は基本外交方針も社会モデルも決められたもの以外は絶対にやらせてもらえないっていうことじゃないのか。それは、社会のありかたとして、実はけっこうまずいぞ。誰も意識してないかもしれないが、AとBを与えられた中からAを選ぶとかではなく、Aしか与えられない、または仮にBを選んでも、無理やりAに変えさせられてしまうというのは、本当にヤバいんとちがうか?



(※1)
って、どっちが一でどっちが二なんだ?


(※2)
タレント候補やスポーツ選手候補に入れるのには抵抗ないくせにな(笑)。


(※3)
知事の地位を守ったまま国政の党首をやろうっていうのは、橋下同様、無理のある話だから、そのへんがまた傀儡っぽいと思わしめるんだろうな。


(※4)
そもそも輸出産業の不振は関税があるからじゃなくて、円高だからということに他ならないわけで、もし輸出メーカーの立場にたてば、関税撤廃より円安政策を要求したほうが早いだろうし、農業の立場にたっても、外国産の農産物に対抗するには、関税維持を要求する以上に円安政策を要求するほうが重要ではないか。
だって関税率の分なんて、ちょっとレートが動けばすぐにチャラになるじょ?
(まあ、一部の農産物については、レートなんてそれこそ問題にしないぐらい、関税率自体が非常識に高いのだが・・・)
しかし、それはそれとして、小村寿太郎の努力によって対米国を皮切りに日本が関税自主権を手にしてから約100年で、まさか子孫達がそのクラウンジュエルを自ら放棄するとは。約半世紀かけて不平等条約改正に努力した先人たちー井上馨も大隈重信も榎本武揚も寺島宗則も睦奥宗光もそして小村寿太郎も草葉の陰で何を思っているだろうか。・・・


(※5)
いや、別に私個人がこの嘉田党を支持するとかいう意味ではなくってよ。実際に私が投票するつもりなのは、嘉田党じゃないし。


(※6)
なまじ、あくまで内容本位でいえば、いちばん順当な「受け皿」になってしまいかねないだけに?
まあ、実際のところは、ほとんどの有権者は内容でなんか投票先を選んでいないんだから、それこそ杞憂な話だろうが。
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中村勘三郎を悼む(2)

2012-12-09 12:10:51 | 落語とその他伝統芸能



 と、それはさておき、勘三郎丈である。

 一流の歌舞伎役者であるとともに、国立劇場や歌舞伎座のような「セレブ夫人の芸術鑑賞の社交場」ばかりでなく、赤坂や渋谷といった別の街に進出し、わかりやすい世話ものなどによって、若い世代にも正統歌舞伎(と実験的歌舞伎の両方)を伝えた伝道者としても偉大だった・・・というのは、私なんかが言うまでもなく、みんな知っているところである。
 たとえば、『人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)』なんて、大変わかりやすくてセリフも聞き取りやすく、「あ。こんな歌舞伎もあるんだ」と、軽演劇のごとく誰もが親しめる(※7)、歌舞伎入門にもってこいの演目であるが、故・六代目三遊亭円生の高座ーすなわち元ネタの落語としての口演の究極ーに対し互角以上に匹敵する主人公(左官の親方)は、やはり勘三郎にとどめをさす。というより、勘三郎以外にはない。


 だが、実は、私は歌舞伎役者としてどうこうという以前に、中村勘三郎という人が好きだったのだ。生身のこの人自身のファンだったのだ。

 私が中学生の頃、『おもしろニッポンなっとく歴史館』というクイズ番組があり、リンドバーグ前の渡瀬マキなんかも出ていたのだが、この番組において、いわゆる石坂浩二的ポジション担当で出ていた勘三郎ーもちろん当時は勘九郎ーを見て覚えたのが、私にとってのこの人とのなれそめである。

 何というか、それ以来、中学生の私にとって、この人こそが「良識ある大人」、「信頼できそうな大人」の理想像という位置づけになってしまったのである。なぜかはよくわからないが、たしかに実際、当時の(今も)バラエティー番組に出ているタレントの大半が、大人として手本にするにふさわしくないような、信じて薫陶を受けるに値しないような人ばかりに見えたのと比したら、勘三郎(当時勘九郎)が、真摯な信頼に足りそうな大人、良識ありそうな大人、と映って大好感につながったのも道理である(※8)。

