習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

あの頃あんなにテレビを見てた

2019-09-07 18:34:32 | テレビ
 かつてあんなに夢中になって大好きだった地上波テレビ(※1)に、まったく魅力を感じられなくなったのはなぜか。テレビをあまり見なくなったのは、いつからか。

 これは、私に限らず、この国に住む、30〜50代の人々の、かなりのパーセンテージが共有する思いではないか(※2)。
 この稿のそもそもの目的は、批判というよりむしろ自己分析である。たとえば、これは私の加齢のためかというような。

 私はもともと老人の「昔はよかった」は嫌いだ。映画も音楽もテレビドラマも、中高年はしばしば「昔のはよかった」と言うが、もちろん誰もがわかっている通り、それは偏見抜きに比較批評して昔のコンテンツがすぐれていると判断された結果ではなく、単にその人の若き日の思い出がその人の中で輝いているに過ぎない場合がほとんどである。客観的な優劣とは別だ(※3)。

 しかし、私見ながら、小説や漫画やポピュラー音楽の場合と違い、テレビについてだけは、単なる老人の懐古美化ではなく、実際にクオリティーが下がっているように、どうしても見えてならない。クオリティーというより、もっと端的に、送り手側の「志」が落ちているように思えてならない。

 こういうことは、既にほうぼうで書かれていて、真新しい話ではないが、それでもやはり、会社の昼休みなどについているテレビや、家で家族がつけているテレビを垣間見る限りではーいささか感覚的に過ぎる言い方だがー「イラッ」とする演出がいちいち多すぎる。
 よく言われる「山場CM」や「CMあけ繰り返し」はその典型である。

「いよいよこの後、大物ゲストが参戦!」、モザイク。で、CM。
「ゴールかリタイヤか、運命の選択はいかに!?」で、CM。
「これは人気ナンバー1商品ですか?」「これは人気ナンバー・・・」で、CM。

 視聴者を愚弄しているとしか言いようがなく、視聴者だってそんなにバカにされてイライラさせられて、それでも地上波商業放送のゴールデンバラエティを見続けるほどのカモばかりでもない。
 それでイライラしてウンザリして、たとえばNHKの『チコちゃん』あたりを見てみたら、同じようなスタジオ収録ヒナ壇型情報バラエティーであっても、「この後、いよいよあの大物女優が登場!」も「答えはこの後!」も「番組の後半で、重大発表!」もなく、当然CMもないから、CM明けに巻き戻して繰り返すこともなく、「ありゃまあ、何て見やすいんだ!」、「昔は商業放送でもこれぐらい普通に見やすく番組を作っていたのになあ」と、感心するやらあきれるやらで、もうテレビはNHKだけでいいやとなってしまう。


 もちろん、そもそも質的にも『映像の世紀』や『ETV特集』や『古典芸能への招待』みたいな素晴らしい番組は商業放送には望むべくもないわけだが、しかしそんな「NHKでしか作れない、流せない」プログラムのみならず、前出の『チコちゃん』、あるいは『沼にハマってきいてみました』のような、商業放送でもやろうと思えばやれる番組同士で比較してもNHKのほうが百倍まし・・・というより商業放送のバラエティーがひどすぎる。

 といってもCM自体が悪いわけではない。商業放送にCMが挟まるのはテレビ放送開びゃく以来の了解事項だ。そして、視聴者の体感とは裏腹に、実はCMの量も昔とは変わらない。30分枠ならCMタイムは何分まで、60分枠ならCMタイムは何分まで、という決まりはちゃんとあって、昔と総含有量は変わらないはずだ(※4)。
 だが、CMを入れる回数とタイミングの違いで、こんなにまでもうっとうしくなるのかと、ある意味で感心してしまうのがここ20年ぐらいの地上波商業放送バラエティーのCM傾向なのだ。前半は「食いつかせる」ためにあまりCMを挟まないかわりに、後半は数分おきの小刻みCM。一回一回のCMタイムは短いかわりにとにかく頻度が半端ではない(※5)。

