(2)ハロウィン批判という虚妄
と、昨日はあえて類型的なハロウィン批判を勢いに任せて吐き出してみたわけだが。
本音か?本心か?と問われれば、まあ本心には相違ない。魔法使いの格好をした子どもを見ても、ゾンビの格好をした大人を見ても、マーフィーを探せの格好をした子どもを見ても、アホかとは思っても、好感は持たない。
たぶん、そんなことを思う私は少数派ではなく、実際にコスプレイベントに参加している人々や子どもが喜んでいるんだから大いに結構と思っている子育て当事者を除けば、世間の大人の大部分が、ハロウィンを好きか嫌いか二択せよと言われたら、私と同じような理由で嫌いに一票投じるのではないか。興味ない、ではなく、積極的に嫌いという人がことのほか多いのではないか。・・・
だが、そんな感情的な好き嫌い論とは別に、視点を変えたら、何か違う側面が見えてくるかもしれない。
昨日、ハロウィン批判の物言いの定番パターンにのっとって、日本の伝統的な祭りの例として、だんじり祭りや山笠祭りを引き合いに出したが、では、これら伝統的な地域の祭りは、果たしてそんなにハロウィンより素晴らしいのだろうか。
私は首都圏に生まれ育ち、かつての勤務先の配属で一年ほど地方都市に住んだ経験を除いて首都圏にしか生活したことがない。そんな私の目から見たら、なるほど、テレビに映る祇園祭りや花笠祭りは「よい」お祭りで、巷で騒乱しているハロウィン仮想行列はマナーをわきまえぬ愚劣な消費者の群れだと映るかもしれない。
しかし、もし私が田舎に生まれ育っていたらどうだっただろう。
キーワードは「強制力」。
田舎の、地元民にとって、祭りとは強制力を伴うムラ社会の、いわば暴力装置である。
昨日、私はハロウィン仮装行列について、いみじくも「好きな人が勝手にやっているんだから、こっちは興味がなければ関わらなければいい」と書いたが、まさにこの「嫌ならば関わらなければいい」という、不参加の選択ができることが、ハロウィンのある意味の「素晴しさ」ではないか。
そう。
よさこい祭りであれ、大凧合戦であれ、阿波踊りであれ、地元の人間にとっては「拒否できない義務」なのだ。ムラの掟なのだ。
どんなに嫌でも、真冬に泳がなければいけない。どんなに恥ずかしくてもフンドシ姿にならなければいけない。どんなに興味なくても農村歌舞伎に出るために稽古しなくてはいけない。なぜならそれがムラ社会の掟、無言の強制だから。
もし拒否すれば、親にも親戚にも、みんなに迷惑がかかる。村で一人だけ祭りに参加しない子どもに、あるいはそんな子どもの親きょうだいに、村のコミュニティーは、どんなにかアタタカク接するだろうか。だから、どんなに嫌でも、拒否する選択肢はない。・・・
これが、「地域の文化としての伝統的なお祭り」の、一面の厳然たる現実である。東京の山の手で生まれ育ち、首都圏のマンションに暮らす自分にはわからない、農村社会の同調圧力の恐ろしさなのである。
私は幸か不幸か、首都圏と県庁所在地の都市部にしか住んだことがないから経験はないが、小学校の運動会のお遊戯でさえ嫌でたまらなかった私が、果たして、ケンカ祭りや裸祭りに強制参加させられることに耐えられただろうか。
そういった「日本の伝統文化としての地域のお祭り」と比較して、流通界のマーケティングが育てたハロウィン行列を見たとき、アホだのバカだのくだらないのという定例句とは別のキーワードが浮かんでくる。
「自由」。
そう。「自由」なのだ。どこまでも。
ハロウィンに踊らされるのも自由。忌避するのも自由。
だから、参加するのも自由。参加しないのも自由なのだ。
もし私が前述のような農村歌舞伎や裸祭りやケンカ祭りに強制動員させられるような田舎に成育し、高校まで忍耐して過ごして、それからようやくムラ社会を脱出して首都圏に出てきた人間だったら、こう思うだろう。
やりたい人がやればいい、やりたくない人はやらなくていい、そんな素晴しいお祭りがあるのか!
参加しなくても誰からもとがめられない、家族親類に迷惑がかからない、そんな自由なお祭りなんて、この世にあったのか!