 だから、さして歌舞伎という芸能の熱心なファンでもない私でも、勘三郎の舞台なら機会があれば見たいと思って、CSでやるときにはせっせと録画してきた。

 そして、その勘三郎丈が還暦もまたずに逝ってしまった今、思い出をありがとう、あなたは中学時代の私のあこがれの人の一人でした、というメッセージを贈るとともに、月並みながら、やはり「もったいなかった」、「もっと活躍してほしかった」という感想を抱く。
 とくに歌舞伎以外のジャンルでやり残したことが多いと思う。映像では時代劇の『元禄撩乱』(1999)ぐらいしか代表作と呼ばれるものがないのがあまりに惜しい(※9)。もちろん映像作品は本分ではないということは百も承知ながら、それでも正直、もっともっと現代ものの映画・ドラマで活躍してほしかったと思う。九代目“ラ・マンチャ”幸四郎や二代目獅童(不倫と酒気帯び運転)や十一代目海老蔵(灰皿にテキーラをついでストリートファイト)なんかより、ずっと勘三郎の現代ドラマが見たかった。本当に。
 良識があって、理性的で、かつ知的でもある真摯な大人ー良心派の医師の役なんて、まさにうってつけだったろうと思うし(※10)、ホワイトカラーの上司でも、弁護士でも、刑事でも、もっと気軽にいろいろな役をやってほしかった。とくに教師の役をぜひ一度、見てみたかったと思う。もしこの人が主演の学校ドラマなんてあったら、きっと中学時代の私は大喜びで毎週夢中になって見ていたに相違ない。武田鉄矢なんかよりよほど。

 だが、それももう叶わぬ夢、叶わぬ妄想である。


 さようなら、勘九郎さん。



※7
歌舞伎はもともと庶民の娯楽なんだから、本来なら誰もが楽しめて当たり前で、教養化・ハイカルチャー化しちゃしょうがねえだろうってのもある。
文楽もそうだが、伝統芸術として、無形文化財として、「○○道」としてショーウインドウに飾られるようになっちゃおしまい、というかつまらなくなる、というのは本当によくあるパターンである。
まあ、だからこそ、前近代の文化を継承しつつ、「スーパー歌舞伎」のような進取の試みもありますよ、ってことなんだろうけどね。


※8
余談ながら、私が高校時代に放送された『太平記』(1991)で片岡仁左衛門(当時・片岡孝夫)を知ったときも、同じような理由でファンになったものである。上方歌舞伎のことなど、ろくに知らぬまま。
その当代の15代目片岡仁左衛門の父親、13代目片岡仁左衛門についても、歌舞伎役者としての業績には私は詳しくないが、一般作品の仕事の代表作と言ってよいだろう『男はつらいよ/寅次郎あじさいの恋』(1982)の陶芸家の演技は見ておいて損はない。品の良い関西の老人、というそれだけで片づけてしまうには惜しい味わいのキャラクターを演じており、その折り目正しい貴族然とした雰囲気は、同じ老芸術家でも、中期の傑作『男はつらいよ/寅次郎夕焼け小焼け』(1976)における宇野重吉演じる飄々とした日本画家とはまことに好対照のたたずまいにして、どちらも心惹かれずにはいられない魅力的な作中人物である。
余談の余談。『寅さん』といえば、傑作・人気作揃いの70年代に比べて80年代はファンから名作の一つと指を屈せられる作品がグッと減るが、『あじさい』は、『ハイビスカスの花』(1980)、『浪花の恋の寅次郎』(1981)、『知床慕情』(1987)とともにファンの評価の高い作品の一つとして知られる。これらの作品に共通しているのが、物語の舞台として柴又より旅先の比重が圧倒的に大きいこと(何しろ『あじさい』なんて、映画開始から1時間以上も寅さんがとらやに帰ってこないという、かなり変わった構成である。しかも帰ってくるシーンそのものは省略というのも珍しい)と、これは単なる偶然だろうがいずれも正月興行作品ではなくお盆興行作品であることだろうか。このあたり、70年代の全盛期の作品とは対照的である。
とくに、この『あじさい』は、「渋い」、「しっとりとした」、「シックな」、「落ち着いた」、「やや暗めのトーンの」と、およそ『寅さん』シリーズらしからぬ形容で評されることの多い、ある種の「異色作」として印象に残る。