「嫌ならば見なければいい」、「はい。もうNHKとスカパーしか見ません」と、これでは長い目で見たら、地上波商業放送は自分で自分の首をしめていることになろう。


 CMの入り方ということでいうと、今はなき、『日曜洋画劇場』(※6)や『火曜サスペンス劇場』(※7)など、CMがたとえ途中で入ってもCMの入れ方そのものに怒りを感じるなんてことはなかった。
 そう、要は入れ方だ。たとえば、プロ野球中継ならチェンジのタイミングにしかCMは入れられない、つまりテレビ局側の人為では決められない。だからこそCMで不満を抱く人などなく、単に一息入れてトイレに行く時間というだけで何の問題もなかった。
 だが、F1(エフワン=若い女性視聴者)至上主義で、ゴールデン野球中継はもうない。かつては「テレビを通じて日本全国、ジャイアンツファン、ONファン、原ファン」という感じで、地上波ゴールデンのドル箱コンテンツだった巨人戦の野球中継が地上波から消えた理由は、一つには世代別・個人別視聴率調査によって、F1層と呼ばれる、スポンサーが見てほしい層が優先されたからで、その犠牲で、中高年向けの野球中継や時代劇が滅びた・・・という説明は、おそらく正しい(※8)


 野球中継も2時間ドラマも洋画劇場すらもあまりやらなくなって(※9)、少子化で、お金と時間のかかるアニメも(※10)、かつて「夜7時台といえばアニメ」という時代があったなんて信じられないぐらいに見事にゴールデンからなくなり(※11)、結果、どの商業局も似たような『スタジオ雛壇無教養情報バラエティー、毎週無駄に2時間スペシャル(※12)、ゲストはみんなドラマの番宣(※13)』ばかりになって、内容の偏りもあまりに目に余るようになって(※14)、ついでに、連ドラまで多様性がなくなって(※15)、そして私はテレビに見切りをつけた。視聴者のテレビ離れではなく、先にテレビの視聴者離れがそこにはあった(※16)。

 かくして、悲しいかな、もうしょうがないから、せいぜいEテレしか見なくなる。子どもの頃は、あんなにテレビがすきだったのに。・・・(※17)




(※1)
昔は地上波しかなかったから、いちいち「地上波の」とつけなくても、「テレビ」といえば、地上波が当たり前だったわけだが。


 
(※2)
10〜20代は、そもそも「かつてあんなにテレビがすきだった」こと自体ないのではないか。いっぽう、60代以上は、今でもわりあい律儀に地上波テレビを見続けているようだ。



(※3)
この「昔はよかった症候群」は、コンテンツだけでなく、世の中全般についてもそうである。たとえば、『「昔はよかった」と言うけれど/戦前のマナー、モラルから考える』(大倉幸宏/新評論/2013)を読むと、戦前の新聞・雑誌などの具体的報道を通じて、「教育勅語と修身教育のあった戦前は、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信し、公衆道徳もしっかりしていて、実によい社会だった。戦後、GHQと日教組のせいで、日本人の道徳は破壊された」などという、恣意的な物言いがいかに大嘘かがよくわかる。



(※4)
ただ、昔と違って、視聴者を「逃がさない」ために、番組と番組の間のCMをなくして、前の番組から後の番組にそのままなだれこませる「フライングスタート」という(実にあさましい)手法が常態化したせいで、以前なら番組と番組の間に入っていたCMが、番組内に収まるようになって、体感的にも、事実としても「番組内の」CMが昔より増えたということはあろう。