と。
そんな地方から来た若者の心理を慮ってみたとき、単なる「マーケティングに踊らされるバカどもめが」なんていうステレオタイプな老人の決まり文句を吐いているだけでは気づかない、ソシオロジー的考察の俎上にも乗せられそうな、ハロウィンの別な意義が見えてくる・・・かもしれないよね。もしかしたら。
ただし、通行人には迷惑かけるなよ、とか、ゴミは持ち帰れよ、ぐらいの苦言は不粋でも言わねばなるまいが(笑)。
と、昨日はあえて類型的なハロウィン批判を勢いに任せて吐き出してみたわけだが。
本音か?本心か?と問われれば、まあ本心には相違ない。魔法使いの格好をした子どもを見ても、ゾンビの格好をした大人を見ても、マーフィーを探せの格好をした子どもを見ても、アホかとは思っても、好感は持たない。
たぶん、そんなことを思う私は少数派ではなく、実際にコスプレイベントに参加している人々や子どもが喜んでいるんだから大いに結構と思っている子育て当事者を除けば、世間の大人の大部分が、ハロウィンを好きか嫌いか二択せよと言われたら、私と同じような理由で嫌いに一票投じるのではないか。興味ない、ではなく、積極的に嫌いという人がことのほか多いのではないか。・・・
だが、そんな感情的な好き嫌い論とは別に、視点を変えたら、何か違う側面が見えてくるかもしれない。
昨日、ハロウィン批判の物言いの定番パターンにのっとって、日本の伝統的な祭りの例として、だんじり祭りや山笠祭りを引き合いに出したが、では、これら伝統的な地域の祭りは、果たしてそんなにハロウィンより素晴らしいのだろうか。
私は首都圏に生まれ育ち、かつての勤務先の配属で一年ほど地方都市に住んだ経験を除いて首都圏にしか生活したことがない。そんな私の目から見たら、なるほど、テレビに映る祇園祭りや花笠祭りは「よい」お祭りで、巷で騒乱しているハロウィン仮想行列はマナーをわきまえぬ愚劣な消費者の群れだと映るかもしれない。
しかし、もし私が田舎に生まれ育っていたらどうだっただろう。
キーワードは「強制力」。
田舎の、地元民にとって、祭りとは強制力を伴うムラ社会の、いわば暴力装置である。
昨日、私はハロウィン仮装行列について、いみじくも「好きな人が勝手にやっているんだから、こっちは興味がなければ関わらなければいい」と書いたが、まさにこの「嫌ならば関わらなければいい」という、不参加の選択ができることが、ハロウィンのある意味の「素晴しさ」ではないか。
そう。
よさこい祭りであれ、大凧合戦であれ、阿波踊りであれ、地元の人間にとっては「拒否できない義務」なのだ。ムラの掟なのだ。
どんなに嫌でも、真冬に泳がなければいけない。どんなに恥ずかしくてもフンドシ姿にならなければいけない。どんなに興味なくても農村歌舞伎に出るために稽古しなくてはいけない。なぜならそれがムラ社会の掟、無言の強制だから。
もし拒否すれば、親にも親戚にも、みんなに迷惑がかかる。村で一人だけ祭りに参加しない子どもに、あるいはそんな子どもの親きょうだいに、村のコミュニティーは、どんなにかアタタカク接するだろうか。だから、どんなに嫌でも、拒否する選択肢はない。・・・
これが、「地域の文化としての伝統的なお祭り」の、一面の厳然たる現実である。東京の山の手で生まれ育ち、首都圏のマンションに暮らす自分にはわからない、農村社会の同調圧力の恐ろしさなのである。
私は幸か不幸か、首都圏と県庁所在地の都市部にしか住んだことがないから経験はないが、小学校の運動会のお遊戯でさえ嫌でたまらなかった私が、果たして、ケンカ祭りや裸祭りに強制参加させられることに耐えられただろうか。
そういった「日本の伝統文化としての地域のお祭り」と比較して、流通界のマーケティングが育てたハロウィン行列を見たとき、アホだのバカだのくだらないのという定例句とは別のキーワードが浮かんでくる。
「自由」。
そう。「自由」なのだ。どこまでも。
ハロウィンに踊らされるのも自由。忌避するのも自由。
だから、参加するのも自由。参加しないのも自由なのだ。
もし私が前述のような農村歌舞伎や裸祭りやケンカ祭りに強制動員させられるような田舎に成育し、高校まで忍耐して過ごして、それからようやくムラ社会を脱出して首都圏に出てきた人間だったら、こう思うだろう。
やりたい人がやればいい、やりたくない人はやらなくていい、そんな素晴しいお祭りがあるのか!
参加しなくても誰からもとがめられない、家族親類に迷惑がかからない、そんな自由なお祭りなんて、この世にあったのか!
と。
そんな地方から来た若者の心理を慮ってみたとき、単なる「マーケティングに踊らされるバカどもめが」なんていうステレオタイプな老人の決まり文句を吐いているだけでは気づかない、ソシオロジー的考察の俎上にも乗せられそうな、ハロウィンの別な意義が見えてくる・・・かもしれないよね。もしかしたら。
ただし、通行人には迷惑かけるなよ、とか、ゴミは持ち帰れよ、ぐらいの苦言は不粋でも言わねばなるまいが(笑)。