※9
あ、でもテレビ東京の新春ワイド時代劇『豊臣秀吉/天下を獲る!』(1995)は、なかなかだった。数ある「太閤記もの」の映像作品の中では、これこそスタンダードたり得る、適切によくまとまった娯楽作である。まあ、勘三郎が秀吉のイメージかっていうと「?」なところもなくはなくて、歴史人物であれば、たとえば菅原道真、平重盛、石田三成、松平定信とかのほうがむしろイメージかなと思うが。
それから、映画だと、『やじきた道中/てれすこ』(2007)という代表作があるか。実はまだ見てないんだよね。見ないと。


※10
リメイク版『白い巨塔』(2003~4)の里見助教授は、実は江口洋介ではなく、勘三郎にこそ演ってほしかったというのもある(実は、本人の道徳的良心の有無を別とすれば、意外と石田純一なんかもいいと思っていたりしたのだが)。
そしたら、財前は唐沢寿明だと年齢が離れすぎちゃうから、渡辺謙だなあ、やっぱり。
と、一昔も前のドラマのキャスティングのことで今さらこんな妄想を述べてもしょうがないか。
ちなみに、上記注釈の15代目片岡仁左衛門は、勘三郎とは、どちらも歌舞伎界の名優であり、現代ものの映像作品にもっと出てほしかったものだという望蜀の感想を抱かしめる点が共通である。
医学ものに関連した余談の余談として、片岡仁左衛門には、大和和紀の『菩提樹』の神崎教授を演じてほしいというのが十年来の私の持論である。
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中村勘三郎を悼む(1)

2012-12-08 10:32:33 | 落語とその他伝統芸能



 十八代目中村勘三郎が亡くなった(※1)。行年57というのは、あまりに早い(※2)。

 くしくも暮れのおしせまった選挙前で、世間では性懲りもなく(主語は「有権者」)自由世襲党をまた与党にしようというご時世であるが、世襲天国の筆頭たる歌舞伎界のほうで、貴重な実力者が失われてしまったわけだ。

 歌舞伎の世界というのは、政界と違って世襲の批判がほとんど聞かれないところで、まあ現に世の中のこうむる迷惑度合いがさほどではないし、何より歌舞伎ファン自身が現行の世襲制度を望んでいるのだから、すなわち親から子へ「芸」が継承されるという「イエ」のドラマを劇そのものと同様かあるいはそれ以上に楽しみにして受容しているのだから、まこと「うらみっこなし」の幸せなウィン・ウィン関係とも、まあ言える(※3)。

 ただ、世襲の「迷惑」ということをあえて言おうとするならば、こういう批判はできるだろう。
 同じく主に固定ファンによって支持されている特殊な単性舞台劇の宝塚と比べてもわかるとおり、歌舞伎は機会均等ではない。
 もしあなたの娘が宝塚ファンになって、あんなスターになりたい!と言ったら、がんばって運良く宝塚音楽学校に受かったら、あなたもトップになれるかもよと、夢を注入してあげることはできる。が、もしあなたの息子が文化学習で歌舞伎に触れ興味をもって、あんなふうに舞台で大見得を切ってみたいなんて言ったら、親は「それは無理。脇役にならなれるけど、主役級はそういう家に生まれた人じゃないとなれないの」と、事実を教えてやらなければならない。
 それは残酷と言えば残酷な話だし、子どもの立場に立てば、到底納得いく話ではあるまい。