(※5)
この手法の嚆矢は『出没!アド街ック天国』あたりからだろうか。



(※6)
思えば、1980年代はじめ頃までの世の中では、古い映画を見たいと思っても、名画座での再上映をひたすら待つかテレビ放映をひたすら待つかしかなかったのだな。本で読んで、『市民ケーン』(1941)を見てみたいな、とか、『天井桟敷の人々』(1945)を見てみたいな、と思っても、今ならすぐ簡単に見られるが、昔はそうではなかったのだ。当時はそれが当たり前で、不便という意識はなかったろうが、今から考えたら、おそろしく不便で不自由なことである。
それが、今はDVDでもユーチューブでも各種配信サービスでも、いつでも見たい映画が見られる。だからこそ、地上波のお茶の間洋画劇場は、歴史的役割を終えたというべきだろう。唯一の生き残りである『金曜ロードSHOW!』で、たまにジブリ作品など見ると、中断CMや「dボタンで視聴者プレゼント」やら、映画を見たいだけの人間にとっては不要な夾雑物が多すぎて、「あ〜あ、こんな番組枠、とっとと滅んでしまって、ジブリ作品が普通にBSプレミアムなんかでやってくれるようになればいいのになあ」と思ってしまう。
(↑昔、ジブリも『コロンボ』も、この枠で水野晴郎さんからそのおもしろさを教わったくせに、まあ、何と恩知らずな・・・(笑))



(※7)
もうあの特徴的なアイキャッチを知らない世代が増えたのだろうか。



(※8)
が、それと同時に、巨人戦の高い放送権料がテレビ局の巨人戦離れを促し、実際に巨人戦の中継をやめたり、他球団カードに差し替えたりしても視聴率的には問題ないことがバレてしまって、どこの局も、巨人戦に放送権料を払う意味を見出だせなくなり、結果、どの局も中継しなくなった・・・という流れも、また事実だろう(また、阪神の放送権料が巨人よりだいぶ安かったことから、70年代にサンテレビで阪神戦の中継が多くなされ、それで大阪周辺の阪神ファンが急増した、という話を井上章一氏がしている(『大阪的/「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた』(幻冬舎新書/2018))。
かくして、日本のプロ野球は結果的に、「日本全国、テレビを通じて何となくみんな巨人ファン」から、北海道の人は日ハムファン、九州の人はソフトバンクファン、東北の人は楽天ファン、千葉の人はロッテファン、というような、実は健全な本来あるべき方向に向かったのであって。その意味では、プロ野球全体の健全化という見地からは、皮肉ながら、放送権料を下げなかったことでテレビ局から見捨てられた巨人、グッジョブだ。
ちなみに、私自身は巨人戦中継を眺めながら育った年代であるが、個人的にはナイター中継というものがなくなったことを惜しむ気持ちは、実はほとんどない。



(※9)
そういえば、連続ドラマにおいても、昔の『太陽にほえろ!』(1972~86)や『銭形平次』(1966~84)のように、「全○回」という終わりを決めないロングラン・ドラマというのは滅びて久しい。たしかに、どう考えても、芸能人のスケジュールや制作環境、対スポンサー環境など、あらゆる面で、今では不可能だろう。いいか悪いかは別として。



(※10)
かつて、フジテレビ系日曜夜7時半の『世界名作劇場』のような良心的な力作群が、営利事業の商業放送で制作され、ゴールデンに流されていたなんて、いくら企業メセナの一社提供枠とは言え、現状から見たら、信じられない気がする。



(※11)
先述の、テレビにおける「F1(エフワン)至上主義」で切り捨てられたといえば、地上波から時代劇ドラマのレギュラー枠が「老人向け」と見なされて消滅したこともその一つである。
が、そうは言っても、「視聴率」という観点でいくと、ともかくも(スマホでなくテレビ受像機で)リアルタイム視聴をしてくれる高齢者というのは、テレビ局にとっては視聴率を上げるためには無視できない客層である。だから、時代劇ドラマのような手間ひまと金のかかるものは制作せずとも、健康情報バラエティーというのは、実に安易に「高齢者が確実に見てくれるコンテンツ」として乱造される傾向にあるようだ。
本音では、あくまで「F1層に見てほしい」けれど、背に腹は代えられないから、ともかく「リアルタイムで地上波を見てくれる」高齢者狙いで数字を稼ぐということだろう。この現状を「志が高い」と言えるかどうか?



