習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞ(2)

2016-10-29 10:53:51 | ノンセクション
(2)ハロウィン批判という虚妄


 と、昨日はあえて類型的なハロウィン批判を勢いに任せて吐き出してみたわけだが。

 本音か?本心か?と問われれば、まあ本心には相違ない。魔法使いの格好をした子どもを見ても、ゾンビの格好をした大人を見ても、マーフィーを探せの格好をした子どもを見ても、アホかとは思っても、好感は持たない。
 たぶん、そんなことを思う私は少数派ではなく、実際にコスプレイベントに参加している人々や子どもが喜んでいるんだから大いに結構と思っている子育て当事者を除けば、世間の大人の大部分が、ハロウィンを好きか嫌いか二択せよと言われたら、私と同じような理由で嫌いに一票投じるのではないか。興味ない、ではなく、積極的に嫌いという人がことのほか多いのではないか。・・・


 だが、そんな感情的な好き嫌い論とは別に、視点を変えたら、何か違う側面が見えてくるかもしれない。
 
 昨日、ハロウィン批判の物言いの定番パターンにのっとって、日本の伝統的な祭りの例として、だんじり祭りや山笠祭りを引き合いに出したが、では、これら伝統的な地域の祭りは、果たしてそんなにハロウィンより素晴らしいのだろうか。

 私は首都圏に生まれ育ち、かつての勤務先の配属で一年ほど地方都市に住んだ経験を除いて首都圏にしか生活したことがない。そんな私の目から見たら、なるほど、テレビに映る祇園祭りや花笠祭りは「よい」お祭りで、巷で騒乱しているハロウィン仮想行列はマナーをわきまえぬ愚劣な消費者の群れだと映るかもしれない。


 しかし、もし私が田舎に生まれ育っていたらどうだっただろう。

 キーワードは「強制力」。

 田舎の、地元民にとって、祭りとは強制力を伴うムラ社会の、いわば暴力装置である。
 昨日、私はハロウィン仮装行列について、いみじくも「好きな人が勝手にやっているんだから、こっちは興味がなければ関わらなければいい」と書いたが、まさにこの「嫌ならば関わらなければいい」という、不参加の選択ができることが、ハロウィンのある意味の「素晴しさ」ではないか。

 そう。
 よさこい祭りであれ、大凧合戦であれ、阿波踊りであれ、地元の人間にとっては「拒否できない義務」なのだ。ムラの掟なのだ。
 どんなに嫌でも、真冬に泳がなければいけない。どんなに恥ずかしくてもフンドシ姿にならなければいけない。どんなに興味なくても農村歌舞伎に出るために稽古しなくてはいけない。なぜならそれがムラ社会の掟、無言の強制だから。
 もし拒否すれば、親にも親戚にも、みんなに迷惑がかかる。村で一人だけ祭りに参加しない子どもに、あるいはそんな子どもの親きょうだいに、村のコミュニティーは、どんなにかアタタカク接するだろうか。だから、どんなに嫌でも、拒否する選択肢はない。・・・
 これが、「地域の文化としての伝統的なお祭り」の、一面の厳然たる現実である。東京の山の手で生まれ育ち、首都圏のマンションに暮らす自分にはわからない、農村社会の同調圧力の恐ろしさなのである。

 私は幸か不幸か、首都圏と県庁所在地の都市部にしか住んだことがないから経験はないが、小学校の運動会のお遊戯でさえ嫌でたまらなかった私が、果たして、ケンカ祭りや裸祭りに強制参加させられることに耐えられただろうか。


 そういった「日本の伝統文化としての地域のお祭り」と比較して、流通界のマーケティングが育てたハロウィン行列を見たとき、アホだのバカだのくだらないのという定例句とは別のキーワードが浮かんでくる。

 「自由」。

  そう。「自由」なのだ。どこまでも。

  ハロウィンに踊らされるのも自由。忌避するのも自由。
  だから、参加するのも自由。参加しないのも自由なのだ。

 もし私が前述のような農村歌舞伎や裸祭りやケンカ祭りに強制動員させられるような田舎に成育し、高校まで忍耐して過ごして、それからようやくムラ社会を脱出して首都圏に出てきた人間だったら、こう思うだろう。
 やりたい人がやればいい、やりたくない人はやらなくていい、そんな素晴しいお祭りがあるのか!
 参加しなくても誰からもとがめられない、家族親類に迷惑がかからない、そんな自由なお祭りなんて、この世にあったのか!
と。