 歌舞伎ファンはこう言うだろう。
「あれは親から子へと受け継がれる秘伝の芸で、幼少の頃から親に直接習うから継承できるもので、他の家の者には無理だ」
と。
 なるほど、それは一見正しいように見える。
 が、「その家の子」と「その家の子じゃない子」を対等な条件で競争させ比較する環境が現にない以上、上記の見解が正しいという証明は決してできない(※4)。
 つまり、「梨園の御曹司として生まれて幼少の頃から稽古した者」と、「後から自分の意志で役者を志した者」とが同じ主役を競演して、その結果、「やっぱりその家の子のほうが上手い」というのなら、公正な競争の結果と言えるが、最初から外部の者をシャットアウトしているのだから、「梨園の子じゃなきゃ主役はできない」のかどうかというエビデンスもないことになる(※5)。
 実際問題として、文楽をはじめ、オペラやシェイクスピアや映画や宝塚やその他数々の芸能・芸術において、世襲じゃなきゃいけない、非世襲じゃつとまらないなどという事例が全くないことを思えば、本当に歌舞伎が「その家の者じゃないとできない」ものであるかどうかなんて、推して知るべしだろう。
 はっきり言ってしまえば、それが自明だからこそ、もし秘伝の「家の芸」なるものをオープンにして、門戸を開放して「その血筋じゃない者」を際限なく参入させてしまったら、結果的に実は「その血筋」じゃなくても十分につとまるものだったということがバレて、今まで安穏と威張っていた「その血筋」の特権が失われるという、そんな事態を恐れているのだろう。

 たしかに、先に述べた通り、ファン自身が望んで、それで喜んでいるのだから、関係ないおまえが余計なことつべこべぬかすなと言われてしまえばそれまでであるが、その家で独占してきた特権を失いたくないために、他人の機会均等の権利を侵害する、しかもウソをついて、という図式は、端的に「卑怯」であるとしか言いようがないから、現役の「梨園の人々」には恨みはないが、このぐらいまでは書かせてもらってもいいんじゃなかろうか(※6)。



※1
多くの人にとってそうであるように、勘三郎と名乗っていた時代より勘九郎という名だった時代のほうがはるかに長かったので、私にとって、「勘九郎さん」と呼んだほうがしっくり来るのだが、礼儀として、当然、勘三郎のほうで呼んでおく。
そういえば、先ごろ襲名した六代目桂文枝も、どうしたってその前の名前にあまりにもみんな慣れ親しんでしまってたから、急に文枝と呼べなんて言われても困っちゃうよね~。オヨヨッ?なんて言って戸惑ったりもして。


※2
石原慎太郎や渡辺恒雄のように、生きていても世の中の害にしかならない人間が長生きしてしまっているということと比べると、よりいっそう暗澹たる思いを強くする。


※3
これは私の感覚的印象なのだが、中高年は概して若い層より世襲に好意的だと言えるのではなかろうか。
まあ、○○さんの息子さん、大きくなったわね~、なんていう親戚のおばちゃん感覚なのだろうか。小泉進次郎に声援を贈るのも主におばちゃんたちだし、正蔵(前こぶ平)・三平(前いっ平)のヘボ兄弟の襲名を無邪気に喜んでいたのも、クリティカルな若い落語ファンより下町のおばちゃんたちだった。
子育てと子の巣立ちを経験し、人生の終盤に近づくと、公正なる機会の均等なんていうお題目よりも、親から子へと何かが継承されるという物語のほうを好むようになるということかもしれない。なかなか興味深い現象である。


※4
無論、絶対に間違いだという証明も、またできないわけだが。


※5
もしかしたら、加藤茶なんて、本職より見得が上手かったりして(笑)。


※6
なお、もともと歌舞伎もその他の芸能界も、その昔はそれほど「おいしい」職業ではなく、ましてや「梨園ざます」なんて「お高く」威張っている職業でもなかったはずである。
何せ「河原乞食」なんて言ってたぐらいで、たとえ「千両役者」ともてはやされて大金を得ても、社会的地位はもともと決して高くなかったのが役者である。
そして、一般の芸能人、たとえば全盛期の映画界や黎明期のテレビ界においても、役者というのはあこがれの職業でありながら、同時にあまりに特殊な職業でもあり、カタギの人が気軽に目指したりするようなものではなく、どこか怪しげな世界と見られていたのではないかと、想像する。たとえば、戦前の映画全盛期の子役スターだった故・高峰秀子の自叙伝など読むと、そんな存在と見なされていたのではないかなと、ほのかにうかがえる。
コメント
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