(※12)
ゴールデンタイムから時代劇やアニメが滅亡して、7時台・8時台ぶち抜きの長時間のスタジオ雛壇バラエティーばかりになった理由は、要は、どっちが作り手にとって、時間や手間がかかるかということから明瞭である。
アニメなら30分か2時間かで、作る手間も費用もまるで違うが、スタジオ雛壇バラエティーなら、1時間でも2時間でも手間ひまや費用があまり変わらない。別々に2番組作るより一本の2時間スペシャルのほうが金も手間も省けるということである。
結局、斜陽産業というのは、貧すれば鈍するで、水は低きに流れるものなのだろう。
(なお、余談ながら、これまたいい悪いではなく、昔と比べて最近は番組枠の流動性はものすごく高まったと思う。昔なら、水曜9時台はこの番組、とか、金曜8時台はこの番組、というのがキッチリ決まっていて、必ず決まった曜日の決まった時刻に決まった時間枠内で決まった番組が流されていたのが、最近は、改変期でなくとも2時間スペシャルになったり3時間スペシャルになったり、週ごとにいろいろなバラエティー番組が入れ替わったりと、かなりフレキシブルである)


(※13)
番宣出演自体は昔からあったが、それにしても昨今は多すぎる。ただ、実は番宣出演が一番激しいのはNHKだったりして。Eテレはほとんどないが、総合はかなりひどい。大河、朝ドラの出演者があんなに種々の番組に出まくって番宣しまくるのは、公益のための公共放送としてはどうなんだろう。



(※14)
バラエティー番組にて、たとえば、イケてない夫をコーディネートしちゃう「夫改造計画」は飽きるほどしょっちゅうやるのに、見栄えのさえない妻をセクシーに変える「妻改造計画」はあり得ない。改めて考えると、これは男性差別かと言いたくなる。または、オタクな夫の「お宝」を、妻から見たらただのゴミだから捨てちゃえ!ってな企画は平気で通っても、夫が妻子の大切なものを勝手に処分してしまうような企画は絶対に通らない。というよりはじめから企画されない。
たしかに、昼間の地上波の無内容な情報バラエティーは主婦を対象としているから、主婦が見たがるものを流すのは当然だ、というかもしれない。なるほど、それはそうだ、需要に合わせて供給がある、もっともだ。しかし、ではもし成人男性も見るだろう時間帯ならば、「妻改造計画」はあり得るのか。否、やはりあり得ない。なぜか。需要の有無という意味で企画されない、だけかもしれないが、もし仮に企画しようという変わり者のプロデューサーがいたとしても、企画会議で却下されるんじゃなかろうか。「女性蔑視と見られて、問題視されかねない」と。
そうか、女性視聴者を対象にした「夫改造計画」は男性蔑視ではなくて、もし男性視聴者を対象にした「妻改造計画」を放送したら女性蔑視になるのか。と、やはりそれは珍妙な、アンバランスな理論に見えてならない。まあ、「女性専用車輛」だけあるのはなぜ、とか、「女性限定サービス」は普通に存在しているのに「男性限定サービス」をもし実施したら文句が出るんだろうか、とか、ほとんど与太話レベルの居酒屋談義だと言われればその通りだが、メディアの意識として女性差別には敏感で、しかし男性差別にはまったく無頓着、あるいは差別だという自覚すらない、という指摘は確実にできるだろう。
テレビマンの目線か広告代理店の目線か、昔は世帯単位でしか示されなかった視聴率が、世代ごと・性別ごとに明確に発表されるように変わって、いわゆる「F1層」をはじめとする成人女性にウケることだけを地上波テレビが目指すようになったからか、原因はよくわからないが、ともあれ、テレビ界の道徳基準では、「夫改造計画」、「彼氏改造計画」はいくらでもOKで「妻改造計画」、「彼女改造計画」は差別でありNGなのだろう。同様に中高年男性を「濡れ落ち葉」だの「粗大ゴミ」だのと表現するのは愉快な笑い話で、中高年女性を同じように揶揄したら、許されざる差別と認定されるらしい。
「亭主元気で留守がいい」ならCMキャッチコピーとして許されるが、「畳と女房は新しいほうがいい」はもちろん許されない。LGBTを笑いものにすることも今は許されないらしいが(しかしなぜか昔からゲイは身を助けるで、おネエタレントはいくらでもいるのにオナベタレントはいないのはなぜなのか。これもわれわれの中の「笑いものにしていいもの、いけないもの」という線引き意識を考察する上で興味深い現象ではある)、アイドルオタクやアニメオタクの男性、あるいはガリ勉男子学生をバカにするのはかまわないらしい。だが、中年男性(オヤジ)を蔑視して平気な斎藤美奈子に女性差別を糾弾する資格はあるのか。・・・って、そりゃテレビの話題じゃないか(笑)。
(あとは、だいぶ以前にJKメール講座なんていうつまらない企画をテレビでやっていたことがある。無粋なオジサンに、女子高生スラングや絵文字を駆使したメール文章の作り方をレクチャーしちゃおうという主旨だったのだが、そんなもんオッサンにマスターさせて何かの役に立つんだろうか。むしろ、パッパラパーの女子高生に、大人が将来のために拝啓・敬具を正しく使ったビジネスメールの書き方でも教えてあげる企画のほうがよっぽど当人のためになると思うんだが・・・)