 そんな地方から来た若者の心理を慮ってみたとき、単なる「マーケティングに踊らされるバカどもめが」なんていうステレオタイプな老人の決まり文句を吐いているだけでは気づかない、ソシオロジー的考察の俎上にも乗せられそうな、ハロウィンの別な意義が見えてくる・・・かもしれないよね。もしかしたら。

 ただし、通行人には迷惑かけるなよ、とか、ゴミは持ち帰れよ、ぐらいの苦言は不粋でも言わねばなるまいが(笑)。  
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お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞ(1)

2016-10-28 19:24:34 | ノンセクション
(1)ハロウィンという虚妄


「日本のハロウィンとかけて、バカと解く」
「そのココロは?」
「バカだから」

 ・・・と、謎かけにならない謎かけを平気で書く私こそ、頭の悪さを露呈しまくっている感があるが、しかし、ハロウィンなるものに踊らされる人間がバカに見えてしょうがないというのは事実なのだから、やむを得まい。
 毎年秋が到来し、スーパーなどでのハロウィン店頭ディスプレイが溢れるようになると、あるいは低俗なテレビ番組がオリエンタルランドをはじめとする各所でのハロウィン企画とやらを紹介するようになると、「ああ、今年もわが日本人のバカさを見せつけられる季節が来たか」と、嘆息する。


 本来のキリスト教の上での意義もまったく知らずに、ただただ広告代理店の販促に踊らされて消費させられて喜んでいる愚かなわが同胞たち。販促屋から見て「チョロすぎる」わが同胞たち。・・・毎年ノーベル賞をとるほど頭のいいはずの日本人が、どうして一方では、こんなに頭が悪いのだろうか。
 だいたい、ハロウィンなんて、クリスマスと違って、キリスト教圏でも米国だけの習慣だろうに。すなわち、おばけカボチャを飾って、「トリック・オア・トリート?」なんて、英国でもフランスでもイタリアでもやってない、あくまで米国だけの民間習俗であって、世界のスタンダードでも何でもない。ヤードポンド法やアメフトのように、「アメリカだけの常識」だということは踏まえておいてもよかろう(そもそも、アメリカのハロウィンはあくまで子どもの遊びであって、大人のコスプレ祭りじゃないし!)。

 もちろん、アメリカの慣習だからアホらしいとか、ヨーロッパの慣習だから高尚だとか、そんな差別的なことを言いたいわけではない。
 眼目は、日本の地域文化の伝統でも何でもないイベントを、業界の思惑通りに無批判に受け入れて踊らされている、そんな広告代理店にとって都合の良すぎる「カモ」っぷりが情けなくて、同胞としてはなはだ暗澹たる気分になるということである。ねぶた祭りやだんじり祭りや山笠祭りのような地域で何百年も育まれた日本の伝統文化を継承するのではなく、販促屋の「仕掛け」に都合よく乗せられている、その姿に絶望するのである。

 そりゃまあ、好きな人が勝手にやっているのだから、こっちは興味がなければ関わらなければいいだけと言ってしまえばそれまでだが。

 しかし、実際、こんなふうに販促界がハロウィン押しというのを繰り広げるようになったひと昔前から、コスプレイベントとして定着した最近になるまで、不快だ不快だと思いながらも、一方では、いつかは慣れて気にならなくなるのかとも楽観視していたものだったが、どうも一向にそうはならない。何年たっても、業界の販促都合に踊らされているバカたちが目障りだという気分はまったく好転しない。私が物心つく頃から既に定着していたバレンタインデーや、私が思春期の頃に広まったホワイトデーについてそうであるように。
 それに、クリスマスにしたって、いくら戦前からおなじみの年末商業イベントとして日本国内での消費受容の歴史が長いとは言っても、ここ十年ほどの、家を電飾で飾りたてるようなアホっぷりには、やっぱりハロウィンと同様、唾棄したくなる(なお、バブル期に、クリスマス=エッチする日とされたのも、欧米基準からしたら相当異常だったろうが、その頃は当方はガキだったから関係なかったかね~)。


 そんなふうに、これら「キリスト教的な意味も知らずに-あるいはホワイトデーなんてキリスト教上の意味自体がもともと存在しないものを捏造して-ただ業界都合に踊らされるカモ消費者たち」への絶望感・嫌悪感はまったく晴れない。
 いや、何もキリスト教的な雰囲気を借りた舶来、あるいはエセ舶来の販促装置に限ったことではない。ここ十年ほどの間にコンビニ界の思惑でプッシュされてしまったらしい「恵方巻き」なんていう日本の伝統みたいなツラをして実は販促屋の策略でしかないものについても、やはり憎悪しか感じないのだから、私も相当なへそ曲がりなのだろうな(笑)。


(※注:この文章は、これで終わりではありません。続きがあります)
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