(※15)
何だか、上の注に続いて本当に老人の愚痴じみてくるが(笑)、連ドラもかなりひどい。たとえば、『白い巨塔』なんて、2003年の唐沢寿明版でさえ、78年版を知っている私から見たら相当ひどかったのだが、今や唐沢版を見て育った世代でも2019年の岡田准一版をひどいと表明している。これが単なる「自分の若い頃に触れた作品はエバーグリーン」症候群なのかどうか。私は、客観的に比較しても、やはりレベルは落ちていると思う。
それにしても、旬のジャニーズやその他イケメンが出ずに、刑事でも天才医師でも美形高校生同士のリア充恋愛ものでもない、市井の普通の人の普通の物語をじっくりと綴るなんていうのは、無理なんだろうか。いや、これは今というより、昔から無理だったのかもしれない。それこそNHKの夜遅くの深町幸男や和田勉のドラマじゃないと昔からできなかったのかもしれない。
それに、朝ドラを除けば自営業もののドラマがなくなったという傾向も、善し悪しは別として指摘できよう。たとえば、昔なら、そば屋、銭湯、石材店(以上TBS)、水道工事店、日本料理割烹、フレンチレストラン(以上日テレ)などの自営業もの連ドラがあった。これらがなくなったのは、現実の世相を反映して、やむを得ないところもあろう。実際、フランチャイズに入らずに商売を興す・継続するというのが絶望的なご時世だから。では、工場のラインのワーカー、いわゆるブルーカラーものはどうだ。昔からないのか。映画では昔はあったんだが(吉永小百合の日活青春もので、相手役の浜田光夫はしばしば集団就職の工員だった)。
もっともホワイトカラーのサラリーマンものですら、実は決して思っているほど多くはなく、サラリーマンであっても、映画の『社長シリーズ』みたいに仕事そのものをメインテーマにしたものはあまりなくて、仕事自体はあまり触れられないことがほとんどだが(一方で、「職業もの」ドラマというのは相変わらず多いが。でも改めて考えれば、教師も刑事も勤務医も広義のサラリーマン=給与生活者である)。
そういえば、これはまったくの余談だが、『ドラえもん』(1973、1979~)や『がんばれロボコン』(1974~7)のような児童コメディでも、サブキャラはともかく、主人公の家はサラリーマン世帯が昔から多い(なお、『ちびまる子ちゃん』(1990~2、1995~)は、父親の職業が作中ではまったく触れられないという稀有な作品だ)。
閑話休題。自営業ドラマの滅亡とともに、ここ20〜30年の傾向として、地方軽視ということも指摘できるだろう。ニュースや情報番組は、各地域それぞれで作られるものも多いから、まだいいが、やはりNHK以外では首都圏偏重が目に余る。とくにドラマがそうだ。と言えば、昔からそうだろと言われそうだし、事実、昔から俳優のスケジュールの関係もあって、現代ものの全国ネット連ドラは首都圏で制作される首都圏舞台のものが圧倒的大多数だ(そういえば、懐かしい『理想の結婚』(1997)は、東京と大阪をしばしば往き来するドラマだったが、東京の場面ではふんだんにロケシーンがあるくせに、大阪(ということになっている)パートは室内のセットシーンばかりで、屋外設定のシーンでもセットで済まされていることが多く、それらはもちろん首都圏のスタジオで撮っていたはずで、それどころかごく僅かな大阪設定のロケシーンですら、実際に現地に行かずに首都圏の町で撮っているんじゃないかと疑わしかったものである(笑)。とともに、同作はとても楽しいドタバタラブコメディで、私も好きなドラマではあったが、「関西人」、「大阪の下町」の描き方がすこぶるステレオタイプであったことは間違いない。『国民の創生』(1915)や『風と共に去りぬ』(1939)や『南部の唄』(1946)が今日では許されない表現だと封印されちゃうんだったら、『理想の結婚』だって断罪されなきゃいけないんじゃなかろうか)。
そして今もやはり、現代ものの全国ネット連ドラで首都圏以外が舞台になるものなんて、下半期のNHK朝ドラぐらいだ。単発ならNHKが地域発ドラマをよく全国で流しているし、たまに地方制作の夜の連ドラもある。だが、商業放送では、連続も単発も地方局制作の、その地方を舞台にしたドラマは皆無に等しい。かつては、それでもかろうじて単発ドラマ枠時代のTBS系列『日曜劇場』が、定期的に地方局持ち回り制作をしていたり、朝日放送の『部長刑事』のように全国ネットではないながらも地元を舞台にした独自連ドラがゴールデンに放送されてもいた。
が、最近は(ちゃんと調べたわけではないが私の感触として)商業放送局のドラマにおける地方制作・地方舞台作品は絶滅済みで、首都圏一極集中がさらに進んだのではないか(2時間サスペンスが絶滅したことも大きい)。



(※16)
「視聴者のテレビ離れ」ならぬ「テレビの視聴者離れ」といえば、クイズ番組なんかもそうだが、何より、とんねるずに代表されるような「内輪ウケの垂れ流し」がその典型であろう。楽屋オチのスタッフいじりを公共の電波で流して、いつまでも視聴者がそんなものに喜んでいると思うならば相当甘いというか、視聴者をなめているということになるが、案の定、とんねるずは視聴者から見限られた。自業自得である(一方、ドリフの場合であれば、おもしろいかどうかとか、個人的に好きか嫌いかとかは別として、基本的に楽屋オチをしない方針だったところは好感が持てる)。



(※17)
それと「私は最近テレビに何の魅力も感じない」ことに直接の因果関係があるわけではないが、NHK-BSの『アナザーストーリーズ』で2019年の6月に『太陽にほえろ!』の舞台裏ドキュメンタリーをやったとき、8月に同じく『ルパン三世』の舞台裏ドキュメンタリーをやったときなど、
(前だったら、NHKは、『ひょっこりひょうたん島』とか『おしん』とか、自局の番組へのセルフリスペクトはお得意でも、他の商業放送局の番組をリスペクトするドキュメンタリーなんて、あり得なかったはず。それが、最近は『ウルトラセブン』とか『太陽にほえろ!』とか、他の商業放送局の番組も俎上に乗せるようになったんだから、随分と融通が利くように変わったものだなあ)
と隔世の感を抱くとともに、
(しかし、本来なら、『太陽』や『ルパン』の舞台裏証言のドキュメンタリーなんて、日テレ自身が作るべき番組だよな。それが、日テレに作れずに、NHKに言わば「作ってもらう」しかなかったというのは、どういうことなんだろう。商業放送では、ヒナ壇バラエティーか食レポバラエティーみたいな番組しかもはや作れない、ドキュメンタリーに時間とお金をかけてゴールデンに放映するなんて、不可能ということなんだろうか。対スポンサーの事情か、対大手事務所の事情か、いったい誰がこんな状況にしてしまったんだろう)
というような感想を持ったものである。
コメント (2)
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